Title: 何處へ (Dokoe) Author: 正宗白鳥 (Hakucho Masamune) Language: Japanese Charactersetencoding: UTF-8 Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka. (This file was produced from images generously made available by Kindai Digital Library) ------------------------------------------------------- Notes on the signs in the text 《...》 shows ruby (short runs of text alongside the base text to indicate pronunciation). Eg. 其《そ》 | marks the start of a string of ruby-attached characters. Eg. 十三|年目《ねんめ》 [#...] explains the formatting of the original text. Eg. [#ここから3字下げ] ------------------------------------------------------- 何處へ 正宗白鳥著  目次 何處へ (四十一年一月―四月 早稻田文學)…………………一 玉突屋 (同  年一月 太  陽)………………………一三五 六號記事(同  年一月 文章世界)………………………一四三 彼の一日(同  年三月 趣  味)………………………一五九 五月幟 (同  年三月 中央公論)………………………一七三 村 塾 (同  年四月 中央公論)………………………二〇五 空想家 (四十年十 月 太  陽)………………………二二一 株 虹 (同  年十二月 新思潮)………………………二六九 凄い眼 (四十一年八月 太  陽)………………………二九一 世間並 (同  年七月 趣  味)………………………三一一  何處へ  (一) 可愛《かあい》い目元《めもと》をほんのり酒《さけ》に染《そ》めた女《をんな》が高《たか》くさし掛《か》けた傘《かさ》の下《した》に入《はい》つて、菅沼健次《すがぬまけんじ》は敷石傳《しきいしづた》ひに門口《かどぐち》へ來《き》た。 「ぢや明後日《あさつて》、屹度《きつと》ですよ」と、女中《ぢよちう》は笑顏《ゑがほ》で覗《のぞ》き込《こ》み、艶氣《つやけ》を含《ふく》んだ低《ひく》い聲《こゑ》で云《い》つた。 「むゝん」と健次《けんじ》は女《をんな》の顏《かほ》をも見《み》ず、引《ひつ》たくるやうに傘《かさ》を取《と》つて、さつさと急《いそ》ぎ足《あし》で步《ある》き出《だ》したが、五六|間《けん》も步《あゆ》んで我知《われし》らず振返《ふりかへ》ると、「鳥《とり》」と行書《ぎやうしよ》で書《か》いた濕《しめ》つた軒燈《がすとう》の下《もと》に彼《か》の女《ぢよ》がぼんやり立《た》つてゐる。 健次《けんじ》は何《なん》の譯《わけ》もなく微笑《につこり》する。女《をんな》も微笑《につこり》して、胸《むね》を突出《つきだ》して會釋《ゑしやく》する。 それも一瞬間《またゝくま》で、健次《けんじ》は傘《かさ》を肩《かた》にかけ、側目《わきめ》も振《ふ》らず上野《うへの》の廣小路《ひろこうぢ》へ出《で》て、道《みち》を山下《やました》の方《はう》へ取《と》る。 昨日《きのふ》の天長節《てんちやうせつ》に降《ふ》り通《とほ》した雨《あめ》は、今日《けふ》も一|日《にち》絕間《たえま》なく、濕《しめ》つぽい夜風《よかぜ》が冷《つめ》たく顏《かほ》に吹《ふ》き當《あた》る。往來《わうらい》の人々《ひと〴〵》は皆《みな》傘《かさ》を斜《なゝ》めに膝《ひざ》を曲《ま》げて、ちよこ〳〵と小股《こまた》に急《いそ》いでゐる。健次《けんじ》も膝《ひざ》から下《した》はびしよ濡《ぬ》れになつたが、敢《あえ》てそれを氣《き》に留《と》めるでもなく、只《たゞ》いゝ氣持《きもち》で、口《くち》の内《うち》で小唄《こうた》か何《なに》か呟《つぶや》いて、沈《しづ》んだ空《そら》へ酒臭《さけくさ》い息《いき》を吐《ふ》きながら、根岸《ねぎし》の近《ちか》くまで來《く》ると、橫合《よこあひ》から底《そこ》の深《ふか》い大《おほ》きな蝙蝠傘《かうもりがさ》が、不意《ふい》に健次《けんじ》の蛇《じや》の目《め》にぶつ付《つ》かる。チエツと舌打《したうち》して避《さ》けやうとする機會《とたん》に、蝙蝠傘《かうもりがさ》の男《をとこ》が聲《こゑ》をかけて、 「やあ君《きみ》」と立留《たちどま》つた。 健次《けんじ》は少《すこ》し驚《おどろ》いて、「やあ君《きみ》か、何處《どこ》へ行《い》つた」 「君《きみ》の家《うち》さ、今夜《こんや》は雨《あめ》だから、屹度《きつと》ゐるだらうと思《おも》つたのに、何處《どこ》を浮《うか》れてた、いい顏《かほ》つきをしてるぢやないか」 「そりや氣《き》の毒《どく》だつたね、これから僕《ぼく》の家《うち》へ行《い》かうぢやないか」 「いや、もう遲《おそ》いからよさう」と、蝙蝠傘《かうもりがさ》の男《をとこ》は長《なが》い身體《からだ》を屈《かゞ》めて、下駄屋《げたや》の時計《とけい》をのぞいて見《み》て、「もう彼此《かれこれ》九|時《じ》だね」と一寸《ちよつと》考《かんが》え、「實《じつ》は君《きみ》に少《すこ》しお賴《たの》みがあるんだが……此處《こゝ》で話《はな》してもいゝが、どうだ其邊《そこら》の珈琲店《コーヒーてん》へでも寄《よ》つて吳《く》れんか」と、首《くび》をまはして周圍《あたり》を捜《さが》す。 「ぢや、さうしよう、この先《さ》きにいゝ家《うち》がある」と、健次《けんじ》は先《さ》きに立《た》つて、半丁《はんちやう》ばかり泥濘《ぬかるみ》の中《なか》を通《とほ》つて、擦玻璃《すりがらす》に一品亭《いつぴんてい》とある小《ちい》さい西洋料理店《せいやうれうりてん》へ行《い》つた。 客《きやく》は一人《ひとり》もゐない。白布《ぬの》で蔽《おほ》うたテーブルの上《うへ》に火鉢《ひばち》を置《お》いて、籐椅子《とういす》が四五|脚《きやく》周圍《まはり》に不秩序《ふちつじよ》に置《お》かれてある。健次《けんじ》は火鉢《ひばち》の火《ひ》を搔《か》き廻《まは》して、 「君《きみ》は馬鹿《ばか》に寒《さむ》さうぢやないか、さあ當《あた》り給《たま》へ」 と云《い》つて、卷煙草《まきたばこ》に火《ひ》を付《つ》けて、反身《そりみ》で椅子《いす》に寄《よ》りかゝり、頻《しき》りに瞬《まばたき》をしながら仰向《あふむ》いて煙草《たばこ》を吸《す》ふ。 今迄《いまゝで》板《いた》の間《ま》に腰掛《こしか》け、左右《さいう》の袖《そで》を搔《か》き合《あ》はせて居眠《いねむ》りをしてゐた小娘《こむすめ》が、高《たか》い足駄《あしだ》を引摺《ひきず》つて、 「お誂《あつら》へは」と寢呆聲《ねぼけごゑ》で聞《き》く。 「寒《さむ》いから日本酒《にほんしゆ》がいゝだらう、料理《れうり》は何《なに》がいゝ、ビフテキにでもするか」と、骨太《ほねぶと》い手《て》を火鉢《ひばち》の上《うへ》に翳《かざ》しぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてゐる相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》て、默諾《もくだく》を得《え》て、健次《けんじ》は小娘《こむすめ》に命《めい》じた。 この丈高《たけたか》き男《をとこ》は織田《おだ》常吉《つねきち》と云《い》ひ、健次《けんじ》が昔《むかし》の同窓《どうそう》の友《とも》で、今《いま》は私立學校《しりつがくかう》に英語《えいご》の敎師《けうし》を勤《つと》め、傍《かたは》ら飜譯《ほんやく》などをしてゐる。年齡《とし》は健次《けんじ》より僅《わづ》か一つ上《うへ》だが、健次《けんじ》の小柄《こがら》で若《わか》く見《み》えるのに反《はん》して、格段《かくだん》に老《ふ》けて見《み》える。丈《たけ》の高《たか》きのみならず、それに釣合《つりあ》ふ程《ほど》に肉付《にくづ》きもよく、見《み》た所《ところ》魁偉《くわいゐ》なる人物《じんぶつ》であるが、何處《どこ》となく身體《からだ》にゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]がある。鹽氣《しほけ》が足《た》らぬ。顏《かほ》は平《ひら》たく目《め》は細《ほそ》く、耳《みゝ》は福々《ふく〴〵》と垂《た》れてゐる。 「君《きみ》は相變《あひかは》らず氣樂《きらく》さうだね、殊《こと》に今日《けふ》は愉快《ゆくわい》な顏《かほ》をしてるぢやないか」と、織田《おだ》は健次《けんじ》を見《み》て、ゆつたりした聲《こゑ》で云《い》ふ。 「はゝゝゝ、そう見《み》えるかな、これで二三日|打續《ぶつつゞ》けだよ、まあ社《しや》の方《はう》が暇《ひま》つぶしで、遊《あそ》ぶ方《はう》が本職《ほんしよく》のやうな者《もの》だ、しかし本職《ほんしよく》となると、遊《あそ》ぶ方法《はうはふ》に苦心《くしん》する。如何《いか》にして遊《あそ》ぶべきかが、僕《ぼく》の當面《たうめん》の問題《もんだい》である」と、陽氣《ようき》な聲《こゑ》で、一寸《ちよつと》桂田《かつらだ》博士《はかせ》の假聲《こはいろ》を使《つか》ひ、顏《かほ》に愛嬌《あいけう》を湛《たゝ》えて微笑々々《にこ〳〵》する。 「まあ遊《あそ》べる間《うち》は遊《あそ》ぶがいゝやね、しかし今《いま》もね、君《きみ》の母堂《マザー》と話《はな》して來《き》たんだが、健次《けんじ》も此頃《このごろ》は酒好《さけず》きになつて困《こま》ると云《い》つてたよ、祖父《おぢい》さんのやうにならなきやいゝがと云《い》つてゐられた」 「さうか、僕《ぼく》の母方《はゝかた》の祖父《ぢいさん》は、大酒呑《おほざけの》みで終《しまひ》には狂人《きちがひ》になつて死《し》んだんだからね、それに僕《ぼく》の顏《かほ》が次第《しだい》に祖父《ぢいさん》に似《に》て來《く》るさうだから、母《はゝ》は心配《しんぱい》してるだらう」 「何《なに》、さうでもないらしい、只《たゞ》早《はや》く嫁《よめ》を貰《もら》ひたいやうな話《はなし》をしてゐた、僕《ぼく》にもいゝのを見《み》つけて吳《く》れつて、本氣《ほんき》で云《い》つてられたよ、親《おや》は有難《ありがた》いものだね」 「さうかね」と、健次《けんじ》は嘲《あざ》けるやうに云《い》つて、「君《きみ》も精々《せい〴〵》美人《びじん》を捜《さ》がして呉《く》れ賜《たま》へな」 「そんな氣《き》があるんなら周旋《しうせん》しよう、しかし何《なん》だよ」と云《い》ひかけた所《ところ》へ、小娘《こむすめ》が銚子《てうし》を持《も》つて來《く》ると、織田《おだ》はぽかんとして、前《まへ》の話《はなし》の緖《いとぐち》を忘《わす》れてしまひ、健次《けんじ》の矢繼早《やつぎばや》にさす盃《さかづき》を三四|杯《はい》引受《ひきう》けた。 「で、君《きみ》、僕《ぼく》に用事《ようじ》と言《い》つて何《なん》だい」と、健次《けんじ》は强《つよ》い調子《てうし》で押付《おしつ》けるやうに云《い》ふと、織田《おだ》は「何《なに》、急《きふ》な事《こと》でもないんだがね」と、前《まへ》に自分《じぶん》が賴《たの》みがあると云《い》つた癖《くせ》に、その用談《ようだん》を避《さ》けるやうにして、ビフテキの小《ちい》さい切《き》れをもぐ〳〵させながら、顏《かほ》を顰《しか》め、「非常《ひじやう》に堅《かた》い」と呟《つぶや》き、暫《しばら》く無言《むごん》の後《のち》「僕《ぼく》も弱《よわ》つたぜ、親爺《おやぢ》の病氣《びやうき》がます〳〵よくないんで、入院《にふゐん》させなくちやならんのだ、まだ確定《かくてい》はしないが、どうも胃癌《ゐがん》らしい」 と、フオークとナイフとを持《も》つたまゝ、仰向《あふむ》いて云《い》つたが、顏《かほ》にも言葉《ことば》にも弱《よは》つてる樣子《ようす》は見《み》えず、例《れい》の通《とほ》りポカンとしてゐる。 「さうかい、そりや困《こま》つたね」と、健次《けんじ》は少《すこ》しも手《て》を付《つ》けぬ皿《さら》を見詰《みつ》めたなりで、氣《き》のない聲《こゑ》で云《い》ひ、心《こゝろ》でも左程《さほど》同情《どうじやう》してる風《ふう》はない。織田《おだ》は相手《あひて》に頓着《とんちやく》なく、悠長《いうちやう》な聲《こゑ》で、 「妻《ワイフ》は身《み》が重《おも》いし、母《はゝ》はあの通《とほ》りの無性者《ぶしやうもの》で、一日《いちにち》煙草《たばこ》ばかり吸《す》つてゝ役《やく》にや立《た》たず、妹《いもと》は學校《がつかう》へ行《い》つたきりで、遲《おそ》くまで歸《かへ》つて來《こ》んから、何《なに》もかも僕《ぼく》一人《ひとり》でやらなくちやならんのでね、本當《ほんたう》に困《こま》るよ、それでこの四五|日《にち》は學校《がつかう》も缺勤《けつきん》ばかりしてる」 「ぢや妹《いもと》を學校《がつかう》へやつて、君《きみ》は缺勤《けつきん》して家《うち》の世話《せわ》をしてるんだね、しかし病人《びやうにん》の看護《かんご》なんか君《きみ》の適任《てきにん》ぢやないね」 「だつて仕方《しかた》がないさ、どうも一|家《か》の主人《しゆじん》となると面倒《めんだう》なものだ、今《いま》に君《きみ》も結婚《けつこん》すると困《こま》るぜ、何《なん》だのかだのと、そりや五月蠅《うるさ》くつてね、それに子供《こども》なんか出來《でき》なきやいゝんだが」 「そいつあ當然《あたりまへ》だから仕方《しかた》がないさ、しかし僕《ぼく》だつたら、家《うち》が五月蠅《うるさ》けりや一|日《にち》外《そと》へ出《で》てゐらあ、女房《にようばう》の產《さん》の世話《せわ》から借金《しやくきん》の言譯《いひわけ》まで亭主《ていしゆ》がしなくつたつていゝ」 「さうもいかんよ、君《きみ》、それに僕《ぼく》の月給《げつきう》が安《やす》いから、平生《ふだん》だつて内職《ないしよく》をしなくちや引足《ひきた》らんのに、病人《びやうにん》が出來《でき》ちや災難《さいなん》だ、だから此頃《このごろ》は酒《さけ》どころぢやない、煙草《たばこ》も止《や》めてしまつた」と、少《すこ》し萎《しほ》れた。その樣子《やうす》を見《み》ると、健次《けんじ》は急《きふ》に不憫《ふびん》になり、 「だが君《きみ》は感心《かんしん》だよ、家庭《かてい》のために犧牲《ぎせい》になるから」と云《い》つて、後《うしろ》を見《み》て「もう一|本《ぽん》」と叫《さけ》んだ。 「僕《ぼく》はもういゝよ、遲《おそ》くなると家《うち》で心配《しんぱい》するから、そろ〳〵歸《かへ》らなくちや」 「まあいゝさ、久振《ひさしぶ》りだから、も少《すこ》し話《はなし》をしやうぢやないか」と、健次《けんじ》は少《すこ》しも手《て》を付《つ》けぬ皿《さら》を押《をし》のけ、煙草《たばこ》を啣《くは》へたまゝ腕組《うでぐみ》して、半《なか》ば目《め》を閉《と》ぢ、降《ふ》りしきる雨《あめ》の音《おと》やら、幽《かす》かに響《ひゞ》く車《くるま》の掛聲《かけごゑ》やら、前《まへ》を通《とほ》つてる按摩《あんま》の震《ふる》え聲《ごゑ》に耳《みゝ》を傾《かたむ》け、森《しん》とした淋《さみ》しい空氣《くうき》に心《こゝろ》が吸込《すひこ》まれ、快活《くわいくわつ》な色《いろ》も顏《かほ》から失《う》せかゝつて來《き》たが、コトンと銚子《てうし》の音《おと》がするので、振返《ふりかへ》つてパツと目《め》を開《あ》けた。惡夢《あくむ》から醒《さ》めたやうに、銳《するど》く四圍《あたり》を見《み》まはし、やがて眉《まゆ》をぴりゝとさせ、二|本《ほん》の指《ゆび》で熱《あつ》さうに銚子《てうし》の首《くび》を持《も》つて、 「さあ受《う》け玉《たま》へ」と、無雜作《むざうさ》に相手《あひて》の盃《さかづき》へどぶ〳〵と注《つ》ぎ、「そして肝心《かんじん》の用事《ようじ》は何《なん》だい」と問《と》ふと、織田《おだ》は言憎《いひに》さうに暫《しばら》く口籠《くごも》り、 「少《すこ》し無理《むり》なお願《ねが》ひだがね」と、盃《さかづき》を持《も》つては置《お》き〳〵して、「又《また》原稿《げんかう》の事《こと》さ」と、氣《き》の毒《どく》さうに云《い》ふ。 「うん原稿《げんかう》の周旋《しうせん》か、僕《ぼく》が引受《ひきう》けてどうかしやう」と、健次《けんじ》は快《こゝろよ》く首《うな》づく。織田《おだ》はやうやく安心《あんしん》したらしく、甘《うま》そうに盃《さかづき》を呑《の》み干《ほ》して健次《けんじ》に差《さ》し、 「實際《じつさい》忙《いそが》しい間《あひだ》に書《か》いたので、よくはなからうがね、それでも毆《なぐ》り書《が》きぢやないんだ、會話《くわいわ》にや格別《かくべつ》苦心《くしん》して、一|機軸《きぢく》を出《だ》したつもりだから、まあ讀《よ》んで吳《く》れ賜《たま》へ、物《もの》はゴルキーの小說《せうせつ》だ」 「さうか、いゝだらう」と、健次《けんじ》は輕《かる》く答《こた》へて、物《もの》が何《なん》であれ、譯筆《やくひつ》が何《なん》であれ、そんな事《こと》は身《み》を入《い》れて聞《き》かうともせぬ。 「それからね、少《すこ》し無理《むり》だが原稿料《げんかうれう》を早《はや》く貰《もら》つて吳《く》れまいか、月初《つきはじ》めから一|文無《もんな》しだから、それに……」 と、健次《けんじ》の煙草《たばこ》を一|本《ほん》取《と》つて、指先《ゆびさ》きで揉《も》みながら、何《なに》をか訴《うつた》へんとする。それと見《み》て健次《けんじ》は頭《あたま》から打消《うちけ》し、 「よし〳〵、それも僕《ぼく》が受合《うけあ》つた、引替《ひきか》へに貰《もら》つてやらう」 と話《はなし》を轉《てん》じ、「で、君《きみ》は此頃《このごろ》箕浦《みのうら》に會《あ》つたか」と何時《いつ》も長々《なが〴〵》と聞《き》かされる無味《むみ》の生活談《せいくわつだん》や金錢論《きんせんろん》は避《さ》けやうとする。 「むん昨日《さくじつ》見舞《みま》ひに來《き》て吳《く》れたがね、會《あ》ふと例《れい》の通《とほ》り大《おほ》きな人生問題《じんせいもんだい》を論《ろん》じてる。讀書《どくしよ》も盛《さかん》にやつてるやうだし、此頃《このごろ》は長《なが》い論文《ろんぶん》も書《か》いてるさうだ、いづれ君《きみ》の所《ところ》へでも持込《もちこ》むだらう、しかしね、僕《ぼく》が云《い》ふんだが、箕浦《みのうら》なんかは己惚《うぬぼれ》が過《す》ぎる、人生《じんせい》がどうの宇宙《うちう》がかうのと、人間《にんげん》が誤託《ごたく》を並《なら》べるのは、身《み》の程《ほど》知《し》らずの極《きよく》だ、獨身《どくしん》で親爺《おやぢ》の脛《すね》でも嚙《かじ》つてる間《うち》は、そんな事《こと》を道樂《どうらく》にしてゐられやうがね、家庭《かてい》でも造《くつ》つて、一人前《いちにんまへ》の人間《にんげん》になると、そんな事《こと》は馬鹿々々《ばか〴〵》しくて問題《もんだい》にもならんさ」 と、多少《たせう》の活氣《くわつき》を帶《お》びて論《ろん》ずる。健次《けんじ》は微紅《うすくれなゐ》の艶々《つや〳〵》した頰《ほう》に靨《えくぼ》を見《み》せ、切《き》れの長《なが》い目尻《めじり》に皺《しわ》を寄《よ》せ、 「はゝゝゝ、珍《めづ》らしく君《きみ》の名論《めいろん》を聞《き》くね、しかし箕浦《みのうら》はコツ〳〵根氣《こんき》よく學問《がくもん》を續《つゞ》けてるし、文章《ぶんしやう》も上手《じやうず》になつたぢやないか、感心《かんしん》だよ」 「今《いま》に肺病《はいびやう》か惱病《なうびやう》になるのが落《お》ちだ」と、織田《おだ》は澄《すま》してゐる。 「いや博士《はかせ》ぐらゐにやなれらあ」と、健次《けんじ》は皮肉《ひにく》に云《い》つて、「だが箕浦《みのうら》は君《きみ》の妹《いもと》に惚《ほ》れてるよ」と、少《すこ》し乗出《のりだ》して、聲《こゑ》を低《ひく》くする。 「馬鹿《ばか》なことを」と、織田《おだ》は締《しま》りのない大口《おほぐち》を開《あ》けて、ハツ〳〵と笑《わら》ふ。 「うんにや惚《ほ》れてる、君《きみ》の目《め》にやどうだか、僕《ぼく》には一|目《もく》瞭然《れうぜん》よ」 「さうか知《し》らん」 「さうだとも、それにね君《きみ》の妹《シスター》のラブしてる男《をとこ》がある」 「え、本當《ほんたう》かい君《きみ》、虛言《うそ》だらう、君《きみ》はよく色《いろ》んなことを云《い》つて、僕《ぼく》を調戯《からか》ふからいかんよ、若《も》し本當《ほんたう》なら相手《あひて》が誰《た》れだか聞《き》かせて吳《く》れ玉《たま》へ、僕《ぼく》も一|家《か》の主人《しゆじん》だから、妹《あれ》の身《み》の上《うへ》についても責任《せきにん》があるんだもの、間違《まちが》ひのないやうに警戒《けいかい》しなくちやならん」 「いくら警戒《けいかい》したつて駄目《だめ》さ、歲頃《としごろ》の女《をんな》が色氣《いろけ》づくのは當然《たうぜん》ぢやないか、で、若《も》し相手《あひて》が分《わか》つたらどうする、妹《シスター》を柱《はしら》にでも縛《しば》りつけるかい」 「君《きみ》、そんな馬鹿《ばか》な眞似《まね》をする者《もの》か、僕《ぼく》は何《なに》さ、向《むか》うが相當《さうたう》の男《をとこ》だつたら正式《せいしき》の結婚《けつこん》さすし、不相當《ふさうたう》の男《をとこ》だつたら思《おも》ひ切《き》らせる」 「成程《なるほど》譯《わけ》の分《わか》つた兄樣《にいさま》だ、何處《どこ》の親《おや》だつてそれと同樣《どうやう》の事《こと》を申《まを》します」 「だつて主人《しゆじん》の義務《ぎむ》としてそれが當然《たうぜん》ぢやないか、君《きみ》ならどうする」 「僕《ぼく》なら放任《はうにん》しとかあ」 「馬鹿《ばか》な、君《きみ》も箕浦流《みのうらりう》の空論家《くうろんか》だね」 「ふゝん、僕《ぼく》と箕浦《みのうら》とは一|荷《か》にならんぜ、向《むか》ふ樣《さま》は本《ほん》をどつさり抱《だ》いてるから貫目《かんめ》があらあね」 「君《きみ》は氣樂《きらく》な事《こと》ばかり云《い》つてるが、僕《ぼく》は何時《いつ》も確信《かくしん》してる、人間《にんげん》は要《えう》するに僕《ぼく》のやうにならにや虛言《うそ》だ、遲《おそ》かれ疾《はや》かれ君《きみ》なども同《おな》じ道《みち》へ落《お》ちて來《く》るんだ」 健次《けんじ》はぞつと寒氣《さむけ》がして、思《おも》はず手《て》を火鉢《ひばち》に翳《かざ》し、織田《おだ》の顏《かほ》を見詰《みつ》め、「お互《たが》ひに君《きみ》の道連《みちづ》れになつて、テク〳〵步《ある》きで、電信柱《でんしんばしら》でも數《かぞ》へて行《ゆ》くんだね、大通《おほどほ》りの左側《ひだりがは》を步《ある》いてりや、自然《しぜん》に日本橋《にほんばし》に出《で》られる」 「君《きみ》、戯言《じやうだん》は止《よ》して、今《いま》の話《はな》しの相手《あひて》は誰《た》れだい、一|體《たい》向《むか》うの男《をとこ》は妹《いもと》を思《おも》つてるんかい」 「さあ、どうだかね、よく知《し》らんよ」 「誰《たれ》だらう」と、頰杖《ほゝづゑ》ついて、眞面目《まじめ》に考《かんが》へてゐる。 健次《けんじ》は人差指《ひとさしゆび》でテーブルを打《う》ちながら、「先《さき》あ左程《さほど》にも思《おも》やせぬ」と小聲《こごゑ》で唄《うた》つてゐたが、急《きふ》に何《なに》をか感《かん》じて、額《ひたひ》に皺《しわ》を寄《よ》せ、邪慳《じやけん》に煙草《たばこ》の吸口《すゐくち》を嚙《か》み出《だ》した。 織田《おだ》は思《おも》ひ飽《あぐ》んで面《おもて》を上《あ》げ、「君《きみ》は不斷《のべつ》に煙草《たばこ》を吸《す》つてる、毒《どく》だよ」 「毒《どく》だつていゝさ」と、健次《けんじ》は吸殻《すゐがら》を吐《は》き出《だ》し、「僕《ぼく》は阿片《あへん》を吸《す》つて見《み》たくてならん、あれを吸《す》ふと、身體《からだ》がとろけちやつて、金鵄勳章《きんしくんしよう》も壽命《じゆめい》も入《い》らなくなるさうだ、阿片《あへん》だ〳〵あれに限《かぎ》る」 と、獨《ひと》りで合點《がてん》してゐる。それが戯語《じやうだん》とも思《おも》へず、眞《しん》から感《かん》じてるやうなので、織田《おだ》は細《ほそ》い目《め》を丸《まる》くして、 「よくそんな下《くだ》らぬ事《こと》を眞面目《まじめ》で考《かんが》へてるね、阿片《あへん》でなくつたつて快味《くわいみ》を感《かん》ずる者《もの》は幾《いく》らもあるぢやないか」 「さうかね、僕《ぼく》はこれ程《ほど》煙草《たばこ》を吸すつてゝも、眞《しん》に味《うま》いと思《おも》つたことは一|度《ど》もないよ、酒《さけ》だつてさうだ、ビフテキだつてさうだ、一寸《ちよつと》舌《した》の先《さき》で甘《うま》いと思《おも》つても、染々《しみ〴〵》と五|體《たい》がとろける程《ほど》快味《くわいみ》を感《かん》じたことがない。どうも物足《ものた》らんね、それで何時《いつ》も思《おも》ふんだ、何處《どこ》か世界《せかい》の隅《すみ》つこに最上《さいじやう》の珍味《ちんみ》が潜《ひそ》んでるに違《ちが》ひない、僕《ぼく》はそいつを捜《さが》し出《だ》したい、で、今《いま》もそれを考《かんが》へてたんだが、或《あるひ》はその珍味《ちんみ》が阿片《あへん》ぢやないか知《し》らん、阿片《あへん》を吸《す》ひ出《だ》すと、何《なん》にも代《か》へられんちうぢやないか」 「馬鹿《ばか》な」と、織田《おだ》は一口《ひとくち》に斥《しりぞ》けて、「まだ甘《うま》い料理《れうり》を食《く》はんから、そんな事《こと》が云《い》つてられるんだ、櫻木《さくらぎ》の鳥《とり》なんか食《た》べてて、甘《うま》い物《もの》がないなんて廣言《かうげん》する權利《けんり》はないよ」と、天麩羅《てんぷら》鰻《うなぎ》椀盛《わんもり》などの名代《なだい》の家《いへ》を數《かぞ》へ上《あ》げ、諄々《じゆん〳〵》とその說明《せつめい》をし、「近々《ちか〴〵》長編《ちやうへん》を譯《やく》して仕舞《しま》つたら、藏田屋《くらたや》でも奢《おご》るよ」 健次《けんじ》は苦笑《にがわらひ》して、「何《いづ》れ御馳走《ごちそう》にならうよ」と立上《たちあが》り、「もう十|時《じ》だ、行《い》かうか」と、勘定《かんぢやう》を濟《す》ませて外《そと》へ出《で》た。雨《あめ》は稍々《やゝ》小降《こぶ》りになつたが、道《みち》は暗《くら》く風《かぜ》は冷《つめ》たく、健次《けんじ》は來《く》る時《とき》の元氣《げんき》に引變《ひきか》へ、傘《かさ》を兩手《りやうて》で持《も》つて、ぶる〳〵と慄《ふる》へたが、織田《おだ》は前《まへ》と同《おな》じく泰然自若《たいぜんじじやく》、急《せ》かず騷《さわ》がず、長靴《ながぐつ》を踏占《ふみし》め〳〵電車道《でんしやみち》へ向《むか》ふ。  (二) 健次《けんじ》の家《うち》は御行《ごぎやう》の松《まつ》を右手《みぎて》に見《み》て、暗闇《くらやみ》には危險《きけん》な道《みち》を一|丁《ちやう》ばかり入《はい》つた曲《まが》り角《かど》にある。土藏付《どぞうつき》で、狭《せま》いながらも庭《には》もあり周圍《しうゐ》を高《たか》い板塀《いたべい》で取《とり》かこみ、可成《かな》りの物持《ものも》の住宅《じうたく》と見《み》られるが、その實《じつ》屋根《やね》も壞《こは》れ柱《はしら》も傾《かたむ》き、大雨《おほあめ》には臺所《だいどころ》で傘《かさ》をさゝねばならぬ有樣《ありさま》。本當《ほんたう》なら隅《すみ》から隅《すみ》まで大修繕《だいしうぜん》を施《ほどこ》さねばならぬので、近所《きんじよ》の差配《さはい》なども見兼《みか》ねて、賴《たの》まれもせぬに家屋敷《いへやしき》を檢分《けんぶん》して、「早《はや》く手《て》をお入《い》れなさらなくちや御損《ごそん》ですぜ、何《なん》なら私《わたくし》がお引受《ひきう》けして、見積《みつも》りを立《た》てゝ見《み》ませう」と注意《ちゆうい》するが、健次《けんじ》の父《ちゝ》は「近々《きん〳〵》どうかしよう」と云《い》つて、別《べつ》に心《こゝろ》に掛《か》ける風《ふう》はない。健次《けんじ》は早《はや》くから「こんな陰氣《いんき》な古《ふる》びた家《いへ》はうり拂《はら》つて、山《やま》の手《て》へでも引越《ひつこ》した方《はう》がよからう」と勸《すゝ》め、母《はゝ》は全然《ぜんぜん》同意《どうい》して、せめて此家《こゝ》を修繕《しうぜん》して他人《ひと》に貸《か》し、自分逹《じぶんたち》は小《こ》ぢんまりした借家《しやくや》に住《す》まつた方《はう》が幾《いく》らいゝか知《し》れぬ。第《だい》一こんな廣《ひろ》い家《うち》にゐては、世間《せけん》から有福《いうふく》に見《み》られて、何《なに》かと取上《とりあげ》られる金高《きんだか》も多《おほ》くて不輕濟《ふけいざい》ではあるしと說《と》くが、穩《おだ》やかな父《ちゝ》もこればかりは頑《ぐわん》として聞入《きゝい》れぬ。おれは此家《こゝ》で息《いき》を引取《ひきと》るつもりで越《こ》して來《き》たのだから、决《けつ》して他《ほか》へは移轉《いてん》せぬ。それに借家《しやくや》は厭《いや》だと云《い》ふ。彼《か》れには借家住《しやくやずま》ひは不見識《ふけんしき》だという氣《き》があるのだ。 菅沼家《すがぬまけ》は微祿《びろく》ではあつたが、旗本《はたもと》の家柄《いへがら》。健次《けんじ》の父《ちゝ》は十四五の頃《ころ》、維新《いしん》の渦中《くわちう》に浮沈《ふちん》して、多少《たせう》の辛苦《しんく》を甞《な》めた。その後《のち》も生活《せいくわつ》には惱《なや》んで、遂《つひ》に四|國《こく》九|州《しう》の郵便局《いうびんきよく》にも二三|年《ねん》づゝ勤《つと》め、今《いま》は多少《たせう》榮逹《えいたつ》して會計檢査院《くわいけいけんさゐん》に奉職《ほうしよく》してゐるが、五十五|歲《さい》の老朽《らうきう》で、地位《ちゐ》も安固《あんこ》ではなく、長官《ちやうくわん》のお慈悲《じひ》の下《もと》に脈《みやく》をつないでゐる。俸給《はうきふ》も左程《さほど》多《おほ》くはない。それに健次《けんじ》の下《した》に女《をんな》の子《こ》が二人《ふたり》、支出《しゝゆつ》は容易《ようい》ではないが、彼《か》れはあまりくよ〳〵[#「くよ〳〵」に傍点]苦《く》に病《や》む風《ふう》はなく、每晚《まいばん》の晚酌《ばんしやく》二|合《がふ》に陶然《たうぜん》として太平樂《たいへいらく》を並《なら》べる、健次《けんじ》は一人前《いちにんまへ》の男《をとこ》になつたし、娘《むすめ》は二人《ふたり》とも容色《きりやう》はよし、おれはまだ〳〵お墓《はか》へ入《はい》る心配《しんぱい》はなし、これからがおれの世《よ》の中《なか》だ、健次《けんじ》に嫁《よめ》を貰《もら》つてやり、姉娘《あねむすめ》でも片付《かたづ》けたら、おれは第《だい》一に役所《やくしよ》を止《や》めて隱居《いんきよ》をする。恩給《おんきふ》も下《さが》るし心掛《こゝろがゝ》りはないから、うんと好《す》きな事《こと》をして遊《あそ》べるんだが、おれは物見遊山《ものみゆさん》はせん、差詰《さしづめ》馬術《ばじゆつ》の稽古《けいこ》がしたいな。全體《ぜんたい》子供《こども》の時《とき》から馬《うま》が好《す》きで、馬術《ばじゆつ》の逹人《たつじん》になるつもりだつたが、世《よ》が變《かは》つて算盤《そろばん》ばかり持《も》つて來《き》た。しかしこれからやる。自分《じぶん》の慾《よく》といつては外《ほか》に何《なに》もないが、一つ馬《うま》だけは買《か》つて見《み》たいと、この老人《らうじん》は馬《うま》の話《はなし》になると夢中《むちう》になつて來《く》る。 先祖《せんぞ》に馬術《ばじゆつ》の名人《めいじん》があつたとかで、その秘傳《ひでん》の卷物《まきもの》が桐《きり》の箱《はこ》に入《はい》つて、土藏《どぞう》に保存《ほぞん》されてゐる。これと一|領《れう》の甲冑《かつちう》と一|口《ふり》の無銘《むめい》の刀劍《とうけん》とが一|家《か》の寶物《はうもつ》、老人《ろうじん》の自慢《じまん》の種《たね》だ。冑《よろひ》は疎《まば》らに星《ほし》のついてる古色蒼然《こしよくさうぜん》たる者《もの》で、鎌倉時代《かまくらじだい》の作《さく》、刀《かたな》は國弘《くにひろ》の作《さく》だらうと云《い》ふ。そして老人《らうじん》は每年《まいねん》元日《ぐわんじつ》には此等《これら》の寶物《はうもつ》を床《とこ》の間《ま》に飾《かざ》り、家族《かぞく》を集《あつ》めて禮拜《れいはい》し、三方《みかた》ケ|原《はら》合戰《かつせん》以來《いらい》の祖先《そせん》の武勇《ぶいう》を談《だん》じ、この冑《よろひ》や刀《かたな》に籠《こも》つてる精神《せいしん》を忘《わす》れてはならぬと說《と》き聞《き》かせ、獨《ひと》りで喜《よろこ》んでゐる。 健次《けんじ》は少年時代《せうねんじだい》に此等《これら》の武具《ぶぐ》に興味《きやうみ》を感《かん》じて、父《ちゝ》の留守中《るすちう》竊《ひそ》かに土藏《どざう》へ忍《しの》び込《こ》み、漆《うるし》の剝《は》げた鎧櫃《よろひびつ》を開《あ》けて、昔《むかし》の戰爭《せんさう》を連想《れんそう》し、或《あるひ》は兩腕《りやううで》に力瘤《ちからこぶ》を出《だ》して冑《よろひ》を持《もち》まはつて悅《うれ》しがつてゐた。殊《こと》に刀《かたな》が大好《だいす》きで、恐々《おそる〳〵》拔《ぬ》きはなち、齒《は》を喰締《くひしば》り瞳《ひとみ》を据《す》ゑて、その冴《さ》えた光《ひかり》を見詰《みつ》めては感《かん》に打《う》たれることが多《おほ》い。刀《かたな》は武士《ぶし》の魂《たましひ》だとは父《ちゝ》からも屢屢《しば〴〵》敎《をし》へられ、自分《じぶん》でもこの家傳《かでん》の寶刀《ほうたう》を見《み》る每《ごと》に、義《ぎ》の爲《ため》には死《し》を厭《いと》はぬ、如何《いか》なる苦痛《くつう》をも忍《しの》ぶ、辱《はづか》しめらるれば死《し》すなどの感《かん》じが、その明晃々《めいくわう〳〵》たる切尖《きつさき》から彼《か》れの膓《はらわた》に染《し》み込《こ》むやうであつた。性質《せいしつ》は父《ちゝ》とは餘程《よほど》違《ちが》つて疳《かん》が强《つよ》く、母《はゝ》の故鄉《こきやう》、彼《か》れの生地《しやうち》たる丸龜《まるがめ》の尋常小學《じんじようせうがく》に學《まな》んだ頃《ころ》も、試驗《しけん》の成績《せいせき》が他《ひと》に劣《おと》ると口惜《くや》しくて夜《よ》も眠《ねむ》れぬといふ程《ほど》であつたが、東京《とうきやう》の學校《がくかう》へ通《かよ》ふことゝなつては、殊《こと》にこの考《かんがへ》がひどい。その爲《ため》に學課《がくくわ》の復習《ふくしふ》を勵《はげ》むのみならず、身體《からだ》の訓練《くんれん》をもつとめた。痩《やせ》つぽちと嘲《あざけ》られるのも無念《むねん》である、年嵩《としかさ》の學生《がくせい》に腕《うで》づくで意地《いぢ》められるのもつらし、腕力《わんりよく》を養《やしな》ひ筋肉《きんにく》も發逹《はつたつ》させねばならぬと、寒中《かんちう》シヤツ一|枚《まい》で木刀《ぼくたう》を揮《ふる》つたこともある。力試《ちからだめ》しだといつて二人《ふたり》の妹《いもと》を笊《ざる》に入《い》れて擔《にな》ひ、引《ひつ》くりかへつて傷《きづ》をつけたこともある、母《はゝ》からは惡戯《いたづら》が過《す》ぎると叱《しか》られたが、彼《か》れには惡戯《いたづら》でも慰《なぐさ》みでもないのだ。幼《おさな》い心《こゝろ》にも自分《じぶん》の脆弱《ぜいじやく》な體質《たいしつ》が情《なさけ》なく、行《ゆ》く先々《さき〴〵》が案《あん》じられてゐたので、外目《よそめ》には滑稽《こつけい》とも見《み》える體格《たいかく》修養《しうやう》も、自分《じぶん》には最《もつと》も眞面目《まじめ》な行爲《かうゐ》であつたのだ。しかし生來《しやうらい》の體質《たいしつ》は變《かは》りやうがない。それで度々《たび〳〵》母《はゝ》に向《むか》つて、 「何故《なぜ》僕《ぼく》をこんな小《ちつ》ぽけな身體《からだ》に生《う》みつけたんです」 と詰《なじ》り、淚《なみだ》をこぼしたことさへあつた。その癖《くせ》友逹《ともだち》の間《あひだ》へ出《で》ると、「痩《や》せてゝもおれは强《つよ》いぞ」と力《りき》んで、喧嘩《けんくわ》をしかけられて逃《に》げることはない。或日《あるひ》も餓鬼大將《がきだいしやう》に嬲《なぶ》られた時《とき》、ナイフで切《き》りつけて、相手《あひて》を驚《おどろ》かしたこともある。 歲《とし》を取《と》るに從《したが》つて、戶外遊戯《こぐわいいうぎ》は止《や》めて、勉强部屋《べんきやうべや》に閉籠《とぢこも》り、課業外《くわげふぐわい》の雜書《ざつしよ》をも渉獵《あさ》るやうになり、最早《もはや》體質《たいしつ》の苦勞《くろう》はしなくなつた。で、中學《ちうがく》から高等學校《かうとうがくかう》と順序《じゆんじよ》を踏《ふ》んで進《すゝ》んだが、一|家《か》の財政《ざいせい》からいふと、それだけでも容易《ようい》ではなく、とても大學《だいがく》を卒業《そつげふ》する望《のぞみ》はなかつた。しかるに健次《けんじ》が他《た》の學生《がくせい》と對當《たいたう》の交際《かうさい》もして、別《べつ》に見《み》すぼらしくもなく、文科《ぶんくわ》の英文學《えいぶんがく》を終《を》へることの出來《でき》たのは、一に桂田《かつらだ》文學博士《ぶんがくはかせ》の助力《じよりよく》に依《よ》るのだ。桂田家《かつらだけ》と菅沼家《すがぬまけ》とは昔《むかし》から緣故《えんこ》の深《ふか》い上《うへ》、博士《はかせ》が健次《けんじ》の學才《がくさい》を認《みと》めたためである。 大學《だいがく》三|年《ねん》の生活《せいくわつ》、健次《けんじ》の頭腦《あたま》は非常《ひじやう》に變化《へんくわ》を來《きた》した。元《もと》法科《はふくわ》へ入《はい》りたい氣《き》もあつたのを、桂田《かつらだ》との關係《かんけい》から文科《ぶんくわ》と定《きま》つたので、入學後《にふがくご》も心《こゝろ》は迷《まよ》ふ。自分《じぶん》の素質《そしつ》から云《いつ》ても學者《がくしや》で安《やす》んじてゐられさうぢやない。多量《たれう》の書物《しよもつ》を讀《よ》んで一|生《せう》を終《おは》る、下《くだ》らないぢやないか、それよりも政治家《せいぢか》にでも實業家《じつげふか》にでもなつて、自分《じぶん》の考《かんがへ》が具體的《ぐたいてき》に目《め》の前《まへ》に現《あら》はれるを見《み》、生《い》きた人間《にんげん》生《い》きた事件《じけん》の動搖《どうえう》起伏《きふく》に接《せつ》する方《はう》が面白《おもしろ》くはないかと思《おも》ふこともあつたが、さりとて斷《だん》じて一を去《さ》つて他《た》に就《つ》く氣《き》にもなれぬ。それに課業《くわげふ》として學《まな》ぶ哲學《てつがく》の問題《もんだい》、外國《ぐわいこく》の詩歌《しか》小說《せうせつ》、新刊《しんかん》の雜誌《ざつし》雜著《ざつちよ》、皆《みな》過敏《くわびん》な神經《しんけい》を刺激《しげき》して、妄想《もうそう》は留《と》め度《ど》がない。制服《せいふく》制帽《せいぼう》を着《つ》け、博士《はかせ》夫人《ふじん》恩賜《おんし》の紅梅《こうばい》を散《ち》らした水色《みづいろ》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》を抱《いだ》き、兩手《りやうて》をポツケツトに入《い》れ、大學《だいがく》の裏門《うらもん》から上野《うへの》を拔《ぬ》けて、根岸《ねぎし》の古屋《ふるや》へ歸《かへ》る間《あひだ》、彼《か》れは妄想《もうそう》の道《みち》を辿《たど》つてゐたのだ。單調《たんてう》の道《みち》には飽《あ》いてしまつた。しかし彼《か》れは一|度《ど》も泣言《なきごと》を云《い》つたことはない。人生《じんせい》の寂寞《せきばく》とかを文章《ぶんしよう》にして雜誌《ざつし》へ寄稿《きかう》したこともない。同窓《どうそう》の瞑想家《めいそうか》からは淺薄《せんぱく》と云《い》はれる程《ほど》あつて、飛花落葉《ひくわらくえふ》に對《たい》して、深沈《しめやか》な感《かん》に耽《ふけ》り、自然《しぜん》の默示《もくし》に打《う》たれるでもなく、友人《いうじん》にでも遇《あ》へば、急《きふ》に沈《しづ》んだ心《こゝろ》も浮立《うきた》つて快活《くわいくわつ》に談笑《だんせう》し警句《けいく》百|出《しゆつ》諧謔《かいぎやく》縱橫《じうわう》。クラスの集會《しふくわい》に缺席《けつせき》すると、「菅沼《すがぬま》はどうした」と、衆口《しうこう》一|致《ち》して遺憾《ゐかん》の聲《こゑ》を發《はつ》する程《ほど》であつた。テニスもやる、玉突《たまつき》もやる、彼《か》れはクラスの快男子《くわいだんし》として通《とほ》つてゐた。そして二|年目《ねんめ》の試驗前《しけんぜん》、制服《せいふく》を囚衣《しうい》の如《ごと》く感《かん》じ、引脫《ひきぬ》いで自由《じいう》の身《み》とならんとしたが、博士《はかせ》夫妻《ふさい》の强硬《きやうかう》な反對《はんたい》に會《あ》ひ、その時《とき》は恩人《おんじん》に背《そむ》く程《ほど》の勇氣《いうき》もなく、ぐづ〳〵で卒業《そつげふ》まで我慢《がまん》したものゝ、成績《せいせき》は圖拔《づぬ》けてよくはなく、博士《はかせ》夫妻《ふさい》の期待《きたい》に背《そむ》いた。彼《か》れの弱《よは》い身體《からだ》は長年月《ちやうねんげつ》の學校《がくかう》生活《せいくわつ》に倦《う》み疲《つか》れ、最早《もはや》席順《せきじゆん》の高下《かうげ》を爭《あらそ》ふの根氣《こんき》もなく、虛榮心《きよえいしん》も失《う》せ、他《た》の連中《れんぢう》が卒業試驗《そつげふしけん》の準備《じゆんび》に夜《よ》を徹《てつ》してる間《ま》に、獨《ひと》り球戯場《たまや》にゲームを爭《あらそ》ひ、或《あるひ》は牛屋《ぎうや》の二|階《かい》で女中《ぢよちう》に圍繞《ゐぎよう》されてゐた。櫻木《さくらぎ》に出入《しつにふ》し始《はじ》めたのも此頃《このころ》からである。卒業後《そつげふご》は博士《はかせ》の推薦《すゐせん》で、中學《ちうがく》敎師《けうし》となつたが、これは三月《みつき》ばかりで辭職《じしよく》、今日《けふ》まで一|年《ねん》あまり雜誌《ざつし》記者《きしや》を勤《つと》めてゐる。  (三) 大抵《たいてい》の家《いへ》は戶《と》を鎖《とざ》し、暗闇《くらやみ》の森閑《しんかん》とした道《みち》を、健次《けんじ》は雜念《ざつねん》に煩《わづら》はされ、俯首《うつむ》いてコツ〳〵辿《たど》つてゐる。彼《か》れは七歲で先祖《せんぞ》以來《いらい》のこの都《みやこ》へ歸《かへ》つてより二十七|歲《さい》の今《いま》まで殆《ほと》んど一|日《にち》もこの道《みち》を踏《ふ》まぬことなく、目《め》を瞶《つぶ》つてゝも、路次《ろじ》の隅々《すみ〴〵》まで間違《まちが》へる氣遣《きづか》ひはない。 そしてこの界隈《かいわい》の見《み》る物《もの》聞《き》く物《もの》に飽《あ》き〳〵してゐる。父《ちゝ》は交番《かうばん》の角《かど》まで來《く》ると肩《かた》の荷《に》が下《お》りるやうな氣《き》がすると云《い》ふが、健次《けんじ》は此處《こゝ》まで歸《かへ》ると、足《あし》が澁《しぶ》つて後《あと》へ引《ひき》かへしたくなる。彼《か》れは今《いま》織田《おだ》に分《わか》れ、その長靴《ながぐつ》の重《おも》い音《ね》の次第《しだい》に消《き》ゆるを聞《き》きながら、「阿片《あへん》を呑《の》みたい」を繰返《くりかへ》した。他人《たにん》が味《うま》さうに吸《す》ふのを見《み》て羨《うらや》ましく、煙草《たばこ》を吸《す》ひ習《なら》つたが、自分《じぶん》には左程《さほど》の甘味《うまみ》もない。阿片々々《あへん〳〵〳〵》、自分《じぶん》が内々《ない〳〵》求《もと》めてた者《もの》はあれだ、阿片《あへん》さへ吸《す》へばこの世《よ》からなる極樂淨土《ごくらくじやうど》へ行《い》けるのだ。アルコールランプに點火《てんくわ》し、長椅子《ながいす》に身《み》を埋《うづ》め、長《なが》い煙管《きせる》で匂《にほ》ひを呼《よ》び、沈睡《ちんすゐ》に陷《おちい》る支那人《しなじん》は、祖先《そせん》の詩人《しじん》が夢想《むそう》した無何有《むかう》の境《さかひ》に遊《あそ》んでゐるのだ。阿片《あへん》を嗅《か》ぎに支那《しな》へ行《ゆ》く。迦南《かなん》の樂土《らくど》は其處《そこ》にありと思《おも》はれる。 敎師《けうし》の職《しよく》は蓄音器《ちくおんき》か鸚鵡《あふむ》の役廻《やくまは》りだと感《かん》じて、否應《いやおう》なしに辭職《じしよく》し、もつと活氣《くわつき》のあり動《うご》きのある役《やく》をと志《こゝろざ》し、現在《げんざい》の職《しよく》を求《もと》めたが、これも此頃《このころ》は厭《いや》で〳〵溜《たま》らぬ。どうせ長《なが》くは續《つゞ》きはしない。いつそ向《むか》うから不勉强《ふべんきよう》の爲め免職《めんしよく》と來《く》ると、新《あら》たなる地《ち》が開《ひら》けさうだが、當分《たうぶん》そんな運《うん》も向《む》ひて來《き》さうでない。だから明日《あす》は桂田《かつらだ》を訪《たづ》ねて「現代《げんだい》の思潮《しちやう》」とか何《なん》とかの問題《もんだい》で、的《てき》の字《じ》づくめの談話《だんわ》を筆記《ひつき》して來《こ》なくちやならん。 雨《あめ》はしよぼ〳〵と飽《あ》きもせずに降《ふ》つてゐる。電燈《でんとう》の輝《かゞや》いてる或《ある》別邸《べつてい》の犬《いぬ》は今夜《こんや》も飽《あ》きもせずに生命《いのち》限《かぎ》り吠《ほ》え立《た》てゝゐる。 健次《けんじ》は睡《ねむ》い目《め》をして元氣《げんき》のない欠伸《あくび》をした。 先々月《せん〳〵げつ》の初《はじ》め、殘暑《ざんしよ》のまだ酷《きび》しい時分《じぶん》、西日《にしび》の當《あた》る桂田《かつらだ》の書齋《しよさい》で、長々《なが〴〵》しい文學論《ぶんがくろん》、獨逸語《どいつご》やラテン語《ご》交《まじ》りの味《あじ》のない只《たゞ》六ケ|敷《しい》議論《ぎろん》を筆記《ひつき》させられ、浴衣《ゆかた》の着流《きなが》しでありながら、汗《あせ》に漬《つか》つて弱《よは》つたことがあつたが、その時《とき》下座敷《したざしき》から柔《やはら》かいピアノの音《ね》が洩《も》れ聞《きこ》え、博士《はかせ》の頑固《かたくな》な言葉《ことば》を追《お》ひのけては、健次《けんじ》の耳《みゝ》に忍《しの》び込《こ》み、膓《はらわた》まで盪《とろ》かさうとした。そして彼《か》れの筆記《ひつき》はしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]に亂《みだ》れ、聞違《きゝちが》へ書誤《かきあやま》りの夥《おびたゞ》しかつたのを、そのまゝ雜誌《ざつし》に掲《かゝ》げて博士《はかせ》の怒《いか》りに觸《ふ》れたが、あの時《とき》ほど博士《はかせ》が怖《こわ》い顏《かほ》して激《はげ》しい言葉《ことば》を吐《は》いたことはない。で、後々《のち〳〵》までも健次《けんじ》の耳《みゝ》には、その音樂《おんがく》が染《し》みついて、踏飽《ふみあ》いた道《みち》を步《あゆ》んでる時《とき》など、耳《みゝ》の底《そこ》でぴん〳〵鳴《な》り響《ひゞ》いて、心《こゝろ》に異樣《ゐやう》な感《かん》じが起《おこ》る。 ピアノの主《ぬし》の博士《はかせ》夫人《ふじん》も美《うつ》くしい、櫻木《さくらぎ》のお雪《ゆき》も美《うつ》くしい、織田《おだ》の妹《いもと》も醜《みに》くゝはない。紅葉《こうえふ》や綠雨《りよくう》の小說《せうせつ》の主人公《しゆじんこう》の如《ごと》く、女《をんな》が生命《いのち》の凡《すべ》てなら、憧憬《あこが》れたり煩悶《もだへ》たり若《わか》い盛《さか》りの今《いま》時分《じぶん》、さぞ戀《こひ》に忙《いそが》しいことであらうが、 「しかし自分《じぶん》は箕浦《みのうら》ぢやない」と、自分《じぶん》の胸《むね》に答《こた》へた。その聲《こゑ》は他《た》を嘲《あざ》けつた自尊心《じそんしん》から出《で》たのであらうが、絕望《ぜつばう》の調《てう》も交《まじ》つてゐる。で、彼《か》れは煙草《たばこ》を啣《くは》へ袂《たもと》からマツチ箱《はこ》を取出《とりだ》したが、マツチは一|本《ほん》もないので、舌打《したうち》して箱《はこ》を投《な》げつけ、傘《かさ》を持直《もちなほ》してさつさ[#「さつさ」に傍点]と步《ある》き出《だ》した。目《め》の前《まへ》には自分《じぶん》の家《いへ》の軒燈《がすとう》が、今《いま》にも消《き》えさうに微《かす》かに光《ひか》つてゐる。 彼《か》れは雨《あめ》にふやけた[#「ふやけた」に傍点]潜戶《くゞりど》を兩手《りやうて》で開《あ》け、成《なる》べく音《おと》のせぬやうに敷石《しきいし》を傳《つた》ひ、玄關《げんくわん》の隅《すみ》へ傘《かさ》を投《な》げ出《だ》すと、母《はゝ》は雨戶《あまど》を開《あ》けて釣《つり》ランプを差出《さしだ》し、 「おや衣服《きもの》がびしよ濡《ぬ》れぢやないか、この冷《ひ》えるのにそんなに濡《ぬ》れちやつては身體《からだ》に毒《どく》ですよ」 と、氣遣《きづか》はしさうに健次《けんじ》を見詰《みつ》めてゐる。 「今日《けふ》は早《はや》く歸《かへ》る筈《はず》でしたが、又《また》友人《いうじん》に誘《さそ》はれて遲《おそ》くなりました、明日《あす》は屹度《きつと》早《はや》く歸《かへ》ります」 と、言《い》はれぬ前《まへ》に言譯《いひわけ》しながら、足袋《たび》を脫《ぬ》いで、爪先《つまさき》で臺所《だいどころ》へ步《ある》いて行《ゆ》き、足《あし》を濯《そゝ》いだ後《のち》、そつと柄杓《ひしやく》から口《くち》うつしに冷水《れいすゐ》を呑《の》んだ。臺所《だいどころ》には盥《たらひ》を据《す》ゑ、柱《はしら》を傳《つたは》つた雨《あめ》の雫《しづく》がぽたり〳〵落《お》ちてゐる。 健次《けんじ》は長火鉢《ながひばち》の前《まへ》へ戾《もど》つて、着物《きもの》を脫《ぬ》いで母《はゝ》の手《て》から搔卷《かいまき》を取《と》り、酒氣《しゆき》の名殘《なごり》で温《あたゝ》かい肌《はだへ》にふはりと纏《まと》ひ、菊《きく》を染《そ》め出《だ》した八ツ橋《はし》の略帶《しごき》を柔《やはらか》く締《し》めて胡座《あぐら》を搔《か》き、「皆《み》なもう寢《ね》たんですか」と、隣室《となり》の父《ちゝ》の高鼾《たかいびき》を聞《き》いてゐる。 「あ、もう二|時間《じかん》も前《まへ》から寢《ね》てらあね、それにお父《とつ》さんは風邪氣《かぜけ》だといつてね、お夕飯《ゆうはん》が濟《す》むと直《す》ぐにお休《やす》みさ」と母《はゝ》は戶締《とじま》りをして火鉢《ひばち》の側《わき》に戾《もど》り、「お前《まへ》、織田《おだ》さんがお出《いで》だよ、何《なに》か用事《ようじ》がおありのやうで、大分《だいぶ》待《ま》つてゐなすつたがね」 「いや、織田《おだ》にや途中《とちう》で會《あ》ひました、親爺《おやぢ》が病氣《びやうき》だとか云《い》つてた」 「さうだつてねえ、餘程《よほど》お惡《わる》いんだつてねえ」と眉《まゆ》を顰《ひそ》め、「織田《おだ》さんも大抵《たいてい》ぢやあるまいよ、稼人《かせぎて》はあの方《かた》一人《ひとり》で、それで病人《びやうにん》なんか出來《でき》てはね、……でも感心《かんしん》な人《ひと》さ、一|生懸命《しやうけんめい》に働《はたら》いてゐなさる」 「何《なに》、あの男《をとこ》は他人《たにん》が思《おも》ふ程《ほど》苦《く》にしちやゐないさ、呑氣《のんき》な人間《にんげん》ですもの」 「さうでもあるまいよ、厄介者《やくかいもの》が多《おほ》いんだから、浮《うは》の空《そら》ぢやゐられないさ、お前《まへ》だつて今《いま》の間《うち》はどんなにしてゝもよからうがね、もうそろ〳〵先々《さき〴〵》の事《こと》も考《かんが》へなければね、お父《とつ》さんも口《くち》ばかりは元氣《げんき》がよくても、何時《いつ》までもお役所《やくしよ》通《がよ》ひも出來《でき》まいし織田《おだ》さんのやうにお前《まへ》が家《うち》の心棒《しんばう》になつてお吳《く》れでなくちや」と、何《なに》につけてもお定《きま》りの御敎訓《ごけうくん》が始《はじ》まりかけたので、 「ですがね、お母《つか》さん、織田《おだ》の大木《たいぼく》なら心棒《しんばう》にでも大黑柱《だいこくばしら》にでもなるでせうが、私《わたし》のやうな痩《や》せつぽちぢやお役《やく》に立《た》ちませんよ」と、健次《けんじ》は如何《いか》にも無邪氣《むじやき》さうに笑《わら》つた。母《はゝ》も釣込《つりこ》まれて靑《あを》い顏《かほ》に笑《わら》ひを浮《うか》べ、 「馬鹿《ばか》お云《い》ひでない」と云《い》つたが、話《はなし》は甘《うま》く外《そ》れて、「そう云《い》へばねお前《まへ》、家《うち》の冑《かぶと》は大變《たいへん》いゝ物《もの》で世間《せけん》に類《るい》が少《すくな》いんだとさ、今日《けふ》古物《こぶつ》陳列會《ちんれつくわい》とかへ出《だ》すとね、誰《たれ》だか目《め》の利《き》く方《かた》が見《み》て、大變《たいへん》褒《ほ》めてゐなすつたつて、だからお父《とつ》さんも、あれ程《ほど》世間《せけん》へ出《だ》すのを厭《いや》がつてた癖《くせ》に、今日《けふ》は歸《かへ》るとその話《はなし》ばかりして、大喜《おほよろこ》びで被入《いらつし》やるんだよ、賣《う》つたらば大變《たいへん》なお金《かね》になるんだらうね、あんな薄汚《うすきたな》い冑《かぶと》だけど」 「さうでせう、今《いま》は物好《ものず》きな人間《にんげん》が多《おほ》いから、……買手《かひて》があつたら早《はや》く賣《う》つたらいいでせう」 「でもね、お父《とつ》さんは饑《う》え死《じに》しても、先祖《せんぞ》の寶《たから》だから人手《ひとで》にや渡《わた》さないつて、獨《ひと》りで力《りき》んでるんだから」 「まあお父《とつ》さんはあれが生命《いのち》よりも大事《だいじ》なんだからいゝさ」と、欠伸《あくび》をして、「今《いま》にお父《とつ》さんの望《のぞ》みが屆《とゞ》いて、馬《うま》でも買《か》つたら、あの甲《かぶと》や鎧《よろひ》を着《き》て刀《かたな》を差《さ》して、この汚《きたな》い家《うち》から手綱《たづな》を執《と》つて妖怪《ばけもの》退治《たいぢ》にでも出《で》て行《ゆ》くでせう、さうなるとお父《とつ》さん萬歲《ばんざい》だが、何年《なんねん》先《さ》きのことかなあ」 老母《らうば》は險《けん》のある目《め》で健次《けんじ》を見《み》て、「お父《とつ》さんやお前《まへ》は何故《なぜ》さう呑氣《のんき》なんだらう、私《わたし》一人《ひとり》にやきもき[#「やきもき」に傍点]させといてさ」と、長煙管《ながきせる》をポンと邪慳《じやけん》に叩《たゝ》くので、健次《けんじ》は片膝《かたひざ》立《た》てて逃仕度《にげじたく》をし、 「呑氣《のんき》な者《もの》ですか、お父《とつ》さんは馬《うま》を買《か》ひたくつて、腰辨當《こしべんたう》で齷齪《あくせく》してるんだし、私《わたし》だつて、胸《むね》に苦勞《くろう》の絕《た》えたことはありやしない」と、眞面目《まじめ》か戯言《じやうだん》か分《わか》らぬ云《い》ひやうをしたが、急《きふ》に生眞面目《きまじめ》になり、「一昨日《おとつひ》の晚《ばん》にね、お母《つか》さん、私《わたし》は廣小路《ひろこうじ》でお父《とつ》さんに會《あ》つたんですよ、向《むか》うでは氣《き》が付《つ》かなかつたやうだが、私《わたし》が後《あと》から見《み》てると、あの蝙蝠傘《かうもりがさ》を突《つ》いて、馬丁《べつとう》と何《なん》だか話《はなし》をしてる。話《はなし》の筋《すぢ》は分《わか》らなかつたが、柳《やなぎ》の木《き》に軍人《ぐんじん》の誰《た》れかの馬《うま》が繋《つな》いであつて、お父《とつ》さんがその馬《うま》から目《め》を離《はな》さずに見惚《みと》れてるんです。凡《およ》そ十|分間《ぷんかん》もして、お父《とつ》さんは名殘惜《なごろお》しさうに振《ふ》り返《かへ》り〳〵して歸《かへ》つて行《い》つたが、私《わたし》はそれをぢつと見《み》てゝね、その時《とき》ばかりはお父《とつ》さんに早《はや》く馬《うま》を買《か》つて上《あ》げたいと思《おも》ひました」と云《い》つて、立上《たちあが》つた。 母《はゝ》は呆《あき》れた風《ふう》で見上《みあ》げて、「直《す》ぐお寢《やす》みかい」 「いや少《すこ》し勉强《べんきやう》してから寢《ね》ませう、明日《あす》は八|時《じ》に起《おこ》して下《くだ》さい」 と、書齋《しよさい》に入《はい》ると、母《はゝ》は追馳《おつか》けて來《き》て、マツチを擦《す》つて手《て》づからランプを點火《とぼ》し、「お前《まへ》、二|圓《ゑん》ばかり持《も》つてゐないかい、千代《ちよ》の月謝《げつしや》だの何《なん》だので、私《わたし》の手元《てもと》に大變《たいへん》不自由《ふじゆう》してるから」 と、低《ひく》い聲《こゑ》で歎願《たんがん》する。健次《けんじ》は無言《むごん》で、蟇口《がまぐち》からぐちや〳〵の札《ふだ》を手渡《てわたし》して机《つくゑ》に向《むか》つた。 書齋《しよさい》は土藏《どぞう》側《わき》の八|疊《じやう》の室《ま》、家中《かちう》で最《もつと》も醜《みにく》くない部屋《へや》だが、それでも疊《たゝみ》は茶色《ちやいろ》をして所々《ところ〴〵》擦《す》りむけ、壁《かべ》には斑點《しみ》が出來《でき》てゐる。小形《こがた》の本箱《ほんばこ》が二つ並《なら》んで、健次《けんじ》が中學《ちうがく》時代《じだい》からの敎課書《けうくわしよ》や愛讀書《あいどくしよ》が、ぎつしり詰込《つめこ》まれ、プルタークの英雄傳《えいゆうでん》樗牛《ちよぎう》全集《ぜんしふ》透谷《とうこく》全集《ぜんしふ》などの背皮《せがわ》の金字《きんじ》が微《かす》かに見《み》える、しかし此等《これら》の書物《しよもつ》は微曇《うすくも》りの玻璃戶《がらすど》から引出《ひきだ》されたことなく、机《つくゑ》の上《うへ》には新《あたら》しい經濟書《けいざいしよ》が置《お》かれてゐる。 健次《けんじ》は二三の郵便物《いうびんぶつ》を手《て》に取《と》つたが、一つは箕浦《みのうら》からで、二三|日中《にちちう》に會談《くわいだん》したい、云《い》ひたい事《こと》が山《やま》ほどあると書《か》き、尙《なほ》それだけでは飽氣《あつけ》ないと見《み》え、今月《こんげつ》の諸雜誌《しよざつし》を讀《よ》み、何《いづ》れも輕浮《けいふ》なる文字《もじ》の多《おほ》きを悲《かな》しむ、我々《われ〳〵》は滔々《たう〳〵》たる弊風《へいふう》に感染《かんせん》せず、徒《いたづ》らに虛名《きよめい》を求《もと》めずして眞面目《まじめ》なる硏究《けんきう》を續《つゞ》けたしと書《か》き添《そ》えてある。又《また》一つは織田《おだ》の妹《いもと》からの手紙《てがみ》で、「秋《あき》の日《ひ》」だの「望《のぞみ》の夜《よ》」だのゝ五六|首《しゆ》の歌《うた》を認《したゝ》めて、雜誌《ざつし》へ出《だ》して吳《く》れと切望《せつぼう》してゐる。健次《けんじ》は二つの手紙《てがみ》を抽斗《ひきだし》へ入《い》れ、書物《しよもつ》を擴《ひろ》げて二三|枚《まい》讀《よ》んでゐたが、やがて投《な》げ出《だ》して濃《こ》い眉《まゆ》をぴりゝとさせた。「箕浦《みのうら》の所謂《いはゆる》眞面目《まじめ》なる硏究《けんきう》は五|年前《ねんぜん》に過《す》ぎ去《さ》つたのだ」と、兩手《りやうて》で頭《あたま》を抱《だ》いて目《め》を瞑《つぶ》つた。すると歸宅《きたく》の途中《とちう》と同《おな》じい雜念《ざつねん》が湧《わ》き上《あが》つて留《と》め度《ど》がない。天井《てんじやう》には鼠《ねづみ》が暴《あば》れまはつて、時々《とき〴〵》チユツ〳〵と鳴聲《なきごゑ》がする。一|家《か》四|人《にん》はすや〳〵と眠《ねむ》つてゐるが、每夜《まいよ》その寢息《ねいき》を聞《き》くぐらゐ彼《か》れに取《と》つて厭《いや》な氣《き》のすることはない。人中《ひとなか》へ出《で》てる時《とき》には心《こゝろ》が動搖《どうえう》して紛《まぎ》れてゐるが、獨《ひと》り默然《もくねん》と靜《しづ》かな部屋《へや》に坐《すは》つてゐると、心《こゝろ》が自分《じぶん》の一|身《しん》の上《うへ》に凝《こ》り固《かた》まつて、その日常《にちじやう》の行爲《かうゐ》の下《くだ》らないこと、將來《しやうらい》の賴《たの》むに足《た》らぬこと、假面《かめん》を脫《ぬ》いだ自己《じこ》がまざ〳〵と浮《うか》び、終《しまひ》には自分《じぶん》の肉體《にくたい》までも醜《みにく》く淺間《あさま》しく思《おも》はれて溜《たま》らなくなる。その時《とき》こんな下《くだ》らない人間《にんげん》を手賴《たよ》りにしてゐる家族《かぞく》の寢息《ねいき》が忍《しの》びやかに聞《きこ》えると、急《きふ》に憐《あは》れに心細《こゝろぼそ》く、果《は》ては萎《しほ》れてしまう。 健次《けんじ》は昨夜《さくや》と同《おな》じ考《かんがへ》を經驗《けいけん》し、心細《こゝろぼそ》くなつて萎《しほ》れて、遂《つひ》にぶつ倒《たふ》れて、睡《ねむ》る氣《き》ではなくても自然《しぜん》に眠《ねむ》つてしまう。 雨滴《あまだれ》は同《おな》じ音《おと》を繰返《くりかへ》し、鼠《ねづみ》も倦《う》みもせずに騷《さわ》いでゐる。  (四) 翌朝《よくちやう》目《め》の醒《さ》めた頃《ころ》は、目伏《まぶ》しい日光《につくわう》がカツと照《て》り渡《わた》り、半身《はんしん》を蒲團《ふとん》の上《うへ》に持上《もちあ》げると頭《あたま》がぐら〳〵する。健次《けんじ》は手《て》を伸《のば》して緣側《えんがは》の障子《しやうじ》を開《あ》けた。莖《くき》の細《ほそ》い花《はな》の小《ちい》さい黃白《くわうはく》の野菊《のぎく》の間《あひだ》に突立《つツた》つた物干竿《ものほしざほ》には、シヤツや足袋《たび》がぶら下《さが》つて、水氣《みづけ》が盛《さか》んに舞《ま》ひ上《のぼ》つてゐる、父《ちゝ》も妹《いもと》も出掛《でか》けたと見《み》え、家内《かない》はひつそりして只《たゞ》母《はゝ》の洗濯《せんたく》の音《おと》が聞《きこ》える。 健次《けんじ》は勇《いさ》ましく跳《は》ね起《お》きて、直樣《すぐさま》身仕度《みじたく》をし、獨《ひと》りで食事《しよくじ》をしてゐると、母《はゝ》は濡《ぬ》れ手《て》を拭《ぬぐ》ひ〳〵茶《ちや》の間《ま》へ入《はい》り、 「今日《けふ》は直《す》ぐに社《しや》へお出《い》でかい」 「いえ、一寸《ちよつと》桂田《かつらだ》の家《うち》へ寄《よ》つて行《い》きます」 「え、先生《せんせい》のお宅《たく》へ、ぢや先生《せんせい》にも奥樣《おくさま》にもよろしく云《い》つてお吳《く》れよ、ほんとに暫《しば》らく御無沙汰《ごぶさた》して申譯《まをしわけ》がないんだが、變《へん》にお思《おも》ひなさらぬやうにね、お前《まへ》も先生《せんせい》や奥樣《おくさま》の御機嫌《ごきげん》を損《そこ》ねんやうに氣《き》をおつけよ、これまでだつてお世話《せわ》にばかりなつたのだし、これからもどうせあの方《かた》にお手賴《たよ》り申《まを》さにやならんのだしね、だからお前《まへ》麁相《そさう》の事《こと》を云《い》つちやならないよ」 と、柔《やさ》しく幼兒《おさなご》にでも說聞《ときき》かすやうに云《い》ふ。 健次《けんじ》は「えゝ」と氣《き》のない返事《へんじ》をして茶漬《ちやづけ》を搔《か》き込《こ》み、「ね、お母《つか》さん、私《わたし》は當分《たうぶん》社《しや》の近《ちか》くへ下宿《げしく》したいと思《おも》ひます、家《うち》からぢや社《しや》へ遠《おほ》くつて、此頃《このごろ》のやうに忙《いそがし》くちや、少《すこ》し不便《ふべん》でもあるし、それに年内《ねんない》に著作《かきもの》をしたいんです」と、平生《ふだん》よりも落付《おちつ》いて穩《おだや》かに云《い》ふ。 「えツ、下宿《げしく》するつて」と、母《はゝ》は襷《たすき》のまゝ、長火鉢《ながひばち》に寄《よ》りかゝつたなり、健次《けんじ》の顏《かほ》を見《み》て驚《おどろ》いてゐる。「だつてお前《まへ》。下宿《げしく》すりや物《もの》がかゝる計《ばか》りぢやないか」 「何《なに》、下宿料《げしくれう》なんか廉《やす》いものでさあ、それに私《わたし》に少《すこ》し考《かんが》へがあるから、さう云《い》ふことに定《き》めさせて下《くだ》さい」 「まあお父《とつ》さんに聞《き》いて御覽《ごらん》な、私《わたし》にやお前《まへ》の云《い》ふことが分《わか》らないよ、學校《がくかう》へ通《かよ》つてる時《とき》とは異《ちが》つて、もう一|家《か》の主人《しゆじん》となる身分《みぶん》でさ、家《うち》を出《で》て下宿《げしく》するて一|體《たい》どうしたんでせう」と、向《む》きになつて責《せ》める。 「その代《かは》り暮《くれ》にや少《すこ》し金《かね》を造《つく》つて、妹《いもと》に春衣《はるぎ》位《ぐらゐ》買《か》つてやります」と、健次《けんじ》は宥《なだ》めるやうに云《い》つたが、母《はゝ》は胕《ふ》に落《お》ちぬらしく、額《ひたひ》に靑筋《あをすぢ》を立《た》てゝ少《すこ》し慳貪《けんどん》に、 「春衣《はるぎ》どころぢやないよ、暮《くれ》にはお前《まへ》を當《あて》にしてるんだから、一人《ひとり》で浮々《うき〳〵》遊《あそ》んでられちや困《こま》らあね、それに下宿《げしく》なんかして、無駄《むだ》なお錢《あし》を使《つか》ふつていふ方《はう》があるもんぢやない、まあお父《とつ》さんを御覽《ごらん》なさい、今朝《けさ》も加減《かげん》が惡《わる》いのに早《はや》くから出《で》て被入《いらつ》しやつたのに、お前《まへ》は每日《まいにち》々々《〳〵》お酒《さけ》を呑《の》んぢや遲《おそ》く歸《かへ》るしさ、三十|近《ちか》くもなつて、何故《なぜ》かう考《かんが》へがないんだらう」と、鐵瓶《てつびん》をこすり〳〵、目《め》に皺《しは》を寄《よ》せてゐる。 「私《わたし》だつて考《かんが》へてるさ」と、健次《けんじ》は小聲《こごゑ》で云《い》つて、母《はゝ》を相手《あひて》に理窟《りくつ》を云《い》ふ氣《き》もなかつたが、自分《じぶん》に似《に》てると云《い》はれる母《はゝ》の顏《かほ》の、年齡《とし》よりも老《ふ》けて、淋《さび》しく沈《しづ》んだ間《うち》に、神經《しんけい》の銳《するど》く動《うご》くを見《み》て、何《なん》となく氣《き》の毒《どく》になり、 「ですがねお母《つか》さん、私《わたし》は家《うち》へ歸《かへ》ると氣《き》が滅入《めい》つて仕方《しかた》がないんです、一|時間《じかん》もぢつとして書物《しよもつ》を見《み》ちやゐられんのです、何《なん》だかかう穴《あな》の中《なか》へでも入《はい》つてるやうで、氣《き》が落付《おちつ》かなくなるし、黴臭《かびくさ》い臭《にほ》ひがして息《いき》がつまります、お父《とつ》さんは住《す》み馴《な》れてるから、此家《ここ》が一|番《ばん》いゝと云《い》ふんだけど、私《わたし》にや一|日《にち》居《を》りや一|日《にち》壽命《じゆめう》が縮《ちゞ》まる氣《き》がする。去年《きよねん》まではさうでもなかつたが、此頃《このごろ》は殊《こと》にひどいんです、だから下宿《げしく》でもしたら、少《すこ》しは氣分《きぶん》が直《なほ》るかと思《おも》つて、昨夜《ゆうべ》獨《ひと》りで定《き》めたんです」と、健次《けんじ》は今《いま》も鬱陶《うつたう》しい毒氣《どくき》が壁《かべ》の隅《すみ》から噴《ふ》き出《で》て、自分《じぶん》を壓迫《あつぱく》する如《ごと》く感《かん》じた。 「それがお前《まへ》の我儘《わがまゝ》だよ」と、一口《ひとくち》にはね付《つ》けて、「家《うち》が汚《きたな》くつて厭《いや》なら厭《いや》で、お前《まへ》が自分《じぶん》で修繕《しうぜん》でもする氣《き》にならなくちや」 「だつてこんな家《いへ》を手入《てい》れしたつて駄目《だめ》さ、しかしお父《とつ》さんが好《す》きなんだから仕方《しかた》がない、私《わたし》だけ何處《どこ》かへ逃《に》げ出《だ》すんさ」 と、健次《けんじ》は母《はゝ》に何《なに》を云《い》つても無駄《むだ》だ、自分《じぶん》で無言《むごん》實行《じつこう》すればよいと思《おも》つて口《くち》を噤《つぐ》み、母《はゝ》が何《なに》か云《い》ひかけるのを冷《ひやゝ》かに見《み》て、新聞《しんぶん》をポツケツトに捻込《ねじこ》み、中折《なかをれ》を被《かぶ》つて急《いそ》いで戶外《そと》へ出《で》た。ステツキを小脇《こわき》に挿《はさ》み、新聞《しんぶん》を出《だ》して、「模範的《もはんてき》學生《がくせい》」や「醜業婦《しふげふふ》」の記事《きじ》、經濟論《けいざいろん》から運動界《うんどうかい》の消息《せうそく》まで、何物《なにもの》をか捜《さが》し求《もと》むる如《ごと》く、殘《のこ》る隈《くま》なく目《め》を通《とほ》し、漸《やうや》く讀《よ》み終《をは》つた時分《じぶん》、彼《か》れは千|駄木《だぎ》の桂田家《かつらだけ》の玄關《げんかん》に立《た》つてゐた。  (五) 博士《はかせ》はフロツクコートを着《き》て椅子《いす》に腰掛《こしか》け、新着《しんちやく》の外國《ぐわいこく》雜誌《ざつし》を讀《よ》んでゐたが健次《けんじ》を見《み》ると、 「さあ掛《か》け玉《たま》へ、今日《けふ》は筆記《ひつき》に來《き》たのかね、約束《やくそく》をして置《お》いたんだが、急《きふ》に用事《ようじ》が出來《でき》てね、これから文部省《もんぶしやう》へ行《い》かにやならんから、又《また》明日《あす》か明後日《あさつて》に來《き》て吳《く》れ玉《たま》へ、しかしまだ少《すこ》し間《ま》があるから、まあ腰《こし》をお掛《か》け、今《いま》もこの雜誌《ざつし》を讀《よ》んでゝね、西洋《あちら》の學者《がくしや》の硏究心《けんきうしん》に感服《かんぷく》してたんだ」と鈍《にぶ》い目《め》を向《む》けた。 「さうでせうね、どうしても西洋《あちら》の學者《がくしや》は違《ちが》つてるでせう」と、健次《けんじ》は相槌《あひづち》を打《う》つて、來《く》る度《たび》に嵩張《かさば》つてる書棚《しよだな》を顧《かへり》みた。 「どうです、此頃《このごろ》は何《なに》を硏究《けんきう》してるかね」と、博士《はかせ》はお定《きま》まりの問《とひ》を發《はつ》する。 「何《なに》もやつちやゐません」 「そりやいかん、社《しや》の方《はう》も怠《なま》けるといふぢやないか、それについて君《きみ》に忠吿《ちうこく》しやうと思《おも》つてたんだが、實《じつ》は先日《せんじつ》編輯長《へんしうちやう》が來《き》てね、君《きみ》が此頃《このごろ》は怠《なま》けて困《こま》るといふ話《はなし》だ、一|體《たい》私《わたし》は靑年《せいねん》が新聞《しんぶん》や雜誌《ざつし》に關係《かんけい》することは初《はじ》めから好《この》まないから、君《きみ》にも懇々《こん〳〵》注意《ちうい》したので、矢張《やはり》眞面目《まじめ》に敎育《けういく》事業《じげふ》に從事《じうじ》するやうに望《のぞ》んだんだが、君《きみ》が是非《ぜひ》やりたいつて、矢《や》も楯《たて》も溜《たま》らん有樣《ありさま》だから紹介《せうかい》はしたけれど、竊《ひそ》かに氣《き》づかつてた、雜誌《ざつし》記者《きしや》なんか私立《しりつ》學校《がくかう》出《で》の者《もの》位《くらゐ》が適任《てきにん》で、君《きみ》などは不適任《ふてきにん》なんだからね、しかし編輯長《へんしうちやう》の話《はなし》によると、初《はじ》めの間《うち》は大變《たいへん》熱心《ねつしん》に働《はたら》いて隨分《ずゐぶん》役《やく》に立《た》つといふから、多少《たせう》安心《あんしん》もした譯《わけ》だが、さう早《はや》く厭《いや》になつちや困《こま》るね」 「そりや初《はじめ》の間《うち》は珍《めづ》らしくつて譯《わけ》もなく面白《おもしろ》いから、氣乗《きの》りがして働《はたら》けるんです、知《し》らん人《ひと》と懇意《こんい》になつたり、有名《いうめい》な博士《はかせ》なんかに會《あ》ふのを悅《うれ》しがつたんですけど、今《いま》ぢやもう好奇心《こうきしん》がなくなりました、戀《こひ》女房《によぼう》だつて一|年《ねん》も添《そ》つてりや鼻《はな》につきますからね」 「君《きみ》は年々《ねん〳〵》眞面目《まじめ》でなくなる、學校《がくかう》時代《じだい》とは人間《にんげん》が違《ちが》つてしまつた」と、博士《はかせ》は締《しま》りのない顏《かほ》を顰《しか》め、小《ちい》さい耳朶《みゝたぼ》を搔《か》きながら、「君《きみ》に比《くら》べると箕浦《みのうら》は感心《かんしん》だ、以前《いぜん》は遲鈍《ちどん》な男《をとこ》だと思《おも》つてたが、此頃《このごろ》は忠實《ちうじつ》に勉强《べんきやう》してる、度々《たび〳〵》私《わたし》の所《ところ》へ質問《しつもん》を持《も》つて來《く》るが、中々《なか〳〵》硏究心《けんきうしん》に富《と》んでる」 「さうでせう、箕浦《みのうら》君《くん》には僕《ぼく》も感心《かんしん》してます。あの人《ひと》は書物《しよもつ》を積《つ》み重《かさ》ねりや天國《てんごく》へ屆《とゞ》くと思《おも》つて、迷《まよ》はないで書物《しよもつ》の塔《たう》を築《きづ》いてるんですからね、しかし私《わたし》には紙《かみ》の踏臺《ふみだい》は險呑《けんのん》でなりません」と、健次《けんじ》は唇《くちびる》のあたりに微笑《びせう》を湛《たゝ》へ、パツチリした澄《す》んだ目《め》には、博士《はかせ》の胸《むね》の底《そこ》の紙魚《しみ》の跡《あと》まで映《うつ》つてゐる。 博士《はかせ》はます〳〵苦《にが》い顏《かほ》をして、「どうも君《きみ》は眞面目《まじめ》でない、今《いま》から讀書《どくしよ》を卑《いや》しむやうぢや、人間《にんげん》は發逹《はつたつ》の見込《みこみ》がないと斷言《だんげん》出來《でき》る、これから國家《こくか》に盡《つ》くさうといふ靑年《せいねん》が、こんな浮薄《ふはく》な根性《こんじやう》を持《も》つてゝどうします、碌《ろく》に讀書《どくしよ》もせんで書物《しよもつ》を輕《かろ》んじたり、人間《にんげん》の義務《ぎむ》を滿足《まんぞく》に盡《つく》しもしないで、世《よ》の中《なか》を攻擊《こうげき》したり、大間違《おほまちが》ひの話《はなし》ぢやないか、しかしこれも今《いま》の雜誌《ざつし》や文學《ぶんがく》が作《つく》つた惡結果《あくけつくわ》の一つだらう。どうも輕佻《けいちよう》だ、浮薄《ふはく》だ。過渡期《くわとき》には免《まぬ》かれんことだが、武士道《ぶしだう》の精神《せいしん》も衰《おとろ》へるし、新《しん》倫理《りんり》觀《くわん》が靑年《せいねん》の間《あひだ》に缺乏《けつぼう》してゐるから、こんな歎《なげ》かはしい現象《げんしやう》が起《おこ》る。して見《み》ると私《わたし》なども進《すゝ》んで積極的《せききよくてき》に救濟策《きうさいさく》を講《かう》ぜねばなるまい、元來《ぐわんらい》通俗的《つうぞくてき》の片々《へん〳〵》たる議論《ぎろん》を世間《せけん》に發表《はつぺう》することは好《この》ましからんので、成《なる》べくは精力《せいりよく》を自分《じぶん》の事業《じげふ》に集中《しふちう》して、自分《じぶん》の新哲學《しんてつがく》を組織《そしき》したいのであるが、今《いま》の靑年《せいねん》の通弊《つうへい》を見《み》ると、どうも社會《しやくわい》の爲《ため》國家《こくか》の爲《ため》に默々《もく〳〵》に附《ふ》してゐられん、私《わたし》も當面《たうめん》の問題《もんだい》について飽《あく》まで意見《いけん》を發表《はつぺう》しなければなるまい」と、演說調《えんぜつてう》で云《い》つた、それが如何《いか》にも眞面目《まじめ》で心底《しんそこ》から憂世《ゆうせい》の情《じやう》が溢《あふ》れてゐるので、健次《けんじ》は氣《き》の毒《どく》になり、 「ぢや私《わたし》の雜誌《ざつし》へも、そのお考《かんが》へを書《か》いて頂《いたゞ》けますまいか、私共《わたしども》は人生《じんせい》の經驗《けいけん》にも乏《とぼ》しいんですから、先生方《せんせいがた》の御意見《ごいけん》を伺《うかゞ》ふと非常《ひじやう》に爲《ため》になります」と、穩《おだや》かに殊勝《しうしよ》らしく云《い》ふと、博士《はかせ》は顏《かほ》を軟《やはら》げて頻《しき》りに首肯《うなづ》き、 「つまり何《なに》さ、君《きみ》などはまだ〳〵讀書《どくしよ》が足《た》らんし世間《せけん》で苦勞《くろう》をしないから、空論《くうろん》に迷《まよ》はされるんさ」と時計《とけい》を見《み》て、「ぢや二三|日中《にちちう》に筆記《ひつき》に來《き》て下《くだ》さい、少《すこ》し纏《まとま》つた考《かんがへ》を述《の》べやう、それには私《わたし》が十|年《ねん》程《ほど》前《まへ》に書《か》いた「東西《とうざい》倫理《りんり》思潮《しちよう》」を參考《さんかう》にするから、君《きみ》も一|應《おう》目《め》を通《とほ》して貰《もら》ひたい、多少《たせう》今《いま》とは考《かんがへ》が違《ちが》はんでもないが、大體《だいたい》はあれでいい」 と、ひよつくり立《た》つて書架《しよか》を捜《さが》し出《だ》した。博士《はかせ》は漸《やうや》く四十を過《す》ぎたばかり、敎授《けうじゆ》の中《なか》でも幅《はゞ》の利《き》く方《はう》ではなけれど、有名《いうめい》な讀書家《どくしよか》で、語學《ごがく》は英獨佛《えいどくふつ》に熟逹《じくたつ》してゐる。一|生《しやう》學問《がくもん》しに生《うま》れて來《き》た人《ひと》といふべく、遊戯《ゆうぎ》と云《い》へば五|目《もく》並《なら》べすら知《し》らぬ。眼《め》の艶氣《つやけ》がなく力《ちから》もなく、ドンヨリしてゐるのは、多年《たねん》の讀書《どくしよ》に疲勞《ひろう》した結果《けつくわ》かとも思《おも》はれる程《ほど》で、卒業後《そつげふご》も地位《ちゐ》を爭《あらそ》はず榮華《えいぐわ》を望《のぞ》まず、親讓《おやゆづ》りの可成《かなり》の財產《ざいさん》あれば生活《せいくわつ》の上《うへ》に憂《うれ》ひはなく、只《たゞ》書籍《しよせき》の中《なか》に身《み》を埋《うづ》め、結婚《けつこん》も三十五六の時《とき》、親戚《しんせき》の强固《きようこ》なる勸吿《かんこく》で漸《やうや》く决行《けつかう》した位《くらゐ》。日常《にちじやう》自分《じぶん》の學問《がくもん》で凡《すべ》ての社會《しやくわい》を指導《しだう》し得《う》らると確信《かくしん》し、靑年《せいねん》にも親切《しんせつ》である温和《をんわ》な良紳士《りやうしんし》だ。 健次《けんじ》は今《いま》書架《しよか》の前《まへ》に立《た》つた、胴《どう》の長《なが》く足《あし》の短《みぢ》かい博士《はかせ》の後姿《うしろすがた》を見《み》て、その十|年《ねん》一|日《じつ》の如《ごと》く迷《まよ》ふことなく書物《しよもつ》に耽溺《たんでき》する一|生《しやう》を羨《うらや》ましく又《また》不思議《ふしぎ》に思《おも》つてゐると、博士《はかせ》は厚《あつ》さ一|寸《すん》程《ほど》の假綴《かりとぢ》の四六|版《ばん》を引出《ひきだ》して、指先《ゆびさき》で表紙《へうし》の埃《ちり》を彈《はじ》きながら机《つくゑ》の上《うへ》に置《お》き、 「この中《なか》の要點《えうてん》は一々|原書《げんしよ》から直接《ちよくせつ》に引照《いんせう》したのだから、自分《じぶん》でも確《たし》かだと信《しん》じてる、兎《と》に角《かく》一|應《おう》讀《よ》んで下《くだ》さい、君《きみ》も必《かなら》ず益《えき》する所《ところ》があるに違《ちが》ひない」と、所々《ところ〳〵》開《あ》けては二三|行《ぎやう》小聲《こゞゑ》で讀《よ》み、頻《しき》りに首肯《うなづい》てゐる。 かくて博士《はかせ》は十|年前《ねんぜん》の己《おの》れを回顧《くわいこ》し、健次《けんじ》は博士《はかせ》の舊著《きうちよ》を無理强《むりじ》いに讀《よ》まされる苦痛《くつう》を豫想《よさう》して、暫《しば》らく無言《むごん》でゐる。錆《さ》びた日光《につくわう》はカーテンの間《あひだ》から洩《も》れて、靑《あを》い机《つくゑ》の上《うへ》に細《ほそ》く一|線《せん》を劃《かく》してゐる。昨日《きのふ》に變《かわ》つてポカ〳〵と温《あたゝ》かく、健次《けんじ》は締《し》め切《き》つた居間《ゐま》に息《いき》の詰《つま》るやうに感《かん》じた。 「貴下《あなた》、まだお出掛《でか》けになりませんの」と、妻君《さいくん》が不意《ふい》に戶《と》を開《あ》けて、半身《はんしん》を現《あら》はしたので、博士《はかせ》は漸《やうや》く氣《き》がつき、「ぢや二三|日《にち》内《ない》に」と、健次《けんじ》に云棄《いひす》てゝ、手袋《てぶくろ》を握《にぎ》つたまゝ階下《した》へ下《お》りた。  (六) 健次《けんじ》は妻君《さいくん》に添《そ》うて博士《はかせ》を玄關《げんかん》に見送《みおく》り、その車《くるま》の後《あと》から自分《じぶん》も歸《かへ》らうとしたが、强《し》いて引留《ひきと》められて元《もと》の書齋《しよさい》へ舞戾《まひもど》り、母《はゝ》の傳言《でんごん》を慇懃《いんぎん》に述《の》べた。 妻君《さいくん》は眉《まゆ》を顰《ひそ》め袖《そで》を動《うご》かして、「まあ、ひどい煙《けむ》だこと」と、カーテンを手繰《たぐ》つて窓《まど》を開《あ》けた。烟《けむり》は渦《うづ》を卷《ま》いて風《かぜ》のない空《そら》へ流《なが》れて出《で》る、 「で、奧《おく》さん何《なに》か御用《ごよう》ですか」と、健次《けんじ》は浮腰《うきごし》になつて問《と》ふた。 「別《べつ》に用事《ようじ》といふ程《ほど》でもないんだけど、一寸《ちよつと》お話《はな》したいと思《おも》つて、貴下《あなた》お急《いそ》ぎなの」と、上目葢《うはまぶた》を上《あ》げて健次《けんじ》を見《み》た。 「えゝ、もう社《しや》へ行《い》かなければ」と、力《ちから》なく云《い》つて、見《み》るともなく妻君《さいくん》の油氣《あぶらけ》もない頭《あたま》の髮《かみ》から、爪先《つまさき》の汚《よご》れた足袋《たび》まで見下《みおろ》した。洗《あら》ひさらしの地味《ぢみ》な銘仙《めいせん》か何《なに》かを着《き》て、只《ただ》菊《きく》模樣《もやう》の襦袢《じゆばん》の襟《えり》に艶《つや》があるばかり、健次《けんじ》は蓆《むしろ》で包《つゝ》んだ美人像《びじんぞう》を連想《れんさう》した。 「では、何時《いつ》かの西洋《せいやう》小說《せうせつ》の續《つゞ》きは聞《き》かして預《いただ》けんのですね、私《わたし》あの女《をんな》の行衞《ゆくゑ》が聞《き》きたくてならないんだけど」 「いや、もうあんな馬鹿《ばか》々々《〳〵》しい話《はなし》をする氣《き》にやなりません、女《をんな》は虎烈剌《これら》か何《なに》かで死《し》んぢまつたとしとけば、それで直《す》ぐ結果《けつくわ》が付《つ》いてしまうんです」 「それぢや酷《ひど》いわ、あんなに苦勞《くろう》しちやつて、これからと云《い》ふ所《ところ》で死《し》んぢまつては、……あの續《つゞ》きは屹度《きつと》面白《おもしろ》いに違《ちが》ひない」 「そりや小說家《せうせつか》が有《あ》りつ丈《たけ》の拵《こしら》え事《ごと》を書《か》き並《なら》べて長《なが》くするから、矢鱈《やたら》に面倒《めんだう》になるんですが、世《よ》の中《なか》の事《こと》はさう誂《あつら》へ向《む》きに出來《でき》てやしないでせう、假《か》りに女《をんな》と男《をとこ》と日比谷《ひびや》公園《こうゑん》で出會《であ》はうと約束《やくそく》してゝも、その晚《ばん》女《をんな》が電車《でんしや》に轢《ひ》かれて死《し》ぬるか、男《をとこ》がペストに罹《かゝ》るか分《わか》つたもんぢやない」 と、投《な》げつけるやうに云《い》つてハツ〳〵と笑《わら》ふ。妻君《さいくん》は頭《あたま》を簪《かんざし》で搔《か》きながら淋《さび》しく笑《わら》ふ。 「貴下《あなた》は何故《なぜ》そんなに暢氣《のんき》なんだらう。私《わたし》はね、堪《たま》らない程《ほど》哀《あは》れな小說《せうせつ》か芝居《しばゐ》が見《み》たくつてならないんですが、西洋《せいやう》にはそんな小說《せうせつ》はないんでせうかねえ」 「そりや幾《いく》らもあるでせう、先生《せんせい》は日本《にほん》の小說《せうせつ》はお嫌《きら》ひだが、西洋《せいやう》の者《もの》はお讀《よ》みのやうだから、聞《き》かせてお貰《もら》ひなすつたらいゝでせう」 「だけど先生《せんせい》に話《はな》して頂《いたゞ》くと、ちつとも面白《おもしろ》くないんですわ、悲《かな》しいことでも凄《すご》いことでも、御當人《ごたうにん》がちつともお感《かん》じなさらんのだもの」 「そんな事《こと》を感《かん》じてた日《ひ》にや大學者《だいがくしや》にやなれんでせう」 健次《けんじ》は椅子《ゐす》を離《はな》れて窓側《まどわき》へ寄《よ》りかゝり、冴《さ》え〳〵した空氣《くうき》に觸《ふ》れ、窓前《そうぜん》の靑桐《あをぎり》の葉《は》の黃《き》ばんで中《なか》にはもうぼろ〳〵[#「ぼろ〳〵」に傍点]に朽《く》ちかゝつてるのを見《み》て、暫《しば》らく默《だま》つてゐたが、 「奧《おく》さん、もう葉《は》が枯《か》れて來《き》ましたね、この前《まへ》伺《うかゞ》つた時《とき》にや、まだ靑々《あを〳〵》してたのに」と何《なに》をか感《かん》じた風《ふう》で向《む》き直《なほ》つて、「秋《あき》になつたせいか、この書齋《しよさい》も寂《しん》として靜《しづ》かですね、此處《こゝ》で先生《せんせい》は何《なに》にも不滿《ふまん》を抱《いだ》かないで、一|心《しん》に不朽《ふきう》の事業《じげふ》をして居《を》られるんだ、葉《は》が枯《か》れても落《お》ちても、そんな事《こと》にやお構《かま》ひなしで、本《ほん》ばかり見《み》て被入《いらつ》しやる。僕等《ぼくら》も矢張《やはり》先生《せんせい》の後《あと》を追《お》つて、當《あて》にならん不朽《ふきう》の事業《じげふ》でも企《くわだ》てるのが本當《ほんたう》なんですね」 「そりや私《わたし》にや分《わか》らないけど、男《をとこ》と生《うま》れたら誰《た》れだつて世間《せけん》に尊敬《そんけい》される身分《みぶん》にならなきや虛言《うそ》なんでせう、貴下《あなた》は一度《いちど》も將來《しやうらい》の事《こと》をお話《はな》しなさらんから分《わか》らないけど、全體《ぜんたい》どうなさるの、今日《けふ》はそれを聞《き》きたいのよ」 「聞《き》いてどうなさるんです」 「少《すこ》し私《わたし》に考《かんが》へがあつて」と、目《め》に媚《こび》を呈《てい》した。 「將來《しやうらい》のことつて何《なに》も纏《まとま》つた考《かんが》へはありません、只《たゞ》今日《けふ》社《しや》へ行《い》つて織田《おだ》の拙《まづ》い原稿《げんかう》を賣付《うりつ》けやうと思《おも》つてるばかりで、跡《あと》は何《なに》が何《なに》やら眞暗闇《まつくらやみ》です」 「織田《おだ》さんといへば、あの方《かた》もお困《こま》りのやうねえ、二三|日前《にちまへ》にも、もつとお金《かね》の取《と》れる仕事《しごと》はないかつて賴《たの》みに入《い》らしつたが、全《まつた》くお困《こま》りのやうね、だから先生《せんせい》も大變《たいへん》同情《どうじやう》なすつて、是非《ぜひ》相當《さうたう》な職《しよく》を見《み》つけてやりたいと云《い》つて被入《いらつし》やる。同《おな》じ樣《やう》に學校《がくかう》を卒業《そつげふ》なすつても、貴下《あなた》と織田《おだ》さんとは丸《まる》で反對《はんたい》ぢやありませんか、顏《かほ》つきを見《み》てもお話《はな》しを聞《きい》てゝも分《わか》りますわ、織田《おだ》さんは何故《なぜ》あゝ元氣《げんき》がないんでせう、全《まつた》くいた〳〵しいわ」 「しかしね、奧《おく》さん、織田《おだ》は貴女《あなた》方《がた》が思《おも》つて居《ゐ》らつしやる程《ほど》くよ〳〵してやしませんよ、あの男《をとこ》は自身《じしん》の書《か》いたものは一|度《ど》だつて拙《まづ》いと思《おも》つたことはないんです……で、私《わたし》の將來《しやうらい》を聞《き》いてどうなさるんです」 「私《わたし》此頃《このごろ》氣《き》がくさ〳〵しちやて、色《いろ》んな事《こと》が考《かんが》へられるのよ、……何《なに》しろこんな小人數《こにんずう》の家《うち》に用事《ようじ》もなくつてぢつ[#「ぢつ」に傍点]としてるんだから、氣《き》が滅入《めい》つちまう筈《はず》でさあね、でね、色《いろ》んなことを考《かんが》へてね、つまり貴下《あなた》を立派《りつぱ》にして見《み》たくなつたの、私《わたし》にや子供《こども》はなし、また此《これ》からも出來《でき》つこはないでせう、だから私《わたし》は歲《とし》を取《と》つて、何《なに》も樂《たのし》みがないやうな氣《き》がしてならんから、貴下《あなた》を自分《じぶん》の子《こ》と思《おも》つて、世《よ》の中《なか》へ立派《りつぱ》な人間《にんげん》として働《はたら》かせて見《み》たくなつたの」 「立派《りつぱ》な人間《にんげん》てどうするんです」 「そりや一口《ひとくち》にや云《い》へないけど、洋行《やうかう》して大學者《だいがくしや》になるとか、大發明《だいはつめい》をするとか、そりや貴下《あなた》の腕《うで》次第《しだい》で、男《をとこ》は何《なん》でも出來《でき》るぢやありませんか、お金《かね》のことなら、私《わたし》がどうにでもするから、家《うち》のことは心配《しんぱい》しないで、目的《もくてき》を立《た》てゝ一|心《しん》に勉强《べんきやう》する氣《き》にお成《な》りなさいな」 「ですが此迄《これまで》お世話《せわ》になつたのに、此上《このうへ》御厄介《ごやつかい》になつちや濟《す》みませんもの、それに先生《せんせい》だつて御承知《ごしやうち》なさらないでせう」 「いゝえ、先生《せんせい》には私《わたし》から甘《うま》く云《い》へば大丈夫《だいじやうぶ》、只《たゞ》貴下《あなた》が先生《せんせい》の前《まへ》で眞面目《まじめ》な口《くち》さへ利《き》いてゐれば、それで澤山《たくさん》なのよ」と、妻君《さいくん》は右《みぎ》の手《て》を机《つくゑ》に置《お》き、左《ひだり》の手《て》で袖口《そでくち》を抓《つま》んで、側《わき》の椅子《いす》に腰《こし》を掛《か》けてる健次《けんじ》の顏《かほ》を覘《のぞ》くやうにして云《い》ふ。健次《けんじ》は妻君《さいくん》がその品《ひん》のある顏《かほ》に巧《たく》みに彫《ほ》り込《こ》んである長《なが》い睫毛《まつげ》、黑《くろ》い瞳《ひとみ》、靑《あを》くぼかした白目《しろめ》に艶《つや》を含《ふく》んで自分《じぶん》を見《み》るを見馴《みな》れてゐる。 「貴女《あなた》は何故《なぜ》そんなことを思《おも》ひついたんです」 「だつて私《わたし》は女《をんな》だから、自分《じぶん》で世間《せけん》へ出《で》て働《はたら》きも何《なに》も出來《でき》やしないでせう。せめて男《をとこ》の子《こ》が一人《ひとり》あれば、私《わたし》の手《て》で理想的《りさうてき》に育《そだ》て上《あ》げれば面白《おもしろ》いでせうけれどね」 「ぢや貴女《あなた》は子供《こども》が欲《ほ》しいんですか」 「えゝ、そりや欲《ほ》しいわ、初《はじ》めの間《うち》は子供《こども》なんか、さぞ五月蠅《うるさ》からうと思《おも》つてたけど、今《いま》ぢや欲《ほ》しくつてなりませんわ、音樂《おんがく》を習《なら》つたり、いろんな事《こと》をして來《き》たけれど、矢張《やは》り駄目《だめ》ね、此頃《このごろ》は何《なに》つてことはない、厭《い》やあになるんですよ、子供《こども》でもなくちや、一|生《しやう》はどんなに淋《さび》しいでせう」 「貴女《あなた》も淋《さび》しいんですか」と、不思議《ふしぎ》さうに見《み》て、「僅《わづ》かな壽命《じゆみやう》だけれど、人間《にんげん》は何《なに》かで誤魔化《ごまか》されなくちや日《ひ》が送《おく》れないんですね、酒《さけ》で誤魔化《ごまか》したり戀《こひ》で誤魔化《ごまか》したり書物《しよもつ》で誤魔化《ごまか》したり、子供《こども》に奇麗《きれい》な着物《きもの》を着《き》せて飛《と》んだり跳《は》ねたりさせて慰《なぐさ》みにしなけりや、人間《にんげん》は每日《まいにち》泣面《なきつら》をしてゐなくちやならん、私《わたし》の母《はゝ》だつて私《わたし》を玩具《おもちや》にしてるんです、貴女《あなた》だつて玩具《おもちや》が要《い》るんでせう」 「だつて貴下《あなた》、自分《じぶん》の子《こ》を充分《じうぶん》に敎育《けういく》して、思《おも》ふやうに立派《りつぱ》な人間《にんげん》に仕立《した》てれば、どんなに樂《たのし》みでせう」 「しかし貴女《あなた》にや子供《こども》は出來《でき》んから、私《わたし》を子供《こども》代《がは》りにしやうと云《い》ふのですか、急《きふ》に老人《としより》になつたんですね」 「私《わたし》も老込《おいこ》んだでせう」と、神經《しんけい》がピリヽと動《うご》いた。もう藻搔《もが》いても匐《は》ひ上《あが》ることの出來《でき》ぬ谷《たに》に落《お》ちた氣《き》がした。 健次《けんじ》が家族《かぞく》の如《ごと》く屢々《しば〴〵》出入《しゆつにふ》し初《はじ》めたのは四五|年《ねん》の昔《むかし》だが、その頃《ころ》は寶石《ほうせき》入《いり》の指環《ゆびわ》を光《ひか》らせ、博士《はかせ》の妻君《さいくん》仲間《なかま》では珍《めづ》らしくはしやい[#「はしやい」に傍点]で、來《く》る人々《ひと〴〵》を攫《つかま》へては、音樂《おんがく》の話《はなし》や小說《せうせつ》の話《はなし》に夢中《むちう》になり、健次《けんじ》などが小說《せうせつ》の話《はなし》から戀《こひ》の話《はなし》に移《うつ》り、こそ〳〵と無遠慮《むゑんりよ》に女《をんな》の品定《しなさだ》めなどをすると、「いやね菅沼《すがぬま》さん」と云《い》つて眉《まゆ》を顰《ひそ》めながらも、心《こゝろ》では悅《うれ》しがつて、顏《かほ》一|杯《ぱい》に艶々《つや〳〵》しい色《いろ》が漂《たゞよ》ふ。健次《けんじ》は何時《いつ》もこの快活《くわいくわつ》な美人《びじん》が敎授《けうじゆ》の妻君《さいくん》たるがために、花々《はな〴〵》しく交際《こうさい》社會《しやくわい》へ出《で》る機會《きくわい》のないのを遺憾《ゐかん》としてゐた。で、妻君《さいくん》は暇《ひま》な身體《からだ》だから年中《ねんぢう》飾裝《おめかし》をして、狹《せま》い社交《しやこう》の範圍内《はんゐない》では羽振《はぶ》りを利《き》かせて、園遊會《ゑんゆうくわい》などに招待《せうたい》されると、主人《しゆじん》を催《うな》がして出掛《でか》けぬことはなく、新婚《しんこん》當時《たうじ》は夏冬《なつふゆ》の休暇《きうか》に必《かなら》ず温泉《おんせん》か海濱《かいひん》へ旅行《りよこう》したが、そんな時《とき》には自分《じぶん》で服裝《ふくそう》を凝《こ》らすのみならず、博士《はかせ》の髮《かみ》の苅《か》り振《ぶ》りから手袋《てぶくろ》の色合《いろあひ》まで八釜《やかま》しく干渉《かんせう》する。汽車《きしや》も一|等《とう》でなくては承知《しやうち》しなかつたものだが、この一二|年《ねん》以來《いらい》はその態度《たいど》が急《きふ》に變《かは》つて、頭髮《あたま》も丸髷《まるまげ》に結《い》つたかと思《おも》ふと、手《て》づくねの束《たば》ね髮《がみ》で平氣《へいき》でゐたり、古代《こだい》模樣《もやう》の品《ひん》のいゝ丸帶《まるおび》を締《しめ》てたかと思《おも》ふと、唐縮緬《とうちりめん》の艶《つや》のない腹合帶《はらあはせおび》に代《か》へたり、家《うち》にゐてもこつてり白粉《おしろい》をつけてるかと思《おも》ふと、戶外《そと》へ出《で》る時《とき》でも素面《すめん》で氣《き》にもしないことがある。 そして妻君《さいくん》には寵兒《ちやうぢ》が一人《ひとり》缺《か》くべからざる者《もの》になつてゐて、健次《けんじ》の目《め》にはそれが誰《た》れであるかよく分《わか》つてゐる。博士《はかせ》の殊《こと》に親《した》しくしてゐる四五|人《にん》の學生《がくせい》は、常《つね》にその家《いへ》へ出入《でいり》し、妻君《さいくん》の發起《ほつき》で晩餐《ばんさん》に招《まね》かれることもあるが、その中《なか》で殊《こと》に妻君《さいくん》の寵《てう》を辱《かたじけな》ふする者《もの》が一人《ひとり》ある。それが箕浦《みのうら》であることもあれば、健次《けんじ》自身《じしん》であることもある。で、その寵兒《ちやうぢ》となると、芝居《しばゐ》のお伴《とも》も仰《あふ》せ付《つ》かる、矢鱈《やたら》に物《もの》を吳《く》れたがる。一寸《ちよつと》訪問《はうもん》しても、側《わき》を離《はな》さないで、頻《しき》りに話《はなし》をしかける。 健次《けんじ》は差《さ》し込《こ》む日光《につくわう》を遮《さ》けて椅子《いす》を後《うしろ》へうつし、兩手《りやうて》で頭《あたま》をかゝへ、少《すこ》し身《み》を反《そ》らせて欠伸《あくび》をして、 「奧《おく》さん、それ程《ほど》靑年《せいねん》がお好《す》きなら、箕浦《みのうら》でも保護《ほご》して洋行《やうこう》でもさせておやんなすつたらいゝでせう、あの男《をとこ》には先生《せんせい》も望《のぞみ》を囑《ぞく》して居《ゐ》らつしやるんだから、丁度《ちやうど》適任《てきにん》ぢやありませんか」 「ぢや貴下《あなた》は何《どう》もする氣《き》はないの、何故《なぜ》さう意氣地《いくぢ》がなくなつたのです、この春《はる》お母《つか》さんがお出《いで》なすつた時《とき》も、此頃《このごろ》は醉《よ》つぱらつて歸《かへ》つて仕方《しかた》がないつて心配《しんぱい》して居《ゐ》らつしやつたが、どうしてそんなにおなりなすつたの、今日《けふ》も大層《たいそう》元氣《げんき》がないぢやありませんか」 「急《きふ》に眠《ねむ》くつて仕方《しかた》がないんです」と、又《また》欠伸《あくび》をして、「それに今朝《けさ》から、母《はゝ》と先生《せんせい》とそれから貴女《あなた》とに小言《こごと》ばかり云《い》はれて、意氣《いき》銷沈《せうちん》した所《ところ》です、結婚《けつこん》しろ、眞面目《まじめ》になれ、勉强《べんきやう》せいと此頃《このごろ》お題目《だいもく》のやうに私《わたし》の四|方《はう》に聞《きこ》えるんでうんざり[#「うんざり」に傍点]してゐます、だから私《わたし》は下宿屋《げしゆくや》へ逃《に》げつちまうつもりです、もう此家《こちら》へも滅多《めつた》にお伺《うかゞ》ひしません」 と、健次《けんじ》は立上《たちあが》つて、風呂敷包《ふろしきづゝみ》を持《も》つたまゝ室内《しつない》を行戾《ゆきもど》りした。 「家《うち》へ來《こ》ないつて、何《なに》か外《ほか》にいゝ事《こと》が出來《でき》たのですか」 「さうでもないけれど、もう此迄《これまで》の友人《ゆうじん》や長《なが》く交際《つきあ》つてる人《ひと》にはあき〳〵しました、これから新奇《しんき》に事《こと》を始《はじ》めなくちや自分《じぶん》の身《み》が腐《くさ》つてしまひます」 「だから私《わたし》が云《い》つてる通《とほり》、新奇《しんき》に何《なに》か目醒《めざま》しい仕事《しごと》をお始《はじ》めなさいな、男《をとこ》なら何《なん》でも出來《でき》るぢやありませんか、御自分《ごじぶん》の名《な》を世間《せけん》に歌《うた》はせようと、人《ひと》の上《うへ》に立《た》つて自分《じぶん》の威光《ゐくわう》を見《み》せようと、男《をとこ》にや世間《せけん》が廣《ひろ》いぢやありませんか」 「それで貴女《あなた》は私《わたし》が苦《くる》しんで仕事《しごと》をして、世間《せけん》に知《し》られるのを御自分《ごじぶん》の慰《なぐさ》みにしやうといふんですか」 「そりや樂《たのし》みでさあね、これまで家《うち》の者《もの》のやうにしてるんだし、私《わたし》は貴下《あなた》が好《す》きでならないんですもの」と口元《くちもと》に力《ちから》を入《い》れて幼兒《えうじ》を綾《あや》すやうに云《い》つた。 健次《けんじ》は長椅子《ながいす》に身《み》を埋《うづ》め、微笑《びせう》して「僕《ぼく》はね奧《おく》さん、誰《た》れにも好《す》かれたくも同情《どうじやう》されたくもないんです、貴女《あなた》がいくら同情《どうじやう》して下《くだ》すつたつて、私《わたし》と貴女《あなた》とは霞《かすみ》を隔《へだ》ててお話《はなし》するんです、現在《げんざい》の親《おや》だつて自分《じぶん》の子《こ》を解《かい》し得《え》ないで、勝手《かつて》に自分《じぶん》の頭《あたま》で拵《こしら》へ上《あ》げて喜《よろこ》んだり悲《かな》しんだりしてる、つまり人間《にんげん》は自分《じぶん》一人《ひとり》だ、自分《じぶん》と他人《たにん》との間《あひだ》には越《こ》えることの出來《でき》ん深《ふか》い溝渠《みぞ》が橫《よこたは》つてるんです、箕浦《みのうら》だつて織田《おだ》だつて、要《えう》するに私《わたし》からは赤《あか》の他人《たにん》で、互《たが》ひに本性《ほんせう》を包《つゝ》んで交際《つきあ》つてるんです」 「貴下《あなた》、今日《けふ》は、どうかなすつたの、いやに理窟《りくつ》ばかり云《い》つて。……ですけど人《ひと》の本性《ほんしやう》が分《わか》らなけりや分《わか》らないで、それでいゝぢやありませんか、好《す》かれたら好《す》かれたで、それ以上《いじやう》穿鑿《せんさく》するにや及《およ》ばないわ」 と、今日《けふ》は常《つね》の如《ごと》く無駄《むだ》話《はな》しに笑《わら》ひ興《けう》ずることもなく、二人《ふたり》で默《だま》つて相手《あひて》を見《み》てゐたが、書生《しよせい》が戶《と》を開《あ》けて、「箕浦《みのうら》さんがお出《い》でになつた」と知《し》らせたので、健次《けんじ》は急《きふ》に妻君《さいくん》に挨拶《あいさつ》して、歸《かへ》りかけた。 「貴下《あなた》、下宿屋《げしゆくや》へ何時《いつ》お移《うつ》りなさるの」と妻君《さいくん》は階子段《はしごだん》で尋《たづ》ねた。 「まだ分《わか》りません」 「私《わたくし》遊《あそ》びに行《い》きますよ」  (七) 社《しや》の階子段《はしごだん》は社員《しやゐん》の多年《たねん》の足《あし》の力《ちから》で凹《くぼ》んで、砂埃《ほこり》がその中《なか》に溜《たま》つてゐる。健次《けんじ》はそれを一つ〳〵踏《ふ》み上《のぼ》る每《ごと》に、夕暮《ゆうぐれ》の果《は》てのない旅路《たびぢ》を辿《たど》るごとく感《かん》ずるのだが、たまたま編輯《へんしふ》の相談會《さうだんくわい》だとか、自分《じぶん》の月給《げつきう》の前借《ぜんしやく》の談判《だんぱん》だとか、多少《たせう》でも波瀾《はらん》があると、少《すこ》しは活氣《くわつき》がついて二|階《かい》へ駈《か》け上《のぼ》る。今日《けふ》は織田《おだ》の原稿《げんかう》を賣付《うりつ》ける役目《やくめ》を帶《お》びてゐるので、編輯長《へんしふちやう》の年中《ねんぢう》變《かは》らぬ顏《かほ》を見《み》るにも張合《はりあ》ひがあつたが、さて說《と》き付《つ》けて見《み》ると、彼《か》れは頑《ぐわん》として聞《き》かぬ。さう幾月《いくつき》も續《つゞ》いて同《おな》じ人《ひと》の飜譯《ほんやく》は出《だ》せぬといふ。大威張《おほゐば》りで受合《うけあ》つたものを拒絕《きよぜつ》されては顏《かほ》が立《た》たぬと思《おも》つたが、强請《がうせい》する譯《わけ》にも行《ゆ》かず、少《すこ》し萎《しを》れて社《しや》を出《で》た。 彼《か》れは何時《いつ》ものやうにガツカリして電車《でんしや》に乗《の》つたが、織田《おだ》の方《はう》も棄《す》て置《お》けぬので廻《まは》り道《みち》をして麹町《かうぢまち》のその家《うち》を訪《たづ》ねた。家族《かぞく》に會《あ》つては面倒《めんだう》だから、勝手口《かつてぐち》から便所《べんじよ》の側《そば》を通《とほ》つて座敷《ざしき》の緣側《えんがは》へ出《で》ると、織田《おだ》は既《すで》に夕闇《ゆふやみ》の迫《せま》つてるのにランプも點火《つけ》ず、障子《しやうじ》を開《あ》けて机《つくゑ》に向《むか》ひ何《なに》やら書《か》いてゐた。 「おい君《きみ》、原稿《げんかう》は駄目《だめ》だぜ」と突如《だしぬけ》に云《い》ふと、織田《おだ》は頭《あたま》を持上《もちあ》げて「やあ」と云《い》つたきり、ぢろ〳〵健次《けんじ》の顏《かほ》を見《み》て、「駄目《だめ》かい、何故《なぜ》だ、困《こま》るねえ」と、むく〳〵と身《み》を起《おこ》して、緣側《えんがは》へ出《で》た。 「まあ心配《しんぱい》し玉《たま》ふな、おれがどうかする、まだ十や二十の金《かね》にや不自由《ふじゆう》しないよ」 「當《あ》てにしてたのに困《こま》るねえ」 「今《いま》に僕《ぼく》がどうかしてやらう、これから何處《どこ》かへ出掛《でか》けないか」 「僕《ぼく》は出《で》られりやしない、留守番《るすばん》がないから」 「病人《びやうにん》はどうだ」と、健次《けんじ》は今《いま》思《おも》ひ出《だ》したやうに小聲《こごゑ》で聞《き》く。 「別《べつ》に變《かは》りはない、まあ上《あが》り玉《たま》へ、今《いま》君《きみ》のシスターが見舞《みま》ひに來《き》て吳《く》れて、僕《ぼく》の妹《いもと》と何處《どこ》かへ出《で》て行《い》つた」 「さうか、彼女《あいつ》も此頃《このごろ》は浮《うか》れ步《ある》いてやがる」 織田《おだ》はランプを點火《つけ》て、薄《うす》い座布團《ざぶとん》を出《だ》した、健次《けんじ》は靴《くつ》を穿《は》いたまゝ緣側《えんがは》から寢《ね》そべつて、室内《しつない》を見《み》まはした。狹《せま》くはあり裝飾《そうしよく》もないが、彼《か》れの家《うち》ほど見《み》つともなくはない。床《とこ》の隅《すみ》には新聞《しんぶん》や原稿紙《げんかうし》の側《そば》に、ナポレオンの小《ちひ》さい石膏《せつかう》が置《お》いてある。これは織田《おだ》が學校《がくかう》時代《じだい》に五|圓《ゑん》で買《か》つたものだ。 「君《きみ》の家《いへ》も陰氣《いんき》だね」 「うゝん」と氣《き》のない返事《へんじ》をして、織田《おだ》は書《か》いてしまつた原稿《げんかう》の枚數《まいすう》を數《かぞ》へてゐたが、襖《ふすま》一重《ひとへ》の隣室《りんしつ》にはコホン〳〵喘《せき》をして、それから呟《つぶや》く聲《こゑ》がする。 健次《けんじ》は厭《いや》な顏《かほ》をして起直《おきなほ》つて、小《ちひ》さい聲《こゑ》で、「僕《ぼく》はもう歸《かへ》らう、妻君《さいくん》にも會《あ》はないから、よろしく云《い》つて吳《く》れ玉《たま》へ」と石段《いしだん》に立《た》つと、 「まあ待《ま》つて吳《く》れ玉《たま》へ、君《きみ》に話《はなし》がある」 「だつて、此處《こゝ》で話《はなし》なんかしちや惡《わる》いんぢやないか」 「何《なに》、構《かま》やしないが、君《きみ》が遠慮《えんりよ》するなら、一寸《ちよつと》其《そ》の邊《へん》を散步《さんぽ》しながら話《はな》さう」 と、織田《おだ》は帽子《ぼうし》も被《かぶ》らずに小《ちひ》さい庭下駄《にはげた》を引掛《ひつか》けて外《そと》へ出《で》て、直《す》ぐ近《ちか》くの九|段《だん》坂《さか》の方《はう》へ向《むか》つた。 「桂田《かつらだ》さんがね」と、織田《おだ》は兩手《りやうて》を壞内《ふところ》に入《い》れて、健次《けんじ》を下目《しため》に見《み》て、「君《きみ》何《なん》だよ、あの人《ひと》が僕《ぼく》に同情《どうじやう》して、遠《とほ》からず僕《ぼく》にいゝ職《しよく》を周旋《しうせん》してやると云《い》つてたよ」 「さうかい、ぢや僕《ぼく》も君《きみ》の原稿《げんかう》に苦勞《くらう》しなくともよくなるね、で、僕《ぼく》に話《はなし》といつて何《なん》だい、金《かね》なら明日《あす》までに必《かなら》ず拵《こしら》えてやる」 「それも是非《ぜひ》賴《たの》んどくが、實《じつ》は妹《いもと》の事《こと》で話《はな》したいと思《おも》つて」 「何《なん》だ妹《いもと》のことだつて、シスターを誰《た》れかに遣《や》るんか」 「まあそんな者《もの》だ、でね、一|言《げん》で云《い》ふと、あれを君《きみ》が貰《も》らつて吳《く》れんか」 と、織田《おだ》は事《こと》もなげに云《い》つて、無論《むろん》健次《けんじ》も左程《さほど》反對《はんたい》もすまいと思《おも》つてゐる。 「僕《ぼく》にかい」と、健次《けんじ》は冷笑《れいせう》した。 「昨夜《ゆうべ》君《きみ》の注意《ちうい》で少《すこ》し氣《き》がゝりになつたから、歸《かへ》つて妻《ワイフ》に聞《き》くと、妻《ワイフ》が、そりや屹度《きつと》菅沼《すがぬま》さんだらう、あの方《かた》なら丁度《てうど》相當《さうたう》だから、早《はや》く定《き》めてしまうがいゝつて云《い》ふんだ、僕《ぼく》も同意《どうい》だから一つ君《きみ》承知《しやうち》して吳《く》れないか」 「そりや妻君《さいくん》の見當《けんたう》違《ちが》ひだぜ、多分《たぶん》何《なん》だらう、シスターが邪魔《じやま》臭《くさ》いから、早《はや》く追片付《おつかたづ》けたいんだらう」 「いや、そればかりぢやない、僕《ぼく》も早《はや》く定《き》めて妹《いもと》の身《み》に間違《まちが》ひのないやうにしたいんだ、世間《せけん》に惡《わる》い噂《うはさ》でも立《た》つと困《こま》るからね、あれについちや、僕《ぼく》も責任《せきにん》を感《かん》じてるんだからね」 「ぢや僕《ぼく》をシスターの防腐劑《ばうふざい》とするんだな」と、面白《おもしろ》さうに笑《わら》つたが、織田《おだ》は飽《あく》まで眞面目《まじめ》で、 「打明《うちあ》けて云《い》へば、さうして貰《もら》うと僕《ぼく》も大《おほい》に助《たす》かるんだ、今《いま》ぢや實際《じつさい》弱《よわ》つてる、彼奴《あいつ》にや金《かね》がかゝつてねえ」と、平生《いつも》の癖《くせ》で粘《ねば》り强《つよ》く一つ事《こと》を繰返《くりかへ》し出《だ》すので、健次《けんじ》は弱《よわ》つたが、頭《あたま》から反對《はんたい》も出來《でき》ず、 「僕《ぼく》よりか箕浦《みのうら》にやり玉《たま》へな、君《きみ》はあの男《をとこ》を嫌《きら》つてるが、情合《じやうあひ》もあるし人間《にんげん》がゼントルだからいゝぢやないか」 「いや箕浦《みのうら》にや困《こま》るよ、あゝいつた詩人肌《しゞんはだ》の男《をとこ》は僕《ぼく》は蟲《むし》が好《す》かん、花《はな》の散《ち》るのを蝶蝶《てふてふ》だと思《おも》つたり、木《こ》の葉《は》が落《お》ちるのを見《み》て、萬物《ばんぶつ》凋落《てうらく》の秋《あき》が來《き》たといつて淚《なんだ》を流《なが》す奴《やつ》には信用《しんよう》して妹《いもと》を托《たく》するに足《た》らんと思《おも》ふ」 「そりや尤《もつと》もだ、君《きみ》は箕浦《みのうら》を評《ひやう》する時《とき》には妙《みやう》に名言《めいげん》を吐《は》く、平生《ふだん》は平凡《へいぼん》な淚臭《なみだくさ》い事《こと》ばかり云《い》つてるのに、しかし君《きみ》の妹《いもと》は箕浦《みのうら》には釣合《つりあ》つた緣《えん》ぢやないか」 「いかんよあの男《をとこ》は…………それに箕浦《みのうら》ぢや妹《いもと》は制馭《せいぎよ》して行《い》けやしない」 「君《きみ》にも手綱《たづな》は取《と》れんだらう」と、健次《けんじ》は眠《ねむ》りの足《た》らぬ目《め》をこすつた。身體《からだ》は倦《だる》くて持《も》て餘《あま》すやうである。 空《そら》は晴《は》れて、空氣《くうき》は肌《はだ》に快《こゝろよ》く、周圍《しうゐ》は人出《ひとで》も多《おほ》くて騷《さわが》しいが、二人《ふたり》は元氣《げんき》なく刻《きざ》み足《あし》に步《ある》いてゐた。 「やあ、今日《けふ》もやつてるな」と、織田《おだ》は向《むか》うを見《み》たので、健次《けんじ》も目《め》を向《む》けると、坂《さか》の中途《ちうと》に一|團《だん》の群衆《ぐんじゆう》の中《なか》から、演說《えんぜつ》めいた聲《こゑ》が聞《きこ》える。 「何《なん》だいありや、廣吿屋《くわうこくや》か」 「救世軍《きうせいぐん》だよ」 「さうか」と、健次《けんじ》は別《べつ》に氣《き》にも留《と》めなかつたが、自然《しぜん》に側《そば》へ近《ちか》づいたので、立留《たちとま》つて、人垣《ひとがき》の間《あひだ》からのぞくと、木綿《もめん》の紋付《もんつき》を着《き》た二十|前後《ぜんご》の靑年《せいねん》二人《ふたり》と、黑《くろ》い袴《はかま》をつけた若《わか》い女《をんな》とが立《た》つてゐて、その一|人《にん》が今《いま》演說《えんぜつ》の最中《さいちう》である。左《ひだり》の手《て》を腰《こし》に當《あ》て右《みぎ》の手《て》を動《うご》かし、色《いろ》の黑《くろ》い角張《かくば》つた顏《かほ》を少《すこ》し仰向《あふむ》け、 「今《いま》私《わたくし》が申上《まをしあ》げた通《とほ》り貴下方《あなたがた》も罪《つみ》の人《ひと》です、早《はや》く悔《く》い改《あらた》めなければ誠《まこと》の人間《にんげん》にはなれません、つまり罪惡《ざいあく》のある人《ひと》だから」 と、ゴツ〳〵した調子《てうし》で、甘味《うまみ》も辛味《からみ》もない言葉《ことば》を吃《ども》り〳〵叫《さけ》んでゐるが、滿身《まんしん》に力《ちから》を籠《こ》めてゐるため、顏《かほ》は少《すこ》し赤《あか》くなり、額《ひたひ》には汗《あせ》さへ浮《うか》んでゐる。 「あの男《をとこ》は何を云《い》つてるんだらう、何《なん》の事《こと》やら分《わか》りやしない」と、健次《けんじ》の側《そば》の老人《らうじん》が笑《わら》つて去《さ》つた。 「馬鹿《ばか》ツ」と何處《どこ》からか聲《こゑ》がする。 子供《こども》が二三|人《にん》前《まへ》へ進《すゝ》んで、口《くち》を開《あ》けて不思議《ふしぎ》さうに見《み》つめてゐるのみで、外《ほか》の者《もの》は皆《みな》冷笑《れいせう》してゐる、通《とほ》りがゝりに物好《ものず》きに足《あし》を留《と》めて、「何《なん》だ耶蘇《やそ》か、喧嘩《けんくわ》かと思《おも》つたのに」と、失望《しつぼう》して行《ゆ》く者《もの》もある、誰《た》れも眞面目《まじめ》に聞《き》く人《ひと》もないのだが、かの靑年《せいねん》は聲《こゑ》を張《は》り肩《かた》を怒《いか》らせて 「皆樣《みなさま》懺悔《ざんげ》なさい、神樣《かみさま》にお縋《すが》りなさい、日本國《にほんこく》の興廢《こうはい》は軍人《ぐんじん》や政治家《せいぢか》によつて决《けつ》するのでありません、神樣《かみさま》の道《みち》を世間《せけん》に行《おこな》ふか行《おこな》はぬかによつて定《さだ》まるのであります」 と說《と》く。 健次《けんじ》は甲《こふ》去《さ》り乙《をつ》來《きた》る間《あひだ》に、知《し》らず〴〵前《まへ》に進《すゝ》んで、その演說振《えんぜつぶ》りを見《み》つめてゐたが、織田《おだ》は後《うしろ》から肩《かた》を叩《たゝ》いて、「おい君《きみ》、行《ゆ》かうぢやないか」と聲《こゑ》をかける。 「まあ待《ま》て、も少《すこ》し聞《き》いて行《ゆ》け」 「何《なに》が面白《おもしろ》いんだ、こんな者《もの》が」 と織田《おだ》が云《い》つたが、健次《けんじ》は何《なに》も答《こた》へず、目《め》を傳道者《でんだうしや》から離《はな》さない。そしてかの靑年《せいねん》は話《はなし》を續《つゞ》けて今日《けふ》の社會《しやくわい》の淫風《いんぷう》や飮酒《いんしゆ》の害《がい》を堅苦《かたくる》しい拙《つたな》い言葉《ことば》で述《の》べ立《た》てゝゐると、誰《た》れの惡戯《あくぎ》か、小石《こいし》が彼《かれ》の肩《かた》を掠《かす》めて健次《けんじ》の前《まへ》に落《お》ちた、健次《けんじ》は思《おも》はず後退《あとずさ》りしたが、かの傳道者《でんだうしや》は微塵《みぢん》も動《うご》かず泰然《たいぜん》として說《せつ》を進《すゝ》める。 かくて凡《およ》そ二十|分《ぷん》もして、健次《けんじ》は摺《す》り物《もの》を女《をんな》の手《て》から貰《もら》つて群衆《ぐんじゆ》を分《わ》けて出《で》た。 「君《きみ》は何故《なぜ》あれが面白《おもしろ》い」と、織田《おだ》は長《なが》く待《ま》たされたので恨《うら》めしさうな顏《かほ》をする。 「面白《おもしろ》いぢやないか。彼奴《あいつ》は地球《ちきう》のどん底《ぞこ》の眞理《しんり》を自分《じぶん》の口《くち》から傳《つた》へてると確信《かくしん》してる。あの顏付《かほつき》を見給《みたま》へ。自分《じぶん》の力《ちから》で聽衆《てうしう》を皆《みな》神樣《かみさま》にして見《み》せる位《くらゐ》の意氣込《いきご》みだ。人間《にんげん》はあゝならなくちや駄目《だめ》だ」 「何《な》にも感心《かんしん》しない君《きみ》が、何故《なぜ》今夜《こんや》に限《かぎ》つてあんな下《くだ》らない者《もの》に感心《かんしん》する?」 「さうさ、僕《ぼく》は救世軍《きうせいぐん》にでも入《はい》りたいな。心《こゝろ》にも無《な》いことを書《か》いて、讀者《どくしや》の御機嫌《ごきげん》を取《と》る雜誌《ざつし》稼業《かげふ》よりや、あの方《ほう》が面白《おもしろ》いに違《ちが》ひない、あの男《をとこ》は欠伸《あくび》をしないで日《ひ》を送《おく》つてるんだ、生《い》きてらあ」 「はゝゝ」と織田《おだ》は大口《おほぐち》開《あ》けて勢《いきほひ》無《な》く笑《わら》つて、「僕《ぼく》は靑年《せいねん》が淺薄《せんぱく》な說敎《せつけう》なんかして日《ひ》を送《おく》るのが不憫《ふびん》になる」 「しかし淺薄《せんぱく》や深刻《しんこく》は本當《ほんたう》は問題《もんだい》ぢやないんだね、打《う》たれやうが罵《のゝし》られやうが、自分《じぶん》のしてる事《こと》が何《なん》であらうと關《かま》うものか、もつと刺激《しげき》の强《つよ》い空氣《くうき》を吸《す》はにや駄目《だめ》だ」 と、健次《けんじ》は歎息《たんそく》する如《ごと》く云《い》つたが、織田《おだ》のぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した顏《かほ》を見上《みあげ》ると、急《きふ》に「ぢや此處《こゝ》で別《わか》れやう」と、早口《はやくち》に云《い》つて輕《かる》く會釋《ゑしやく》し九|段《だん》の坂《さか》を下《を》りた。で、「まだ話《はな》しがあるんだ」と、織田《おだ》が呼留《よびと》めた時《とき》は、もう人影《ひとかげ》に隱《かく》れてゐた。  (八) まだ月初《つきはじ》めであれば、健次《けんじ》も五六|枚《まい》の紙幣《さつ》はポツケツトに潜《ひそ》ませてゐるので、「櫻木《さくらぎ》」へでも行《ゆ》かうかと思《おも》つたが、お雪《ゆき》の顏《かほ》も、もう見飽《みあ》いて鼻《はな》につく。型《かた》に取《と》つた定《きま》り文句《もんく》は並《なら》べるが、キヤツ〳〵と騷《さわ》ぐ外《ほか》には能《のう》がなく、頭《あたま》から足《あし》の裏《うら》まで何處《どこ》を押《を》したつて、碌《ろく》な音《ね》一つ吐《は》き出《だ》さぬ癖《くせ》に、二三|日《にち》續《つゞ》けて足《あし》を向《む》けると、此方《こちら》に思召《おぼしめし》でもあるやうに自分《じぶん》定《ぎ》めに自惚《うぬぼ》れたがる女中《ぢよちう》共《ども》を相手《あひて》にして、拜顏料《はいがんれう》を差《さ》し出《だ》すのも馬鹿《ばか》々々しいと今夜《こんや》は思《おも》ひ留《と》まつた。で、彼《かれ》は西洋《せいやう》料理店《れうりてん》でウヰスキーを傾《かたむ》け、二三|品《ぴん》の洋食《やうしよく》を貪《むさぼ》り、それから氣《き》まぐれに神田《かんだ》の西洋《せいやう》書店《しよてん》へ立寄《たちよ》つた。何《なに》か自分《じぶん》を刺激《しげき》して、新《あたら》しい生命《いのち》を惹起《ひきおこ》す者《もの》はないかと、新着《しんちやく》の文學《ぶんがく》政治《せいぢ》宗敎《しうけう》から工業《こうげふ》や銃獵《じうれふ》の書類《しよるゐ》まで、殘《のこ》る隈《くま》なく覘《のぞ》いたが、どれにも自分《じぶん》を魅《み》するやうな破天荒《はてんくわう》の文字《もじ》が潜《ひそ》んでる氣《き》もする。で、あれか此《こ》れかと撰擇《せんたく》を重《かさ》ねた揚句《あげく》、遂《つひ》に或《ある》露國《ろこく》革命家《かくめいか》の自傳《じでん》と、偶然《ぐうぜん》目《め》についた棚《たな》の隅《すみ》の或《ある》冒險家《ばうけんか》の北極《ほくきよく》紀行《きかう》とを購《あがな》つた、書物《しよもつ》を抱《かゝ》えて上野《うへの》で電車《でんしや》を下《を》りたが、醉《ゑ》ひはまだ醒《さ》めず、家《うち》へ歸《かへ》るのも厭《いや》であれば、ふら〳〵公園《こうゑん》を步《ある》いて銅像《どうぞう》の側《そば》のベンチに腰《こし》を掛《か》けた。後《うしろ》へもたれて目《め》を瞑《つぶ》つてると居睡《ゐねむ》りをしさうで、足元《あしもと》に力《ちから》がなく、身《み》ぐるみ地《ち》の中《なか》へ吸《す》ひ込《こ》まれさうな氣《き》がする。電車《でんしや》の音《おと》も遠《とほ》い世界《せかい》で響《ひゞ》いてゐる如《ごと》く、自分《じぶん》は此《この》まゝ動《うご》けなくなるやうに感《かん》ぜられる。身《み》をベンチの脊《せ》に投《な》げ出《だ》し、帽子《ぼうし》の落《お》ちさうなのも關《かま》はず、心《こゝろ》を夢現《むげん》の境《さかひ》に迷《まよ》はせてゐたが、書物《しよもつ》が膝《ひざ》から辷《すべ》り落《お》ちるので、パツチリ目《め》を開《ひら》くと、木《こ》の葉《は》が顏《かほ》に觸《ふ》れ、埃《ほこり》を含《ふく》まぬ澄《す》んだ空氣《くうき》が身《み》に染《し》み、自分《じぶん》の周圍《しゆうゐ》のみは薄暗《うすくら》いが、空《そら》には星《ほし》が多《おほ》く、目《め》の下《した》には燈火《あかり》が煌《きら》めいてゐる。四五|間《けん》前《まへ》には黑《くろ》い人影《ひとかげ》が二つ。深沈《しめやか》に話《はなし》をしてゐたが、やがて暗闇《くらやみ》の中《なか》に消《き》えてしまつた。 彼《か》れは孤獨《こどく》の感《かん》に堪《た》えぬ、淋《さび》しく心細《こゝろぼそ》くてならぬ。少年《せうねん》時代《じだい》に自分《じぶん》より强《つよ》い奴《やつ》、脊《せい》の高《たか》い奴《やつ》にぶつ付《つ》かつて喧嘩《けんくわ》をしてゐた頃《ころ》は、身體《からだ》中《ぢう》に生命《いのち》が滿《み》ちて、張合《はりあひ》のある日《ひ》を送《おく》つてゐたのだ。近松《ちかまつ》や透谷《とうこく》の作《さく》を讀《よ》んで泣《な》き、華々《はな〴〵》しいナポレヲンの生涯《しやうがい》に胸《むね》を躍《をど》らせた時分《じぶん》は、星《ほし》は優《やさ》しい音樂《をんがく》を奏《そう》し、鳥《とり》は愛《あい》の歌《うた》でも讀《よ》んでゐたのだ。しかし不幸《ふかう》にも世《よ》が變《かは》つた。何《なに》が動機《どうき》か幾《いく》つの歲《とし》にか、自分《じぶん》にも更《さら》に分《わか》らぬが、星《ほし》も音樂《おんがく》を止《や》め鳥《とり》も歌《うた》を止《や》め、先祖《せんぞ》傳來《でんらい》の星冑《ほしかぶと》も白金《しろかね》作《づく》りの刀《たち》も、威光《ゐくわう》が失《う》せて、自分《じぶん》には古道具屋《ふるだうぐや》の賣物《うりもの》と變《かは》らなくなつた。今《いま》から思《おも》ふと、子供《こども》の折《をり》によく自分《じぶん》に喧嘩《けんくわ》を吹《ふき》かけた隣《となり》の鐵藏《てつざう》なんかゞ壞《なつ》かしい。彼奴《あいつ》のお蔭《かげ》でどの位《くらゐ》元氣《げんき》よく力《りき》んでゐたことか。今《いま》の自分《じぶん》はどちらかと云《い》へば愛《あい》されて日《ひ》を送《おく》つてゐる。箕浦《みのうら》も織田《おだ》も桂田《かつらだ》も、いやそれ計《ばか》りぢやない、桂田《かつらだ》夫人《ふじん》にも織田《おだ》の妹《いもと》にも櫻木《さくらぎ》のお雪《ゆき》にも愛《あい》せられてこそゐれ、さして嫌《きら》はれてはゐない。何處《いづこ》にも鐵藏《てつざう》が居《ゐ》ないのだ。「愛《あい》せらるゝは幸《さいはひ》なり、愛《あい》する者《もの》も幸《さいはひ》なり」、聖人《せいじん》だの詩人《しじん》だのは勝手《かつて》な定義《ていぎ》を云《い》つてやがる。少《すくな》くもおれにや適用《てきよう》出來《でき》ぬことだ。愛《あい》せられゝば愛《あい》せられる程《ほど》、自分《じぶん》には寂《さび》しくて力《ちから》が拔《ぬ》けて孤獨《こどく》の感《かん》に堪《た》へぬ。いつそのこと、四|方《はう》から自分《じぶん》を憎《にく》んで攻《せ》めて來《く》れば、少《すこ》しは張合《はりあひ》が出來《でき》て面白《おもしろ》いが、撫《な》でられて舐《な》められて、そして生命《いのち》のない生涯《しやうがい》それが何《なん》にならう。「迫害《はくがい》される者《もの》は幸《さいはひ》なり」、ていふ此奴《こいつ》は當《あた》つてる言葉《ことば》だ。苦《くる》しめられやうと泣《な》かされやうと、傷《きず》を受《う》けて倒《たほ》れやうと、生命《いのち》に滿《み》ちた生涯《しやうがい》。自分《じぶん》はそれが欲《ほ》しいのだ。 健次《けんじ》は立上《たちあが》るのも物憂《ものう》さうに、かう考《かんが》へてゐる中《うち》に、酒《さけ》が醒《さ》めて夜風《よかぜ》が冷《つめ》たくなつた。彼《か》れは主義《しゆぎ》に醉《よ》えず讀書《どくしよ》に醉《よ》えず、酒《さけ》に醉《よ》えず、女《をんな》に醉《よ》えず、己《をの》れの才智《さいち》にも醉《よ》えぬ身《み》を、獨《ひと》りで哀《あは》れに感《かん》じた。自分《じぶん》で自分《じぶん》の身《み》が不憫《ふびん》になつて睫毛《まつげ》に一|點《てん》の淚《なみだ》を湛《たゝ》へた。 靜《しづ》かな風《かぜ》が足許《あしもと》の落葉《おちば》を吹《ふ》きころがし、樹上《じゆじやう》よりも二|片《ひら》三|片《ひら》頭《あたま》を掠《かす》めて飛《と》ぶ。 巡査《じゆんさ》が橫目《よこめ》で健次《けんじ》を見返《みかへ》りながら、悠然《いうぜん》として步《ある》いてゐる。 健次《けんじ》は無意識《むいしき》にベンチを離《はな》れ、帽子《ぼうし》を被《かぶ》り直《なほ》して、暗闇《くらやみ》の道《みち》を辿《たど》つて新坂《しんざか》へ出《で》た。 「結婚《マリエーヂ》?」と、思《おも》はず口《くち》へ出《だ》したが、その瞬間《しゆんかん》口元《くちもと》に皮肉《ひにく》な笑《わら》ひを洩《も》らした。 「ノンセンス!、結婚《けつこん》して家庭《かてい》を造《つく》る、開闢《かいびやく》以來《いらい》億萬人《をくまんにん》の人間《にんげん》が爲古《しふる》したことだ。桂田《かつらだ》の家庭《かてい》織田《おだ》の家庭《かてい》、家庭《かてい》の實例《じつれい》はもう見飽《みあ》いてゐる」と胸《むね》の底《そこ》から答《こた》へる。  (九) 翌日《よくじつ》は日曜《にちえう》であれば、一|家《か》は遲《をそ》くまで眠《ねむ》り、九|時頃《じごろ》に茶《ちや》の間《ま》に揃《そろ》つて朝食《あさげ》の膳《ぜん》についた。近來《きんらい》健次《けんじ》が家族《かぞく》と一|緖《しよ》に食事《しよくじ》をするのは、殆《ほと》んど日曜《にちえう》の朝《あさ》のみである。年齡《とし》の割合《わりあひ》に老人《としより》めいてもゐないが髯《ひげ》には白髮《しらが》の多《おほ》く、上目葢《うはまぶた》のたるんでる父《ちゝ》と、肉付《にくつき》のよく目《め》と口《くち》には品《ひん》のある姉娘《あねむすめ》の千代《ちよ》と、健次《けんじ》によく似《に》て小柄《こがら》で愛嬌《あいけう》のある末娘《すゑむすめ》の光《みつ》とが健次《けんじ》を挾《はさ》んで坐《すわ》り、母《はゝ》は下女《げぢよ》兼帶《けんたい》で甲斐々々《かひ〴〵》しく立働《たちはたら》いてゐる。 父《ちゝ》は出勤《しゆつきん》時刻《じこく》にせかれぬ爲《ため》、役所《やくしよ》の話《はなし》などをして、ゆる〳〵飯《めし》を食《くら》ひ、皆《み》んなの顏《かほ》を見《み》て、獨《ひと》りでほく〳〵喜《よろこ》んでゐたが、もう膳《ぜん》を離《はな》れて煙草《たばこ》を吸《す》ひながら新聞《しんぶん》を讀《よ》んでる健次《けんじ》に向《むか》つて、 「何《なに》か面白《おもしろ》いことがあるかい、何《なん》とか中將《ちうじやう》の姦通《かんつう》事件《じけん》はどうなつた」 「今日《けふ》は何《なに》も出《で》てゐませんよ」 「どうも軍人《ぐんじん》が腐敗《ふはい》しちや困《こま》るな、武士道《ぶしだう》の精神《せいしん》が衰《おとろ》へるとそんなことが出來《でき》て來《く》るんさ、今《いま》の中《うち》に社會《しやくわい》に士氣《しき》を鼓吹《こすゐ》しなければ、日本《にほん》の國家《こくか》も將來《しやうらい》が案《あん》じられるて」 と、父《ちゝ》は鼻水《はなみづ》を膝《ひざ》に落《おと》して、「今《いま》ぢや學校《がくかう》敎育《けういく》も柔弱《にゆうじやく》に傾《かたむ》いてるからよくない、それに家庭《かてい》で小《ちいさ》い時分《じぶん》から武士《ぶし》の魂《たましひ》を叩《たゝ》き込《こ》まんから、堅固《けんご》な人間《にんげん》が出來《でき》ないんだ、東京《とうきやう》でも今《いま》は素町人《すちやうにん》ばかり跋扈《ばつこ》するから、風儀《ふうぎ》が紊《みだ》れるのさ」と、口《くち》には慷慨《こうがい》めいたことを云《い》つたが、顏《かほ》は如何《いか》にも呑氣《のんき》で、此《これ》まで苦勞《くらう》を重《かさ》ねて來《き》た影《かげ》は何處《どこ》にもない。そして素町人《すしやうにん》呼《よば》はりはこの人《ひと》の口癖《くちぐせ》で、自分《じぶん》でもそれが愉快《ゆくわい》でならぬと見《み》える。 「素町人《すちやうにん》でも何《なん》でも早《はや》くお金持《かねもち》になることさ」と、母《はゝ》は橫合《よこあひ》から疳走《かんばし》つた聲《こゑ》を發《はつ》した。 「本當《ほんたう》だわ、お金《かね》がある方《はう》がいゝわ」と、お光《みつ》は一も二もなく母《はゝ》に加勢《かせい》する。 「せめて男爵《だんしやく》にでもなれるといゝけど、昔《むかし》は旗下《はたもと》だつて武士《ぶし》だつて詰《つま》らないわね」 と、姉娘《あねむすめ》は眞面目《まじめ》に感《かん》じた。で、暫《しば》らく父子《おやこ》で、武士《ぶし》の魂《たましひ》だの素町人《すちやうにん》根性《こんじやう》だのと言合《いひあ》つて、果《は》ては無邪氣《むじやき》に笑《わら》つた。 笑《わら》つてしまつて、膳《ぜん》が片付《かたづ》くと、姉娘《あねむすめ》は今迄《いままで》默《だま》つてゐた兄《あに》に向《むか》つて、 「兄《にい》さん、今日《けふ》は上野《うへの》で音樂會《おんがくゝわい》があつて、ソロの上手《じやうづ》な西洋人《せいやうじん》が出《で》るんですつてね、新聞《しんぶん》にや出《で》てゐなくつて」 「さうだね、出《で》てるかも知《し》れんよ」 「兄《にい》さんも聞《き》きに被入《いらつ》しやいな、屹度《きつと》面白《おもしろ》いわ」 「私《わたし》も行《い》きたいと云《い》ふんだらう、兄《にい》さんにお構《かま》ひなしで一人《ひとり》で何處《どこ》へでもお出《い》でなさい」 「そりや一人《ひとり》だつていゝけど、…………」 「切符《きつぷ》を買《か》つて吳《く》れだらう、そりや眞平《まつぴら》御免《ごめん》だ」 「酷《ひど》いわ兄《にい》さんは、自分《じぶん》一人《ひとり》で勝手《かつて》に遊《あそ》んでゝ、何《なに》一《ひと》つ私《わたし》の賴《たの》みを聞《き》いて吳《く》れたことはないんだもの」 「本當《ほんたう》だわ、ねえ姉《ねえ》さん」と、妹娘《いもと》も相槌《あひづち》を打《う》つ。 「織田《おだ》さんとこの兄《にい》さんはそりや、妹《いもと》思《おも》ひよ、平生《ふだん》だつて何《なん》だの彼《か》だのと世話《せわ》を燒《や》いて、お花見《はなみ》にでも音樂會《おんがくくわい》にでも、屹度《きつと》連《つ》れて行《い》くんだわ。だから幾《いく》ら兄《にい》さんが學問《がくもん》が出來《でき》たつて、人間《にんげん》として織田《おだ》さんの方《はう》がえらいのね」 「チエツ、生意氣《なまいき》云《い》つてらあ」と、健次《けんじ》は橫《よこ》を向《む》いて、今日《けふ》は如何《いか》にして暮《く》らすべきかと考《かんが》へてゐる。 「兄《にい》さんは何故《なぜ》音樂《おんがく》が嫌《きら》ひなんだらう、文學士《ぶんがくし》の方《かた》は皆《みな》音樂《おんがく》や芝居《しばゐ》が好《す》きだのに兄《にい》さんばかりは、ちつとも趣味《しゆみ》がないのね、音樂《おんがく》ぐらゐ硏究《けんきう》なさればいゝのに」 「だからお前《まへ》は箕浦《みのうら》の女房《にようぼ》にでもなつて、年中《ねんぢう》キユー〳〵ピン〳〵騷《さわ》げばいゝ、彼奴《あいつ》とお前《まへ》とはよく似合《にあ》つてらあ、おれはもうお前《まへ》のぺちや〳〵音樂《おんがく》だけでうんざり[#「うんざり」に傍点]してゐる」 姉娘《あね》は少《すこ》し頰《ほゝ》を赤《あか》くして橫《よこ》を向《む》いて、口《くち》を噤《つぐ》んだ。 父《ちゝ》は健次《けんじ》の卷煙草《まきたばこ》を取《と》つて火《ひ》をつけ、二人《ふたり》の話《はなし》を面白《おもしろ》さうに聞《き》いて、微笑々々《にこ〳〵》してゐたが、二人《ふたり》が默《だま》つてしまうと、 「どうもおれには分《わか》らない、學問《がくもん》をした男《をとこ》が、音曲《おんぎよく》に夢中《むちう》になるなんて餘程《よほど》變《へん》だ、健次《けんじ》にはおれが昔《むかし》から武士《ぶし》の精神《せいしん》を敎《をし》へ込《こ》んでるから、そんな柔弱《にうじやく》な氣風《きふう》に染《そ》まないんだらう」と、自分《じぶん》で首肯《うなづ》いてゐる。 「そんな武士《ぶし》の精神《せいしん》なんか下《くだ》らないわ、お父《とつ》さんは何《なん》ぞといふと兄《にい》さんの贔負《ひいき》ばかりして厭《いや》になつちまう」 「はゝゝゝ、そんな事《こと》を云《い》ふ者《もの》ぢやない。兄《にい》さんは菅沼家《すがぬまけ》には大事《だいじ》な寶《たから》だ、うんと勉强《べんきやう》して立派《りつぱ》な人間《にんげん》になつて貰《もら》はにや、おれが御先祖《ごせんぞ》に申譯《まをしわけ》がないぢやないか、だから傍《はた》から邪魔《じやま》をしないで、思《おも》ふ存分《ぞんぶん》にやらせなくちや…………今《いま》の間《うち》貧乏《びんぼふ》がつらからうと、それが何《なん》だ、貧乏《びんぼふ》を苦《く》にして見苦《みぐる》しい根性《こんじやう》になるのは、それが素町人《すちやうにん》だ。度々《たび〳〵》話《はな》して聞《きか》せたが、菅沼家《すがぬまけ》は代々《だい〴〵》高潔《かうけつ》な考《かんがへ》を以《もつ》て忠孝《ちうかう》と武勇《ぶゆう》を勵《はげ》んだ家柄《いへがら》で、系圖《けいづ》に少《すこ》しの疵《きず》もないんだ。だから健次《けんじ》もよく心得《こゝろえ》て、名譽《めいよ》を世界《せかい》に傳《つた》へるやうにせねばならん」 健次《けんじ》は平生《ふだん》父《ちゝ》から小言《こゞと》を聞《き》くことなく、他人《たにん》の前《まへ》でゞも自分《じぶん》の自慢《じまん》をされるのを厭《いや》に感《かん》じてゐたので、今《いま》も自分《じぶん》が大英雄《だいえいいう》にでもなるやうに期待《きた》する口振《くちぶり》を聞《き》くと、急《きふ》に不快《ふくわい》になり、新聞《しんぶん》を押《おし》のけて、ふいと自分《じぶん》の部屋《へや》へ逃《に》げた。 「お父《とつ》さんは兄《にい》さんばかり大事《だいじ》にするから我儘《わがまゝ》になるんだわ、學士《がくし》にまでなつてゝ、親《おや》や妹《いもと》の世話《せわ》が出來《でき》なくちや駄目《だめ》ですよ、お父《とつ》さんももうお役所《やくしよ》なんか止《よ》して大威張《おほゐばり》で兄《にい》さんに養《やし》なつてお貰《もら》ひなさればいゝのに、………本當《ほんたう》につまらないわ、外《そと》へ出《で》てはお酒《さけ》を飮《の》んで、何《なに》か話《はなし》でもすると、惡口《あくこう》ばかり云《い》つて、あれぢや何時《いつ》まで立《た》つても立派《りつぱ》な人間《にんげん》になれやしないわ、え、そりやなれないに定《きま》つてるわ」と、姉娘《あね》はさも口惜《くや》しさうに云《い》ふ。 父《ちゝ》はハツ〳〵と笑《わら》つて、「まあ默《だま》つて見《み》て居《を》れ、お前逹《まへたち》にや分《わか》るまいが、おれにや健次《けんじ》の氣象《きしやう》はよく分《わか》つてる、今《いま》に何《なに》か爲出《しで》かすに違《ちが》ひないからよく見《み》て居《を》れ、男《をとこ》の腹《はら》の中《なか》は女《をんな》にや知《し》れんものだ、學士《がくし》になつた位《くらゐ》で、ハイカラでもつけたり、妹《いもと》に花簪《はなかんざし》なんか買《か》つてやつて喜《よろこ》んでるやうな健次《けんじ》ぢやない」 「お父《とつ》さんは兄《にい》さんを買被《かひかぶ》つてるんですよ、だから老人《としより》には何《なに》にも分《わか》らないんだわ、今《いま》に後悔《こうくわい》することが屹度《きつと》あると私《わたし》思《おも》ふわ」 「ハヽヽヽヽ、下《くだ》らないことを云《い》ふもんぢやない、お前《まへ》らは今《いま》に健次《けんじ》の妹《いもと》だと云《い》はれて名譽《めいよ》に思《おも》ふ時《とき》が來《く》る」 「私《わたし》、ちつとも兄《にい》さんなんか當《あて》にしちやゐないわ、何《なん》であんな人《ひと》」 と、新聞《しんぶん》を引寄《ひきよ》せて續《つゞ》き物《もの》に目《め》をつけ、熱心《ねつしん》に讀《よ》み出《だ》した。妹娘《いもと》は緣側《えんがは》へ出《で》て猫《ねこ》の頭《あたま》を撫《な》でながら唱歌《しようか》を唄《うた》つてゐる。 健次《けんじ》は障子《しやうじ》を締《し》め切《き》り、机《つくゑ》に向《むか》つて正座《せいざ》し、「革命家《かくめいか》の自傳《じでん》」を開《ひら》いた。心《こゝろ》を凝《こ》らし素早《すばや》く走《はし》り讀《よ》みしてゐたが、著者《ちよしや》が貴族《きぞく》の家《いへ》に生《うま》れ幼時《えうじ》より宮中《きうちう》に出入《しゆつにふ》する叙述《じよじゆつ》を讀《よ》み終《をは》ると、書物《しよもつ》を伏《ふ》せて仰向《あふむ》けに寢《ね》た。自分《じぶん》とは緣《えん》の遠《とほ》い境遇《けうぐう》の異《ことな》つた人《ひと》の閱歷《えつれき》が如何程《いかほど》の興味《きようみ》があらうぞと失望《しつぼう》した。そして机《つくゑ》から書物《しよもつ》を引下《ひきおろ》して、只《たゞ》氣《き》まぐれに處々《ところ〴〵》拔《ぬ》き讀《よみ》すると、農夫《のうふ》に伍《ご》して革命《かくめい》を說《と》いたり、國《くに》を脫走《だつそう》して他國《たこく》に流浪《るらう》するあたり、さも面白《おもしろ》さうに書《か》いてあるが、最早《もはや》健次《けんじ》にはそれが光《ひかり》のない艶《つや》の失《う》せた文字《もじ》と見《み》え、少時《せうじ》父《ちゝ》から彰義隊《しやうぎたい》や白虎隊《びやくこたい》の話《はなし》を聞《き》いた時《とき》ほどにも、胸《むね》も躍《をど》らず血《ち》も湧《わ》かず目《め》を瞑《つぶ》つて心《こゝろ》の動《うご》くに任《まか》せてゐると、自分《じぶん》の左右《さいう》前後《ぜんご》には火花《ひばな》も散《ち》らず、鯨波《ときのこゑ》も聞《きこ》えず、只《たゞ》銀座《ぎんざ》には埃《ほこり》が立《た》つて、うぢよ〳〵と人《ひと》の步《ある》いてる樣《さま》が頭《あたま》の中《なか》に浮《うか》んで來《く》る。 で、彼《か》れは緣側《えんがは》の障子《しやうじ》を開《あ》けて、庭《には》を見《み》ると、父《ちゝ》は日曜《にちえう》每《ごと》の役目《やくめ》を怠《をこた》らず、草履《ざうり》を穿《は》いて掃除《さうじ》をしてゐる。昨日《きのふ》と同《おな》じく空《そら》は冴《さ》え風《かぜ》もなく、日《ひ》は生温《なまあたゝ》かく照《て》つて、竹箒《たけはうき》持つた老人《らうじん》の影《かげ》のみが緩《ゆる》く動《うご》いてゐる。健次《けんじ》は欠伸《あくび》をして、又《また》書物《しよもつ》を枕《まくら》に寢《ね》ころび、兩手《りやうて》を投《な》げ出《だ》して、うと〳〵してゐたが、暫《しばら》くすると妹共《いもとゞも》の騷《さわ》ぐ音《おと》がして、終《しま》ひには英語《えいご》の朗讀《らうどく》が聞《きこ》える、學校《がくかう》の懇親會《こんしんくわい》で、織田《おだ》の妹《いもと》と二人《ふたり》で朗讀《らうどく》するといふ英文《えいぶん》の對話《たいわ》を暗誦《あんしよう》してゐるのであらう、太《ふと》くて甘《あま》つたれた聲《こゑ》で、如何《いか》にも陽氣《やうき》さうに讀《よ》んでゐる。 健次《けんじ》は心《こゝろ》がむしやくしやして、俄《にわ》かに起上《おきあが》り、帽子《ぼうし》を被《かぶ》り出仕度《でしたく》をして、玄關《げんくわん》まで出《で》かけたが、又《また》引返《ひきか》へして何氣《なにげ》なく妹《いもと》の部屋《へや》へ侵入《しんにふ》すると、妹《いもと》は彼《か》れを見上《みあ》げて、ぱつたり朗讀《らうどく》を止《や》めた。 「おい、一寸《ちよつと》見《み》せろ」と、健次《けんじ》は妹《いもと》の手《て》から洋紙《やうし》を取上《とりあ》げて見《み》ると、「二人《ふたり》の不幸《ふかう》なる娘《むすめ》」と題《だい》して、その會話《くわいわ》が書《か》いてある。 「今《いま》お稽古《けいこ》してるんだから、兄《にい》さんは彼室《あちら》へ行《い》つてゐらつしやい」と、妹《いもと》は健次《けんじ》の手《て》から洋紙《やうし》を奪《うば》ひ返《かへ》した。 「おれが茲《こゝ》で直《なほ》してやるから、讀《よ》んで見《み》ろ」と、健次《けんじ》は帽子《ぼうし》を被《かぶ》つたなり坐《すわ》り込《こ》んだ。 「兄《にい》さんは直《す》ぐ冷《ひや》かすから厭《いや》だけど」と否《いな》んだが、漸《やうや》く納得《なつとく》して、自分《じぶん》の分《ぶん》だけを拾《ひろ》つて讀《よ》んだ。筋《すぢ》は幼馴染《おさななじみ》の二|少女《せいぢよ》が、一人《ひとり》は東北《とうほく》一人《ひとり》は九|州《しう》と十|年《ねん》も離《はな》れてゐた後《のち》、或《ある》所《ところ》で思《おも》ひがけなく巡《めぐ》り合《あ》ひ、その間《あひだ》の境涯《けうがい》の辛酸《しんさん》を語《かた》り合《あ》ふ哀《あは》れな物語《ものがたり》。發音《はつおん》の法則《はふそく》は滅茶々々《めちや〳〵》だがよく暗記《あんき》してゐて、目《め》を細《ほそ》め言葉《ことば》の調子《てうし》も哀《あは》れげに、表情《へうじやう》澤山《たくさん》で朗讀《らうどく》し、「この次《つぎ》には二人《ふたり》とも、もつと幸福《しあはせ》な人間《にんげん》に生《うま》れて來《き》ませう」と、淚《なみだ》で別《わか》れる所《ところ》で、會話《くわいわ》が終《をは》ると、 「上手《じやうづ》でせう」と、千代《ちよ》は兄《あに》を見《み》て、息《いき》をついた。中々《なか〳〵》得意《とくい》らしい。 「うん甘《うま》い、よく覺《おぼ》えられたね」 「もつとお稽古《けいこ》しなければ不安心《ふあんしん》だわ、織田《おだ》さんに負《ま》けちや厭《いや》だから」 「あの女《ひと》も稽古《けいこ》してるんか」 「え、そりやしてるわ、外《ほか》の人《ひと》も一|生懸命《しやうけんめい》ですもの、私《わたし》今日《けふ》も午後《おひる》から織田《おだ》さんとこへ行《い》つてよ」 「病人《びやうにん》のある家《うち》へ行《い》つたつて駄目《だめ》ぢやないか、まさかあの家《うち》で、芝居《しばゐ》の眞似《まね》なんかも出來《でき》まいし」 「一|緖《しよ》に外《ほか》の家《うち》へ行《い》くんだわ」 「箕浦《みのうら》の家《うち》へでも行《い》くんだらう」 「行《い》つたつていゝでせう、惡《わる》くつて」と、わざと拗《すね》て見《み》せる。 「惡《わる》いと云《い》やあしないよ、每日《まいにち》でも遊《あそ》びに行《ゆ》くがいゝ、あの男《をとこ》なら親切《しんせつ》に發音《はつおん》も直《なほ》して吳《く》れるし、音樂《おんがく》の議論《ぎろん》ぐらゐ聞《き》かせて吳《く》れらあ、…………それからお前《まへ》、織田《おだ》へ行《ゆ》くんなら、これを持《も》つてつて吳《く》れ」と、健次《けんじ》は今《いま》思《おも》ひ出《だ》した如《ごと》く、書齋《しよさい》から紙入《かみいれ》を持《も》つて來《き》て、紙幣《さつ》を反古紙《ほごがみ》にくるんで妹《いもと》に渡《わた》し、「これだけ織田《おだ》にやるんだ」 妹《いもと》は不審《ふしん》さうに兄《あに》を見《み》て、「これをどうするの、織田《おだ》さんの兄《にい》さんに貸《か》すのですか」 「何《なん》でもいゝから、只《たゞ》持《も》つてけばいゝんだ」 「だつて私《わたし》が持《も》つて行《ゆ》くのは變《へん》だわ、それに兄《にい》さんはよく織田《おだ》さんにお金《かね》を貸《か》すのね、何故《なぜ》織田《おだ》さんばかり好《す》きなんだらう、あの家《うち》よりやいくら私《わたし》の家《うち》の方《はう》が貧乏《びんぼふ》だか知《し》れやしないのに、本當《ほんと》に兄《にい》さんは變《へん》な人《ひと》ね」と、妹《いもと》は反古包《ほごづゝみ》をひねくつて、その金目《かねめ》まで覘《のぞ》いて見《み》てゐたが、 「お前《まへ》にやるよりや、織田《おだ》にやつた方《はう》が、いくらやり榮《ばえ》がするか知《し》れやしない」と、健次《けんじ》は無邪氣《むじやき》に笑《わら》つて、當《あて》もなく戶外《そと》へ出《で》た。妹《いもと》は坐《すわ》つたきり目《め》を据《す》ゑて、「兄《にい》さんは何故《なぜ》だらう、お鶴《つる》さんに心《こゝろ》があるから、あんなに織田《おだ》さんを大事《だいじ》にするのぢやないか知《し》らん、さう云《い》へば思《おも》ひ當《あた》ることが幾《いく》らもある、屹度《きつと》さうだ、戀《こひ》で煩悶《はんもん》してるんだわ」と、自分《じぶん》の身《み》に引《ひき》くらべて想像《さうぞう》に耽《ふけ》つてゐた。  (十) 健次《けんじ》は短《みじ》かい秋《あき》の一|日《にち》を持餘《もてあま》した。上野《うへの》の公園《こうゑん》をぶらつき、或《あるひ》は珈琲店《こーひーてん》へ入《はい》り、或《あるひ》はビアーホールへ入《はい》り、それから社《しや》の同僚《どうりやう》を訪《たづ》ねて、氣乗《きの》りのせぬ話《はなし》に相槌《あひづち》を打《う》つて、漸《やうや》く二三|時間《じかん》を空費《くうひ》し、その宅《たく》を出《で》て、湯島《ゆしま》天神《てんじん》の境内《けいだい》を通《とほ》り拔《ぬ》けて歸路《きろ》に就《つ》いた。特筆《とくひつ》すべき事件《じけん》は少《すこ》しもない。忙《いそが》しい人《ひと》は仕事《しごと》に心《こゝろ》を奪《うば》はれて時《とき》の立《た》つを忘《わす》れ、歡樂《くわんらく》に耽《ふけ》れる人《ひと》も月日《つきひ》の無《な》い世界《せかい》に遊《あそ》ぶのであるが、此頃《このごろ》の健次《けんじ》は絕《た》えず刻々《こく〳〵》の時《とき》と戰《たゝか》つてゐる。酒《さけ》を飮《の》むのも、散步《さんぽ》をするのも、氣㷔《きえん》を吐《は》くのも、或《あるひ》は午睡《ひるね》をするのも、只《たゞ》持扱《もちあつか》つてる時間《じかん》を費《つひや》すの爲《ため》のみで、外《ほか》に何《なに》も意味《いみ》はない。そして一|月《つき》二|月《つき》を取留《とりと》めもなく過《すご》しては、後《あと》から振返《ふりかへ》つて、下《くだ》らなく費《つひや》した歲月《さいげつ》の早《はや》く流《なが》るゝに驚《おどろ》く。 彼《か》れは激烈《げきれつ》な刺激《しげき》に五|體《たい》の血《ち》を湧立《わきた》たさねば、日《ひ》に〳〵自分《じぶん》の腐《くさ》り行《ゆ》くを感《かん》じ、靑春《せいしゆん》の身《み》で只《たゞ》時間《じかん》の蟲《むし》に喰《く》はれつゝ生命《いのち》を維《つな》いでゐる現狀《げんじやう》を溜《たま》らなく思《おも》つた。そして空想《くうさう》を逞《たくま》うして色々《いろ〳〵》の刺激物《しげきぶつ》を考《かんが》へた。普通《ふつう》の麻醉劑《ますゐざい》は何《なん》の効目《きゝめ》もない、酒《さけ》なら燒酎《せうちう》かウヰスキーを更《さら》にコンデンスした物《もの》、煙草《たばこ》なら阿片《あへん》、戀《こひ》なら櫻木《さくらぎ》のお雪《ゆき》や織田《おだ》のお鶴《つる》のやうな女《をんな》と、甘《あま》つたるい言葉《ことば》を交換《かは》したのでは微醉《ほろよひ》もする氣遣《きづかひ》はない。正義《せいぎ》も公道《こうだう》も問題《もんだい》ぢやない。自分《じぶん》を微温《びおん》の世界《せかい》から救《すく》ひ出《だ》して、筋肉《きんにく》に熱血《ねつけつ》を迸《ほとばし》らすか、膓《はらわた》まで蕩《と》ろかす者《もの》、それが自分《じぶん》の唯《ゆゐ》一の救世主《きうせいしゆ》だ。革命軍《かくめいぐん》に加《くは》つて爆裂彈《ばくれつだん》に粉碎《ふんさい》されやうとも、山賊《さんぞく》に組《くみ》して縛首《しばりくび》の刑《けい》に合《あ》はうとも、結果《けつくわ》が何《なん》であれ、名義《めいぎ》が何《なん》であれ、自分《じぶん》を刺激《しげき》する最初《さいしよ》の者《もの》に身《み》を投《な》げて、長《なが》くても短《みじ》かくても、或《あるひ》は即刻《そくこく》に倒《たを》れてしまつてもよい。そしてこんな刺激物《しげき》が自然《しぜん》に自分《じぶん》の前《まへ》に現《あら》はれねば、自分《じぶん》から進《すゝ》んで近《ちか》づいて行《ゆ》く。渦《うづ》が捲《ま》き込《こ》んで吳《く》れねば、自分《じぶん》で渦《うづ》の中《なか》へ飛《と》び込《こ》む。鐵藏《てつざう》がゐなければ自分《じぶん》で鐵藏《てつざう》になつて喧嘩《かんくわ》を吹《ふつ》かけて行《ゆ》く。戰爭《せんそう》も革命《かくめい》も北極《ほくきよく》探檢《たんけん》も人間《にんげん》の怠屈《たいくつ》醒《さ》ましの仕事《しごと》だ。平坦《へいたん》の道《みち》には倦《う》むが、險崖《けんがい》を攀上《よぢのぼ》つてゐれば、時《とき》をも忘《わす》れ欠伸《あくび》の出《で》る暇《ひま》もない。 「よし渦《うづ》へ入《はい》るか崖《がけ》を上《あ》がるか」と、彼《かれ》はステツキを持《も》つた手《て》に力《ちから》を入《い》れたが、その手《て》は直《す》ぐ弛《ゆる》んでしまう。社會《しやくわい》のため主義《しゆぎ》のため理想《りさう》のためと思《おも》へばこそ眞面目《まじめ》で險崖《がけ》上《のぼ》りも出來《でき》るが、初《はじ》めから怠屈《たいくつ》醒《さ》ましと知《し》つて荊棘《いばら》の中《なか》へ足《あし》を踏込《ふみこ》めるものか。理由《りいう》もないのに獨《ひと》りで血眼《ちまなこ》になつて大道《だいだう》を馳《は》せ廻《まは》れるものか。何故《なぜ》每日《まひにち》の出來事《できごと》、四|方《はう》の境遇《けうぐう》、何《なに》一つ自分《じぶん》を刺激《しげき》し誘惑《いうわく》し虜《とりこ》にする者《もの》がないのであらう。只《たゞ》日々《ひゞ》世界《せかい》の色《いろ》は褪《あ》せ行《ゆ》き、幾萬《いくまん》の人間《にんげん》の響動《どよめき》は葦《あし》や尾花《をばな》の戰《そよ》ぐと同《おな》じく無意義《むいぎ》に聞《きこ》えるやうになつた。自分《じぶん》の心《こゝろ》が老《お》いたのか、地球《ちきう》其《それ》自身《じしん》が老《お》い果《は》てゝ、何等《なんら》の淸新《せいしん》の氣《き》も宿《やど》さなくなつたのであらうか。 彼《か》れは目《め》を移《うつ》して道《みち》の左右《さいう》を見《み》た。夕日《ゆうひ》は電信柱《でんしんばしら》の影《かげ》を金物屋《かなものや》の壁《かべ》に印《いん》してゐる。壁《かべ》の隅《すみ》には薄墨《うすゞみ》で「法樂《はふらく》加持《かぢ》」と書《か》いた大福寺《だいふくじ》の廣吿《くわうこく》が貼《は》りつけられ、その片端《かたはし》が剝《は》げかゝりふら〳〵[#「ふら〳〵」に傍点]動《うご》いてゐる。牛乳《ぎうにう》配逹《はいたつ》と點燈夫《てんとうふ》とが前後《ぜんご》して走《はし》つてる後《あと》から、白《しろ》い帽子《ぼうし》を戴《いたゞ》き裾《すそ》の廣《ひろ》い黑衣《こくい》を着《つ》け、腰《こし》に長《なが》い珠數《じゆず》を垂《た》れた天主敎《てんしゆけう》の尼《あま》が二人《ふたり》、口《くち》も閉《と》ぢ側見《わきみ》もせず、靴《くつ》は土《つち》を踏《ふ》まぬが如《ごと》く、閑雅《しとやか》に音《おと》をも立《た》てず步《あゆ》んで來《く》る。深《ふか》く澄《す》んだ空《そら》を煙突《えんとつ》の黑煙《こくえん》が搔亂《かきみだ》し、その側《そば》を一|列《れつ》の鳥《とり》が橫切《よこぎ》つた。晝間《ひるま》の温《あたゝ》かさも急《きふ》に薄《うす》らいで、健次《けんじ》は肌寒《はださむ》く感《かん》じた。 彼《か》れは足《あし》と心《こゝろ》を疲《つか》らせて、兎《と》に角《かく》家《うち》へ歸《かへ》つた。妹《いもと》は他所行《よそゆき》の大切《たいせつ》な紋羽二重《もんはぶたへ》の羽織《はおり》を着《き》たまゝ、茶《ちや》の間《ま》のランプを點火《つけ》てゐた。 「あら、兄《にい》さんお歸《かへ》り、私《わたし》も今《いま》歸《かへ》つたところよ」と、マツチを火鉢《ひばち》へ棄《す》てゝ、艶艶《つやつや》しい顏《かほ》を見《み》せた。 「織田《おだ》は何《なに》をしてた」 「勉强《べんきやう》してるわ、でね、お金《かね》を渡《わた》すと、何《なん》だか極《きま》り惡《わる》さうに受取《うけと》つて、兄《にい》さんにお禮《れい》を云《い》つてたわ」 「さうか」と、健次《けんじ》は所在《しよざい》なさに、火鉢《ひばち》の前《まへ》に片膝《かたひざ》立《た》てゝ坐《すわ》り、火箸《ひばし》をいぢつてる。妹《いもと》はその側《そば》で羽織《はおり》を脫《ぬ》いで疊《たゝ》みながら、ちよい〳〵兄《あに》の顏《かほ》を見上《みあ》げては、 「織田《おだ》さんは二三|日《にち》中《うち》に兄《にい》さんに遇《あ》ひたいと云《い》つてましたよ、是非《ぜひ》話《はなし》を定《き》めることがあるんだつてね、兄《にい》さんも知《し》つてるでせう、どんな話《はなし》だか、私《わたし》も織田《おだ》さんの言振《いひぶ》りで荒方《あらかた》推察《すゐさつ》してるけど。」 「さうか」と、健次《けんじ》は氣《き》に留《と》めぬ風《ふう》なので、妹《いもと》はわざと調戯《からか》ふ氣《き》で、 「當《あ》てゝ見《み》ませうか、屹度《きつと》あの事《こと》だわ」と莞爾《につこり》した。 「あの事《こと》つて鶴《つる》さんの緣談《えんだん》だらう」と健次《けんじ》が小憎《こにく》らしい程《ほど》平氣《へいき》なので、妹《いもと》は、 「兄《にい》さんはよく御存《ごぞん》じね、同意《どうい》するんでせう、兄《にい》さんも、」 「どうかねえ」 「どうかねえつて、それでいゝぢやありませんか、其《そ》の事《こと》で私《わたし》兄《にい》さんに話《はなし》があつてよ」と云《い》ひかけた所《ところ》へ、母《はゝ》が勝手《かつて》から入《はい》つて來《き》たので口《くち》を噤《つぐ》み、羽織《はおり》を簞笥《たんす》へ收《おさ》めた。 「さあ御飯《ごはん》だ〳〵」と、母《はゝ》は膳立《ぜんだ》てして、汁《しる》のこぼれてる鍋《なべ》を火鉢《ひばち》に掛《か》けた。 健次《けんじ》は「まだ飯《めし》は欲《ほ》しくない」と云《い》つて、自分《じぶん》の居室《ゐま》へ入《はい》ると、妹《いもと》は後《うしろ》から駈《か》けて來《き》て、ランプを點火《つけ》た。平生《ふだん》に似《に》ず親切《しんせつ》に煙草盆《たばこぼん》まで掃除《さうじ》して持《も》つて來《き》た。 で、健次《けんじ》が机《つくゑ》に肱《ひぢ》を突《つ》いて煙草《たばこ》を吹《ふ》かし、相手《あひて》にする風《ふう》はないのに、その傍《そば》に坐《すわ》り、 「でね、兄《にい》さん」と口《くち》を切《き》る。「今《いま》の話《はなし》、兄《にい》さんも考《かんが》へてるんでせう、どうなさるの」 「何《なん》だい織田《おだ》の事《こと》か、それを聞《き》いて何《なん》にする」と、健次《けんじ》は不審《ふしん》さうに妹《いもと》の顏《かほ》を顧《かへり》みた。 「何《なに》つて事《こと》はないけど」と、目《め》を外《はづ》して「私《わたし》、今日《けふ》織田《おだ》さんからも、お鶴《つる》さんからも色《いろ》んな事《こと》を聞《き》いたのよ」 「何《なに》を?」 「織田《おだ》さんの方《はう》ぢや、もうちやんと一人《ひとり》で定《き》めてるんだわ、それに向《むか》うでは、兄《にい》さんも家《うち》のお母《つか》さんもお父《とつ》さんも、屹度《きつと》承知《しやうち》することゝ思《おも》つてるらしいのよ、お鶴《つる》さんも兄《にい》さんから聞《き》いたのか、今日《けふ》は樣子《やうす》が變《かは》つてるし、明日《あす》お稽古《けいこ》に私《わたし》の家《うち》へ被入《いらつし》やいと云《い》つても、何時《いつ》も來《き》たがる癖《くせ》に厭《いや》だつて云《い》ふんですもの、」 「おい、下《くだ》らない話《はなし》は止《よ》せ、」 と、机《つくゑ》に向《むか》つて、經濟書《けいざいしよ》を開《ひら》いて、ぼんやり讀《よ》んでゐたが、妹《いもと》は尙《な》ほ側《そば》に坐《すわ》つてゐて、 「だつて兄《にい》さんも早《はや》く結婚《けつこん》なすつた方《はう》がいゝでせう、家《うち》の爲《ため》から云《い》つても、兄《にい》さんの身《み》が定《きま》つて、お父《とつ》さんの責任《せきにん》を輕《かる》くしなくつちや仕樣《しやう》がないですもの、それが一|番《ばん》の孝行《かう〳〵》だと思《おも》ふわ、それにお鶴《つる》さんは一|家《か》の主婦《しゆふ》として缺點《けつてん》がないんだから、私《わたし》からも兄《にい》さんに勸《すゝ》めたい位《くらゐ》よ」 「お前《まへ》どうかしたのか、酷《ひど》く今日《けふ》は眞面目《まじめ》臭《くさ》つた事《こと》を並《なら》べるね」と、健次《けんじ》は笑《わら》つて、「お前《まへ》はよくお鶴《つる》さんの惡口《あくこう》を云《い》つて、あれぢや家《うち》は持《も》てないなんて云《い》つてたぢやないか、急《きふ》に變節《へんせつ》したね、御馳走《ごちそう》にでもなつたんかい」 「あら酷《ひど》いわ、私《わたし》織田《おだ》さんとこで少《ちつ》とも御馳走《ごちそう》なんかになりやしないわ」 「でも御馳走《ごちそう》になつた顏付《かほつき》をしてるぢやないか。箕浦《みのうら》の家《うち》へも寄《よ》つたのか」 「えゝ」と妹《いもと》は曖昧《あいまい》な返事《へんじ》をする。 「お鶴《つる》さんと二人《ふたり》で朗讀《らうどく》でもして騷《さわ》いだのか」 「えゝ、兄《にい》さんによろしくと云《い》つてたわ」 「お鶴《つる》さんと一|緖《しよ》に行《ゆ》くと、あの男《をとこ》が優待《いうたい》するだらう」 と、健次《けんじ》は何氣《なにげ》なく云《い》つたが、妹《いもと》の耳《みゝ》にはそれが銳《するど》く響《ひゞ》いて、急《きふ》に考《かんが》へ込《こ》んだ。健次《けんじ》は箕浦《みのうら》から屢屢《しば〴〵》戀愛論《れんあいろん》を聞《き》かされたのだが、先日《せんじつ》或《ある》雜誌《ざつし》に載《の》つた彼《か》れの叙情的《じよじやうてき》の美文《びぶん》を讀《よ》んだ時《とき》、それが彼《かれ》自身《じしん》の事《こと》を書《か》いてるので、相手《あひて》は織田《おだ》の妹《いもと》だと感付《かんづ》いた。そして自分《じぶん》の妹《いもと》の竊《ひそ》かに箕浦《みのうら》を思《おも》つてるのが可笑《おかし》くもあり、可愛《かあい》さうでもあつた。しかしそれを妹《いもと》に知《し》らせる氣《き》でもなかつたのだ。で、 「學校《がくかう》の懇親會《こんしんくわい》は何日《いつ》あるんだ」と、聞《き》きたくもないことを、わざと柔《やさ》しい聲《こゑ》で問《と》うた。妹《いもと》は碌《ろく》に答《こた》へもせず、暫《しばら》くして浮《う》かぬ面《かほ》を上《あ》げて、 「兄《にい》さんは結婚《けつこん》する氣《き》ぢやないんですか」と、さも妹《いもと》の身《み》の上《うへ》にも重要《ぢうえう》問題《もんだい》ででもある如《ごと》く感《かん》じてゐる。 「お前《まへ》はおれを織田《おだ》の妹《いもと》と結婚《けつこん》させたいのか、それが何《なに》かお前《まへ》の利益《りゑき》になるんか、變《へん》だね」と、健次《けんじ》はお轉婆《てんば》の妹《いもと》の生眞面目《きまじめ》な態度《たいど》を怪《あやし》んだ。 「私《わたし》の利益《りゑき》なんて酷《ひど》いわ、兄《にい》さんの爲《ため》を思《おも》つてるから聞《き》いて見《み》てるのに」と、袂《たもと》の先《さき》をひねくつて言葉《ことば》もはき〳〵しない。 「有難《ありがた》う、しかしおれは近々《きん〳〵》下宿屋《げしゆくや》へでも行《い》つちまうんだ」 「本當《ほんたう》に?」と、妹《いもと》は目《め》を丸《まる》くして「何故《なぜ》下宿屋《げしゆくや》なんかへ」 「何故《なぜ》でもないさ、もうお前方《まへがた》のお喋舌《しやべり》も聞飽《きゝあ》いたから、」 妹《いもと》は兄《あに》の氣心《きごゝろ》を知兼《しりか》ねて、只《たゞ》「變《へん》な人《ひと》だわ、お鶴《つる》さんを好《す》いてやしないのか知《し》らん、それとも表面《うはべ》ばかりあんなに澄《す》ましてるのではなからうか」と思《おも》つてゐたが末娘《すゑむすめ》のお光《みつ》が「姉《ねい》さん、早《はや》く被入《いらつし》やい、御飯《ごはん》だよ」と、駈《か》けて來《き》て、引張《ひつぱ》つて茶《ちや》の間《ま》へ行《い》つた。  (十一) 四五|日《にち》はかくて過《す》ぎた。目《め》を醒《さ》ますと、屋根《やね》には霜《しも》を置《お》いて朝日《あさひ》がキラ〳〵と照《て》つてることもある、雲《くも》の低《ひく》く垂《た》れてることもある。培養《ばいやう》せぬ菊《きく》は蟲《むし》に喰《く》はれて自然《しぜん》に萎《しほ》れて行《ゆ》く。父子《ふし》は前後《ぜんご》して出勤《しゆつきん》する。健次《けんじ》は每日《まいにち》同《おな》じやうなことを考《かんが》へて、一|日《にち》の仕事《しごと》を濟《す》ませて歸《かへ》ると、相《あひ》も變《へん》らず母《はゝ》は窶《やつ》れた顏《かほ》をして待《ま》つてゐる。一|家《か》には何《なん》の波瀾《はらん》もない。母《はゝ》は年中《ねんぢう》廢屋《あばらや》に燻《くす》ぶつてゐるのだから、偶《たま》に戶外《そと》へ出《で》るか、異《かは》つた人《ひと》が訪《たづ》ねて來《く》ると、見《み》たり聞《き》いたりした何《なん》でもない事《こと》を、物珍《ものめづ》らしさうに誇張《こちやう》して問《と》はず語《がた》りをするのを樂《たのし》みにしてゐる。妹《いもと》の千代《ちよ》は思《おも》ひ出《だ》しては朗讀《らうどく》の稽古《けいこ》をしてゐるが、平生《ふだん》ほどお喋舌《しやべ》りもせず、多少《たせう》鬱《ふさ》いでる風《ふう》も見《み》える。織田《おだ》は忙《いそがし》いので手紙《てがみ》を送《おく》つたきり訪《たづ》ねて來《こ》ない。先月《せんげつ》から赤痢《せきり》が流行《りうかう》して、根岸《ねぎし》近傍《きんばう》にも大分《だいぶ》患者《くわんじや》があるやうだが、菅沼《すがぬま》の一|家《か》は數年《すうねん》來《らい》風邪《ふうじや》以上《いじやう》の病人《びやうにん》はない。で、父《ちゝ》は家族《かぞく》が皆《みな》健全《けんぜん》で目出度《めでたい》々々々と一人《ひとり》で喜《よろこ》んで、自分《じぶん》が少《すこ》し風邪氣《かぜけ》があらうと腹加減《はらかげん》がよくなからうと、痩我慢《やせがまん》を出《だ》して出勤《しゆつきん》してゐる。しかし今度《こんど》の寒《さむ》さ當《あた》りは我慢《がまん》し切《き》れなかつたと見《み》え、或日《あるひ》役所《やくしよ》を早退《はやび》けにして歸《かへ》り、お定《きま》りの晚酌《ばんしやく》も止《よ》して、行火《あんか》へもぐり込《こ》んでしまつた。 健次《けんじ》は父《ちゝ》の代《かは》りに海苔《のり》を肴《さかな》に一|本《ぽん》ガブ呑《の》みにして、書齋《しよさい》へ入《はい》つたが、寢《ね》るには早《はや》し、ランプと睨《にらめ》つくらをしてゐた。すると、その朝《あさ》桂田《かつらだ》夫人《ふじん》の筆《ふで》で晚餐會《ばんさんくわい》招待《せうたい》のハガキの來《き》たことから、桂田《かつらだ》に借《か》りた「東西《とうざい》倫理《りんり》思潮《してう》」を、本箱《ほんばこ》の上《うへ》に置《お》いたまゝ手《て》にも取《と》らず、談話《だんわ》筆記《ひつき》に行《ゆ》くのも忘《わす》れてゐたことを思《おも》ひ出《だ》し、それを取出《とりだ》して飛《と》び〳〵に讀《よ》みかけた。 西風《にしかぜ》がカタ〳〵と雨戶《あまど》に當《あた》り、隣家《となり》の柿《かき》の葉《は》の散《ち》る音《おと》も幽《かす》かに聞《きこ》える。父《ちゝ》は時々《とき〴〵》呻吟《うめい》てゐる。 次第《しだい》に健次《けんじ》の目《め》は書物《しよもつ》を離《はな》れ、銳《するど》い神經《しんけい》は風《かぜ》の音《おと》と父《ちゝ》の呻吟《うめき》とに煩《わづら》はされ、火鉢《ひばち》へ俯首《うつむ》いて眉《まゆ》を顰《ひそ》め、煙草《たばこ》の吸口《すゐくち》を嚙《か》んでゐると、門《かど》の戶《と》がそつと開《あ》いた。それが木枯《こがら》しで自然《しぜん》に開《あ》いたやうで、健次《けんじ》は思《おも》はず薄氣味《うすきみ》惡《わる》く感《かん》じた。忍《しの》びやかに敷石《しきいし》に音《おと》がする。誰《た》れかが來《き》たらしく、やがて低《ひく》い聲《こゑ》で母《はゝ》との話聲《はなしごゑ》がする。 「あゝ織田《おだ》だな」と、健次《けんじ》は離《はな》れ島《じま》に人《ひと》の訪《たづ》ねた如《ごと》く、救助《きうじよ》の舟《ふね》でも來《き》た如《ごと》く望《のぞ》みを掛《か》けて待《ま》つてゐた。 暫《しばら》くして織田《おだ》は「ヤア」と、例《れい》の頓間《とんま》な聲《こゑ》をして入《はい》つて來《き》て、火鉢《ひばち》を隔《へだ》てゝ坐《すわ》つた。新調《しんてう》と思《おも》はれる綿入《わたいれ》を着《き》て、髯《ひげ》も剃《そ》つて、髮《かみ》も奇麗《きれい》に分《わ》け、愉快《ゆくわい》さうな顏付《かほつき》をしてゐる。 「非常《ひじやう》に遲《おそ》く來《き》たね」 「遲《おそ》くなくちや君《きみ》がゐないかと思《おも》つて、」と、織田《おだ》は珍《めづ》らしく敷島《しきしま》を袂《たもと》から出《だ》して火《ひ》を付《つ》け、 「僕《ぼく》は今日《けふ》非常《ひじやう》に愉快《ゆくわい》だ」 「愉快《ゆくわい》だつて、君《きみ》からそんな言葉《ことば》を聞《き》くのは不思議《ふしぎ》だ、親爺《おやぢ》の病氣《びやうき》でもよくなつたのか」 「いや、親爺《おやぢ》は變《かは》らないがね、今日《けふ》僕《ぼく》は桂田《かつらだ》さんの紹介《せうかい》で新職業《しんしよくげふ》に有《あり》ついたんだ、神田《かんだ》の本屋《ほんや》で辭書《じしよ》の編纂《へんさん》だが、報酬《ほうしう》も非常《ひじやう》にいゝんだよ」 「さうか、面倒《めんだう》臭《くさ》い厭《いや》な仕事《しごと》だね、辛抱《しんばう》出來《でき》るかい」 「面倒《めんだう》臭《くさ》いなんて云《い》つた日《ひ》にや、いゝ仕事《しごと》はありやしないぜ、報酬《ほうしう》さへよけりや、僕《ぼく》は何《なん》でもやる、それにね君《きみ》、僕《ぼく》は長編《ちやうへん》を昨日《きのふ》譯《やく》してしまつたよ、あの金《かね》が入《はい》ると、借金《しやくきん》を殘《のこ》らず拂《はら》へるし、醫者《ゐしや》の方《はう》も奇麗《きれい》に片付《かたづ》くから一|安心《あんしん》だ、君《きみ》にも一|杯《ぱい》奢《おご》らあ」 織田《おだ》は平素《ふだん》健次《けんじ》を無《む》二の親友《しんいう》と思《おも》ひ、互《たが》ひに喜憂《きいう》を分《わか》つつもりでゐるので、今日《けふ》も吉報《きつぽう》を傳《つた》へに來《き》たのだ。 「そりや結構《けつかう》だ」と、健次《けんじ》は口先《くちさき》では云《い》つたが、心《こゝろ》ではこの魁偉《くわいゝ》なる人間《にんげん》が、信州《しんしう》訛《なまり》の拔《ぬ》けぬ頭《あたま》の眞中《まんなか》の禿《は》げた老母《らうぼ》と、頰《ほゝ》の赤《あか》いよく肥《ふと》つた妻君《さいくん》のために、年中《ねんぢう》專念《せんねん》一|意《い》脇目《わきめ》も振《ふ》らず稼《かせ》いでゐる樣《さま》を憐憫《みじめ》に感《かん》じた。 「僕《ぼく》も二三|年《ねん》踠《あが》き通《とほ》しだつたが、これからは少《すこ》しは樂《らく》になるだらう、隨分《ずゐぶん》君《きみ》にも迷惑《めいわく》を掛《か》けたがね、もう大丈夫《だいじやうぶ》だ。節儉《せつけん》すりや月末《つきずゑ》の拂《はら》ひに困《こま》ることはない、何《なに》しろ學校《がくかう》の月給《げつきふ》は三十|圓《ゑん》だから遣切《やりき》れなかつたが、辭書《じしよ》からは六十|圓《ゑん》づゝ吳《く》れるんだよ、丁度《てうど》倍《ばい》だからね、それに内職《ないしよく》に飜譯《ほんやく》を續《つゞ》けてやつてけば、小使錢《こづかひせん》は取《と》れるし」と、織田《おだ》は自分《じぶん》の現狀《げんじやう》を想《おも》つて悅《うれ》しくてならぬ風《ふう》だ。で、尙《なほ》世帶話《しよたいばなし》を續《つゞ》けて、「家賃《やちん》は收入《しうにふ》の五|分《ぶん》の一を超過《てうくわ》してはならぬ」とか、「消費《せうひ》組合《くみあひ》に入《はい》れば幾《いく》ら宛《づゝ》經濟《けいざい》になる」とか。終《しまひ》には將來《しやうらい》の家計《かけい》の豫算《よさん》計畫《けいくわく》を細《こま》かく說《と》き出《だ》した。 妹共《いもとども》はもう寢《ね》たのか、家《うち》の内《うち》は靜《しづ》かだが、隣家《となり》から赤兒《あかご》の泣聲《なきごゑ》が洩《も》れ聞《きこ》え、柿《かき》の葉《は》もカサ〳〵と音《おと》を立《た》てゝゐる。健次《けんじ》は火箸《ひばし》で炭籠《すみかご》を引寄《ひきよ》せどつさり添炭《そへすみ》した。最早《もはや》酒《さけ》の氣《け》もなくなつて寒《さむ》い。せめて織田《おだ》が何時《いつ》ものやうに苦痛《くつう》を訴《うつた》へるのなら、聞《き》いても多少《たせう》張合《はりあひ》もあるが、大得意《だいとくい》で生活《せいくわつ》の勝利《しやうり》を談《だん》ずるのだから健次《けんじ》は聞《き》いてゐても眠《ねむ》くなるばかり、 「それでね、父《ちゝ》の病氣《びやうき》がどうかなり次第《しだい》、もつといゝ家《うち》へ轉宅《てんたく》して新《あたら》しい生活《せいくわつ》を初《はじ》めるつもりだ、それについて妹《いもと》だけ持《も》て餘《あま》し者《もの》だが、あれに對《たい》する責任《せきにん》さへ免《まぬか》れりや、僕《ぼく》の重荷《おもに》は卸《お》りてしまうんだよ」と、織田《おだ》は抑揚《よくやう》緩急《くわんきふ》のない調子《てうし》で云《い》つて相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》て答《こたへ》を促《うなが》した。 健次《けんじ》は五月蠅《うるさ》い奴《やつ》だと思《おも》つて、何《なに》か云《い》はうとした所《ところ》へ、母《はゝ》が茶盆《ちやぼん》と菓子皿《くわしざら》を持《も》つて來《き》た。「今《いま》織田《おだ》さんに頂《いたゞ》いたんだよ」と、母《はゝ》は茶《ちや》を注《つ》いで、中腰《ちうごし》で二つ三つ世間《せけん》話《ばなし》をして行《い》つた。皿《さら》にはチヨコレート、クリームが黃《きいろ》い紙《かみ》に包《つゝ》まれて並《なら》んでゐる。健次《けんじ》はそれを手《て》に取《と》つて、端《はじ》を前齒《まへば》で嚙《か》んだが、厭《いや》な顏《かほ》をして、喰餘《くひあま》しを机《つくゑ》の端《はじ》へ置《お》き、 「もう君《きみ》、緣談《えんだん》は止《よ》さうぢやないか、僕《ぼく》はもう聞《き》きたくない」と、命令的《めいれいてき》に云《い》ふ。織田《おだ》は壓《をさ》へ付《つ》けられて暫《しば》らく默《だま》つてゐた。 「だが、君《きみ》の爲《ため》にも結婚《けつこん》する方《はう》がいゝと思《おも》ふ、今《いま》も母堂《マザー》に話《はな》すと母堂《マザー》も賛成《さんせい》して、さうなると結構《けつかう》だと云《い》つてる、それに何《なん》だよ」と、四圍《あたり》を憚《はゞか》つて聲《こゑ》を低《ひく》くし、「君《きみ》のシスターについても僕《ぼく》は考《かんが》へてる、今度《こんど》の事《こと》は四五|日《にち》前《まへ》に鶴《つる》にもよく話《はな》したんだがね、その時《とき》彼女《あれ》に聞《き》くと、お千代《ちよ》さんは箕浦《みのうら》を思《おも》つてるんださうだ、それだと丁度《てうど》いゝぢやないか、シスターを箕浦《みのうら》へやつちまつては、何《なん》なら僕《ぼく》が周旋《しうせん》する。」 「だつて君《きみ》は箕浦《みのうら》は嫌《きら》ひだと云《い》つてたぢやないか」 「しかし君《きみ》のシスターが好《す》いてりや仕方《しかた》がないさ、君《きみ》も早《はや》く妹《いもと》を片付《かたづ》けて、定《きま》りをつけて、活動《くわつどう》し玉《たま》へ、君《きみ》は我々《われ〳〵》とは異《ちが》つて才《さい》があるんだから幾《いく》らでも發展《はつてん》出來《でき》る」 「うまく煽動《おだて》るね、煽動《おだて》たつて駄目《だめ》だよ、僕《ぼく》に發展《はつてん》の道《みち》がある位《くらゐ》なら、君等《きみら》に云《い》はれなくても疾《とつ》くに發展《はつてん》してる」と、健次《けんじ》は肱枕《ひぢまくら》で橫《よこ》になつた。 「箕浦《みのうら》の自惚家《うぬぼれや》でも君《きみ》にや感心《かんしん》してるよ、二三|日前《にちまへ》にも見舞《みま》ひだつてやつて來《き》て、何時《いつ》か君《きみ》は異彩《ゐさい》を放《はな》つだらうと云《い》つてた、實《じつ》はその時《とき》妹《いもと》を君《きみ》におつ付《つ》けたいと彼男《あれ》にも明《あか》したのだ」 「箕浦《みのうら》は何《なん》と云《い》つてた」 「彼男《あれ》かね」と、織田《おだ》は云《い》ひかけて躊躇《ちうちよ》して、「別《べつ》に何《なに》も云《い》やしない、丁度《てうど》いゝだらうと云《い》つてた」 「さうでもなからう、しかし君《きみ》は色《いろ》んな事《こと》をするね、千代《ちよ》にも何《なに》か話《はな》したね」 「いや碌《ろく》に話《はな》しもしないが、妻《さい》や妹《いもと》を通《とほ》して多少《たせう》聞《き》いたことはある」 「そうか、彼女《あいつ》が此間《こなひだ》、君《きみ》の家《うち》から歸《かへ》ると、僕《ぼく》に向《むか》つて頻《しき》りに結婚《けつこん》を勸《すゝ》めるから、變《へん》だなと思《おも》つたが今《いま》分《わか》つた、彼女《あいつ》も歲《とし》が歲《とし》だけに生意氣《なまいき》な事《こと》を考《かんが》へてやがらあ」と、舌打《したうち》して起上《おきあが》つた、健次《けんじ》は腹《はら》の中《うち》で、「妹《いもと》は箕浦《みのうら》に對《たい》する競爭者《けうさうしや》のお鶴《つる》を自分《じぶん》に當《あて》がつて、箕浦《みのうら》を一人《ひとり》占《じ》めにしやうと思《おも》つてるんだらう」と、妹《いもと》の腹《はら》の底《そこ》まで小憎《こにくらし》く感《かん》じた。あんな男《をとこ》を珍重《ちんてう》して戀《こひ》とか何《なん》とか云《い》つてるのを蟲唾《むしづ》の出《で》る程《ほど》厭《いや》に感《かん》じた。 織田《おだ》は健次《けんじ》の目付《めつき》の銳《するど》くなるを見《み》て、「何《なに》を考《かんが》へてるんだ」と聞《き》く。 「君《きみ》も餘計《よけい》な世話《せわ》を燒《や》くね、自分《じぶん》の事《こと》だけで飽《あ》き足《た》らなくて」 「餘計《よけい》な世話《せわ》ぢやない、友情《いうじやう》から考《かんが》へたんだ、一|家《か》の幸福《しあはせ》のために僕《ぼく》の云《い》つた通《とほ》りにし玉《たま》へ、どうせ通《とほ》る道《みち》なら早《はや》く通《とほ》つた方《はう》がいゝぢやないか」 「いゝ仕事《しごと》に有付《ありつ》いたと思《おも》つて馬鹿《ばか》に大家《たいか》めいた事《こと》を云《い》ふね、しかし僕《ぼく》は君《きみ》や箕浦《みのうら》とは異《ちが》つて何處《どこ》へ行《い》くんか方角《はうがく》が取《と》れんから仕方《しかた》ないさ、」 「ぢや僕《ぼく》の說《せつ》は用《もち》ひないんか、それで君《きみ》はどうするんだい、責任《せきにん》の重《おも》い身體《からだ》で」 「さあどうするかね」と、他人事《ひとごと》のやうに云《い》つたが、急《きふ》に鬱陶《うつとう》しい色《いろ》を呈《てい》した。 「君《きみ》は學生《がくせい》時代《じだい》と同《おな》じやうな氣《き》でゐるが、よく家族《かぞく》の事《こと》を思《おも》はんで浮々《うか〳〵》してられるね、目《め》の前《まへ》に君《きみ》の責任《せきにん》がころがつてるぢやないか」と織田《おだ》は眞面目《まじめ》な口調《くてう》を止《や》めぬ。 「だから僕《ぼく》は家《うち》が厭《いや》だよ」と、健次《けんじ》は又《また》橫《よこ》になつて目《め》を閉《と》ぢて、「君《きみ》とも長《なが》い間《あひだ》交際《つきあつ》てるが、福音《ふくゐん》も聞《き》かせて吳《く》れんね、」と、云《い》つたきり、口《くち》を利《き》かなくなつた。 で、織田《おだ》が母《はゝ》と話《はな》して歸《かへ》つた後《のち》、健次《けんじ》は冷《つめ》たい蒲團《ふとん》の中《なか》へもぐり込《こ》んで、「彼奴《あいつ》も馬鹿《ばか》野郎《やらう》だ」と呟《つぶや》いた。しかしこれは他人《たにん》の間《なか》で氣㷔《きえん》を吐《は》いてる時《とき》に叫《さけ》ぶとは異《ことな》つて、滅入《めい》つた絕望《ぜつばう》の聲《こゑ》だ。  (十二) 翌日《よくじつ》は妹《いもと》娘《むすめ》寵愛《てうあい》の子猫《こねこ》が、晚餐《ばんさん》の總菜用《さうざいよう》の魚《うを》を啣《くは》へて緣《えん》の下《した》へ逃《に》げ込《こ》んだので、一|家《か》は大騷《おほさわ》ぎ。父《ちゝ》は褞袍《どてら》を着《き》たまゝ寢室《ねま》を出《で》て來《く》る。母《はゝ》は靑筋《あをすじ》立《たて》ゝ怒鳴《どな》り立《た》てる。暫《しば》らくして何《なに》食《く》はぬ顏《かほ》の猫《ねこ》は鈴《すゞ》を鳴《な》らして長火鉢《ながひばち》の側《そば》へ歸《かへ》り、目《め》を細《ほそ》くして口《くち》べた[#「べた」に傍点]を甜《な》めずつてゐると、皆《み》んなに頭《あたま》を打《ぶ》たれた。母《はゝ》の愚痴《ぐち》が靜《しづ》まると、家族《かぞく》は煮豆《にまめ》で晚餐《ばんめし》を食《く》つた。 健次《けんじ》はかねて賴《たの》んで置《お》いた或《ある》社員《しやゐん》の知《しら》せで、日暮《ひぐれ》前《まへ》に月島《つきしま》の或《ある》下宿屋《げしゆくや》の空間《あきま》を檢分《けんぶん》した。廊下《らうか》に立《た》つと、安房《あは》上總《かづさ》の山々《やま〳〵》が夢《ゆめ》のやうに、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]水煙《みづけむり》の向《むか》うに浮《うか》び、强《つよ》い風《かぜ》が絕《た》え間《ま》なく寄《よ》せて來《く》る。隣室《となり》の話聲《はなしごゑ》も風《かぜ》に浚《さら》はれ波《なみ》の音《おと》に沒《ぼつ》して聞《きこ》えぬ。彼《か》れは幼《をさな》い頃《ころ》讚岐《さぬき》の濱《はま》で恣《ほしひ》まゝに鹽風《しほかぜ》を浴《あ》びて遊《あそ》んだことを朧氣《おぼろげ》に思《おも》ひ出《だ》した。その瞬間《しゆんかん》「新生涯《しんしやうがい》を此處《こゝ》で始《はじ》める、根岸《ねぎし》の古屋《ふるや》を去《さ》つて腹《はら》一|杯《ぱい》鹽氣《しほけ》を吸《す》はう」と决《けつ》し、二三|日《にち》中《うち》に返事《へんじ》をすると約束《やくそく》した。で、家《うち》へ歸《かへ》ると、母《はゝ》や妹《いもと》に聞《きか》された一|日《にち》中《ぢう》の大事件《だいじけん》は猫《ねこ》と魚《うを》の話《はなし》であつた。  (十三) 翌日《よくじつ》桂田《かつらだ》の家《いへ》で晚餐《ばんさん》をかねて小園遊會《せうゑんゆうくわい》が開《ひら》かれ、博士《はかせ》夫妻《ふさい》の親戚《みうち》の靑年《せいねん》男女《なんによ》、箕浦《みのうら》織田《おだ》等《とう》の家族《かぞく》、凡《すべ》て十|數名《すうめい》が招待《せうたい》された。健次《けんじ》もその一|人《にん》だが、生憎《あひにく》編輯《へんしふ》締切《しめきり》の當日《たうじつ》なので、原稿《げんかう》の計算《けいさん》やら雜誌《ざつし》の體裁《ていさい》やらの相談《さうだん》を持掛《もちか》けられ、漸《やうや》く夜店《よみせ》商人《しやうにん》が店《みせ》を出《だ》しかけた時分《じぶん》雜誌社《ざつししや》を出《で》て、生温《なまあたゝ》かい空《から》つ風《かぜ》に曝《さら》され、千|駄木《だぎ》へ向《むか》つた。既《すで》に來濱《らいひん》は揃《そろ》つてるらしく、笑聲《わらひごゑ》も賑《にぎ》やかで、玄關《げんくわん》には奇麗《きれい》な女《をんな》下駄《げた》や、磨《みが》き立《た》てた靴《くつ》が幾《いく》つも並《なら》んでゐる。客間《きやくま》へ通《とほ》されると博士《はかせ》の甥《おひ》に當《あた》る久保田《くぼた》と箕浦《みのうら》とが食卓《しよくたく》を隔《へだ》てゝ博士《はかせ》と向《むか》ひ合《あ》つて、盛《さか》んに話《はなし》をしてゐた。 襖《ふすま》を開《あ》けると三|人《にん》は一|緖《しよ》に頭《あたま》を上《あ》げて健次《けんじ》を見《み》た。床《とこ》の間《ま》には大輪《だいりん》の白菊《しらぎく》を生《い》けてあり、鴨居《かもゐ》には嵐《あらし》の跡《あと》の海波《なみ》を寫《うつ》した新《あたら》しい油繪《あぶらゑ》を揭《かゝ》げてゐる。少尉《せうゐ》の軍服《ぐんぷく》を着《つ》けた久保田《くぼた》の顏《かほ》は赤銅色《しやくどういろ》をして、まだ文明《ぶんめい》に疲《つか》れない太古《たいこ》の活氣《くわつき》に漲《みなぎ》つてゐる。箕浦《みのうら》の靑《あを》い寶石《ほうせき》入《いり》の襟留《ピン》は、その磨《みが》き立《た》てた白《しろ》い顏《かほ》黑《くろ》い眼《まなこ》と相照《あひて》らして光《ひか》つてゐる。 「菅沼《すがぬま》さん暫《しば》らくですね、相變《あひかは》らず元氣《げんき》がいゝつてぢやありませんか」と久保田《くぼた》は快活《くわいくわつ》に笑《わら》つた。 「どう致《いた》して、一寸《ちよつと》見渡《みわた》したところ、元氣《げんき》は貴下《あなた》一|人《にん》で專有《せんいう》してるやうだ」と、健次《けんじ》は久保田《くぼた》の側《そば》に坐《すわ》つた。卓上《たくじやう》にはクユラソーの德利《とくり》が置《お》かれてゐる。 「さあやり玉《たま》へ、貴下《あなた》が來《こ》なくちや、僕《ぼく》の相手《あひて》がない」と、久保田《くぼた》は杯《さかづき》を差《さ》し、「今日《けふ》は散々《さん〴〵》に君《きみ》の噂《うはさ》をしたんですよ、箕浦君《みのうらくん》と叔父《をぢ》とでね、頻《しき》りに貴下《あなた》の攻擊《こうげき》を始《はじ》めるから、僕《ぼく》が一人《ひとり》で辯護《べんご》しましたハツ〳〵〳〵」 「さうですか」と、健次《けんじ》は杯《さかづき》を受《う》けて、箕浦《みのうら》の顏《かほ》を見《み》た。箕浦《みのうら》は少《すこ》し頰《ほゝ》を赤《あか》め、 「僕《ぼく》は攻擊《こうげき》したんぢやないよ」と顏《かほ》を外《そら》して、「久保田《くぼた》さん、今《いま》のお話《はなし》の續《つゞ》きを聞《き》かせて下《くだ》さい、非常《ひじやう》に面白《おもしろ》い、貴下《あなた》の話振《はなしぶ》りがお上手《じやうず》だから、僕《ぼく》には演習《えんしふ》の模樣《もやう》が目《め》に浮《うか》ぶやうです」 「いや、もう止《よ》しませう、それより庭《には》へ行《い》つて、娘子軍《らうしぐん》を襲《おそ》はうぢやありませんか」と、久保田《くぼた》は立《た》ちかゝつた。 「何《なに》を話《はな》したんです、去年《きよねん》は貴下《あなた》の決闘《けつたう》奬勵談《しやうれいだん》を聞《き》かされたが、今年《ことし》はもっと痛快《つうくわい》な新問題《しんもんだい》があるんですか」と、健次《けんじ》が問《と》ふ。 「なあに、僕《ぼく》が大演習《だいえんしふ》に行《い》つたから、今《いま》もその話《はなし》をしたんです。しかし下《くだ》らないさ、演習話《えんしふばなし》なんか。新聞《しんぶん》で見《み》てると面白《おもしろ》さうだが、實際《じつさい》飯事《まゝごと》見《み》たいな者《もの》ですからな、あんな事《こと》をやつたつて、實戰《じつせん》の役《やく》に立《た》ちやしない、先《ま》づ昔《むかし》のお鷹狩《たかゞり》のやうな者《もの》さ」 久保田《くぼた》は緣側《えんがは》を下《お》りて赤鼻緖《あかはなを》の草履《ざうり》を穿《は》き、健次《けんじ》を指招《さしまね》いた。「さあ菅沼《すがぬま》さん被入《いらつ》しやい、貴下《あなた》は我黨《わがたう》の士《し》だから」 「僕《ぼく》は少《すこ》し休《やす》んでから行《ゆ》きます」と、健次《けんじ》は獨《ひと》りでキユラソーを三四|杯《ぱい》傾《かたむ》けた。博士《はかせ》と箕浦《みのうら》とは哲學上《てつがくじやう》の問題《もんだい》を論《ろん》じ出《だ》した。庭《には》には花行燈《はなあんどん》が二つ三つ點《とぼ》され燈火《あかり》の側《そば》では蓄音器《ちくおんき》で喇叭節《らつぱぶし》か何《なに》かゞ聞《き》こえ、草花《くさばな》の間《あひだ》を黑《くろ》い影《かげ》が動《うご》いてゐる。さして廣《ひろ》い庭《には》でもないが、夜目《よめ》には奧深《おくふか》く、一|際《きわ》すぐれた樅《もみ》の木《き》は冴《さ》えた空《そら》を摩《ま》してゐる。 「織田《おだ》は來《き》てゐないか」と、四|方《はう》を見廻《みまは》した揚句《あげく》、箕浦《みのうら》に問《と》うた。 「あゝ仕事《しごと》が忙《いそが》しいと云《い》つて、出《で》て來《こ》ない」 「彼《か》れの妹《いもと》は?」 「來《き》てるよ、君《きみ》の妹《いもと》と一|緒《しよ》に」 「さうか」 蓄音器《ちくおんき》が止《や》むと、久保田《くぼた》の陽氣《やうき》な太《ふと》い聲《こゑ》が庭《には》一|杯《ぱい》に廣《ひろ》がり、やがて小兒等《せうにら》の萬歲《ばんざい》の叫《さけ》びと女共《をんなども》の笑《わら》ひ聲《ごゑ》が聞《きこ》える。 「君《きみ》、彼處《あすこ》へ行《い》かうぢやないか」と、健次《けんじ》は箕浦《みのうら》の躊躇《ちうちよ》するのを無理《むり》に手《て》を執《と》り、庭《には》に連《つ》れ出《だ》した。博士《はかせ》は食卓《しよくたく》に肱《ひぢ》をついたまゝ、二人《ふたり》の後姿《うしろすがた》を見送《みおく》つてゐる。 箕浦《みのうら》は久保田《くぼた》が四五|人《にん》の子供《こども》を相手《あひて》に調練《てうれん》の眞似《まね》をしてるのを見《み》て、步《あゆみ》を止《とゞ》め、「あんな騷《さわ》ぎの中《なか》へ行《い》つても面白《おもしろ》くない、何處《どこ》か外《ほか》を散步《さんぽ》しやうぢやないか、君《きみ》に話《はな》したいこともある」 「さうか」と、健次《けんじ》はどうでもいゝと云《い》つた風《ふう》で、箕浦《みのうら》の後《うしろ》について植込《うゑこ》みに添《そ》うて、人氣《ひとけ》ない方《はう》へ向《むか》つた。丈《たけ》長《なが》きコスモスが風《かぜ》に搖《ゆ》られて、淡《あは》く白《しろ》い花瓣《はなびら》が肩《かた》に觸《ふ》れる。箕浦《みのうら》はその一|輪《りん》を手折《たを》つて、鼻《はな》で嗅《か》いで弄《もてあそ》んだ。 「君《きみ》も此家《こゝ》へ來《き》出《だ》してから、もう五六|年《ねん》になるね」と、健次《けんじ》は突如《だしぬけ》に聞《き》いた。 「うん、君《きみ》が一|番《ばん》の古參《こさん》で、織田《おだ》と僕《ぼく》と、皆《み》んなよく來《き》たものだ」 「しかし君《きみ》や織田《おだ》はこの家《うち》に何《なに》か跡《あと》を殘《のこ》してるが、僕《ぼく》は物《もの》を壞《こは》した丈《だけ》で、何《な》んにも貢献《こうけん》してゐないね、この草花《くさばな》も大抵《たいてい》君《きみ》が種《たね》を卸《おろ》したんぢやないか、客間《きやくま》の油繪《あぶらゑ》だつて君《きみ》が周旋《しうせん》して誰《たれ》とかに書《か》かせたのだし、つまり君《きみ》の盡力《じんりよく》でこの家《うち》もこの庭《には》も大分《だいぶ》色艶《いろつや》がついたが、僕《ぼく》の見《み》た所《ところ》ぢや肝心《かんじん》の先生《せんせい》夫婦《ふうふ》は大分《だいぶ》艶氣《つやけ》がなくなつたね、君《きみ》にやさう思《おも》はれんかい」 「だつて二人《ふたり》とも以前《いぜん》と異《ちが》はんぢやないか、今夜《こんや》は妻君《さいくん》もひどくめか[#「めか」に傍点]して若々《わか〳〵》としてる」 「しかし幾《いく》ら飾《かざ》つてゝも、心《こゝろ》の艶《つや》は失《う》せてる。僕《ぼく》にや二人《ふたり》が奇麗《きれい》なお墓《はか》の中《うち》に埋《うづ》もつてるやうに見《み》える、あれで妻君《さいくん》は獨《ひと》りで藻搔《もが》いてるが、とても拔《ぬ》け出《で》らりやしないよ、君《きみ》なんかにも色《いろ》んなことを云《い》ふだらうが、つまり我々《われ〳〵》の若《わか》い息《いき》を嗅《か》いで、腹《はら》の蟲《むし》を慰《なぐさ》めてるんだ」と、健次《けんじ》は嘲《あざ》けるやうに云《い》つた。 「馬鹿《ばか》な事《こと》を」と、箕浦《みのうら》は淋《さび》しく笑《わら》つて、「先生《せんせい》の家《うち》には何時《いつ》來《き》ても穩《おだ》やかな柔《やは》らかい空氣《くうき》が漂《たゞ》よつてるぢやないか、僕《ぼく》はこんな平穩《へいをん》な生涯《しやうがい》を送《おく》りたいと思《おも》ふ」 「千|駄木《だぎ》の哲人《てつじん》に對《たい》して、麹町《かうじまち》の哲人《てつじん》になるんか、まあそれもいゝが、君《きみ》は此頃《このごろ》は妻君《さいくん》に可愛《かあい》がられてゐないね、去年《きよねん》は箕浦《みのうら》さんでなくちや夜《よ》も日《ひ》も明《あ》けなかつたけれど、もう厭《あ》いてゐるらしい、寵愛《てうあい》が僕《ぼく》に移《うつ》つてる」 「だが、妻君《さいくん》は我々《われ〳〵》の仲間《なかま》にや、誰《た》れに對《たい》しても親切《しんせつ》だよ、先日《こないだ》も織田《おだ》のことを心配《しんぱい》してたから、僕《ぼく》がよく話《はなし》をして置《お》いた」 「そりや妻君《さいくん》も暇《ひま》だから、人《ひと》の世話《せわ》を燒《や》いてるが寵愛《てうあい》は別《べつ》だね、目付《めつ》きが違《ちが》ふ、言葉《ことば》の味《あぢ》が違《ちが》ふ、一人《ひとり》で焦慮《ぢれ》て一人《ひとり》でペスミスチツクになつてるから面白《おもしろ》い、しかし君《きみ》にや分《わか》るまい、一|年間《ねんかん》寵兒《てうぢ》であつた癖《くせ》に」 「そりや君《きみ》が主觀的《しゆくわんてき》に見《み》るからさう見《み》えるんだ、妻君《さいくん》は誰《た》れに對《たい》しても平等《びやうどう》で、何時《いつ》も同《おな》じ調子《てうし》ぢやないか」 「君《きみ》にやさう見《み》えるんだね、ぢやそれでもいゝ」と、健次《けんじ》は無愛相《ぶあいさう》に云《い》つて口《くち》を閉《と》ぢた。蟲《むし》の音《ね》が遠《とほ》く近《ちか》く聞《き》こえる。 「菅沼《すがぬま》さん〳〵」と、久保田《くぼた》の呼《よ》ぶ聲《こゑ》がして、健次《けんじ》は振向《ふりむ》いたが、箕浦《みのうら》は首肯《うつむ》いたまゝ草花《くさばな》の周圍《まはり》を步《あゆ》みながら、 「實《じつ》は過日《こなひだ》から君《きみ》に會《あ》ひたかつたのだ、僕《ぼく》の手紙《てがみ》は見《み》て吳《く》れたらう」 「むん見《み》たよ、用《よう》は何《なん》だつたか、もう忘《わす》れてしまつたが」 「僕《ぼく》は近々《ちか〴〵》に慈善《じぜん》音樂會《おんがくくわい》を企《くはだ》てゝるんだが、君《きみ》も賛成《さんせい》して盡力《じんりよく》して吳《く》れ玉《たま》へな、先生《せんせい》も奧《おく》さんも助力《じよりよく》して吳《く》れる筈《はず》だが、君《きみ》も助《たす》けて吳《く》れ玉《たま》へ」 「音樂會《おんがくゝわい》か、僕《ぼく》にや適任《てきにん》でないが、しかし君《きみ》がやるなら助《たす》けてもいゝ」 「是非《ぜひ》賴《たの》むよ、尙《なほ》詳《くは》しいことは後《あと》で話《はな》すがね、僕《ぼく》はその會《くわい》で自分《じぶん》で新作《しんさく》を朗讀《らうどく》するつもりだ」と云《い》つて、箕浦《みのうら》は聲《こゑ》が沈《しづ》んでゐる。 「此頃《このごろ》は頻《しき》りに朗讀《らうどく》が流行《はや》る」と、健次《けんじ》は獨言《ひとりごと》のやうに云《い》つて「君《きみ》は大論文《だいろんぶん》を書《か》いてるさうだが、まだ出來《でき》ないか」 「あゝ、も少《すこ》しになつて完成《くわんせい》しない、それに此頃《このごろ》はいろんな疑問《ぎもん》が湧《わ》いて來《き》て、思想《しさう》が錯亂《さくらん》していかん」 「何故《なぜ》」 「何故《なぜ》つて、考《かんが》へりや考《かんが》へる程《ほど》、自分《じぶん》の立《た》てた理窟《りくつ》が分《わか》らなくなる、織田《おだ》のやうな單純《たんじゆん》な人間《にんげん》は幸福《しあはせ》だね」 「まあ幸《しあはせ》でも不幸《ふかう》でもいゝさ、僕《ぼく》はもう腹《はら》が減《へ》つて來《き》た、彼方《あつち》へ行《い》つて何《なに》か食《く》はうぢやないか、織田《おだ》の妹《いもと》やマダムにも會《あ》ひたくなつた」と、健次《けんじ》は植込《うゑこみ》の中《なか》を橫切《よこぎ》り、黃《きいろ》い花《はな》、白《しろ》い花《はな》を無慈悲《むじひ》に肱《ひぢ》で散《ち》らした。箕浦《みのうら》は相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》て、低《ひく》い聲《こゑ》でわざと平氣《へいき》に、 「君《きみ》は結婚《けつこん》するのか」 「織田《おだ》が頻《しき》りに運動《うんどう》してる、どうなるかね」 「その方《はう》がいゝだらう、定《きま》りがついて」 「何《なに》が定《きま》りがつくもんか、それよりや君《きみ》こそ早《はや》く妻君《さいくん》でも情婦《いろ》でも拵《こしら》へ玉《たま》へな、僕《ぼく》にや女《をんな》て者《もの》あ肉《にく》の塊《かたまり》としてあるから、口先《くちさき》や目《め》つきで慰藉《ゐせき》されたり愛《あい》を濺《そゝ》がれたりする必要《ひつえう》はないが、君《きみ》はさうはいかない。圓滿《ゑんまん》平穩《へいをん》なスヰートホームて奴《やつ》を造《つく》らなくちや、君《きみ》の全身《ぜんしん》が滿足《まんぞく》されまい、僕《ぼく》は君《きみ》の作物《さくぶつ》を讀《よ》む每《ごと》に、凡《すべ》てが妻君《さいくん》を欲《ほつ》する不安《ふあん》の聲《こゑ》を發《はつ》してるやうに感《かん》ずる。織田《おだ》も君《きみ》も僕《ぼく》も學校《がくかう》時代《じだい》に色《いろ》んな夢《ゆめ》を見《み》て、世《よ》の中《なか》へ出《で》ると、皆《みな》失望《しつばう》したり、考《かんが》へも變《かは》つたが、君《きみ》は終始《しゆうし》一|貫《くわん》してる、君《きみ》の沈鬱症《ちんうつしやう》は戀人《こひゞと》の手《て》で電氣《でんき》を掛《か》けて貰《もら》ひさへすれば直《す》ぐ癒《なほ》る。だから早《はや》くさうし玉《たま》へ、織田《おだ》のやうに食《く》ふに困《こま》るんぢやなし」 「君《きみ》は故意《こい》に不眞面目《ふまじめ》なことを云《い》ふ。惡《わる》い癖《くせ》だ」と、箕浦《みのうら》は少《すこ》し顏《かほ》を赤《あか》らめ、「婦人《ふじん》に對《たい》しても、戀愛《れんあい》に關《くわん》しても、もつと眞面目《まじめ》に深《ふか》い意味《いみ》を見《み》なくちやならんよ」 「さうかねえ」と、健次《けんじ》は冷《ひやゝ》かに云《い》つて「併《しか》し僕《ぼく》自身《じゝん》がさう信《しん》ずれば仕方《しかた》がない、人間《にんげん》は寄生蟲《きせいちう》、女《をんな》は肉《にく》の塊《かたまり》、昔《むかし》から聖人《せいじん》がさう云《い》つてる」 「まさかそんな聖人《せいじん》もあるまい、君《きみ》は己《おの》れを欺《あざむ》いて趣味《しゆみ》や情熱《じやうねつ》を蔑視《べつし》してるんだ」 と、空《そら》を仰《あふ》いで、「見玉《みたま》へ、空《そら》は冴《さ》えて、月《つき》も鮮《あざや》かに出《で》かゝつてる、蟲《むし》でも秋《あき》の氣《き》を感《かん》じて鳴《な》いてる」 「ふゝん」と健次《けんじ》は嘲《あざわら》つたが「しかしね、僕等《ぼくら》寄生蟲《きせいちう》にも血《ち》が流《なが》れてるし腦《なう》が働《はたら》くから、餘計《よけい》なことを考《かんが》へていかん、僕《ぼく》の拳《こぶし》にも力《ちから》がある」と、秋風《しうふう》に長《なが》い髮《かみ》を吹《ふ》かせ、思《おも》ひに沈《しづ》んでる箕浦《みのうら》の手《て》を握《にぎ》つて急《いそ》いで步《あゆ》んだ。 月《つき》は木《こ》の間《ま》に洩《も》れて、新《あたら》しい光《ひかり》を緣側《えんがは》に投《な》げてゐる。今迄《いままで》庭《には》で戯《たはむ》れてゐた連中《れんちう》も大方《おほかた》は客間《きやくま》に集《あつ》まり、二つの食卓《しよくたく》の上《うへ》には鮨《すし》や柿《かき》や栗《くり》が盛上《もりあ》げられてゐる。健次《けんじ》は緣側《えんがは》に立《た》つて一|座《ざ》を見渡《みわた》した。片隅《かたすみ》に妻君《さいくん》とお鶴《つる》とお千代《ちよ》とが鼎形《かなゑがた》に坐《すわ》り、鮨《すし》を貪《むさぼ》りながら、何《なに》か話《はな》しては笑《わら》つてゐる。光《ひかり》を正面《まとも》に受《う》けて、妻君《さいくん》の白《しろ》い齒《は》と、紅《くれなゐ》と碧《みどり》の二つの指環《ゆびわ》のちら〳〵動《うご》くのが目《め》を惹《ひ》いた。 「菅沼《すがぬま》さん、此處《こゝ》へ來《き》玉《たま》へ、貴下《あなた》がゐなくちや駄目《だめ》だ」と、久保田《くぼた》が呼《よ》んだ。彼《か》れは顏《かほ》を熟柿《じゆくし》のやうにして、胡坐《あぐら》を搔《か》き、その前《まへ》には博士《はかせ》が三四|歲《さい》の男《をとこ》の子《こ》を抱《かゝ》へて、獨《ひと》り笑壺《ゑつぼ》に入《い》つてゐる。 久保田《くぼた》の聲《こゑ》を聞《き》いて、妻君《さいくん》もお鶴《つる》も箸《はし》を置《お》いて健次《けんじ》を見上《みあ》げた。健次《けんじ》は目禮《もくれい》して 「お鶴《つる》さんにも暫《しば》らくだね」と、柿《かき》の皮《かは》を入《い》れた盆《ぼん》を跨《また》いで、三|人《にん》の側《そば》へ割込《わりこ》む、 「箕浦《みのうら》君《きみ》來玉《きたま》へ、便《つい》でに鮨《すし》でも抓《つま》んで來《き》て吳《く》れ」と、通路《かよひぢ》を塞《ふさ》がれて、ぐず〳〵してる箕浦《みのうら》を指招《さしまね》いた。 「兄《にい》さん、久保田《くぼた》さんが呼《よ》んで被入《いらつ》しやるぢやありませんか、彼處《あすこ》へ被入《いらつ》しやらなくちや惡《わる》いでせう」と、千代《ちよ》は兄《あに》をこの平和《へいわ》な群《むれ》から追出《おひだ》さうとする。 「後《あと》で行《い》くから、お前《まへ》は酒《さけ》でも取《と》つて來《き》て吳《く》れ」 「彼處《あちら》で召上《めしあが》ればいゝに」と、千代《ちよ》は不承《ふしやう》々々《〴〵》に立《た》つて行《い》つた。 お鶴《つる》は片袖《かたそで》を抱《いだ》くやうにして袴《はかま》の上《うへ》に置《お》き、半《なかば》は口《くち》を開《あ》いて、澄《す》ました顏《かほ》で正面《しやうめん》を見《み》てゐたが健次《けんじ》が壓制的《あつせいてき》にその側《そば》へ箕浦《みのうら》を引据《ひきす》ゑると、 「兄《あに》がよろしく」と會釋《ゑしやく》した。 「お鶴《つる》さんも今日《けふ》は淑女《しゆくぢよ》然《ぜん》としてるね、それより箕浦君《みのうらくん》に酌《しやく》をして、うんと飮《の》まして下《くだ》さい、今日《けふ》はこの人《ひと》も憂愁《いうしう》の雲《くも》に鎖《とざ》されてるから」と、健次《けんじ》は妹《いもと》の手《て》から銚子《てうし》を奪《うば》つて、お鶴《つる》の前《まへ》に置《お》き、箕浦《みのうら》の手《て》に盃《さかづき》を持《も》たせ、 「さあ飮《の》み玉《たま》へ、君《きみ》のライフはこれで幸福《しあはせ》になる、君《きみ》の不安《ふあん》の念《ねん》も消《き》えてしまう」 「僕《ぼく》は飮《の》みたくない」と、箕浦《みのうら》は不快《ふくわい》な顏《かほ》をして、盃《さかづき》を下《した》へ置《お》いた。 「飮《の》みたくなくても、僕《ぼく》が勸《すゝ》めるんだから飮《の》んでもいゝだらう」 「菅沼《すがぬま》さんはほんとに壓制的《あつせいてき》ね」と、妻君《さいくん》は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、口元《くちもと》で笑《わら》つた。 「ぢや仕方《しかた》がない、僕《ぼく》が飮《の》まう、さあ注《つ》いで下《くだ》さい」 お鶴《つる》は伸《の》び上《あが》つて、不格好《ぶかくかう》な手付《てつき》で二三|度《ど》酌《しやく》をした。 「兄《にい》さん、あまり召上《めしあが》つちやいけなくつてよ、今夜《こんや》ね、お父《とつ》さんが話《はな》したいことがあるから、早《はや》く連《つ》れて歸《かへ》つて吳《く》れつて、私《わたし》云《い》ひつかつたのよ」と、千代《ちよ》は兄《あに》の顏《かほ》をのぞき込《こ》んで小聲《こゞゑ》で云《い》つた。 健次《けんじ》はそれには答《こた》へず、盃《さかづき》に嚙《かじ》りついてガブ呑《のみ》を續《つゞ》けてゐた。一|座《ざ》は皆《みな》食《く》つたり飮《の》んだりして腹《はら》を脹《ふく》らせ顏《かほ》を赤《あか》らめ、次第《しだい》に賑《にぎ》やかになる。久保田《くぼた》の蠻音《ばんおん》はますます高《たか》く、女共《をんなども》の笑聲《わらひごゑ》を壓倒《あつたう》して響《ひゞ》いてゐた。すると幹事役《かんじやく》の書生《しよせい》が閾《しきひ》の外《そと》に立《た》ち、羽織《はおり》の紐《ひも》をひねくつて餘興《よきよう》の報告《はうこく》をした。 第《だい》一、菅沼《すがぬま》令孃《れいじやう》と織田《おだ》令孃《れいじやう》の英語《えいご》朗讀《らうどく》。來客《らいきやく》は座《ざ》を改《あらた》めて拍手《はくしゆ》した。健次《けんじ》はそれと見《み》るや直《たゞ》ちに小皿《こざら》に盛《も》つた鮨《すし》を持《も》つて、書生《しよせい》部屋《べや》へ逃《に》げ込《こ》み、肱枕《ひぢまくら》で橫《よこ》になり、手掴《てつか》みで食《く》ひながら、室《しつ》を見廻《みまは》してゐた。笠《かさ》なしの小洋燈《ランプ》の光《ひかり》が細《ほそ》く照《て》らし、片隅《かたすみ》には小《ちい》さい本箱《ほんばこ》と赤毛布《あかけつと》でくるんだ夜具《やぐ》があるのみで、裝飾《そうしよく》は外《ほか》に何《な》んにもないが、只《たゞ》机《つくゑ》の側《そば》の壁《かべ》に新聞《しんぶん》附錄《ふろく》と思《おも》はれる美人《びじん》の石版摺《せきばんずり》が張《は》りつけられてある。朝夕《あさゆふ》その持主《もちぬし》の無聊《ぶれう》を慰《なぐさ》めてゐるのであらう。 健次《けんじ》は酒氣《しゆき》を發《はつ》して、うと〳〵してゐた。客間《きやくま》では拍手《はくしゆ》相《あひ》ついで、尺《しやく》八の音《ね》が消《き》えるとピアノの音《ね》が聞《きこ》える。 「兄《にい》さん被入《いらつ》しやい、もう歸《かへ》るんですよ」と、千代《ちよ》は戶《と》を開《あ》けて聲《こゑ》高《たか》く呼《よ》んだが、返事《へんじ》がないので側《そば》へ寄《よ》つて搖《ゆ》り起《おこ》した。それでも返事《へんじ》がない。 「仕樣《しやう》がないね」と呟《つぶや》いて去《さ》つた。後《あと》で健次《けんじ》は目《め》をパツチリ開《あ》けた。妹《いもと》の締切《しめき》らなかつた戶《と》がギイ〳〵と幽《かす》かな音《おと》を立《た》てゝ動《うご》いてゐる。久保田《くぼた》の詩吟《しぎん》とドダンバタンの音《おと》が流《なが》れ込《こ》む。 「オヽ騷々《さう〴〵》しい」と呟《つぶや》いて、妻君《さいくん》は手燭《てしよく》を以《もつ》て二|階《かい》から下《お》りて、何氣《なにげ》なく書生《しよせい》部屋《べや》の戶口《とぐち》を覘《のぞ》いて「あら菅沼《すがぬま》さん、此處《こゝ》にゐるのですか、どうなすつて」 「又《また》千代《ちよ》なんかの金切聲《かなきりごゑ》を聞《き》かされちやならんと思《おも》つて逃《に》げて來《き》たんですが、寢《ね》ると立《た》つのが面倒《めんだう》臭《くさ》くつて」と、健次《けんじ》は大儀《たいぎ》さうに坐《すわ》つた。 「隨分《ずゐぶん》無性《ぶしやう》だわね」と、妻君《さいくん》は手燭《てしよく》を吹《ふ》き消《け》して廊下《らうか》へ置《お》いた。 「奧《おく》さん貴下《あなた》の演奏《えんそう》も濟《す》んだんですか」 「貴下《あなた》聞《き》かなかつたの」と、妻君《さいくん》は指先《ゆびさき》で柱《はしら》を叩《たゝ》きながら、雪《ゆき》のやうな腕《かひな》を露《あら》はしてゐる。薄光《うすひか》りに土耳古《とるこ》模樣《もやう》の帶《をび》がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]浮《うか》んでゐる。帶留《をびとめ》の金具《かなぐ》が光《ひか》つてゐる。何《な》んだつてあゝ何時《いつ》までも若《わか》いんだらうと健次《けんじ》は思《おも》つた。 「さうですか、私《わたし》がうと〳〵[#「うと〳〵」に傍点]してる間《うち》に、何《なん》だかいゝ音《ね》がしたと思《おも》つた、まだ皆《み》んなゐるんですか」 「子供《こども》連《づ》れは歸《かへ》つたけれど、貴下《あなた》の連中《れんぢう》は皆《みな》ゐますよ、さあ被入《いらつ》しやいな、これから面白《おもしろ》い話《はなし》があるんだから」 「先生《せんせい》や箕浦《みのうら》の話《はなし》も黴《かび》が生《は》へてるからな」と、健次《けんじ》はひよろ〳〵と立上《たちあが》つた。緩《ゆる》んだ帶《をび》を不確《ふたしか》な手《て》で引締《ひきし》め前《まへ》を搔合《かきあは》せて、戶口《とぐち》を出《で》た。オヽデコロンの香《にほ》ひが鼻《はな》を突《つ》いた。酒臭《さけくさ》い息《いき》は妻君《さいくん》の顏《かほ》を無遠慮《ぶゑんりよ》に撫《な》でる。薄暗《うすくら》い廊下《らうか》を無言《むげん》で緩《ゆる》く步《ある》いた。 この夏《なつ》ピアノを洩《も》れ聞《き》きして心《こゝろ》に妄想《もうさう》を描《ゑが》いた時《とき》が心《こゝろ》に浮《うか》ぶ。小說《せうせつ》の話《はなし》に何《なに》か感《かん》じて妻君《さいくん》が「人間《にんげん》は獨身《どくしん》の間《うち》ですよ」と云《い》つて、露氣《つゆけ》のある目《め》を向《む》けたことを思《おも》ひ出《だ》す。お鶴《つる》や千代《ちよ》の前《まへ》ですら、美《び》に誇《ほこ》つてる樣子《やうす》が思《おも》ひやられて傷々《いた〳〵》しくなる。と、直《す》ぐ博士《はかせ》の灰《はい》のやうな面《おもて》が目《め》につく。 彼《か》れは自分《じぶん》が妻君《さいくん》の寵兒《ていじ》である、自分《じぶん》は勝利者《しやうりしや》であると思《おも》つた。で、幼稚《えうち》な空想《くうさう》放縦《はうじう》な妄念《もうねん》が錯亂《さくらん》して湧《わ》き上《あが》つた。 しかし廊下《らうか》傳《つた》ひは僅《わづ》かに一|分間《ぷんかん》、火花《ひばな》の如《ごと》く消《き》えては浮《うか》ぶ空想《くうさう》も僅《わづ》かに一|分間《ぷんかん》に過《す》ぎなかつた。障子《しやうじ》を開《あ》けると、殘肴《ざんこう》を圍《かこ》んで四|人《にん》がばら〳〵に坐《すわ》つてゐる。 「今日《けふ》は何《なん》だか蒸暑《むしあつ》いのね」と、妻君《さいくん》はぽーつと紅《あか》らんだ顏《かほ》を顰《しか》めた。 「菅沼《すがぬま》さんは何處《どこ》へ雲《くも》がくれしてたのです、皆《み》んな一つづゝ隱藝《かくしげい》を出《だ》したのだから、貴下《あなた》も一つやらなくちやならん、箕浦《みのうら》さんもバイヲリンを彈《ひ》いたのですよ」と、久保田《くぼた》は健次《けんじ》の手《て》を握《にぎ》つて「否《いや》だと云《い》へばこの手《て》を放《はな》さない」と、笑《わら》ひながら、グツと力《ちから》を入《い》れて握《にぎ》り締《し》めた。 「ぢや何時《いつ》までも握《にぎ》つて玉《たま》へ」 「さあお演《や》んなさい、謹聽《きんちやう》する」 「何《なに》をやります、貴下《あなた》の好《す》きな决闘《けつたう》ですか」 「ハヽヽヽ决闘《けつたう》も面白《おもしろ》いが、一つ都々《どゞ》一でも端唄《はうた》でも」 「唄《うた》へるの菅沼《すがぬま》さん、貴下《あなた》は何時《いつ》も無藝《むげい》ね」と、妻君《さいくん》は添口《そへぐち》した。 「何《なに》、唄《うた》位《くらゐ》唄《うた》へなくはない」と、健次《けんじ》は自己流《じこりう》に「秋《あき》の夜《よ》」を胴間聲《どうまごゑ》を張《は》り上《あ》げて唄《うた》つて、巧《うま》くとも拙《まづ》くとも何《ど》うでもよいと云《い》ふ風《ふう》だ。 「巧《うま》い感心《かんしん》々々《〳〵〳〵》」と、久保田《くぼた》は怒鳴《どな》つて兩手《りやうて》を亂打《らんだ》し「さあ祝杯《しゆくはい》を献《けん》じよう………それから、一つ僕《ぼく》の愛國《あいこく》の唄《うた》を聞《き》かせます。謹聽《きんちやう》し玉《たま》へ」と、胸《むね》を突出《つきだ》し、兩手《りやうて》を膝《ひざ》に置《お》き、目《め》を細《ほそ》くして土佐節《とさぶし》を唄《うた》つた。「死《し》ねや死《し》ね〳〵五十|年《ねん》の命《いのち》、何《なん》の惜《をし》かろ國《くに》のため」と、强《つよ》い響《びゞ》きが締切《しめき》つた座敷《ざしき》の中《なか》に擴《ひろ》がり、響《ひゞ》きと共《とも》に、壁《かべ》に映《うつ》つた角張《かくば》つた肩《かた》が動搖《どうえう》する。 唄《うた》ひ終《をは》ると太《ふと》い息《いき》を吐《つ》いて、「どうだ緖君《しよくん》甘《うま》いでせう、こんな小《ちい》さな部屋《へや》ぢや調和《てうわ》しないが、荒海《あらうみ》の波《なみ》の音《おと》を聞《き》いて唄《うた》ふと、百|萬《まん》の蒙古勢《もうこぜい》でも退治《たいぢ》する氣《き》になる。つまり愛國《あいこく》の精神《せいしん》を唄《うた》つたのです、なあにヴアイオリンやピヤノは駄目《だめ》だ」と怒鳴《どな》り、ぐつたり[#「ぐつたり」に傍点]首《くび》を垂《た》れて、「我々《われ〳〵》靑年《せいねん》は太平洋《たいへいやう》の波《なみ》の音《おと》を三|味線《みせん》にして、この唄《うた》を唄《うた》はにやならん、それに不服《ふふく》な奴《やつ》がありや、僕《ぼく》が相手《あひて》になつて决闘《けつとう》する」と云《い》つて、又《また》飛上《とびあが》るやうな聲《こゑ》で笑《わら》ひ、健次《けんじ》に凭《もた》れかゝつて、 「貴下《あなた》は我黨《わがとう》の士《し》だ、國家《こくか》のために自愛《じあい》して吳《く》れ玉《たま》へ、僕《ぼく》は戰爭《せんそう》に行《い》つて死《し》ぬるんです、國家《こくか》のために死《し》ぬるんです、今《いま》二|年《ねん》日露《にちろ》戰爭《せんそう》が遲《おそ》かつたら、僕《ぼく》は遼東《れうとう》の野《や》に屍《かばね》を曝《さら》すのだつたが、無念《むねん》だ」と、叫《さけ》んで、健次《けんじ》の肩《かた》から辷《すべ》り落《お》ちると、そのまゝ逞《たくま》しい握拳《にぎりこぶし》を投出《なげだ》して、大《だい》の字《じ》なりに寢《ね》て、正體《しやうたい》がなくなつた。 博士《はかせ》は最初《さいしよ》からあまり[#「あまり」に傍点]口數《くちかず》を利《き》かず、只《たゞ》座中《ざちう》の話《はなし》を聞《き》いて微笑《にこ》々々《〳〵》してゐる。酒《さけ》も二三|杯《ばい》は付合《つきあ》ひに飮《の》んだが紅味《あかみ》は何處《どこ》にも見《み》えぬ。お鶴《つる》と千代《ちよ》とは遠慮《ゑんりよ》して人形《にんぎやう》のやうに並《なら》んでゐる。箕浦《みのうら》は夢見《ゆめみ》る如《ごと》くうつとり[#「うつとり」に傍点]してゐる。一|時《じ》の騷《さわ》ぎが大嵐《おほあらし》の跡《あと》のやうに靜《しづ》まり、只《たゞ》久保田《くぼた》の荒《あら》い鼻息《はないき》に名殘《なごり》を留《とゞ》めてゐる。 暫《しばら》くは互《たが》ひに打《うち》見守《みまも》つたのみで、誰《た》れも口《くち》を利《き》かぬ。疲勞《ひらう》の色《いろ》が人々《ひと〴〵》の顏《かほ》に現《あら》はれかけた。 「もう歸《かへ》らうか」と、健次《けんじ》は箕浦《みのうら》を見《み》て小《ちひさ》い聲《こゑ》で云《い》つた。 「あゝ、もう遲《おそ》くなつたね」と、箕浦《みのうら》は金鎖《きんぐさり》の小《ちひ》さい時計《とけい》を出《だ》して見《み》た。 「まだ早《はや》いぢやありませんか」と、妻君《さいくん》は慌《あわ》てゝ引留《ひきと》めて、お愛相《あいさう》に茶《ちや》を注《つ》いで廻《まは》つた。健次《けんじ》は立《た》ちかけて又《また》坐《すわ》つた。外《ほか》の連中《れんちう》も容易《ようい》に立《た》ちさうでない。で、お鶴《つる》と千代《ちよ》とが久保田《くぼた》の寢姿《ねすがた》を見《み》て、何《なに》やら耳語《さゝや》いてる間《あひだ》、健次《けんじ》は膝《ひざ》を崩《くづ》して煙草《たばこ》を吸《す》ひながら、妻君《さいくん》の顏《かほ》を見詰《みつ》めた、妻君《さいくん》は淋《さび》しく笑《わら》つた。健次《けんじ》は何《なに》か云《い》はんとしたが、口《くち》も心《こゝろ》も疲《つか》れてしまつたのか、そのまゝ口《くち》を噤《つぐ》んだ。 一|座《ざ》はそれ〴〵に異《ことな》つたことを思《おも》つて、化石《くわせき》のやうに坐《すわ》つてゐる。健次《けんじ》は張詰《はりつ》めた氣《き》が弛《ゆる》んで誰《た》れかに縋《すが》りついて、自分《じぶん》の本音《ほんね》を吐《ふ》いて泣《な》いて見《み》たくなつた。「世界《せかい》に取殘《とりのこ》された淋《さび》しい人《ひと》が一人《ひとり》ある」と、自分《じぶん》が賴《たよ》りなく厭《いや》になると、妻君《さいくん》の顏《かほ》も同《おな》じ思《おもひ》を現《あら》はしてるやうに見《み》える。で、無意識《むいしき》に殘《のこり》の酒《さけ》を飮《の》んで目《め》を轉《てん》ずると、煙草《たばこ》の煙《けむ》に卷《ま》かれた鴨居《かもゐ》の額《がく》の海波《なみ》が朧《おぼろ》げに凄《すご》い色《いろ》を見《み》せ、床《とこ》の間《ま》には菊《きく》の花片《はなびら》が何時《いつ》の間《ま》にか散《ち》つてゐて、燈火《ともしび》の薄《うす》い光《ひかり》に漂《たゞよ》うてゐる。戶外《そと》は暫《しば》らくは寂《しん》としてゐる。 「どうした、大變《たいへん》靜《しづ》かだね」と、博士《はかせ》は沈默《ちんもく》を破《やぶ》つて、力《ちから》のない目《め》を見張《みは》つた。 人々《ひと〴〵》の異《ちが》つた思《おも》ひもぱつと消《き》えて、互《たが》ひに目《め》と目《め》で歸《かへ》りを促《うな》がし、一|同《どう》に挨拶《あいさつ》して座敷《ざしき》を出《で》た。健次《けんじ》も後《あと》から續《つ》いて行《い》つた。妻君《さいくん》と博士《はかせ》とは玄關《げんくわん》に立《た》つて、若《わか》い男女《だんぢよ》の影《かげ》を見送《みおく》つてゐた。 戶外《そと》へ出《で》ると、健次《けんじ》は四辻《よつゝじ》に立留《たちど》まり、箕浦《みのうら》に向《むか》つて、 「君《きみ》はこれから歸《かへ》るんか、何時《なんじ》だらう」 「もう九|時《じ》だよ、歸《かへ》らなくちや仕方《しかた》がないぢやないか」 「しかし僕《ぼく》あ物足《ものた》らん、このまゝ歸《かへ》つちや寢《ね》られりやしない」 「ぢや何處《どこ》へ行く」 「兎《と》に角《かく》君《きみ》はお鶴《つる》さんを送《おく》つて行《い》くんだから此處《こゝ》で分《わか》れよう」 「そうか」と、箕浦《みのうら》は千代《ちよ》に目禮《もくれい》し、「ぢや菅沼君《すがぬまくん》近日《きんじつ》訪問《はうもん》するよ」と云《い》つて、お鶴《つる》と並《なら》んで曲角《まがりかど》を曲《まが》つた。 健次《けんじ》は箕浦《みのうら》を忘《わす》れお鶴《つる》を忘《わす》れ久保田《くぼた》を忘《わす》れ、桂田《かつらだ》夫妻《ふさい》があの騷《さわ》ぎの後《あと》で悄然《しよんぼり》差向《さしむか》ひでゐる樣《さま》をのみくつきり[#「くつきり」に傍点]思《おも》ひ浮《うか》べ、夢《ゆめ》のやうに薄暗《うすぐら》く彼《か》の家《うち》を遮《さへぎ》つてる立樹《たちぎ》を顧《かへり》みてゐると、 「いいお月夜《つきよ》ね」と、千代《ちよ》は空《そら》を仰《あふ》いで詠歎《えいたん》の聲《こゑ》を發《はつ》して、「兄《にい》さん何《なに》を考《かんが》へて?」 「おれは最少《もすこ》し散步《さんぽ》して歸《かへ》るから、お前《まへ》は先《さ》きに歸《かへ》れ」 「だつてお父《とつ》さんは兄《にい》さんを待《ま》つて被入《いらつ》しやるんですよ、早《はや》く歸《かへ》らにやいけないわ」 「今日《けふ》に限《かぎ》つて親爺《おやぢ》は何《なん》の用《よう》があるんだらう、病氣《びやうき》でも惡《わる》いんか」と、健次《けんじ》は今朝《けさ》も朝寢《あさね》をして父《ちゝ》の病床《びやうせう》を見舞《みま》はずして、社《しや》へ行《い》つたことを思《おも》ひ出《だ》した。この二三|日《にち》は父《ちゝ》と染々《しみ〴〵》話《はな》したことはない。 「別《べつ》に惡《わる》くもないの、今日《けふ》はお晝《ひる》から起《おき》てる位《くらゐ》ですもの」 「さうか、ぢやおれに何《なん》の用《よう》があるか、お前《まへ》知《し》らないか」 「何《なん》ですか、よく知《し》らないわ、…………だけど、今日《けふ》お隣《とな》りの緖岡《もろをか》さんがお見舞《みま》ひに被入《いらつ》しやるとお父《とつ》さんは何《なん》だか心細《こゝろぼそ》いことを話《はな》してたやうだわ、兄《にい》さんのことも云《い》つて」 「おれのことを?」 「えゝ、……お父《とつ》さんは一|生《しやう》苦勞《くらう》したばかりで、ちつとも取得《とりえ》のない人間《にんげん》で終《をは》るんだけど、兄《にい》さんを立派《りつぱ》に育《そだ》て上《あ》げたのが大事業《だいじげふ》だと云《い》つてね、自分《じぶん》は今《いま》死《し》んでも殘《のこ》り惜《をし》くはない、魂《たましひ》は子供《こども》の頭《あたま》に傳《つた》はつてる、健次《けんじ》は男《をとこ》らしい大《おほ》きな考《かんが》へを持《も》つてるから何時《いつ》かはえらい[#「えらい」に傍点]學者《がくしや》とか政治家《せいぢか》とかになると云《い》つてたわ、」 「諸岡《もろをか》の隱居《ゐんきよ》にそんなことを話《はな》したのか、親爺《おやじ》の十八|番《ばん》だ、話《はなし》の種《たね》が盡《つ》きるとおれのことを持出《もちだ》す、聞《き》く奴《やつ》も聞《き》く奴《やつ》だね」 「でも平生《ふだん》とは話振《はなしぶ》りが異《ちが》つて、何《なん》だか憐《あは》れつぽさうだから、私《わたし》可笑《をかし》かつたわ、それでね、諸岡《もろをか》さんがお突合《つきあひ》に兄《にい》さんを褒《ほ》めるとさも悅《うれ》しさうだつたわ、病氣《びやうき》になつてからは、馬《うま》の話《はなし》は立消《たちぎ》えになつて、私逹《わたしたち》にまで、どうかすると、兄《にい》さんの話《はなし》ばかりしたがるんだから變《へん》だわ」と云《い》つて、間《あひだ》を置《お》いて小聲《こゞゑ》で、「あんな風《ふう》だとお父《とつ》さんももう老耄《おひぼれ》ちやつたのね、今夜《こんや》あたり屹度《きつと》兄《にい》さんに遺言《ゆゐごん》でもするんだわ」と云《い》つて無邪氣《むじやき》に笑《わら》つた。 千代《ちよ》は止切《とぎ》れ〴〵に家庭《うち》の話《はなし》をしかけて、「兄《にい》さんどうなさるの」「兄《にい》さんが何《なん》とか今《いま》の中《うち》に極《きま》りをつけなくちや」と、此頃《このごろ》に珍《めづ》らしく大人《おとな》びた口《くち》を利《き》いたが、健次《けんじ》は只《たゞ》厭《い》やな氣《き》がして、あまり相手《あひて》にしなかつた。  (十四) それから二三|日《にち》して、父《ちゝ》は寢床《とこ》を離《はな》れ、綿入《わたいれ》の重《かさ》ね着《ぎ》に襟卷《ゑりまき》で身《み》を固《かた》め、トボ〳〵と出勤《しゆつきん》するやうになつたが、家《うち》の者《もの》にも目《め》につく程《ほど》窶《やつ》れて、以前《いぜん》の元氣《げんき》は急《きふ》に失《う》せたやうだ。そして每晚《まいばん》健次《けんじ》の歸《かへ》るまでは目《め》を合《あ》はさず、絕《た》えず氣《き》に掛《か》けて待《ま》つてる樣《やう》になり、たま〳〵顏《かほ》を見《み》ると、十|年《ねん》も別《わか》れた子《こ》にでも會《あ》つたかのやうに、一|分間《ぷんかん》でも長《なが》く側《そば》に置《お》きたがり、何《なに》とか話《はなし》をしかける。それが我子《わがこ》の氣分《きぶん》を害《そこ》ねぬやうに如何《いか》にも遠慮勝《ゑんりよがち》の態度《たいど》である。健次《けんじ》には父《ちゝ》の心根《こゝろね》がよく見《み》え透《す》き、自分《じぶん》が家《うち》にゐなければ心元《こゝろもと》ながつてゐることを知《し》つてゐるが、それが却《かへつ》て不快《ふくわい》で溜《たま》らず、大抵《たいてい》は外《はづ》してしまう。 次《つぎ》の日曜《にちえう》には朝餐《あさめし》が濟《す》むと、父《ちゝ》は健次《けんじ》の意《い》を迎《むか》へてか、彼《か》れが雜誌《ざつし》に書《か》いた「社會《しやくわい》と文學《ぶんがく》」と題《だい》する間《ま》に合《あは》せの平凡《へいぼん》な議論《ぎろん》に對《たい》し、馬鹿《ばか》褒《ほ》めをした上《うへ》、自說《じせつ》をも吐《は》きかけたので、健次《けんじ》は苦笑《くせう》した。「人《ひと》に褒《ほ》められたくて書《か》くやうな頓間《とんま》な眞似《まね》をするものか、幇間《たいこもち》ぢやあるまいし」と、自分《じぶん》が詮方《せんかた》なく爲《し》てることが、何《なん》だか他人《たにん》から褒《ほ》めて貰《もら》ひたさに勤《つと》めてると思《おも》はれるのが不愉快《ふゆくわい》だ。自分《じぶん》は名譽《めいよ》の接待《せつたい》に與《あづか》りたくはない。 で、彼《かれ》は父《ちゝ》の前《まへ》をそこ〳〵に逃《に》げ出《だ》した。足《あし》は行場所《ゆきばしよ》に迷《まよ》つて、遂《つひ》に麹町《かうじまち》に向《むか》ふ。織田《おだ》の住《す》んでる町《まち》まで來《き》て、訪《と》はうか訪《と》ふまいかと躊躇《ちうちよ》してゐると、前《まへ》の三|階《がい》建《だて》の二|階《かい》の窓《まど》には、色《いろ》の黑《くろ》い耳《みゝ》に輪《わ》を嵌《は》めた女《をんな》と、靑《あを》い腹掛《はらかけ》をした辮髮《べんぱつ》の男《をとこ》とが頭《あたま》を並《なら》べて、聲高《こわだか》に分《わか》らぬ言葉《ことば》で饒舌《しやべつ》てゐる。路次《ろじ》を隔《へだ》てゝ隣《となり》の洋服店《やうふくてん》から、脊《せい》の高《たか》い色《いろ》の白《しろ》い毛皮《けがは》をぐる〳〵卷《まき》つけた西洋《せいやう》婦人《ふじん》が犬《いぬ》を連《つ》れて出《で》て來《き》た。二人《ふたり》の支那人《しなじん》はそれを見《み》ては面白《おもしろ》さうに笑《わら》つた。その邊《へん》に散《ちら》ばつてた子供《こども》等《ら》は婦人《ふじん》の前《まへ》に集《あつ》まつた。婦人《ふじん》は口笛《くちぶゑ》を吹《ふ》いたり、何《なに》か早口《はやくち》に云《い》つて、犬《いぬ》を綾《あや》してゐたが、やがて店《みせ》から肥滿《ひまん》の男《をとこ》が出《で》て來《く》ると、一|緖《しよ》に勇《いさ》ましく去《さ》つた。支那人《しなじん》も引込《ひきこ》んでしまう。健次《けんじ》は無心《むしん》に見《み》てゐたが、町《まち》が元《もと》のやうに淋《さび》しくつて、埃《ほこり》を含《ふく》んだ風《かぜ》が顏《かほ》に吹《ふ》きつけると、身震《みぶる》ひして路次《ろじ》を入《はい》つた。すると向《むか》うから織田《おだ》が大《おほ》きな身體《からだ》を縮《ちゞ》めて、例《れい》の壞手《ふところで》でノソリ〳〵やつて來《き》て、 「大層《たいそう》寒《さむ》さうな顏《かほ》をしてるね」と、微笑《にこ》々々《〳〵》顏《かほ》で云《い》ふ。 「何處《どこ》へ行《ゆ》くんだい」 「一寸《ちよつと》買物《かひもの》に、今《いま》箕浦《みのうら》が來《き》てるから御馳走《ごちさう》しようと思《おも》つて…………君《きみ》もいゝとこへ來《き》た、まあ上《あが》つてゐ玉《たま》へ、直《す》ぐ歸《かへ》つて來《く》る」 健次《けんじ》は何時《いつ》ものやうに緣側《えんがは》から上《あが》つた。座敷《ざしき》の眞中《まんなか》に箕浦《みのうら》が坐《すわ》つてゐて、瀬戶物《せともの》の火鉢《ひばち》には藁灰《わらばい》の中《なか》に、どつさり[#「どつさり」に傍点]火《ひ》が盛《も》つてある。この前《まへ》來《き》た時《とき》よりも部屋《へや》の樣子《やうす》が明《あか》るさうだ、織田《おだ》の母《はゝ》が茶《ちや》を持《も》つて來《き》て、手短《てみぢ》かに挨拶《あいさつ》をして引込《ひきこん》だきり、妻君《さいくん》の顏《かほ》も見《み》えねば病父《びやうふ》の聲《こゑ》もしない。 「靜《しづ》かだね」と、健次《けんじ》は平生《ふだん》よりは低《ひく》い聲《こゑ》をして、「君《きみ》は此頃《このごろ》此家《こゝ》へよく來《く》るさうだね、織田《おだ》と話《はなし》が合《あ》ふかい」と、箕浦《みのうら》の向《むか》うに腰《こし》を据《す》ゑて、そのテカ〳〵光《ひか》つてる顏《かほ》を見《み》た。 「いや、滅多《めつた》に來《こ》んのだが、今日《けふ》は織田《おだ》が端書《はがき》で僕《ぼく》を呼《よ》びつけたのだ」 「さうか、織田《おだ》が君《きみ》に會《あ》ひたがるのは不思議《ふしぎ》だね、何《なん》の用事《ようじ》だらう」 「別《べつ》に用事《ようじ》ていふ程《ほど》でもない」と、箕浦《みのうら》は澄《す》ましてゐる。 「織田《おだ》も多少《たせう》得意《とくい》になつてるだらう」 「どうだか、餘程《よほど》忙《いそが》しそうだよ」 「しかし今日《けふ》は御馳走《ごちそう》するちうんだから珍《めづ》らしい、」 「そうだ」と、箕浦《みのうら》の返事《へんじ》の空々《そら〴〵》しいのが目《め》につく。 同《おな》じく交際《かうさい》の深《ふか》い友人《いうじん》であれど、健次《けんじ》は織田《おだ》に對《たい》すると、常《つね》に弱者《じやくしや》を庇《かば》うと云《い》ふやうな態度《たいど》を執《と》り、箕浦《みのうら》に對《たい》すると、何《なん》となく壓《おさ》えつけるやうな態度《たいど》を執《と》つてゐる。そして箕浦《みのうら》は彼《か》れの態度《たいど》を左程《さほど》厭《いや》がりもせず、寧《むし》ろ自《みづ》から一|步《ぽ》讓《ゆづ》つて滿足《まんぞく》してゐる。自分《じぶん》の意見《いけん》の批評《ひゝやう》も先《ま》づ彼《か》れに求《もと》め、いろ〳〵の感想《かんさう》もその前《まへ》で吐露《とろ》する。しかし今日《けふ》は多《おほ》く語《かた》らぬ。何《なん》となく隔《へだ》てを置《お》いて、何時《いつ》ものやうに詩的《してき》の話《はなし》もせねば、人生觀《じんせいくわん》染《じ》みたことも云《い》はぬ。 健次《けんじ》も奧《おく》の病人《びやうにん》に憚《はゞか》つて、元氣《げんき》のいゝ口《くち》も利《き》かず、暫《しば》らく默《だま》つてゐた。去年《きよねん》のまゝで薄黑《うすくろ》くなつてる蚊帳《かや》の釣手《つりて》が、隙間《すきま》洩《も》る風《かぜ》に緩《ゆる》く動《うご》いてゐる。箕浦《みのうら》の呼吸《こきふ》の音《おと》もよく聞《きこ》える。で、互《たが》ひに睨《にら》み合《あ》つてると、次第《しだひ》に緣《えん》もない他人《たにん》臭《くさ》い色《いろ》が相手《あひて》の顏《かほ》に讀《よ》める。 「此奴《こいつ》どうかしてるわい」と、健次《けんじ》は冷笑《れいしやう》を洩《もら》して、皮肉《ひにく》の一つも云《い》つてやらうかと思《おも》ふてると、溝板《どぶいた》に重《おも》い足音《あしおと》がして、やがて織田《おだ》は歸《かへ》つて來《き》た。 「馬鹿《ばか》に畏《かしこ》まつてるね、どうしたい」と、大人《おとな》振《ぶ》つた音聲《こわね》で云《い》つて、目尻《めじり》を下《さ》げてジロ〴〵二人《ふたり》の顏《かほ》を見《み》た。織田《おだ》はこの前《まへ》とは打《う》つて變《か》はり、心《こゝろ》に餘裕《よゆう》が出來《でき》たのか、後《うしろ》に病人《びやうにん》のゐるのも忘《わす》れてるやうだ。平生《ふだん》なら箕浦《みのうら》が喋舌《しやべ》るのを默聽《もくちやう》するのだが、今日《けふ》は自分《じぶん》から話題《わだい》を持出《もちだ》して氣㷔《きえん》も吐《は》く。 「だが、仕事《しごと》は勤《つと》まるかい」と、健次《けんじ》は話《はなし》半《なか》ばに聞《き》くと、 「勤《つと》まるとも、それに彼店《あすこ》の主人《しゆじん》が僕《ぼく》の家《うち》の事情《じゞやう》を聞《き》いて、同情《どうじやう》して吳《く》れてるしね」と、ます〳〵得意《とくい》で、仕事《しごと》の話《はなし》まで持出《もちだ》して、「僕《ぼく》ももう四五|年《ねん》したら、基礎《きそ》が堅《かた》くなるよ、目算《もくさん》もちやんと立《た》つてる」 「生意氣《なまいき》な口《くち》を利《き》きやがる」と、健次《けんじ》は腹《はら》で思《おも》つた。 妻君《さいくん》は大《おほ》きな腹《はら》をして、靑《あを》い顔《かほ》に髮《かみ》の毛《け》を亂《みだ》したまゝ、刺身《さしみ》に麥酒《びーる》を運《はこ》んで來《き》た。健次《けんじ》はこの寒《さむ》いのにと思《おも》つたが、一二|杯《はい》煽《あふ》つて、低《ひく》い聲《こゑ》で、 「君《きみ》、お鶴《つる》さんはゐないか」 「あゝ朝《あさ》からゐない」 「妹《いもと》でもゐないと、君《きみ》の家《うち》は萎《しな》びてるね、」 「なあに、今《いま》に僕《ぼく》の後繼者《こうけいしや》が生《うま》れるから、大《おほひ》に光彩《くわうさい》を放《はな》つさ、……君《きみ》も早《はや》く後繼者《こうけいしや》を作《つく》り玉《たま》へ、空論《くうろん》を吐《は》かないで、」 「四五日|會《あ》はん間《ま》に大層《たいそう》先輩《せんぱい》になつたね、箕浦《みのうら》君《きみ》も敎訓《けうくん》を聞《き》きに來《く》るんかね、この人《ひと》に」 「まあ、さうだ」と、箕浦《みのうら》は麥酒《びーる》で濡《ぬ》れた手《て》をハンケチで拭《ぬぐ》ひながら、「君《きみ》と話《はな》すこともあるんだが」と言淀《いひよど》んだ。 「何《なに》を、音樂《おんがく》會《くわい》の事《こと》か、」 「いや、それ計《ばか》りぢやない」 「ぢや話《はな》し玉《たま》へ」 「まあゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]でもいゝ」 「茲《こゝ》でいゝぢやないか」 「歸《かへ》り途《みち》に話《はな》さう」 「因循《ゐんじゆん》だね」と、健次《けんじ》はもう微醉《ほろゑひ》に目《め》を染《そ》めて、思《おも》はず聲《こゑ》の高《たか》くなるに氣《き》づいて一寸《ちよつと》後《うしろ》を顧《かへり》み、「僕《ぼく》はもう直《す》ぐに歸《かへ》るんだから、今《いま》話《はな》し玉《たま》へ、どうせ君《きみ》はお鶴《つる》さんの歸《かへ》るまでゐるんだらうから」と小聲《こごゑ》で云《い》つて笑《わら》つた。 箕浦《みのうら》は「そんなこと」と云《い》つたばかりで默《だま》つてしまつた。織田《おだ》は無神經《むしんけい》な顏《かほ》で絕《た》えず微笑《びしやう》してゐたが、「今日《けふ》は僕《ぼく》が話《はなし》があつて來《き》て貰《もら》つたんだ」 「例《れい》の事《こと》でかい」 「うん」 「でどう極《きま》つた、君《きみ》の重荷《おもに》はどうなつた」 「君《きみ》は僕《ぼく》の說《せつ》を用《もち》ゐんから仕方《しかた》がないさ、僕《ぼく》も考《かんが》へ直《なほ》さなくちや」 「さうか、君《きみ》も何時《いつ》の間《ま》にか、箕浦《みのうら》君《くん》と意氣《いき》投合《とうがふ》するやうになつたんだね」 と云《い》つたが、健次《けんじ》は腹《はら》の中《なか》で、「織田《おだ》の奴《やつ》、とうとう箕浦《みのうら》に妹《いもと》でも賣付《うりつ》けるんだらう」と思《おも》ふと、不思議《ふしぎ》に氣《き》がむしやくしやして、麥酒《びーる》を二三|杯《ばい》グイ呑《の》みにして、急《きふ》に立上《たちあが》り「さあ歸《かへ》らう」と、二人《ふたり》が引留《ひきと》める間《ま》もなく緣側《えんがは》を下《お》りた。 「氣《き》まぐれな男《をとこ》だなあ、何《なに》を考《かんが》へ出《だ》したのだらう」と、織田《おだ》は壞手《ふところで》のまゝ暫《しばら》く閾《しきゐ》の上《うへ》に立《た》つてゐた。 健次《けんじ》の足《あし》は行場所《ゆきばしよ》に迷《まよ》つた末《すゑ》、遂《つひ》に千|駄木《だぎ》へ向《むか》つた。  玉突屋 「二|本《ほん》歸《がへ》り三つ!」と、ボーイは蟲《むし》の喰《く》つた出《で》つ齒《ぱ》を出《だ》して大聲《おほごゑ》で叫《さけ》んだ。彼《か》れは薄《うす》い座蒲團《ざぶとん》の上《うへ》に几帳面《きてうめん》に坐《すわ》つて、兩方《りやうはう》の袖《そで》を搔《か》き合《あは》せてゐる。年齡《とし》は十五六で、顏《かほ》は靑《あを》くて脹《は》れて、髮《かみ》の毛《け》は薄《うす》い。 背廣《せびろ》を着《き》たでつぷり[#「でつぷり」に傍点]肥《ふと》つた男《をとこ》は、臺《だい》にすり寄《よ》つて身《み》を屈《かゞ》め、鳥差《とりさ》しが鳥《とり》を狙《ねら》ふやうな態度《たいど》で、キユーを突出《つきだ》した。 「三つ!」と、ボーイは袖口《そでぐち》から細《ほそ》い棒《ぼう》を出《だ》して、ゲーム盤《ばん》を動《うご》かし、橫《よこ》を向《む》いて欠伸《あくび》をした。 向《むか》うの一|臺《だい》は突手《つきて》もなく、四つの玉《たま》が佗《わび》しげに片隅《かたすみ》に抱《だ》き合《あ》つてゐて、瓦斯《がす》の光《ひかり》は鈍《にぶ》いが、手前《てまへ》の一|臺《だい》は明《あか》るい光《ひかり》の下《した》に、紅白《こうはく》の玉《たま》が追《おひ》つ追《おは》れつ縱橫《じゆうわう》無盡《むじん》にころがつてゐる、ストーブを後《うしろ》にキユーを逆《ぎやく》に突《つ》いて、帶《おび》を緩《ゆる》くだらし[#「だらし」に傍点]なくしたまゝ立《た》つてる角帽《かくぼう》の靑年《せいねん》は「又《また》やられさうだな」と呟《つぶ》やいて、相手《あひて》の突振《つきぶり》を見《み》てゐたが、急《きふ》に後《うしろ》を顧《かへり》みて、「中原《なかはら》、後《あと》で君《きみ》と最《もう》一|度《ど》やらう」と力《りき》んで云《い》つた。柱《はしら》にもたれてワツフルを抓《つま》んでゐた中原《なかはら》は、時計《とけい》を見《み》て、 「もう十二|時《じ》ぢやないか、明日《あす》にしやう」と落付《おちつ》いた聲《こゑ》で云《い》ふ。 「いや、明日《あす》は芝《しば》へ行《い》つて、あの話《はなし》を定《き》めて來《こ》なくちやならん」 「なに、芝《しば》の方《はう》は急《いそ》がなくてもいゝさ」 「だつて早《はや》く定《き》めなければ氣《き》になつてならん、相手《あひて》が愚圖《ぐづ》だから」 「急勝《せつか》ちだね」と、中原《なかはら》はゲーム盤《ばん》を見《み》て、 「栗山《くりやま》さん、今日《けふ》は全勝《ぜんしよう》ですね」 「へゝゝゝ」と、栗山《くりやま》はキユーを扱《しご》いてゐたが、コツツと音《おと》がして、手玉《てだま》は外《そ》れたので、「こりやどうした」と、禿頭《はげあたま》をつるり[#「つるり」に傍点]と撫《な》でゝ、厭《いや》な笑《わら》ひをして、ストーブの側《そば》へ來《き》た。 「さあ一キユーで取《と》り切《き》るか」と、角帽《かくぼう》は勢《いきほひ》よく立上《たちあが》り、チヨークをギシ〳〵付《つ》けながら玉臺《たまだい》を見《み》て、チエツと舌打《したうち》して「厭《いや》な玉《たま》だね」と首《くび》を二三|度《ど》捻《ひね》り、「かう行《い》つてかう來《く》るか」と臺《だい》の上《うへ》に乗《の》り上《あが》つて、邪慳《じやけん》にキユーを出《だ》した。兵子帶《へこおび》がだらり[#「だらり」に傍点]と垂《た》れる。 「二つ」と、氣拔《きぬ》けのした聲《こゑ》でボーイが呼《よ》ぶ。 「おい五だぜ、確《しつ》かり見《み》とれ、ゲーム取《と》りならゲーム取《と》りらしくするんだぜ」と橫目《よこめ》でぢろりとボーイを見《み》た。 「五つ」とボーイは數《かぞ》へ直《なほ》して、目《め》をぱつちり開《あ》けたが、次第《しだい》に上目葢《うはまぶた》が垂《た》れて來《く》る。生欠伸《なまあくび》が喉《のど》を突《つ》いて來《く》るのを漸《やうや》く嚙《か》み殺《ころ》したが、淚《なみだ》が目《め》に浮《うか》ぶ。 角帽《かくぼう》は眉《まゆ》を顰《しか》め、口《くち》を捻《ひね》り、首《くび》を動《うご》かし、襟《えり》を寛《ゆる》くボタンの取《と》れたシヤツの廣《ひろ》く出《で》てるのも關《かま》はず、熱心《ねつしん》に突《つ》いてゐる。栗山《くりやま》は葉卷《はまき》の先《さき》を爪《つめ》でつゝきながら、「玉《たま》は今《いま》時分《じぶん》からよく突《つ》ける、不思議《ふしぎ》なものだ、世間《せけん》がしん[#「しん」に傍点]として來《く》るとキユーも冴《さ》えて來《く》る」と、ストーブに顏《かほ》がほてつ[#「ほてつ」に傍点]てゐる。 「ぢや、今夜《こんや》は徹夜《てつや》して突《つ》きますか」と、角帽《かくぼう》はクシヨンの方向《はうかう》を目《め》で計《はか》つてゐる。ボーイは氣遣《きづか》はしさうに栗山《くりやま》の顏《かほ》を見《み》てゐたが栗山《くりやま》は「へゝゝゝ、徹夜《てつや》も面白《おもしろ》いな、明日《あす》は日曜《にちえう》だし」と、惡《わる》くすると徹夜案《てつやあん》が成立《せいりつ》しさうなので、幽《かす》かに溜息《ためいき》をついた。で、坐《すわ》り直《なほ》して、足《あし》の痺《しび》れを撫《さす》り、ぺこ〳〵の腹《はら》に力《ちから》を入《い》れ、「二つ」「三つ」と付元氣《つけげんき》で叫《さけ》んだが、頭《あたま》は次第《しだい》に下《さが》つてぽうつとする、と、身體《からだ》が地《ち》べたからする〳〵[#「する〳〵」に傍点]と引上《ひきあ》げられるやうな氣《き》になり、そのまゝ遠《とほ》い所《ところ》へ持《も》つて行《ゆ》かれさうになつたが、ガチヤツと音《おと》がしたので目《め》を細《ほそ》く開《あ》けて、「三つ」と夢心地《ゆめごゝち》で叫《さけ》んだ。十二|時《じ》が打《う》つた。 栗山《くりやま》は火《ひ》の熱《ねつ》で汗《あせ》ばんだ手《て》に白粉《こな》を振《ふ》りかけ、立變《たちかは》つてキユーを執《と》り、「早《はや》い者《もの》だ、もう十二|時《じ》だ、家《うち》に居《ゐ》りや、とても今《いま》時分《じぶん》まで起《お》きてらりやしない」 「中原《なかはら》、昨夜《ゆうべ》の今《いま》時分《じぶん》はどうだい」と、角帽《かくぼう》は意味《いみ》ありげににやり〳〵と笑《わら》つてゐる。 「フヽン」と、中原《なかはら》はコークスを指先《ゆびさき》で抓《つま》んで、ストーブへ投《な》げ込《こ》み、「お蔭《かげ》で今日《けふ》は二|時《じ》頃《ごろ》まで寢《ね》てしまつた」 「起《お》きては玉《たま》を突《つ》き、飮《の》んぢや寢《ね》てりや、それで春《はる》は來《く》るんだが、どうもかう玉突屋《たまつきや》にばかり日參《につさん》してゝも困《こま》るよ」 「いゝぢやないか、學問《がくもん》で喰《く》へなきやキユーボーイになるさ、その方《はう》が洒落《しやれ》てるぜ、フツ〳〵〳〵」 「それも呑氣《のんき》でいゝね、しかし何時《いつ》までもこんなことをして遊《あそ》んでもゐられまいよ」 「良心《りやうしん》が咎《とが》めるか、君《きみ》やそんな事《こと》をちよい〳〵考《かんが》へ出《だ》すから酒《さけ》も玉《たま》も上逹《じやうたつ》しないんだよ、」 「さうだね、少《すくな》くとも君《きみ》を對《たい》で負《ま》かす程《ほど》にならなくちや癪《しやく》に觸《さは》らあ」と、ワツフルの殘《のこり》をむしや〳〵平《たひ》らげた。 「勝負有《ゲーム》」とボーイは三|人《にん》の顏《かほ》を順々《じゆん〴〵》に見《み》たが、北風《きたかぜ》が玻璃窓《ガラスまど》に吹《ふき》つけるので、音《おと》を聞《き》いたゞけで首《くび》をすくめて兩手《りやうて》を前垂《まへだれ》の下《した》へ入《い》れて脊《せな》を丸《まる》くした。 「さあ、も一|度《ど》」と、角帽《かくぼう》は目《め》を光《ひか》らせて、玉《たま》を並《なら》べる。 ボーイは恨《うら》めしげな顏《かほ》付《つき》をして、「栗山《くりやま》さん、も一ゲーム如何《いかゞ》です」と哀《あは》れな聲《こゑ》で云《い》つた。 「もう遲《おそ》いから止《よ》さうか」と、栗山《くりやま》は迷《まよ》つてゐる。 「一|時《じ》前《まへ》か」と、ボーイは獨語《ひとりごと》のやうに云《い》つたが、角帽《かくぼう》は帶《おび》を締《し》め直《なほ》して威勢《いせい》よく、「なあに、まだ十二|時《じ》を十五|分《ふん》過《す》ぎたばかりさ、十|分《ぷん》もあればゲームになりますよ」と促《うなが》すので、栗山《くりやま》は時計《とけ》を見《み》て、「今《いま》二十|分《ぷん》だね、ぢや、やるかな」とキユーを執《と》つて、「どうです、十|位《ぐらゐ》下《さ》げますかね」 「なあに大丈夫《だいじやうぶ》、今度《こんど》負《ま》けたら玉《たま》はお止《や》めだ」 「いや君《きみ》の止《や》める〳〵も當《あて》にやならんよ」と、中原《なかはら》は腰《こし》を掛《か》けたまゝ足《あし》拍子《びやうし》を取《と》つてゐる。 ボーイはゲーム盤《ばん》を直《なほ》して、「二つ」「三つ」「五つ」と數《かぞ》へ出《だ》したが、少《すこ》し當《あた》りが途切《とぎ》れると、前《まへ》に屈《かゞ》みさうになる。眠《ねむ》りをまぎらしたくも、軍歌《ぐんか》も歌《うた》へず、足《あし》も動《うご》かせず、手《て》も動《うご》かぬ。で、詮方《せんかた》なしに齒《は》を喰《く》ひしばり目《め》を見詰《みつ》め心《こゝろ》を凝《こ》らしてゐると、かつとした目眩《まぶし》い光《ひかり》が前《まへ》に廣《ひろ》がつて、靑《あを》い臺《だい》と白《しろ》い玉《たま》と紅《あか》い玉《たま》とが、浪《なみ》の上《うへ》にでも漂《たゞよ》ふてゐるかの如《ごと》く見《み》える。しかし無意識《むいしき》に「二つ」「三つ」と叫《さけ》んでゐたが、やがて口《くち》も目《め》も緩《ゆる》んで、心《こゝろ》がとろ〳〵になり、自分《じぶん》の故鄉《こきやう》で弟《をとゝ》を連《つ》れて繍眼兒《めじろ》捕《と》りに行《い》つてる氣《き》になつた。枝《えだ》の上《うへ》に綠《みどり》の羽《はね》を重《かさ》ね合《あ》つて、一|所《ところ》にピー〳〵鳴《な》いてゐる。で、黐竿《もちざほ》を持《も》つて近寄《ちかよ》らうとしたが、身體《からだ》が縛《しば》られてるやうで近《ちか》づけぬ。矢鱈《やたら》に藻搔《もが》いてると、ズドンと音《おと》がして、鳥《とり》は飛《と》んでしまつた。 「おい吉公《きちこう》」と角帽《かくぼう》は怒鳴《どな》つて、「居睡《ゐねむ》りなんかしないでゲームを取《と》れ、今《いま》までよく數《かぞ》へなかつたんだらう、聲《こゑ》がしなかつた」 「いえ、數《かぞ》へてゐたんです」と、出鱈目《でたらめ》に數《かず》を取《と》つて、「十八ゲーム」 「ふゝん、いよ〳〵取切《とりきる》か」と、角帽《かくぼう》は微笑々々《にこ〳〵》して臺《だい》を廻《まは》つてゐる。 「さあ、それが濟《す》んだら、おれが最後《さいご》の一|擊《げき》を與《あた》へて歸《かへ》ることにしよう、もうそろそろ眠《ねむ》くなつた」と、中原《なかはら》は欠伸《あくび》をした。 夜番《よばん》の拍子木《へうしぎ》が地《ち》の底《そこ》からのやうに幽《かす》かに聞《きこ》える。 ボーイは百|年《ねん》も千|年《ねん》も「二つ」「三つ」と繰返《くりかへ》し〳〵叫《さけ》ばねば、打倒《ぶつたふ》れて熟眠《じゆくすゐ》は出來《でき》ぬ運《うん》を脊負《せおつ》てるやうに感《かん》じて、淚聲《なみだごゑ》で「當《あた》りゲーム」  六號記事 私《わたし》は例《れい》の如《ごと》く膳《ぜん》の側《そば》に新聞《しんぶん》を引寄《ひきよ》せ、朝餐《あさめし》を食《た》べながら目《め》を通《とほ》してゐたが、ふと三|面《めん》の隅《すみ》に津坂《つさか》金《きん》一(木版業《もくはんげふ》)が二|階《かい》から落《お》ちて即死《そくし》したとある塵屑《ごみくず》扱《あつか》ひの六|號《がう》記事《きじ》の一つを讀《よ》んで、久《ひさ》しく忘《わす》れてゐたこの男《をとこ》の事《こと》を思《おも》ひ出《だ》し、急《きふ》に氣分《きぶん》が欝《ふさ》いで、肝心《かんじん》な食事《しよくじ》を不味《まづ》くしてしまつた。私《わたし》のやうな淚《なみだ》脆《もろ》い人間《にんげん》は、知人《ちじん》の死去《しきよ》や病氣《びやうき》の報《ほう》を聞《き》いた丈《だけ》で、直《す》ぐに世《よ》の中《なか》を心細《こゝろぼそ》く手賴《たよ》りなく感《かん》ずるのだが、左程《さほど》深《ふか》い交際《つきあひ》をしたのでもなく、只《たゞ》偶然《ぐうぜん》知《し》り合《あ》ひになり、二三カ|月《げつ》の間《あひだ》時々《とき〴〵》往來《わうらい》して、再《ふたゝ》び緣《えん》のない道路《だうろ》の人《ひと》となつた津坂《つさか》の死《し》は、却《かへつ》て懇意《こんい》な友人《いうじん》の死《し》よりも身《み》に染《し》みて、人《ひと》はかくて逝《ゆ》くかとの感《かん》に打《う》たれる。彼《か》れのデツプリ肥《ふと》つた赭顏《あからがほ》も、多少《たせう》上方《かみがた》訛《なまり》の殘《のこ》れるゆつたり[#「ゆつたり」に傍点]した語調《ごてう》も、私《わたし》の目《め》の奧《おく》耳《みゝ》の中《なか》に深《ふか》く止《とゞ》まつてゐて、今《いま》もはつきりと思《おも》ひ浮《うか》べられるが、それは最早《もはや》死人《しにん》の影《かげ》に過《す》ぎぬのだ。 私《わたし》が初《はじ》めて津坂《つさか》に會《あ》つたのは、去年《きよねん》の春《はる》の初《はじ》め。まだ尾張町《おはりちやう》の淸元《きよもと》の師匠《しゝやう》の二|階《かい》を借《か》りて、先《さ》きの見《み》えぬ暮《くら》しをしてゐた時《とき》である。師匠《しゝやう》は藝者《げいしや》上《あが》りの意氣《いき》な女《をんな》。もう四十|過《す》ぎで顏《かほ》に小皺《こじわ》も見《み》えてゐるが、口先《くちさき》が甘《うま》くて、情人《いろ》の取持《とりもち》ぐらゐ何時《いつ》でもして吳《く》れさうなので、近所《きんじよ》の狼連《おほかみれん》が頻《しき》りに出入《でいり》してゐた。津坂《つさか》もその一人《ひとり》で、目《め》を細《ほそ》くして、柄《がら》にない聲《こゑ》を絞《しぼ》り出《だ》し、「よい初夢《はつゆめ》を三つ蒲團《ぶとん》」だの「辨天《べんてん》さんと添伏《そへぶ》しの」だのと唸《うな》つてるのを、私《わたし》は屡々《しば〳〵》洩聞《もれぎ》きをしてゐた。で、この男《をとこ》が木版屋《もくはんや》の親方《おやかた》で下職《したしよく》を二三|人《にん》使《つか》つて氣樂《きらく》に暮《くら》してゐること、酒《さけ》の好《す》きなこと、釣魚《つり》の好《す》きなことなど、師匠《しゝやう》から噂《うはさ》に聞《き》いてゐたが、私《わたし》の目《め》には外《ほか》の連中《れんぢう》と異《ちが》つたことなく、挨拶《あいさつ》一つするでもなかつた。然《しか》るに彼《か》れは、或朝《あるあさ》無斷《むだん》で二|階《かい》へ上《あが》つて來《き》て、階子段《はしごだん》の側《そば》にどつかり坐《すわ》り、もう酒氣《しゆき》を帶《お》びた顏《かほ》に微笑《びせう》を浮《うか》べ、「失禮《しつれい》ですが、一寸《ちよつと》お願《ねが》ひがごあして」といふ。 「何《なん》ですか」と、私《わたし》が振向《ふりむ》くと、 「實《じつ》はね、今《いま》師匠《しゝやう》に聞《き》くと、貴下《あなた》にお願《ねが》ひしたらと申《まを》すんで、失禮《しつれい》ですが突然《だしぬけ》に伺《うかゞ》ひました」 「で、用事《ようじ》は何《なん》です」 「誠《まこと》に御面倒《ごめんだう》で相濟《あひす》みませんが、實《じつ》は私《わたし》の悴《せがれ》が亜米利加《あめりか》へ參《まゐ》つてるのでね、一つ其奴《そい》つに手紙《てがみ》を送《おく》りたいのでごあすが、上書《うはがき》を貴下《あなた》に一|筆《ふで》書《か》いて頂《いたゞ》きたいと思《おも》ひまして」と、重苦《おもくる》しい調子《てうし》で云《い》ふ。 「承知《しやうち》しました、今《いま》直《す》ぐ書《か》きませう」と、私《わたし》は津坂《つさか》から手紙《てがみ》を受取《うけと》り、封筒《ふうとう》にペンで桑港《サンフランシスコ》何街《なにまち》と書《か》いて、 「貴下《あなた》の子息《むすこ》さんは何《なに》をしに彼地《あつち》へ行《い》つてるのです、矢張《やはり》木版業《もくはんげふ》ですか」 「なあに、只《たゞ》何《なん》てことなしに參《まゐ》つたんですが、此頃《このごろ》は商店《しやうてん》へ入《はい》つて中々お金《かね》が取《と》れるさうです、日本《にほん》で版木《はんぎ》いぢりしてるよりや結構《けつこう》でさあ」 「さうでせうね、貴下《あなた》の商賣《しやうばい》は隨分《ずゐぶん》氣《き》の詰《つ》まる仕事《しごと》でせう」 「えゝ、辛氣《しんき》臭《くさ》い面倒《めんだう》な仕事《しごと》ですよ、だから私《わたし》共《ども》の仲間《なかま》は皆《みな》酒《さけ》を呑《の》むか、何《なん》か道樂《だうらく》をしない奴《やつ》はごあせん、全《まつた》く根《こん》が盡《つ》きますからね」 「しかし貴下《あなた》は道樂《だうらく》が多過《おほす》ぎるぢやありませんか、釣魚《つり》もお好《す》きださうだし、これも甘《うま》いし」と、私《わたし》は自分《じぶん》の喉《のど》を指《さ》した。 「へツ〳〵〳〵」と、津坂《つさか》はツル〳〵した頰《ほゝ》を撫《な》でながら「しかしこれで手間《てま》を怠《なま》けて日限《にちげん》を遲《お》くれるてことはごあせん、仕事《しごと》は仕事《しごと》、道樂《だうらく》は道樂《だうらく》ですからな」と、彼《か》れは重《おも》たい身體《からだ》を持上《もた》げ、幾度《いくど》も謝意《しやい》を述《の》べ、「是非《ぜひ》遊《あそ》びに被入《いらつし》やい、私《わたし》の家《うち》は直《す》ぐこの裏《うら》ですから、何《いづ》れその中《うち》沙魚《はぜ》でもお禮《れい》に持《も》つて參《まゐ》りませう」と、階下《した》へ下《お》りたが、門口《かどぐち》を出《で》ると何《なに》か小聲《こごゑ》で唄《うた》つてるやうであつた。 それから四五|日後《にちご》、私《わたし》は或《ある》友人《いうじん》から甲州《かふしう》土產《みやげ》に貰《もら》つた水晶《すゐしよう》の印材《いんざい》を捜《さが》し出《だ》し、津坂《つさか》に彫《ほ》らせやうと思《おも》つて訪《たづ》ねて行《ゆ》くと、津坂《つさか》は筒袖《つゝそで》を着《き》て仕事《しごと》をしてゐる。低《ひく》い机《つくゑ》の上《うへ》に凸鏡《レンズ》を置き、細《ほそ》い小刀《こがたな》で微細《こまか》い繪《ゑ》を彫《ほ》つてゐたが、私《わたし》の顏《かほ》を見《み》ると、「やあよく入《い》らしつた」と、急《きふ》に笑顏《ゑがほ》を造《つく》つて振向《ふりむ》き、黑《くろ》い眼鏡《めがね》を外《はづ》して坐《すわ》り直《なほ》した。 家《いへ》は廣《ひろ》くはないが日當《ひあた》りがよく、主人《しゆじん》が潔癖《けつぺき》と見《み》えて諸道具《しよだうぐ》はキチンと整頓《せいとん》し、塵《ちり》一|本《ぽん》もないやうに拭掃除《ふきそうぢ》が行屆《ゆきとゞ》いてゐる。如何《いか》にも居心地《ゐこゝち》のよい家《うち》だ。片隅《かたすみ》には弟子《でし》が二人《ふたり》、默《だま》つて一|心《しん》に仕事《しごと》をし、次《つぎ》の室《ま》には妻君《さいくん》と女《をんな》の子《こ》の笑《わら》ひ聲《ごゑ》がしてゐる。成程《なるほど》唸《うな》る時《とき》は唸《うな》り、飮《の》む時《とき》は飮《の》んでも、仕事《しごと》には身《み》を入《い》れると云《い》つたが、この男《をとこ》腹《はら》に締《しま》りのある、しつかり者《もの》であらう。この仕事《しごと》場《ば》を見《み》たゞけでも、だらし[#「だらし」に傍点]ない趣《おもむき》は少《すこ》しも見《み》えず、版木《はんぎ》は几帳面《きちやうめん》に積重《つみかさ》ねられ、鋸《のこぎり》も錐《きり》も取散《とりち》らされてはゐない。机《つくゑ》の側《そば》の柱《はしら》には鯉《こひ》の形《かたち》の花瓶《はないけ》を釣《つ》るし、一|莖《くき》の水仙《すゐせん》を挿《さ》してゐる。 「今日《けふ》はお忙《いそが》しさうですね、」と、私《わたし》は彫刻《ほり》を賴《たの》んだ後《あと》で云《い》つた。 「何《なに》、さうでもごあせん、此頃《このごろ》は木版《もくはん》も流行《はやら》なくなつて、暇《ひま》で困《こま》つてる位《くらゐ》でさあ、まあ、ゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]話《はな》して入《い》らつしやい、貴下《あなた》にお尋《たづ》ねしたいこともあるんですよ」と津坂《つさか》は充血《じうけつ》した目《め》をこすり〳〵、稽古《けいこ》に來《く》る時《とき》とは打《う》つて變《かは》つて眞面目《まじめ》な顏《かほ》で云《い》ふ。 「ぢや、も少《すこ》し遊《あそ》んで行《い》きますから、私《わたし》に遠慮《ゑんりよ》なく仕事《しごと》をして下《くだ》さい、話《はなし》は仕事《しごと》をしてゝも出來《でき》る」 「いや、私《わたし》やね、道具《だうぐ》を持《も》つと、ちやんと彫《ほ》り上《あ》げるまで口《くち》一つ利《き》けん位《くらゐ》でしたよ、こんなやくざな[#「やくざ」に傍点]腕《うで》でも、さあ仕事《しごと》だとなると、魂《たましひ》が凝《こ》るんですね、所《ところ》が此頃《このごろ》は變《へん》ですよ、仕事《しごと》に取《とり》かゝると、平生《ふだん》思《おも》ひもつかんことがごた〴〵と考《かんが》へられます、もう二十|年《ねん》もこの仕事《しごと》をやつてゝ、こんな事《こと》は一|度《ど》もなかつたのですがね、どうも不思議《ふしぎ》だ」と考《かんが》へ込《こ》む。 「腦《なう》が惡《わる》いんぢやないですか、あまり酒《さけ》を飮《の》み過《す》ぎて」 「なあに、私《わたし》の身體《からだ》は酒《さけ》位《ぐらゐ》で弱《よは》るやうなのぢやない」 と云《い》つて、例《れい》の重苦《おもくる》しい聲《こゑ》で笑《わら》ふ。それから前夜《ぜんや》の勸工場《くわんこうば》の火事《くわじ》の面白《おもしろ》かつたことを手眞似《てまね》付《つ》きで話《はな》し、又《また》市區《しく》改正《かいせい》で通《とほ》りの鞄屋《かばんや》も立退《たちの》かねばならんので、この近所《きんじよ》の家屋敷《いへやしき》を買《か》つて新築《しんちく》するさうだから、自分《じぶん》の家《いへ》も高《たか》く賣付《うりつ》けてやるなどゝ氣燄《きえん》を吐《は》いた。その態度《たいど》、話振《はなしぶ》りが少《すこ》しも隔意《へだて》なく、初《はじ》めて訪問《はうもん》した私《わたし》に對《たい》しても、さながら長《なが》い間《あひだ》の知己《ちき》のやうであるので、私《わたし》は悅《うれ》しくなり、思《おも》はず長座《ちやうざ》をした。そして彼《か》れの身《み》の上《うへ》を聞《き》くと、大阪《おほさか》生《うま》れで、少《ちさ》い時《とき》から酒屋《さかや》に奉公《ほうこう》してゐたが、身體《からだ》が肥《ふと》つてる爲《せい》か、飛廻《とびまは》るのが厭《いや》で、遂《つひ》にこの商賣《しやうばい》を習《なら》ふことゝなつたさうだ。 「さやう、初《はじ》めて三|文判《もんばん》を彫《ほ》り出《だ》したのが、二十《はたち》の歲《とし》ですから、丁度《てうど》二十五|年《ねん》これで御飯《ごはん》を頂《いたゞ》いてます、しかし木版《もくはん》なんか、もう駄目《だめ》ですな、何《なに》かうん[#「うん」に傍点]と儲《もう》かる確《たし》かな商賣《しやうばい》はごあせんか、先日《こなひだ》も、或方《あるかた》が、これから寫眞版《しやしんばん》なんかゞ進步《しんぽ》すると、木版《もくはん》のやうな不完全《ふくわんぜん》な者《もの》は無《なく》なつてしまふと仰有《おつしや》るので、心細《こゝろぼそ》くなりましたよ、現《げん》に私《わつし》のお受合《うけあひ》してる新聞《しんぶん》や雜誌《ざつし》の仕事《しごと》が、大分《だいぶん》寫眞版《しやしんばん》に踏《ふん》だくられてしまふんですからね、本當《ほんたう》に心細《こゝろぼそ》うごあすよ、私《わつし》が家内《かない》を貰《もら》つて一|本立《ぽんだち》になつた時《とき》、親方《おやかた》が貴樣《きさま》はそれ丈《だけ》腕《うで》が利《き》けば、大丈夫《だいじやうぶ》一|生《しやう》飯櫃《めしびつ》に放《はな》れつこはないつて受合《うけあ》つて吳《く》れたんですが、どうもね、世《よ》が變《かは》りや仕方《しかた》がごあせんや、」と云《い》つて下職《したじよく》を顧《かへり》み、「だから彼奴等《あいつら》にも云《い》つて聞《き》かすんです、こんな手賴《たよ》りにならん稼業《かげふ》は若《わか》い間《うち》に早《はや》く見限《みかぎ》つて、何《なに》か氣《き》の利《き》いた確《たし》かな仕事《しごと》をしろつてね」と、これが淸元《きよもと》を唸《うな》つてる男《をとこ》とは思《おも》へぬ程《ほど》生眞面目《きまじめ》で、腹《はら》の底《そこ》から感《かん》じてゐるやうだ。下職《したしよく》の一人《ひとり》は大《おほ》きな眼鏡《めがね》越《ごし》でこつそり[#「こつそり」に傍点]此方《こちら》を見《み》て、口《くち》の邊《あたり》で笑《わら》つてゐる。私《わたし》も親方《おやかた》の愚痴《ぐち》を寧《むし》ろ可笑《をか》しく感《かん》じたが、多少《たせう》慰《なぐさ》めてやる氣《き》で、「でも木版《もくはん》は日本《にほん》特有《とくいう》の美術《びじゆつ》だから、廢《すた》れる氣遣《きづか》ひはないでせう、西洋《せいやう》でも此頃《このごろ》は日本《にほん》の木版《もくはん》には感心《かんしん》してるんだから」 「さうですかな」と、尙《なほ》多少《たせう》不安心《ふあんしん》らしい。 私《わたし》は仕事《しごと》の邪魔《じやま》を恐《おそ》れて、强《し》いて引留《ひきと》められるのを辭《じ》して歸《かへ》りかけると、津坂《つさか》は跛足《びつこ》引《ひ》くやうにして、送《おく》つて來《き》て、「近々《ちか〴〵》に釣魚《つり》に行《い》つてどつさり[#「どつさり」に傍点]釣《つ》つて來《き》ますから、その時《とき》やお宅《たく》へ押《おし》かけて一|盃《ぱい》やりませう」と約束《やくそく》した。 その後《ご》四五|日《にち》心待《こゝろま》ちにしてゐた甲斐《かひ》もなく、彼《か》れは更《さら》に顏《かほ》を見《み》せず、稽古《けいこ》にも來《こ》ぬらしい。無聊《ぶれう》で友懷《ともなつ》かしい私《わたし》は、遂《つひ》に待切《まちき》れずして、或《ある》晚《ばん》此方《こちら》から訪《たづ》ねて見《み》たが、生憎《あひにく》彼《か》れが無斷《むだん》で何處《どこ》かへ出《で》て行《い》つた後《あと》で、妻君《さいくん》は「お宅《たく》へお稽古《けいこ》にでも行《い》つたことゝ思《おも》つてゐました」と云《い》つて、氣遣《きづか》つてる樣子《やうす》。 私《わたし》はあんまり懇意《こんい》でもない家《うち》へ、度々《たび〴〵》遊《あそ》びに行《ゆ》くのを變《へん》だと思《おも》つて、それ切《き》り足《あし》を向《む》けず、殆《ほと》んど忘《わす》れかけた頃《ころ》、師匠《しゝやう》が私《わたし》に向《むか》つて、 「木版屋《もくはんや》の親方《おやかた》は腦病《なうびやう》とか何《なん》とかで、通《とほ》りで倒《たほ》れたんですつてね」と平氣《へいき》で云《い》ふ。私《わたし》は吃驚《びつくり》して「ぢや腦充血《なうじうけつ》ですか、酒《さけ》が過《す》ぎたんだらう、そして生命《いのち》はあつたんですね」と問《と》ふと、 「何《なん》でもね、くら〳〵つと眩暈《めまい》がして轉《ころ》んだんださうですよ、それでも家《うち》の近《ちか》くだつたから助《たす》かつたんですわ、まだ少《すこ》しは性根《しやうね》があつたのか、無我《むが》夢中《むちう》で四つ這《ば》ひをして、やつとこさで家《うち》の閾側《しきゐぎは》まで歸《かへ》れたのですつてね、隨分《ずゐぶん》可笑《をかし》かつたでせうよ、あの肥《ふと》つた男《をとこ》が眞晝中《まつぴるなか》に大通《おほどほ》りを匍《は》つて步《ある》いたと云《い》ふんですから」と、師匠《しゝやう》は笑《わら》ひ出《だ》した。 「それでも、もうよくなつたんですか」 「えゝ、根《ね》があの通《とほ》り丈夫《じやうぶ》なんですもの」 と、話《はなし》はこれだけで濟《す》んだ。で、私《わたし》は一寸《ちよつと》門口《かどぐち》まで見舞《みま》ひに行《い》つたが、遠慮《ゑんりよ》して病人《びやうにん》には遇《あ》はなかつた。 それから二十日《はつか》あまり、窓《まど》へ差込《さしこ》む春《はる》の日《ひ》もめつきり[#「めつきり」に傍点]温《あたゝ》かくなり、一|冬《ふゆ》着通《きとほ》しの襟垢《ゑりあか》の染《し》みついた下着《したぎ》を脫《ぬ》ぎ、身《み》の輕《かる》くのび〳〵[#「のび〳〵」に傍点]とした時分《じぶん》、思《おも》ひがけなく津坂《つさか》が入《はい》つて來《き》た。相變《あひかは》らず肥《ふと》つてゐるし、顏《かほ》も赭《あか》いが、前《まへ》ほど勢《いきほひ》がなく、唇《くちびる》が黑《くろ》く朽《く》ちてゐる。 「病氣《びやうき》はどうです」と、私《わたし》は欄干《てすり》に干《ほ》してる座蒲團《ざぶとん》を取《と》つて津坂《つさか》に敷《し》かせた。 「へゝゝゝ、どうも弱《よわ》つちまひました」と、彼《か》れは口《くち》を利《き》くのが、如何《いか》にも怠《だ》るさうだ。 「一|體《たい》何處《どこ》が惡《わる》いんです」 「何處《どこ》と云《い》つて餘程《よほど》變《へん》ですよ、醫者《いしや》は鼻《はな》が病氣《やまひ》の元《もと》だらうつて、切開《せつかい》して吳《く》れたんですが、矢張《やはり》りよくなりません、何《なん》でもかう頭《あたま》の端《はし》の方《はう》が風《かぜ》に吹《ふ》き飛《と》ばされさうになるんでね、一|日《にち》氣《き》になります」と左《ひだり》の手《て》で頭《あたま》を撫《な》でまはす。 「なあに養生《やうじやう》してりや癒《なほ》るさ、酒《さけ》を止《や》めて釣魚《つり》をしたり唄《うた》を歌《うた》つて遊《あそ》んでたらいゝでせう」 「醫者《いしや》は寢酒《ねざけ》の少《すこ》し位《ぐらゐ》はいゝつて云《いふ》んですが、何《なん》だか恐《おそ》ろしくて、盃《さかづき》を見《み》ると身震《みぶる》ひがして一|滴《しづく》も飮《の》む氣《き》になりません、どうも妙《めう》な者《もの》です、飮《の》み過《す》ぎや食《く》ひ過《す》ぎで身體《からだ》に障《さは》るなんて、ついぞ思《おも》つたことはなかつたんですがね、二十日《はつか》も酒《さけ》を絕《た》つたのは今度《こんど》が初《はじ》めですよ、それで氣晴《きば》らしに釣魚《つり》にでも行《い》けと勸《すゝ》められるんで、二三|日《にち》前《まへ》に小僧《こぞう》と一緖《いつしよ》に行《い》きましたが、廣《ひろ》い海《うみ》に蒼《あを》い波《なみ》が動《うご》いてるのを見《み》ると、自分《じぶん》もその中《なか》へ吸《す》ひ込《こ》まれさうで恐《こは》くてなりません」 「ひどく臆病《おくびやう》になつたんですね」と、私《わたし》は大《おほ》きな男《をとこ》の悄然《しよげ》た樣子《やうす》を憫然《みじめ》に感《かん》じた。 「皆《み》んながさう申《まを》して笑ひます、何處《どこ》か身體《からだ》の楔《くさび》が弛《ゆる》んだんですかね、それで夜《よる》も碌々《ろく〳〵》寢《ね》つかれませんから、色《いろ》んなことを考《かんが》へますが、つまり今《いま》の稼業《かげふ》が惡《わる》いんでさあ、坐《すわ》つてゝ細《こま》かしい仕事《しごと》を二十|年《ねん》も三十|年《ねん》も續《つゞ》けてたから、こんな病氣《びやうき》に取《とつ》つかれたんだ、つまり木版《もくはん》に取殺《とりころ》されたのです、それもどつさり子供《こども》に殘《のこ》す程《ほど》の身代《しんだい》でも出來《でき》ることか、商賣《しやうばい》は衰微《すゐび》して、この先《さき》糊口《くちすぎ》さへ六ケ|敷《し》いんですからね、昨日《きのふ》も氣晴《きばら》しに銀座《ぎんざ》から丸《まる》の内《うち》の方《はう》へ步《ある》いて見《み》ましたが、世間《せけん》には木版《もくはん》稼業《かげふ》よりやいゝ商賣《しやうばい》が幾《いく》つもころがつてる、何故《なぜ》自分《じぶん》は酒屋《さかや》奉公《ほうかう》を止《や》めた時《とき》、呉服屋《ごふくや》の丁稚《でつち》にでもならなかつたのだらう、何故《なぜ》銀行《ぎんかう》の給仕《きふじ》にでもならなかつたのだらう、さうすれば何時《いつ》までも五|體《たい》が丈夫《じやうぶ》で、仕事《しごと》も衰微《すゐび》すりやしないのに、よくも〳〵人間《にんげん》の撰《え》り屑《くづ》の木版屋《もくはんや》なんかになつたことかと、つく〴〵厭《いや》になりました」 「そんなに欝《ふさ》がなくてもいゝでせう、酒《さけ》が飮《の》めなけりや、唄《うた》でも唸《うな》つて陽氣《やうき》にやるさ、腦病《なうびやう》位《ぐらゐ》直《なほ》つてしまふ」 「唸《うな》つても五|體《たい》に惡《わる》かあないでせうか」 「惡《わる》いものか、却《かへ》つて藥《くすり》になりますよ」 「さうですかね、どうも惡《わる》いやうな氣《き》がしてならん」 「そんな事《こと》はないさ、第《だい》一|好《す》きな者《もの》を何《なに》もかも封《ふう》じてしまつちや生甲斐《いきがひ》がないでせう」 「さうも思《おも》ふんですが、どうも恐《こは》うごあしてね、口《くち》に唾《つばき》が出《で》ても盃《さかづき》を執《と》る氣《き》になれません」と、津坂《つさか》はだるく[#「だるく」に傍点]目葢《まぶた》を垂《た》れ手《て》を拱《こまね》いてゐたが、暫《しばら》くして頭《あたま》を持上《もた》げ、 「御面倒《ごめんだう》ですが、一つ亜米利加《あめりか》の忰《せがれ》にやる手紙《てがみ》を書《か》いて頂《いたゞ》けますまいか、私《わたし》が書《か》くといゝんですが、手《て》が震《ふる》へて書《か》けませんから」 「よろしい、今《いま》でも書《か》いて上《あ》げますが、何《なん》と云《い》つてやるんです、病氣《びやうき》のことですか」 「え、病氣《びやうき》も知《し》らせてやりたいんですが、忰《あれ》が何《なに》か仕事《しごと》を定《き》める時《とき》にや、先《さ》きの確《たし》かな何時《いつ》までも繁盛《はんじやう》するやうな仕事《しごと》を撰《えら》べと、御面倒《ごめんだう》ですが一|筆《ふで》書添《かきそへ》て下《くだ》さいまし」 「それで貴下《あなた》が御病氣《ごびやうき》でも心配《しんぱい》するにや及《およ》ばん、歸《かへ》るにも及《およ》ばんと書《か》いてやるんですね」 「左樣《さやう》、どうせ彼《か》れが私《わたし》の後繼者《あとゝり》だから、私《わたし》が死《し》ねば歸《かへ》らなくちやなりませんが」と云《い》つて、急《きふ》に厭氣《いやき》が差《さ》したか、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて首《かぶり》を振《ふ》り、「なにまだ大丈夫《だいじやうぶ》ですよ、だから心配《しんぱい》するな、しつかり稼《かせ》げとお書《か》き下《くだ》さい」 で、私《わたし》は洋紙《やうし》へペンで書《か》きかけると、津坂《つさか》は少《すこ》し伸上《のびあが》つて、目《め》をペン先《さき》に配《くば》り、取留《とりと》めなく用向《ようむ》きを述《の》べ立《た》てる。 やがて認《したゝ》め終《をは》り、吸取紙《すゐとりがみ》で墨汁《いんき》の潤《うる》みを乾《かは》かせて、私《わたし》は念《ねん》のために讀《よ》んで聞《き》かせた。 「拜啓《はいけい》、當地《たうち》は春暖《しゆんだん》の好《こう》時節《じせつ》、櫻《さくら》も咲《さ》きかけ申《まを》し候《そろ》、母《はゝ》も無事《ぶじ》妹《いもと》も無事《ぶじ》御安心《ごあんしん》相成《あひな》るべく、父《ちゝ》は先月《せんげつ》來《らい》腦病《なうびやう》にて仕事《しごと》も休《やす》み居《を》り候《そろ》が、ほんの輕症《けいしやう》なれば、別《べつ》に御配慮《ごはいりよ》にも及《およ》び申《まを》さず候《そろ》、扨《さ》て先日《せんじつ》御申越《おんまをしこし》の事件《じけん》……」云々《うんぬん》と、宛名《あてな》まで讀《よ》み終《をは》り、 「これでいゝんですか」と聞《き》いた。 「えゝ結構《けつこう》です、どうも有難《ありがた》う御座《ござ》います」 と、津坂《つさか》は頭《かしら》を二三|度《ど》下《さ》げたが、私《わつし》が手紙《てがみ》を封筒《ふうとう》に入《い》れかけるのを見《み》て、さも言憎《いひにく》さうに、「甚《はなは》だ御面倒《ごめんだう》で申兼《まをしか》ねますが、私《わつし》の病氣《びやうき》のことを、もつと、何《なん》とか色艶《いろつや》をつけて書《か》いて頂《いたゞ》けますまいか」と云《い》ふ。 私《わたし》は不思議《ふしぎ》に思《おも》つて、「ぢやどう書《か》くんです、病氣《びやうき》が重《おも》いと云《い》つてやるんですか」 「いえ、重《おも》いでもありませんが、忰《せがれ》がこの手紙《てがみ》を讀《よ》めば、親爺《おやぢ》は氣《き》の毒《どく》だ可愛《かあい》さうだと、淚《なみだ》の一|雫《しづく》位《くらゐ》は落《おと》すやうに書《か》いて頂《いたゞ》きたいと思《おも》ひましてね、」 「だつて、それぢや御子息《ごしそく》が心配《しんぱい》なさるでせう」 「それもさうですね、」と少《すこ》し考《かんが》へて、「しかし、私《わつし》の手賴《たよ》りにするのは彼《か》ればかりで、此頃《このごろ》は每晚《まいばん》のやうに彼《か》れを夢《ゆめ》に見《み》ます、だから私《わつし》が酒《さけ》も飮《の》まずに每日《まいにち》何《なに》か案《あん》じて暮《くら》してる樣子《やうす》を、よく腑《ふ》に落《お》ちるやうに知《し》らせてやつて彼《か》れが私《わつし》の事《こと》を夢《ゆめ》にでも見《み》るやうにさせたいんです、さうでもしないと、世《よ》の中《なか》が心細《こゝろぼそ》くつてなりません」 「隨分《ずゐぶん》六《むづ》ケ《か》敷《しい》御註文《ごちうもん》だが、力《ちから》一|杯《ぱい》工夫《くふう》して見《み》ませう」 と、私《わたし》は三十|分間《ぷんかん》も考《かんが》へ、三四|度《ど》も書直《かきなほ》して、哀《あは》れつぽい文句《もんく》を二つ三つ書《か》き加《くは》へ、認《したゝ》め終《をは》つて讀《よ》んで聞《きか》すと、津坂《つさか》は膝《ひざ》に手《て》を置《お》いて耳《みゝ》を傾《かたむ》け、感《かん》に打《う》たれてか、どんより[#「どんより」に傍点]した目《め》に淚《なみだ》をさへ浮《うか》べた。 「結構《けつこう》です〳〵」と、彼《か》れは胸《むね》の蟠《わだかまり》が融《と》けた如《ごと》く感《かん》じたらしく、手紙《てがみ》を持《も》つて勇《いさ》ましく二|階《かい》を下《お》りた。 それから五六|日《にち》後《のち》、津坂《つさか》は私《わたし》にかの水晶《すゐしやう》の印《いん》を送《おく》り屆《とゞ》けたが、それと共《とも》に、多年《たねん》大切《たいせつ》にした自分《じぶん》の見臺《けんだい》を、師匠《しゝやう》に進呈《しんてい》したさうである。私《わたし》は間《ま》もなく轉宅《てんたく》したから、その後《ご》一|度《ど》も津坂《つさか》に遇《あ》はぬ。手紙《てがみ》の遣取《やりと》りもせぬ。只《たゞ》遺物《かたみ》の印《いん》は今《いま》も座右《ざいう》にあり、その面影《おもかげ》は今《いま》も私《わたし》の目《め》に殘《のこ》つてゐる。  彼《か》れの一日 彼《か》れ――黑塚《くろづか》白雨《はくう》――は九|時《じ》に目《め》を醒《さ》ました。下女《げぢよ》の紙箒《はたき》の音《おと》が部屋《へや》の兩隣《りやうどなり》で騷々《さう〴〵》しく聞《きこ》える。電車《でんしや》の音《おと》がギイ〳〵耳《みゝ》に響《ひゞ》く。彼《か》れは今《いま》までうつら〳〵[#「うつら〳〵」に傍点]淺《あさ》い夢《ゆめ》を見《み》てゐたのだ――草山《くさやま》が赤《あか》い鉢卷《はちまき》して逆立《さかだち》して踊《をど》つてる。喇叭《ラツパ》や太皷《たいこ》で囃《はや》し立《た》てる。自分《じぶん》も手拭《てぬぐひ》を頭《あたま》に載《の》せ褄《つま》を取《と》つて踊《をど》らうとする。場所《ばしよ》は何《なん》でも七八|年前《ねんまへ》に住《す》んでた西方寺《さいはうじ》の一|室《しつ》らしい――彼《か》れはその夢《ゆめ》を考《かんが》へて厭《い》やな氣《き》がした。社《しや》には素面《すめん》でカツポレを踊《をど》る人《ひと》があるが、自分《じぶん》は何《なに》かの拍子《ひやうし》で、一度《いちど》琉球節《りうきうぶし》を唄《うた》つたため、今《いま》思《おも》ひ出《だ》しても冷汗《ひやあせ》が出《で》る。何《なん》だつてあんな夢《ゆめ》を見《み》たことか…… 彼《か》れは身體《からだ》を伸《のば》して新聞《しんぶん》を取《と》り、又《また》寢床《ねどこ》へずり込《こ》んで、それを開《ひら》いた。朝日《あさひ》が障子《しやうじ》の破目《やれめ》を通《とほ》つて、新聞《しんぶん》に圓《まる》く映《うつ》り、鮮《あざや》かに光《ひか》つた。彼《か》れは一|通《とほ》り讀《よ》んで了《しま》うと、むく〳〵と起《お》き、小走《こばし》りで洗面場《せんめんば》へ行《い》つた。五|分間《ふんかん》計《ばか》り冷水《れいすゐ》摩擦《まさつ》に餘念《よねん》がない。これは十|年《ねん》も前《まへ》に身心《しん〳〵》鍛鍊《たんれん》のために初《はじ》めたので、今《いま》はその必要《ひつえう》を感《かん》じてるのではないが、只《たゞ》習慣《しふくわん》で止《や》められぬのだ。この寒《さむ》いのに醉興《すゐきよう》なと、人《ひと》も云《い》へば自分《じぶん》にも思《おも》ふ。しかし苦學《くがく》時代《じだい》の名殘《なごり》がまだ消《き》ゑてしまはぬ。 彼《か》れは朝食《あさめし》を濟《す》ますと、元町《もとまち》の停留場《ていりうば》から電車《でんしや》に乗つた。 車掌《しやしやう》が回數券《くわいすうけん》に鋏《はさみ》を入《い》れるまでは氣《き》が落付《おちつ》かなんだが、お茶《ちや》の水《みづ》を渡《わた》る時《とき》、その車中《しやちう》の役目《やくめ》が濟《す》み一安心《ひとあんしん》した。そして目《め》を閉《と》じ手《て》を拱《こまね》いた。彼《か》れはかねて往復《わうふく》の乗車《じやうしや》時間《じかん》を利用《りよう》して獨逸語《どいつご》を硏究《けんきう》するつもりで、今日《けふ》は懷中《くわいちう》にヂヤーマンコースを潜《ひそ》ませてゐるが、容易《ようゐ》に取出《とりだ》さうともしない。數寄屋橋《すきやばし》まで二十|分間《ぷんかん》、此頃《このごろ》の例《れい》により取留《とりと》めもない空想《くうさう》に耽《ふけ》つた。空想《くうさう》と云《い》つても翠帳《すゐちやう》紅閨《こうけい》が浮《うか》んで來《く》るのでもなく、天外《てんぐわい》無窮《むきう》の境《きやう》に思《おも》ひ及《およ》ぶのでもなく、彼《か》れの顏《かほ》の乾涸《ひから》びてゐる如《ごと》く、その空想《くうさう》も乾涸《ひから》びてゐる。 朝《あさ》讀《よ》んだ社《しや》の新聞《しんぶん》の記事《きじ》が斷片的《きれ〴〵》に頭《あたま》に浮《うか》び、空想《くうさう》がそれに附随《ふずゐ》して飛《と》び廻《まは》る――。自分《じぶん》が力《ちから》を籠《こ》めて書《か》いた或派《あるは》の議員《ぎゐん》買收《ばいしう》の記事《きじ》が悉《こと〴〵》く抹殺《まつさつ》され、今朝《けさ》の新聞《しんぶん》には一|行《ぎやう》も出《で》てゐない。そして下《くだ》らない記事《きじ》はどつさり[#「どつさり」に傍点]出《で》てゐる。電車《でんしや》會社《ぐわいしや》の重役《ぢうやく》の手前《てまへ》勝手《かつて》の意見《いけん》が、さも尤《もつと》もらしく長々《なが〳〵》と出《で》てゐる。あれを書《か》いたのは佐々良《さゝら》に違《ちが》ひない。彼奴《きやつ》何《なに》か魂膽《こんたん》があつて書《か》いたのだらう。怪《け》しからん奴《やつ》だ。常《つね》に新聞《しんぶん》を自分《じぶん》の利益機關《りえきゝくわん》のやうに用《もち》ひる。どう思《おも》つても怪《け》しからん。それで洒蛙々々《しやあ〳〵》として更《さら》に心《こゝろ》にも顏《かほ》にも疚《やま》しい風《ふう》はない。……紙面《しめん》の賑《にぎは》ひと云《い》ふ大憲法《だいけんぱふ》の下《もと》には、針《はり》程《ほど》のことも仰山《ぎやうさん》に吹聽《ふゐちやう》して、人《ひと》に迷惑《めいわく》を掛《か》け、讀者《どくしや》に虛僞《きよぎ》を傳《つた》へ、やうやく下宿《げしゆく》料《れう》に足《た》るか足《た》らぬの報酬《はうしう》を貰《もら》ふ。情《なさけ》ない商賣《しやうばい》、怪《け》しからん職業《しよくげふ》だ。たま〳〵正義《せいぎ》と思《おも》つて破邪《はじや》の筆《ふで》を揮《ふる》ふと抹殺《まつさつ》される―― 彼《か》れの空想《くうさう》は一|轉《てん》して今日《けふ》の晝飯《ひるめし》を考《かんが》へた。蕎麥《そば》、五目鮨《ごもくずし》、餡《あん》パンが早速《さつそく》頭《あたま》に浮《うか》ぶ。どれもどれも度々《たび〳〵》の事《こと》で鼻《はな》についてる。偶《たま》にや變《かは》つた者《もの》が慾《ほ》しい。――遂《つひ》に「大新《たいしん》の天麩羅《てんぷら》」と腹《はら》の蟲《むし》が叫《さけ》んで、彼《か》れは我《われ》知《し》らず袂《たもと》から蟇口《がまぐち》を出《だ》して見《み》た。銀貨《ぎんくわ》が六十|錢《せん》ばかりある。入社《にふしや》以來《いらい》三|年《ねん》月給《げつきう》は居据《ゐすわ》りで、天《てん》ドンは十三|錢《せん》から十八|錢《せん》になつた。どうかしなくちやならん正義《せいぎ》呼《よば》はりもないもんだ。 「曲《まが》りますから御注意《ごちうい》を」と、車掌《しやしやう》が大聲《おほごゑ》で機械的《きかいてき》に云《い》つた。電車《でんしや》が激《はげ》しく動搖《どうえう》する。立《た》つてる乗客《じやうかく》が靴《くつ》の踵《かゝと》で彼《か》れの爪先《つまさき》を踏《ふ》んだ。彼《か》れは角《かど》立《た》つた目《め》で恨《うら》めしさうに相手《あひて》の後姿《うしろすがた》を見上《みあ》げた。電車《でんしや》が落付《おちつ》くと、彼《か》れは又《また》目《め》を閉《と》ぢる。 夢《ゆめ》に踊《をど》つてた草山《くさやま》の現實《げんじつ》の顏《かほ》が憎々《にく〳〵》しく浮上《うきあが》つて來《く》る。――あの野郞《やらう》、社長《しやちやう》にお謟《べつ》かつて、狡《づる》いことをしてやがる。俳優《やくしや》の投票《とうひやう》、小說《せうせつ》の懸賞《けんしやう》募集《ぼしふ》、皆《みな》彼奴《あいつ》の差金《さしがね》だ。體《てい》よく社長《しやちやう》を說《と》いて、社《しや》の發展《はつてん》の爲《ため》だと、お爲《ため》ごかしに自身《じしん》の勢力《せいりやく》擴張《ゝわくちやう》をやつてる。出勤《しゆつきん》時間《じかん》だつて少《ちつ》とも守《まも》つてゐない。朝《あさ》は遲《おそ》く出《で》て晚《ばん》は早《はや》く歸《かへ》る。よく注意《ちうい》して見《み》てるに、おれの三|分《ぶん》の一の仕事《しごと》さへして居《を》らん。それに世間《せけん》からは、やれ何《なに》新聞《しんぶん》の敏腕家《びんわんか》だの、新進《しん〳〵》小說家《せうせつか》で御座《ござ》るの、劇通《げきつう》で候《さふらふ》のと、出放題《ではうだい》な稱賛《しやうさん》をしてゐる。何《なん》だい彼《あ》れが、碌《ろく》そつぽに語學《ごがく》も出來《でき》ねば、文章《ぶんしやう》だつておれの目《め》から見《み》ると些《ちつ》とも甘《うま》くはない。腕前《うでまへ》と云《い》へば新聞《しんぶん》を甘《うま》く利用《りよう》しては本屋《ほんや》の提灯《ちやうちん》持《もち》をして、そのお禮《れい》に拙《まづ》い小說《せうせつ》を賣込《うりこ》む位《くらゐ》だ。何《なん》でも役者《やくしや》からの付屆《つけとゞけ》もありや、御馳走《ごちさう》にもなつてるらしい。昨夜《ゆふべ》だつて大坂《おほさか》役者《やくしや》に百尺《ひゃくせき》へ招待《せうだい》されたさうだ………おれは新聞《しんぶん》へ入《はい》つてから、役德《やくとく》と云《い》やあ、あれと此《こ》れと、招待《せうだい》も三|度《ど》しきや受《う》けてやしない―― 空想《くうさう》はふら〳〵と一|轉《てん》する。「今日《けふ》は何《なに》を書《か》かう」、輪轉機《りんてんき》すら一|臺《だい》もない小新聞《せうしんぶん》だから、彼《か》れの如《ごと》き政治《せいぢ》智識《ちしき》の乏《とぼ》しい者《もの》も、一|週《しう》に一|度《ど》は論說《ろんせつ》を割付《わりつ》けられてあるので、今日《けふ》がその當番《たうばん》だ。彼《か》れはその問題《もんだい》を捜《さが》して、增稅案《ざうぜいあん》、移民《ゐみん》會社《くわいしや》取締《とりしまり》、對《たい》朝鮮《てうせん》政策《せいさく》、どれも六ケ|敷《し》い。國民《こくみん》の驕奢《きやうしや》を攻擊《こうげき》するか、それとも惡小說《あくせうせつ》の流行《りうかう》を罵倒《ばたふ》するか、どちらが手易《たやす》いだらうか、小說論《せうせつろん》にしても、どう論《ろん》じたら早《はや》く書《か》け手數《てすう》が掛《かゝ》らないだらう………と考《かんが》へたが、別《べつ》に妙案《めうあん》の纏《まと》まりもせず、又《また》强《し》いて纏《まと》めやうともせぬ間《うち》、 「數寄屋橋《すきやばし》」 彼《か》れは詮方《せんかた》なく空想《くうさう》を拂《はら》つて電車《でんしや》を下《お》りた。ノソ〳〵と二三|町《ちやう》步《ある》いて社《しや》へ行《ゆ》くと、下駄箱《げたばこ》の側《そば》で草山《くさやま》に出《でつ》くはした。 「やあ、今日《けふ》は馬鹿《ばか》に早《はや》いぢやないか」と、草山《くさやま》の方《はう》から聲《こゑ》を掛《か》ける。黑塚《くろづか》は「それや此方《こちつ》の言分《いひぶん》だ」と、忌々《いま〳〵》しく思《おも》つたが、、口《くち》では尋常《じんじやう》に、 「君《きみ》こそ早《はや》いぢやないか、僕《ぼく》は何時《いつ》も今《いま》時分《じぶん》に來《く》る」 「さうか、女房《にようぼ》のない者《もの》あ異《ちが》つたものだね」と、草山《くさやま》は晴々《はれ〴〵》した聲《こゑ》で云《い》つて二|階《かい》へ上《あが》つた。黑塚《くろづか》は後《あと》から付《つ》いて行《ゆ》く。 草山《くさやま》は黑塚《くろづか》よりも三つ歲上《としうへ》だが、學校《がくかう》も同《おな》じくクラスも同《おな》じく、共《とも》に苦學生《くがくせい》で、半年《はんとし》ばかりは一|緖《しよ》に本鄉《ほんがう》のお寺《てら》で自炊《じすゐ》したこともある。黑塚《くろづか》の入社《にふしや》も草山《くさやま》の周旋《しうせん》によるのだ。しかし今《いま》は二人《ふたり》の生活《くらし》はその着物《きもの》の結城紬《ゆうきつむぎ》と瓦斯織《がすおり》と異《ちが》つてる位《くらゐ》異《ちが》つてゐる。一人《ひとり》は既《すで》に一|家《か》を構《かま》へ女房《にようぼ》もあり子《こ》の二人《ふたり》もあり、多少《たせう》の借金《しやくきん》もある。一人《ひとり》は自炊《じすゐ》から下宿屋《げしゆくや》に移《うつ》つた位《くらゐ》で、さしたる變化《へんくわ》もない。入社《にふしや》と同時《どうじ》に今《いま》の下宿屋《げしゆくや》に轉《てん》じたので、もう彼此《かれこれ》四|年《ねん》同《おな》じ部屋《へや》に居《ゐ》る。せめて宿《やど》でも變《かは》つたらばと思《おも》つてゐるが、思《おも》うばかりで斷行《だんかう》はしない。 そして草山《くさやま》は屡々《しば〳〵》、 「君《きみ》、何《なに》か書《か》かんか、僕《ぼく》が周旋《しうせん》しよう、君《きみ》は原書《げんしよ》が讀《よ》めるんだから、その中《なか》に面白《おもしろ》い話《はなし》が見《み》つかるだらう、何《なん》なら、僕《ぼく》に話《はな》して吳《く》れんか、翻案《ほんあん》の材料《ざいれう》に」 と云《い》つて、多少《たせう》生活《くらし》の補助《ほじよ》を計《はか》つてやるが、黑塚《くろづか》は何時《いつ》も淋《さび》しく笑《わら》つて、首《くび》と手《て》とを橫《よこ》に振《ふ》る。 「僕《ぼく》はとても書《か》けりやしない。それにどうも忙《いそが》しくつて、何《なに》をする暇《ひま》もない」と云《い》つて最後《さいご》は「君《きみ》は餘暇《よか》があるから結構《けつこう》だ」と、褒《ほ》めるのか羨《うらや》ましいのか冷《ひや》かすのか、この男《をとこ》獨得《どく〳〵》の調子《てうし》で云《い》ふ。これが彼《か》れのお定《きま》りの返事《へんじ》だ。そして腹《はら》の中《うち》では「何《なに》彼等《あれら》に利用《りよう》されて溜《たま》るもんか」と、竊《ひそ》かに反抗《はんかう》してゐる。 彼《か》れは編輯室《へんしうしつ》に入《はい》ると、ストーブの側《そば》で煙草《たばこ》を一|本《ぽん》吸《す》ふ。「給使《きうじ》、お茶《ちや》と原稿紙《げんかうし》」と呼《よ》ぶ。その聲《こゑ》は高《たか》く力《ちから》がある。軍曹《ぐんさう》が新兵《しんぺい》にでも命令《めいれい》する口調《くてう》だ。草山《くさやま》は椅子《いす》に反身《そりみ》になり諸新聞《しよしんぶん》の綴込《とぢこ》みを見《み》てゐたが、 「開《ひら》けない奴等《やつら》だ。何《なん》だつてこんな眞似《まね》をするんだらう」と、鼻《はな》で笑《わら》つて、新聞《しんぶん》を下《した》に置《お》き、「君《きみ》讀《よ》んだかい、綾瀨《あやせ》と櫻井《さくらゐ》の喧噪《けんくわ》を」と黑塚《くろづか》の顏《かほ》を見《み》た。 「ふん、大變《たいへん》面白《おもしろ》い、綾瀨《あやせ》に同情《どうじやう》する、眞劍《しんけん》だから活氣《くわつき》がある」 「兩方《りやうはう》とも眞劍《しんけん》さ、だから可笑《おか》しい、あの連中《れんぢう》は朝《あさ》から拔身《ぬきみ》で構《かま》へてるんだね」と、草山《くさやま》は無斷《むだん》で黑塚《くろづか》の煙草《たばこ》を一|本《ぽん》奪《と》つて火《ひ》を借《か》り、「綾瀨《あやせ》も西方寺《さいはうじ》時代《じだい》にはよく來《き》たものだが、この頃《ごろ》はちつとも姿《すがた》を見《み》せん、君《きみ》は遇《あ》うかい。」 「いや滅多《めつた》に會《あ》はん、眞面目《まじめ》に勉强《べんきやう》してるやうだよ、あの男《をとこ》は狡《づる》い所《ところ》がないからいい」と、黑塚《くろづか》は心《こゝろ》の中《なか》では、多少《たせう》草山《くさやま》に當《あて》こすつたつもりであつたが、草山《くさやま》は氣《き》つかぬ風《ふう》で、 「馬鹿《ばか》正直《しやうぢき》で損《そん》ばかりしてると、人樣《ひとさま》に同情《どうじやう》して貰《もら》へるんだが」と笑《わら》ひ〳〵云《い》つた。黑塚《くろづか》は不快《ふくわい》な顏《かほ》をして席《せき》についた。彼《か》れの机《つくゑ》は窓際《まどぎは》に沿《そ》うて孤立《こりつ》してゐる。硯《すゞり》の塵《ちり》を吹《ふ》き墨《すみ》を磨《す》り、凡《およ》そ二十|分《ぷん》も、考《かんが》へてゐると編輯長《へんしうちや》が來《き》たので、 「問題《もんだい》はありませんか、緊要《きんえう》な問題《もんだい》がなければ、小說《せうせつ》の禁止《きんし》について論《ろん》じて見《み》ようと思《おも》ひます、少《すこ》し考《かんが》へもありますから」と後《うしろ》を顧《かへり》みた。 「ぢや、それを書《か》き玉《たま》へ」と、編輯長《へんしうちやう》は卒氣《そつけ》ない返事《へんじ》をする。 彼《か》れは筆《ふで》を嚙《か》んで一二|行《ぎやう》書《か》いたが、次《つぎ》の句《く》が出《で》て來《こ》んので、原稿紙《げんかうし》を丸《まる》めて反古籠《ほごかご》へ投《な》げ込《こ》み、案《あん》を立《た》て直《なほ》した。机《つくゑ》の左右《さいう》では草山《くさやま》や佐々良《さゝら》、それに編輯長《へんしうちやう》も加《くは》はつて競馬《けいば》談《だん》株式《かぶしき》の話《はなし》。 彼《か》れはつい[#「つい」に傍点]四邊《あたり》の話《はなし》に氣《き》を取《と》られ、筆《ふで》が更《さら》に墓取《はかど》らぬ間《うち》、時計《とけい》は一|回轉《くわいてん》する。「何《なん》でおればかり急《いそ》がしんだらう」「社長《しやちやう》はこの寒《さむ》さに競馬《けいば》に行《い》つてる」と、云《い》ふやうな考《かんが》へが、四邊《あたり》の話聲《はなしごゑ》に和《わ》して頭《あたま》に浮《うか》ぶ。 「黑塚《くろづか》君《くん》、もう三十|分《ぷん》ですよ」と、編輯長《へんしうちやう》が急《せ》き立《た》てる。 彼《か》れは慌《あは》てゝ何《なに》が何《なに》やら分《わか》らぬながらに文字《もんじ》を臚列《ろれつ》し、一|段《だん》半《はん》程《ほど》書《か》きなぐつた。これで一|日中《にちゞう》の大役《たいやく》が終《をは》り、二三|時間《じかん》は手《て》が隙《す》く。で、ストーブに近《ちか》よつて、冷《つめ》たくなつた天《てん》ドンを食《く》つた。働《はたら》いて食《く》ふ甘《うま》さを感《かん》じた。飯《めし》一粒《ひとつぶ》も殘《のこ》さない。 ストーブの向《むか》うの薄汚《うすぎたな》い新聞《しんぶん》臺《だい》には女《をんな》記者《きしや》が居《ゐ》る。何時《いつ》もの通《とほ》り地方《ちはう》新聞《しんぶん》の切拔《きりぬき》をしてゐる。彼《か》れは何時《いつ》もの通《とほ》り「哀《あは》れなる女《をんな》よ」と思《おも》つた。もう結婚《けつこん》期《き》を過《す》ぎて顏《かほ》に艶《つや》がなく目《め》にも力《ちから》がないと思《おも》ひながら、その赤《あか》い房《ふさ》のついた可愛《かあい》らしい鋏《はさみ》の動《うご》くのを見《み》てゐた。 「この方《かた》が御面會《ごめんくわい》」と、突如《だしぬけ》に給使《きうじ》が名刺《めいし》を出《だ》した。彼《か》れは言葉《ことば》少《すく》なに腮《あご》で指圖《さしづ》した。しかし椅子《いす》から立上《たちあが》るには少《すこ》し間《あひだ》があつた。女《をんな》記者《きしや》は切拔《きりぬき》を持《も》つて無心《むしん》に彼《か》れを見《み》て席《せき》を轉《てん》ずる。彼《か》れも無心《むしん》に見《み》て應接所《おうせつじよ》へ行《ゆ》く。 來客《らいきやく》は頰髯《ほゝひげ》の見事《みごと》に生《は》へた男《をとこ》。彼《か》れを見《み》ると面相《めんさう》を軟《やはら》げ、吸《す》ひかけの卷煙草《まきたばこ》を火鉢《ひばち》に突込《つきこ》み、 「どうも御多忙《ごたばう》の所《ところ》を」と恭《うや〳〵》しく腰《こし》を屈《かゞ》め、「何《なに》新聞《しんぶん》の鶴見《つるみ》さんが貴下《あなた》にお願《ねが》い申《まを》せといふことで」 「はあ、何《なん》の御用《ごよう》で」 「實《じつ》は今日《けふ》の新聞《しんぶん》に私《わたし》の學校《がくかう》の事《こと》が出《で》て居《を》りますが、あれは事實《じゞつ》相違《さうゐ》で御座《ござ》いましてな」と、ぼつ〳〵その理由《りいう》を說《と》き出《だ》した。 「ハア〳〵」と、黑塚《くろづか》は身《み》を入《い》れて聞《き》いてもゐなかつたが、相手《あひて》が口《くち》を閉《と》ぢるのも待《ま》たず、「しかし貴下《あなた》のお望《のぞ》み通《どほ》りの正誤《せいご》も出《だ》せん、貴下《あなた》の方《はう》で新聞紙《しんぶんし》條例《でうれい》によつて、取消《とりけし》でもお出《だ》しなれば格別《かくべつ》」と、目《め》を据《す》ゑて嚴然《げんぜん》として云《い》ふ。彼《か》れの顏《かほ》にも活氣《くわつき》があつた。 「ですが取消《とりけし》だけではどうも」と、髯《ひげ》は容易《ようゐ》に納得《なつとく》しない。二三|度《ど》押問答《おしもんだう》の後《のち》、黑塚《くろづか》は、 「この新聞《しんぶん》は徹頭《てつとう》徹尾《てつび》責任《せきにん》を以《も》つて書《か》いてるんですから、輕々《かろ〴〵》しく正誤《せいご》も出《だ》せません」と斷言《だんげん》して、「少《すこ》し用事《ようじ》が殘《のこ》つてますから、これで」と、輕《かる》く會釋《ゑしやく》して應接所《おうせつじよ》を出《で》た。 草山《くさやま》はもう帽子《ぼうし》を被《かぶ》つて編輯室《へんしうしつ》の戶口《とぐち》に立《た》つてゐたが、 「黑塚君《くろづかくん》、君《きみ》を捜《さが》してたんだ、一寸《ちよつと》話《はな》したいことがある」と柔《やさ》しく云《い》つて、應接所《おうせつじよ》へ連《つ》れて行《い》つた。黑塚《くろづか》はポカンとして髯男《ひげをとこ》の座《すは》つてた椅子《いす》に腰掛《こしか》けた。 「別《べつ》に急《いそ》いだ話《はなし》ぢやないんだが、君《きみ》どうだね、三|面《めん》へ來《き》て吳《く》れちや、實《じつ》は三|面《めん》も少《すこ》し改良《かいりやう》するので、君《きみ》に助《たす》けて貰《もら》うと至極《しごく》都合《つがふ》がいゝんだ」 黑塚《くろづか》は不思議《ふしぎ》さうにヂロ〳〵相手《あひて》を見《み》て、「だつて僕《ぼく》は二|面《めん》の方《はう》がいゝ、政治《せいぢ》や敎育《けういく》に關係《かんけい》した方《はう》が興味《きようみ》が多《おほ》い」と、自分《じぶん》でも信《しん》ぜぬことを云《い》ふ。 「しかし、編輯《へんしう》をやつてゝは政界《せいかい》のこともよくは分《わか》るまいし、君《きみ》の素養《そやう》から云《い》つても三|面《めん》の方《はう》が適《てき》してるぢやないか、相互《おたがひ》のためだ、一《ひと》つうん[#「うん」に傍点]と云《い》つて吳《く》れ玉《たま》へ……尤《もつと》も今《いま》が今《いま》返事《へんじ》をしなくてもいゝがね」と、草山《くさやま》は杖《つえ》で床《ゆか》を叩《たゝ》きながら、少《すこ》し俯首《うつむ》いて云《い》ふ。 黑塚《くろづか》は、相互《おたがひ》の爲《ため》と云《い》ふ言葉《ことば》を不快《ふくわい》に感《かん》じ、「でも僕《ぼく》にや今《いま》の受持《うけもち》がいゝ、少《すこ》し抱負《はうふ》もあるから」と云《い》つて、腹《はら》では何《なん》でこんな男《をとこ》の下《した》に使《つか》はれるものかと力《りき》んだ。 「さうだらう」と輕《かる》く首背《うなづ》いて、「けれどね、實《じつ》は何《なん》だよ、主筆《しゆひつ》もそれを望《その》んでるんだよ」 「主筆《しゆひつ》が」と、黑塚《くろづか》は目《め》を尖《とが》らせ、「何《なに》か僕《ぼく》に落度《おちど》があるんかい、」 「何《なに》、さうでもあるまい」と、あやふや[#「あやふや」に傍点]に云《い》つて、强《し》いて笑顏《えがほ》を造《つく》り、「まあ、何時《いつ》かゆつくり[#「ゆっくり」に傍点]話《はな》さう、どうだいビールでも呑《の》みに行《ゆ》かんか」とお愛相《あいそ》に云《い》つた。 「いや、僕《ぼく》はまだ仕事《しごと》が殘《のこ》つてる、君《きみ》のやうに早《はや》く歸《かへ》れるといゝけれど」 と、黑塚《くろづか》は編輯室《へんしうしつ》へ歸《かへ》り、机上《きじやう》に堆積《たいせき》せる外交《ぐわいかう》記者《きしや》の齎《もた》らした議會《ぎくわい》の記事《きじ》を添削《てんさく》した。粗末《そまつ》な原稿紙《げんかうし》の曖昧《あいまい》な筆蹟《ひつせき》を辿《たど》つて「國家《こくか》十|年《ねん》の大計《たいけい》」だの、「満面《まんめん》朱《しゆ》を濺《そゝ》いで演壇《えんだん》へ上《のぼ》り」だのと元氣《げんき》のいゝ文句《もんく》を見《み》てる中《うち》に瓦斯《がす》がつく。 彼《か》れは硯箱《すゞりばこ》を仕舞《しま》ふと同時《どうじ》に、草山《くさやま》の言葉《ことば》が急《きふ》に毒氣《どくき》を帶《お》びて浮《うか》んで來《く》る。「彼奴《あいつ》の中傷《ちうしやう》だらう」「あんな奴《やつ》の下《した》に使《つか》はれてなるもんか」と反抗心《はんかうしん》を起《おこ》してゐた。 社員《しやゐん》は一人《ひとり》減《へ》り二人《ふたり》減《へ》る。 彼《か》れは暫《しば》らく机《つくゑ》を離《はな》れない。反抗心《はんかうしん》は次第《しだい》にゆるんで[#「ゆるんで」に傍点]手賴《たよ》りない氣《き》になる。 「そうだ、今日《けふ》は綾瀨《あやせ》を尋《たづ》ねよう、彼《か》れは我黨《わがたう》の士《し》だ、僕《ぼく》に同感《どうかん》して吳《く》れるに違《ちが》ひない、草山《くさやま》のやうな俗物《ぞくぶつ》ぢやない」と立上《たちあが》り、今《いま》刷上《すりあが》つた初版《しよはん》の新聞《しんぶん》を取《と》つて、自分《じぶん》の書《か》いた慷慨的《かうがいてき》論文《ろんぶん》を讀《よ》み〳〵階下《した》へ下《お》りた。下駄箱《げたばこ》の前《まへ》に社長《しやちやう》が立《た》つてゐて、使方《つかひかた》が草履《ざうり》を出《だ》してゐる。競馬《けいば》に負《ま》けたのか、社長《しやちやう》の顏《かほ》は苦虫《にがむし》嚙潰《かみつぶ》したやうだ。「何《なに》か云《い》はれるか」と、彼《か》れは胸騷《むなさわ》ぎをさせ、恭《うや〳〵》しく會釋《ゑしやく》して、コソ〳〵戶外《そと》へ出《で》た。 五六|間《けん》前《さき》には、女《をんな》記者《きしや》が白《しろ》い肩掛《シヨール》を纏《まと》うて步《あゆ》んでゐる。彼《か》れも同《おな》じ道《みち》を取《と》つた。埃《ほこり》臭《くさ》い風《かぜ》が萎《しな》びた路傍《ろばう》の柳《やなぎ》を吹《ふ》いた。  五月幟  (一) 「穗浪《ほなみ》村《むら》は人家《じんか》三百|戶《こ》」と、小學《せうがく》の敎師《けうし》は二十|年《ねん》も前《まへ》から兒童《じどう》に敎《をし》へてゐる。この三百|戶《こ》の八九|分《ぶ》は漁業《ぎよげふ》か農業《のうげふ》、或《あるひ》は漁農《ぎよのう》兼帯《けんたい》で生活《くらし》を立《た》てゝゐるが、百八十|番地《ばんち》の「瀨戶《せと》吉松《きちまつ》」の一|家《か》は、母《はゝ》は巫女《みこ》、息子《むすこ》は畵工《ぐわこう》。村《むら》に不似合《ふにあひ》な最《もつと》も風變《ふうがは》りの仕事《しごと》をしてゐる。で、海《うみ》が荒《あ》れて不漁《ふれう》が續《つゞ》いたり、暴風雨《ぼうふうゝ》や蟲害《ちうがい》で麥《むぎ》や稻《いね》の充實《みのり》が惡《わる》いと商人《しやうにん》も大工《だいく》も石屋《いしや》も疊屋《たゝみや》も、或《あるひ》は僧侶《そうりよ》神主《かんぬし》、皆《みな》その影響《えいけう》を受《う》けるのだが、殊《こと》に吉松《きちまつ》一|家《か》は酷《ひど》い。 しかし今歲《ことし》は漁《れう》がよかつた。鯛《たい》も捕《と》れた、鰆《さはら》も捕《と》れた、漁夫《れうし》は沖《おき》で釣《つ》つた魚《うを》を賣《う》つて、岡山《をかやま》や牛窓《うしまど》から縮緬《ちりめん》の兵兒帶《へこおび》、疊付《たゝみつき》の下駄《げた》、洋銀《やうぎん》の簪《かんざし》やら派手《はで》な手拭《てぬぐひ》やら、土產物《みやげもの》をどつさり[#「どつさり」に傍点]買込《かひこ》み、尙《なほ》魚籠《どうまる》には兩手《りやうて》で掬《すく》い切《き》れぬ程《ほど》の銀貨《ぎんくわ》や銅貨《どうくわ》を殘《のこ》して歸《かへ》つて來《き》た。明後日《あさつて》は舊歷《きうれき》五|月《ぐわつ》の節句《せつく》であれば、遠海《えんかい》へ出稼《でかせぎ》に行《い》つてる舟《ふね》も、よく〳〵不漁《ふれう》でない限《かぎ》りは、久振《ひさしぶ》りに陸《くが》の鹽辛《しほから》くない飯《めし》を食《く》ひに歸《かへ》り、濱邊《はまべ》には珍《めづ》らしく百|艘《そう》近《ちか》くの小舟《こぶね》親船《おやぶね》が並《なら》んでゐる。そして吉松《きちまつ》は諸方《しよはう》から幟《のぼり》の揮毫《きがう》を賴《たの》まれて、近年《きんねん》に無《な》く多忙《たばう》である。 彼《か》れは日限《にちげん》に迫《せ》まられ、五六|日《にち》戶外《そと》へ出《で》ず、夜《よる》も行燈《あんどん》の側《そば》で書《か》いてゐたが、いよ々々今《いま》一《ひと》つで描《か》き終《をは》れるのだ。圖題《づだい》は鎧姿《よろひすがた》の淸正《きよまさ》で、略々《ほぼ》形《かたち》だけ出來《でき》上《あが》つてゐる。彼《か》れは禿筆《ちびふで》の先《さき》で淸正《きよまさ》の髯《ひげ》を細《こまか》く描《か》きながら、疲《つか》れた肩《かた》を左《ひだり》の手《て》で揉《も》んだり、墨《すみ》の染《し》みた下唇《したくちびる》を噛《か》んで、細《ほそ》長《なが》い布《ぬの》を見上《みあ》げ見下《みおろ》してゐる。一|筆《ふで》每《ごと》に凛々《りゝ》しい姿《すがた》の浮《う》き上《あが》るのを見《み》るにつけて、もつと奇麗《きれい》な繪具《ゑのぐ》が欲《ほ》しくてならぬ。あの草摺《くさずり》もその臑當《すねあて》も他《ほか》の色《いろ》で彩《いろど》つて見《み》たい。何時《いつ》ぞや大福寺《だいふくじ》で蟲干《むしぼし》のあつた時《とき》、佛樣《ほとけさま》の繪《ゑ》を二三|幅《ぷく》見《み》せて貰《もら》つたが、どれも懷《なつ》かしい繪具《ゑのぐ》を用《もち》ひてあつて、見《み》てゐて何《なん》といふ事《こと》なしにいゝ氣持《きもち》がして、その前《まへ》を離《はな》れたくなかつた。あんな繪具《ゑのぐ》は何《なん》で拵《こしら》へるのか知《し》らんが、自分《じぶん》も一|年《ねん》に一|度《ど》でも、立派《りつぱ》な繪具《ゑのぐ》で絹地《きぬぢ》へ書《か》いて見《み》たいな。 彼《か》れの左右《さいう》には墨《すみ》を溶《と》かした飯《めし》茶碗《ぢやわん》と、小《ちい》さい朱硯《しゆすゞり》と、臙脂《べこ》と藍《あひ》を兩緣《りやうふち》に塗《ぬ》つた小皿《こざら》があるばかり。筆《ふで》も小學《せうがく》生徒《せいと》の手習《てならひ》用《よう》の一|本《ぽん》二|錢《せん》か三|錢《せん》のを毛《け》が擦《す》り切《き》れるまで使《つか》つてゐる。で、道具《だうぐ》には不平《ふへい》を抱《いだ》いてゐるが、好《す》きな仕事《しごと》ではあり、第《だい》一|金《かね》が取《と》れるのだから、自然《しぜん》に勵《はげ》みもついて、身體《からだ》の怠《だる》いのも我慢《がまん》して、筆《ふで》を運《はこ》ばせた。家《いへ》は二室《ふたま》だが、只《たゞ》閾《しきゐ》で區切《くぎ》つてあるのみで襖《ふすま》も障子《しやうじ》もない。上等《じやうとう》の室《ま》には床板《ゆかいた》の上《うへ》に薄緣《うすべり》を敷《し》き詰《つ》め、次《つぎ》の室《ま》には座蒲團《ざぶとん》代《がは》りに一|枚《まい》の蓆《むしろ》を敷《し》いてある。繪布《ゑぬの》の裾《すそ》は蓆《むしろ》の室《ま》へ挾出《はみだ》され巫女《みこ》婆《ばあ》さんの膝《ひざ》に觸《ふ》れてゐる。婆《ばあ》さんは片袖《かたそで》をまくり上《あ》げ、肥《ふと》つた腕《かひな》を露《あら》はして臼《うす》を挽《ひ》いてゐる。居眠《ゐねむり》をし通《どほ》して、朝《あさ》から掛《かゝ》つてゝ、まだ一|升《しやう》足《た》らずの粉《こな》が挽《ひ》け切《き》らぬ。 「吉《きち》よ、汝《われ》やまだ書《か》いてしまはんか」 と、婆《ばあ》さんは附木《つけぎ》で粉《こな》を搔寄《かきよ》せては張籠《はりかご》に移《う》つしてゐる。 「も少《すこ》しで書《か》いて仕舞《しま》わあ、お母《かあ》はまだ挽《ひ》いて仕舞《しま》はんのか」 「お母《かあ》も、もう一握《ひとにぎ》りでえゝんぢやがの、汝《われ》お腹《なか》が減《へ》つたら、お晝飯《ひる》にしやうか、太陽樣《こんにちさま》もそろ〳〵隣《とな》りの牛小屋《うしごや》へ當《あた》りだした」 「さうかな、もう正午《おひる》過《すぎ》か、そないになるたあ思《おも》はなんだ」 「どりやお茶《ちや》でも沸《わか》さう」 と、婆《ばあ》さんは片手《かたて》で膝《ひざ》を壓《おさ》へ、「うんとしよ」と伸《の》び上《あが》り、凸凹《でこぼこ》の多《おほ》い庭《には》へ下《お》りて、柴《しば》を一攫《ひとつかみ》を壓折《へしを》つて茶釜《ちやがま》の下《した》へ投《な》げ込《こ》み、附木《つけぎ》で火《ひ》を點《つ》けた。黑烟《くろけむり》が渦《うづ》を卷《ま》いて繪布《ゑぬの》の上《うへ》を這《は》ひ、低《ひく》い軒下《のきした》へ流《なが》れ出《で》る。吉松《きちまつ》は靑《あを》い顏《かほ》を顰《しか》め、勢《いきほひ》のない咳《せき》を出《だ》した。目《め》を細《ほそ》くして戶外《そと》を見《み》た。門口《かどぐち》には五月雨《つゆ》の用意《ようい》に柴《しば》や木片《こつぱ》を堆高《うづたか》く積《つ》んである。空《そら》は見《み》えぬが、日《ひ》は鮮《あざや》かに石《いし》ころ道《みち》を照《て》らし、帽子《ぼうし》代《がは》りに頰冠《ほゝかぶ》りして肥桶《こえたご》擔《にな》つた男《をとこ》が、腰《こし》を振《ふ》つて通《とほ》つてゐる。二三|人《にん》首《くび》を抱《だ》き合《あ》ひ、得意氣《とくいげ》に卷煙草《まきたばこ》を吹《ふ》き、ゲラゲラ笑《わら》つて村《むら》の若《わか》い衆《しゆ》が練《ね》つて行《ゆ》く。「吉《きち》マよ」「チビ松《まつ》」と聲《こゑ》を掛《か》けて行《ゆ》く者《もの》もある。尻《しり》端折《はしを》り藁《わら》草履《ざうり》を穿《は》いた水汲《みづくみ》女《をんな》が小《ちい》さい桶《をけ》を荷《にな》つて二人《ふたり》三|人《にん》續《つゞ》いて通《とほ》つた。井戶水《ゐどみづ》は鹽氣《しほけ》があり、山蔭《やまかげ》の泉《いづみ》のみが一|村《そん》の飮料水《いんれうすゐ》となるので、盆《ぼん》と節句《せつく》には泉《いづみ》が乾《か》れると云《い》ふが、急《きふ》に家族《かぞく》の殖《ふ》えた此頃《このごろ》、女房《かみさん》や娘《むすめ》は水汲《みづくみ》が一|日《にち》の大役《たいやく》なのだ。 吉松《きちまつ》はその水汲《みづくみ》の一人《ひとり》の後姿《うしろすがた》を見《み》て、お竹《たけ》ぢやないかと思《おも》つた。顏《かほ》をも見《み》せず、すた〳〵と行《い》つてしまつたが、その眞紅《しんく》の襷《たすき》、脹《ふく》らかな白《しろ》い脛《はぎ》、どうも彼女《あれ》らしい。で、彼《か》れは少《すこ》し伸《の》び上《あが》つてにつたり[#「につたり」に傍点]笑《わら》つた。これを書《か》いてしまつたら彼女《あれ》に遇《あ》へる。磯《いそ》の屋《や》では節句《せつく》を當《あ》て込《こ》んで、岡山《をかやま》からうん[#「うん」に傍点]と小間物《こまもの》を仕入《しい》れて來《き》たそうだから、彼女《あれ》に簪《かんざし》でも櫛《くし》でも買《か》つてやる。目顏《めかほ》で呼《よ》び出《だ》して泉《いづみ》の側《そば》の藪《やぶ》へ行《ゆ》くのだ。 二三|年前《ねんまへ》から目星《めぼし》をつけてたお竹《たけ》と、睦《むつま》じい言葉《ことば》を交《か》はすやうになつたのは去年《きよねん》の秋《あき》。忘《わす》れもしない、彼女《あれ》が藪下《やぶしも》の川《かは》で洗濯《せんたく》をしてゐた。澄《す》んだ水《みづ》がちよろ〳〵と草《くさ》の中《なか》から流《なが》れて來《く》る。お竹《たけ》は絞《しぼ》りの手拭《てぬぐひ》を姉樣《ねえさん》被《かぶ》りにし、幅《はゞ》の廣《ひろ》い滑《なめ》らかな石《いし》の上《うへ》に少《すこ》し屈《かゞ》んで立《た》ち、足《あし》の甲《かふ》まで水《みづ》に浸《ひた》し、兩足《りやうあし》で調子《てうし》よく汚《よご》れ物《もの》を踏《ふ》んでゐた。周圍《まわり》に人《ひと》の聲《こゑ》もしない。只《たゞ》烏《からす》が寺《てら》の屋根《やね》に鳴《な》いてゐるばかり。その時《とき》此處《こゝ》を繪《ゑ》に書《か》きたいと思《おも》つた。その姿《すがた》もその顏《かほ》も、この村《むら》にや比《くら》べる女《をんな》はありやしない。それで「私《わし》の女房《にようぼ》になるか」と云《い》ふと、首《くび》を橫《よこ》に振《ふ》らなかつた。あんな別嬪《べつぴん》が私《わし》の女房《にようぼ》になるんだぞ、村《むら》の小若連《こわかれん》の集會《よりあひ》に行《ゆ》くと、吉《きち》の野郞《やらう》は二十歲《はたち》になつて、まだ衒妻《げんさい》一人《ひとり》よう拵《こさ》へぬ、意氣地《いくぢ》なし奴《め》といつて、皆《み》んなして冷《ひや》かしやがるが、どうだ羨《うらや》ましからう。 彼《か》れはうつとり[#「うつとり」に傍点]考《かんが》へ込《こ》み、やがて又《また》にやり[#「にやり」に傍点]と薄氣味《うすきみ》惡《わる》く笑《わら》つて筆《ふで》を執《と》つた。で、漸《やうや》く書《か》き終《をは》つた頃《ころ》、茶釜《ちやがま》がジン〳〵音《おと》を立《た》てる。 「吉《きち》、お茶《ちや》が沸《わ》いたでえ」と、婆《ばあ》さんは棚《たな》から膳《ぜん》と飯櫃《めしびつ》を卸《おろ》してゐる。 「お母《かあ》、初野《はつの》はまだ戾《もど》らんかな」と、吉松《きちまつ》は痺《しび》れた足《あし》を撫《な》で〴〵膳《ぜん》の前《まへ》へ坐《すわ》つた。米《よね》一|分《ぶ》の黑々《くろ〴〵》とした麥飯《むぎめし》を茶碗《ちやわん》に山盛《やまも》りにし、茶柄杓《ちやびしやく》で茶《ちや》を打《ぶつ》かける。 「彼女《あれ》は今朝《けさ》飛出《とびだ》したきり、まだ戾《もど》つて來《こ》ん、柏餅《かしはもち》を早《はや》う拵《こせ》へて吳《く》れいとせがん[#「せがん」に傍点]どいて、今《いま》まで何處《どこ》を步《ある》いとるんだらう」 「又《また》皆《みん》なに冷《ひや》かされとるんぢやないか、あの阿房《あほう》に困《こま》るなあ、早《はや》う死腐《しにくさ》れやえゝのに」 「汝《われ》や何《なに》をいふ、阿房《あほう》でも狂人《きちがひ》でも、汝《われ》の眞實《ほんま》の妹《いもと》ぢやないか」と、婆《ばあ》さんは鐵漿《おはぐろ》の斑《まば》らな齒《は》で、漬菜《つけな》をばり〴〵噛《か》みながら、金壺《かなつぼ》眼《まなこ》で吉松《きちまつ》を睨《にら》んだ。 「そがい[#「そがい」に傍点]云《い》ふても、初野《はつの》が居《を》りやがるんで、物入《ものい》りが多《おほ》うなつて仕樣《しやう》がない」と、吉松《きちまつ》は慳貪《けんどん》に云《い》つた、「それになあお母《かあ》、彼女《あれ》が居《を》ると、私《わし》や嫁《よめ》が取《と》れんぞな、家《うち》は狹《せま》いし、初野《はつの》は大飯《おほめし》を食《くら》うから」 「そがい[#「そがい」に傍点]な事《こと》心配《しんぱい》せえでもえゝ、汝《われ》や苦勞性《くらうしやう》ぢやから、何《な》んだれ彼《かん》だれ案《あん》じてばかり居《を》るけいど、入《い》らんこつちやがな、嫁《よめ》を取《と》りたけりや、何時《いつ》でも好《す》きな女子《をなご》を連《つ》れて來《こ》いよ、お母《かあ》と初野《はつの》はこの蓆《むしろ》の上《うへ》へでも寢《ね》りやえゝ、それに彼女《あれ》を連《つ》れて御祈禱《ごきとう》に廻《まわ》りや、袋《ふくろ》に一|杯《ぱい》や二|杯《はい》のお米《こめ》は、何處《どこ》からでも貰《もら》うて來《こ》られる、汝《われ》一人《ひとり》の世話《せわ》にやならんがな」 「貰《もら》う者《もの》は何《なん》ぼ貰《もら》うてもえゝけど、乞食《こじき》見《み》たいな事《こと》をして下《くだ》んすな、村《むら》の者《もの》は私《わし》の父《とつ》ちやんは狂人《きちがひ》で、お母《かあ》は乞食《こぢき》、妹《いもと》は阿房《あほう》ぢやと云《い》ふて笑《わら》うとるがな」 「笑《わら》うたて構《かま》うもんか、澤山《たんと》お甘《いし》い者《もの》を食《た》べさへすりや、汝《われ》、云《い》ふ事《こと》あないでないか」 「お母《かあ》はようても、私《わし》やつらい[#「つらい」に傍点]がな」 婆《ばあ》さんは吉松《きちまつ》の憐《あは》れつぽい小言《こゞと》を聞《き》きながら、緩々《ゆる〳〵》食事《しよくじ》を終《をは》ると、汚《よご》れた茶碗や小皿《こざら》を隅《すみ》の方《はう》へ押《お》しのけ、坐《すわ》つたまゝ臼《うす》の側《そば》へにじり[#「にじり」に傍点]寄《よ》り、口《くち》の内《うち》で眠《ねむ》そうな引臼《ひきうす》唄《うた》を唄《うた》ひ、又《また》粉《こな》を磨《す》り出《だ》した。 吉松《きちまつ》は布《ぬの》の乾《かは》くのを待《ま》つて、それを白木綿《しろもめん》の大風呂敷《おほぶろしき》にくるんで外《そと》へ出《で》た。空《そら》には白《しろ》い雲《くも》が漂《たゞよ》ひ、柔《やさ》しい風《かぜ》が沖《おき》から吹《ふ》いて來《く》る。海邊《うみべ》近《ちか》く太《ふと》い松《まつ》に圍《かこ》まれた住吉《すみよし》神社《ゞんじや》では太皷《たいこ》の音《おと》がして、子供《こども》の喜《よろこ》び騷《さわ》ぐ聲《こゑ》がする。この前《まへ》お詣《まゐ》りした時《とき》は、神社《じんじや》の扉《とびら》は鎖《とざ》され、埃《ほこり》の積《つ》んだ階段《かいだん》に子守《こもり》が二三|人《にん》腰掛《こしか》けてるばかり。境内《けいだい》は寂寥《ひつそり》としてゐたが、今日《けふ》は馬鹿《ばか》に賑《にぎや》やかだ。今夜《こんや》神前《しんぜん》で大漁《たいれう》祝《いは》ひの集合《よりあひ》があるさうだが、宮《みや》を中心《ちうしん》にして、通《とほ》る路々《みち〳〵》何處《どこ》を見《み》ても景氣《けいき》付《づ》いてゐる。そして吉松《きちまつ》も生々《いき〳〵》した空氣《くうき》に胸《むね》の鼓動《こどう》し、譯《わけ》もなく悅《うれ》しくなつて、大急《おほいそ》ぎに步《ある》き出《だ》した。  (二) 彼《か》れは小學校《せうがくかう》も二|年《ねん》で止《や》めた。繪畫《くわいぐわ》の敎育《けういく》など更《さら》に受《う》けたことがない。しかし何時《いつ》の間《ま》にか獨《ひと》りで工夫《くふう》して書《か》き出《だ》した。少《ちいさ》い時《とき》から棒切《ぼうつき》れで地上《ちじやう》に描《か》いたり、消墨《けしずみ》で板《いた》に描《か》いたりした。草紙《さうし》へも碌《ろく》に手習《てなら》ひはせず、虎《とら》や人形《にんぎやう》を書《か》いてゐた。十三|歲《さい》の初夏《しよか》、大酒《おほざけ》呑《のみ》の父《ちゝ》が、麥刈《むぎかり》最中《さいちう》に發狂《はつきやう》してから、詮方《せんかた》なく自分《じぶん》も日雇稼《ひやうかせ》ぎをして、一|家《か》の活計《くらし》を助《たす》けたが、チビ松《まつ》と綽名《あだな》を付《つ》けられる位《くらゐ》、身體《からだ》が小《ちい》さくて弱《よわ》いため、人並《ひとなみ》の仕事《しごと》は出來《でき》ず、一|日《にち》鍬《くわ》を持《も》つと關節《ふし〴〵》が挫《くぢ》けるやうであつた。と云《い》つて一|日《にち》惰《なま》ければ、一|日《にち》食《く》はずにゐねばならぬ。狹《せま》い田舎《ゐなか》だから、力業《ちからわざ》をしなければ外《ほか》に糊口《くちすぎ》の道《みち》もない。泣《な》いても叫《さけ》んでも一|生《しやう》野良《のら》仕事《しごと》をして、鍬《くわ》と心中《しんぢう》する覺悟《かくご》を定《き》めねばならなかつた。所《ところ》が或《ある》正月《しやうぐわつ》豐年《ほうねん》祝《いは》ひとして、若《わか》い衆《しう》が勸進元《くわんじんもと》で村《むら》芝居《しばゐ》を催《もよほ》すことゝなり、寄《よ》つて集《たか》つて衣裳《いしやう》や小道具《こだうぐ》を借《か》り集《あつ》め、出《だ》し物《もの》も千本櫻《せんぼんざくら》に阿波鳴門《あはのなると》と定《きま》つたが、困《こま》るのは書割《かきわり》だ。無《な》くても濟《す》むが、凝《こ》り性《しやう》の連中《れんぢう》は、夫《そ》れ迄《まで》大趣向《だいしゆこう》を廻《めぐ》らし、どえらい[#「どえらい」に傍点]物《もの》を拵《こしら》へて播州《ばんしう》あたりの本職《ほんしよく》の役者《やくしや》をも驚《おどろ》かしてやらうと云《い》ひ出《だ》した。で、村中《むらぢう》で繪心《ゑごゝろ》のある者《もの》を捜《さが》して、間《ま》に合《あは》せに描《か》かすことゝなり、評定《ひやうでう》の結果《けつくわ》吉松《きちまつ》が命《めい》を受《う》けた。古老《こらう》の指圖《さしづ》で、木綿《もめん》の白布《しろぬの》や、數枚《すうまい》繼合《つぎあは》せた繪畫《くわいぐわ》用紙《ようし》に、鳥居《とりゐ》に玉垣《たまがき》、椎《しい》の木《き》などを描《か》いた。それが思《おも》ひの外《ほか》の出來《でき》榮《ばえ》なので、急《きふ》に彼《か》れの畫才《ぐわさい》が一|村《そん》の漁夫《れうふ》や百|姓《しやう》に認《みと》められ、次第《しだい》に隣村《りんそん》にも知《し》られるやうになつた。この界隈《かいわい》の五|月《ぐわつ》幟《のぼり》、漁夫《れうし》の崇《あが》める惠比壽《ゑびす》大黑《だいこく》の掛物《かけもの》は皆《みな》彼《か》れの筆《ふで》を煩《わづら》はすのである。  * * * * * * 彼《か》れは依賴者《いらいしや》にかの布繪《ぬのゑ》を渡《わた》して、五六十|錢《せん》のお禮《れい》を貰《もら》ひ、それから磯傳《いそづた》ひに二三|軒《げん》未納者《みなうしや》を訪《たづ》ねたが、何《いづ》れも氣持《きもち》よく拂《はら》つて吳《く》れる。 「吉《きち》ヤ汝《われ》や每歲《まいとし》繪《ゑ》が上手《じやうず》になるぜ」「今歲《ことし》の淸正《きよまさ》はどえらい[#「どえらい」に傍点]元氣《げんき》がえゝ、厄病神《やくびやうがみ》も逃《に》げてしまう」と、行《ゆ》く先々《さき〴〵》で褒《ほ》めて吳《く》れる。で、吉松《きちまつ》は袂《たもと》の中《なか》に錢《ぜに》の音《おと》をさせ、大得意《だいとくい》で心《こゝろ》は急《せ》いても、わざとゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]步《ある》いて、お竹《たけ》を捜《さが》しに行《ゆ》きかけた。日《ひ》は山《やま》の端《は》近《ちか》くなり、潮《しほ》も退《ひ》きかけ、半《なか》ば海《うみ》へ突出《つきで》た駄菓子屋《だぐわしや》の支柱《つゝかいぼう》は、濡《ぬ》れたまゝ根本《ねもと》を露《あら》はしてゐる。店前《みせさき》には多數《たすう》の若《わか》漁夫《れうし》が陣取《ぢんど》り、粟《あわ》おこし[#「おこし」に傍点]やら大福餅《だいふくもち》やら、てんでに攫《つか》んでは食《く》ひ、大聲《おほごゑ》で笑《わら》つたり叫《さけ》んだりしてゐる。彼等《かれら》の話題《わだい》に上《のぼ》る者《もの》は、大抵《たいてい》は喧嘩《けんくわ》か女《をんな》、或《あるひ》は賭博《ばくち》、しかも四邊《あたり》かまはず露骨《ろこつ》な言葉《ことば》で持切《もちき》りだ。たま〳〵澁皮《しぶかは》の剝《む》けた若《わか》い女《をんな》でも通《とほ》れば、戯《ふざ》けた口《くち》を利《き》いて、大勢《おほぜい》でどつと囃《はや》し立《た》てるは愚《おろ》か、惡《わる》くすると道《みち》邪魔《じやま》をして罪《つみ》な諧戯《からかひ》を始《はじ》めることもある。又《また》中《なか》には諧戯《からかは》れたがつて、自分《じぶん》で押《おし》かけ、簪《かんざし》位《ぐらゐ》奢《おご》らせてやらうと云《い》ふ女《をんな》もある。漁夫《れうし》の休日《きうじつ》にはこの駄菓子屋《だぐわしや》が倶樂部《くらぶ》になつて、時《とき》には賭博宿《ばくちやど》も兼《か》ねるのだ。 吉松《きちまつ》は何氣《なにげ》なくこの店先《みせさき》を通《とほ》りかゝり、ふと氣《き》が付《つ》いて見《み》ると、意地《いぢ》の惡《わる》い奴等《やつら》が揃《そろ》つてゐる。牙齒《きば》の龜《かめ》もゐる、備前《びぜん》德利《とくり》の米《よね》もゐる。ダニの虎《とら》、猪首《ゐくび》の鶴《つる》、村《むら》を騷《さわ》がす連中《れんぢう》が皆《みな》久振《ひさしぶ》りで歸《かへ》つてゐる。惡《わる》い所《ところ》へ來合《きあ》はせた。あれ等《ら》に掛《かゝ》り合《あ》つちや碌《ろく》な事《こと》はないと、知《し》らん顏《かほ》で行過《ゆきす》ぎやうとすると、鶴《つる》が素早《すばや》く見《み》つけて「吉公《きちこう》ぢやないか、まあ寄《よ》れいよ」と呼留《よびと》めた。吉松《きちまつ》は仕方《しかた》なしに振向《ふりむ》いて、「今日《けふ》用《よう》が殘《のこ》つとるから遊《あす》んぢや居《を》れん」と、一寸《ちよつと》お世辭《せじ》笑《わらひ》をして行《ゆ》かうとしたが、「まあそないに云はずに寄《よ》れと云《い》うたら寄《よ》れいよ」と云《い》ふと共《とも》に、龜《かめ》は駈《か》け出《で》て、兩手《りやうて》を開《ひら》いて道《みち》を防《ふさ》いだ。 「今日《けふ》は堪《こら》へて吳《く》れ」と吉松《きちまつ》は情《なさけ》ない聲《こゑ》で云《い》つて、くゞり拔《ぬ》けやうとしたが、龜《かめ》は肩《かた》を攫《つかま》へて離《はな》さない。 「さうら逃《に》げるなら逃《に》げて見《み》い、鳴門《なると》の海《うみ》を漕《こ》ぎ切《き》つた腕《うで》ぢや」 吉松《きちまつ》は鷹《たか》に攫《つか》まつた小雀《こすゞめ》、爭《あらそ》ふも無駄《むだ》だから、そのまゝ小《ちい》さくなつて店《みせ》へ引摺《ひきずり》込《こ》まれた。袂《たもと》の銀貨《ぎんくわ》がヂヤラ〳〵音《おと》を立《た》てる。 「汝《われ》も澤山《たんと》錢《ぜに》を持《も》つてけつかるな」と、龜《かめ》は吉松《きちまつ》の袂《たもと》を握《にぎ》つて重味《おもみ》を量《はか》り、牙齒《きば》を剝《む》き出《だ》して笑《わら》ふ。 「汝《われ》に聞《き》くことがあるから、まあ坐《すわ》れい」と、年長《としかさ》の虎《とら》は後退《あとずさ》りして席《せき》を空《あ》けて、吉松《きちまつ》を坐《すわ》らせ、「吉公《きちこう》は何時《いつ》見《み》ても白瓜《しろうり》のやうな顏《かほ》しとる、何處《どこ》か工合《ぐあひ》が惡《わる》いんか、大事《だいじ》にせえよ、汝《われ》が煩《わづ》らうと、家《うち》の者《もの》あ乞食《こじき》せねや饑《かつ》え死《じ》にぢや」と柔《やさ》しく云《い》つたが、吉松《きちまつ》は厭《いや》な氣《き》がした。自分《じぶん》が死《し》ねば母《はゝ》と妹《いもと》とは乞食《こぢき》をするのは分《わか》つてゐる。それに母《はゝ》は乞食《こぢき》を恥《はぢ》とするやうな人《ひと》ぢやない。で、彼《か》れは魔《ま》がさしたやうに自分《じぶん》の死後《しご》を思《おも》つて、鬱《ふさ》ぎ込《こ》んで默《だま》つてゐると、米《よね》は鼻《はな》に皺《しわ》を寄《よ》せてヒツ〳〵と笑《わら》《わら》つて、 「思案《しあん》投首《なげくび》で何《なに》をしとる、衒妻《げんさい》の事《こと》でも考《かんが》へとるか、汝《われ》やお竹《たけ》と夫婦《めをと》約束《やくそく》したちうぢやないか、」 「さうぢや〳〵、誰《た》れやらがそんな噂《うはさ》をしとつた」 「汝《われ》も中々《なか〳〵》惡《わる》さをするのう、私等《わしら》が一寸《ちよつと》漁《れう》に出《で》て村《むら》に居《を》らん間《ま》に、こつそり女子《をなご》を拵《こしら》へるたあ、汝《われ》もえらいぞ、祝《いは》ひに酒《さけ》でも奢《おご》らんか、その袂《たもと》の錢《ぜに》で」 と、皆《み》んなで面白《おもしろ》さうに色《いろ》んな事《こと》を云《い》つて、冷《ひや》かしては笑《わら》ひ、笑《わら》つては冷《ひや》かす、吉松《きちまつ》は我知《われし》らず袂《たもと》を握《にぎ》り締《し》め、 「虛言《うそ》ぢや〳〵、そがいな事《こと》があるもんか」と、狼狽《あは》てゝ云《い》つて、顏《かほ》を少《すこ》し赤《あか》くした。 「隱《かく》さんでもえゝわ、ぢやけど汝《われ》もお竹《たけ》だけは諦《あき》らめい、あの女子《をなご》はな、ちやんと主《ぬし》が定《きま》つとるんぢやぞ」と、虎《とら》は毛脛《けずね》を出《だ》して胡座《あぐら》を搔《か》き、澄《す》ました顏《かほ》で煙草《たばこ》を吸《す》つてゐる。 吉松《きちまつ》は一|座《ざ》を見廻《みまわ》して、最後《さいご》に目《め》を丸《まる》くして、虎《とら》の顏《かほ》を見詰《みつ》めた。 「お竹《たけ》にやちやんと主《ぬし》がある」と、虎《とら》は繰返《くりかへ》して、「汝《われ》やまだ知《し》るまいが、彼女《あれ》は源兄《げんあに》の者《もの》に定《きま》つとるんぢや、源兄《げんあに》が去年《きょねん》土佐《とさ》へ行《ゆ》く時《とき》、お竹《たけ》は己《おら》が嫁《よめ》にする、五|月《ぐわつ》の節句《せつく》に歸《かへ》るまで、彼女《あれ》に手《て》でも觸《さは》つて見《み》い、承知《しやうち》せんぞと、私等《わしら》に云《い》ひ付《つ》けたんぢや、汝《われ》も氣《き》を付《つ》けい、うつかり[#「うつかり」に傍点]してお竹《たけ》の惚氣《のろけ》でもぬかす[#「ぬかす」に傍点]と源兄《げんあに》に首《くび》つ玉《たま》あ捻《ね》ぢ切《き》られるぞ。」 その様子《やうす》が萬更《まんざら》戯言《じやうだん》でもなささうなので、吉松《きちまつ》は眞靑《まつさを》になつて震《ふる》えた。頭《あたま》を奇麗《きれい》に刈込《かりこ》んだ新客《しんきやく》が入《はい》つて來《き》て、漁《れう》の話《はなし》を仕掛《しか》け、虎《とら》の仲間《なかま》は最早《もはや》吉松《きちまつ》を相手《あひて》にしなくなつた。鶴《つる》は何時《いつ》の間《ま》にか大《だい》の字《じ》に寢《ね》て鼾《いびき》をかいてゐる。 吉松《きちまつ》はこそ〳〵と外《そと》へ出《で》た。もう二月《ふたつき》も手入《てい》れをせぬ髮《かみ》は小《ちい》さい耳朶《みゝたぼ》を蔽《おほ》ひ隱《かく》し、細《こま》かい棒縞《ぼうじま》の單衣《ひとへ》は華《はな》やかな夕陽《ゆふひ》に照《て》りつけられ、繪具《ゑのぐ》の名殘《なごり》が黑《くろ》く靑《あを》く光《ひか》つてゐる。虎《とら》の威嚇《おどし》文句《もんく》がまだ耳元《みゝもと》で鳴《な》つてるやうで、彼《か》れの魂《たましひ》はくら〳〵して身《み》に添《そ》はぬ。源《げん》と云《い》へば駐在所《ちうざいしよ》の巡査《じゆんさ》も恐《おそ》れて手出《てだ》しをせぬ程《ほど》の暴《あば》れ者《もの》。腕力《うでぢから》が强《つよ》くて三|人前《にんまへ》の仕事《しごと》もする代《かは》り、癇《かん》に觸《さは》ると、出刃《でば》庖丁《ぼうちやう》を振《ふ》り翳《かざ》すのが評判《ひやうばん》の癖《くせ》だ。十五六で魚賣《さかなう》りをしてる時分《じぶん》から、魚源《うをげん》命知《いのちし》らずと、饅頭笠《まんぢうがさ》に書《か》いて隣村《となりむら》へも名《な》の通《とほ》つてる男《をとこ》だ。虎《とら》でも龜《かめ》でも源《げん》にや道《みち》を避《よ》けて諂言《おべつか》の一《ひと》つも云《い》ふ。彼《か》れに見込《みこ》まれちや、厄病神《やくびやうがみ》に取付《とつゝ》かれたやうなもの。何《なん》だつて私《わ》しやお竹《たけ》なんか思《おも》つたことか。 彼《か》れは源《げん》が下駄《げた》で旅商人《たびあきんど》を滅多打《めつたう》ちにしたこと。大酒《おほざけ》飮《の》んで素裸《すつぱだか》で村長《そんちやう》の家《うち》へ怒鳴《どな》り込《こ》んだことなど思《おも》ひ出《だ》してぞつ[#「ぞつ」に傍点]とした。お竹《たけ》を呼出《よびだ》す計畵《もくろみ》なんか頭《あたま》の中《なか》から消《き》えてしまひ、只《たゞ》源《げん》の顏《かほ》ばかり目《め》に浮《うか》ぶ。何故《なぜ》源《げん》の船《ふね》が土佐沖《とさおき》で沈沒《ちんぼつ》しなかつたんだらう。何故《なぜ》鳴戶《なると》の渦《うづ》に捲《ま》き込《こ》まれなかつたのだらう。何故《なぜ》私《わし》を庇《かば》つて吳《く》れた人《ひと》のいゝ芝居《しばゐ》好《ず》きの作藏《さくざう》爺《ぢい》が早《はや》く死《し》んで、源《げん》のやうな奴《やつ》は虎烈剌《これら》にも罹《かゝ》らぬのだらう。 吉松《きちまつ》は神社《じんじや》の方《はう》へ向《むか》つて石《いし》ころ道《みち》を辿《たど》つた。道《みち》の左右《さいう》には貝殻《かいがら》の塚《つか》が所々《ところ〴〵》に築《きづ》かれ、真紅《しんく》の石榴《ざくろ》の花《はな》が白壁《しらかべ》の側《そば》に咲《さ》いてる。彼《か》れは夢心地《ゆめごゝち》でそれを見《み》てゐたが、太皷《たいこ》の音《おと》や鈴《すゞ》の音《おと》がます〳〵賑《にぎ》やかに聞《きこ》える。子供《こども》等《ら》は祭《まつり》ででもあるやうに、群《むれ》をなして玉垣《たまがき》の前《まへ》を飛《と》んだり跳《は》ねたりしてゐる。 「兄《ああ》よ」と、突如《だしぬけ》に聲《こゑ》がした。 驚《おどろ》いて見《み》ると、初野《はつの》は眞向《まむか》ひに立《た》つてキヨロ〳〵してゐる。鹽《しほ》たれた單衣《ひとへ》を赤《あか》い扱帶《しごき》で締《し》め、埃《ほこり》に染《そ》める白茶《しらちや》けた髮《かみ》を藁《わら》で茶筅《ちやせん》のやうに結《むす》び、顏《かほ》から首《くび》へかけて垢《あか》で塗《ぬ》られてゐる。 「兄《ああ》よ、お前《まへ》時《とき》さんに會《あ》はなんだか」と、尙《なほ》前後《ぜんご》を見廻《みまは》す。 「會《あ》ふもんか、汝《われ》ももう家《うち》へ戾《もど》れ、お母《かあ》が柏餅《かしはもち》を拵《こし》らへて待《ま》つとるから」と、吉松《きちまつ》が手《て》を執《と》ると、 「柏餅《かしはもち》か」と云《い》つて笑《わら》つたが、又《また》身《み》を藻搔《もが》いて手《て》を振放《ふりはな》し、 「そいでも、時《とき》さんが私《わし》を捜《さが》しとると、皆《みん》なが云《い》ふから、あの人《ひと》に會《あ》はにやならんもの」と呟《つぶや》いて、鳥居《とりゐ》の前《まへ》をウロ〳〵してゐる。以前《さつき》から玉垣《たまがき》に寄《よ》りかゝり初野《はつの》を調戯《からか》つて喜《よろこ》んでた連中《れんぢう》は、此方《こちら》を見《み》て「初野《はつの》さん〳〵、時《とき》さんはお地藏様《ぢざうさま》へ行《い》つた」と囃《はや》し立《た》てゝ、どつ[#「どつ」に傍点]と笑《わら》つた。 「本當《ほんたう》にお地藏樣《ぢざうさま》へ行《い》つたのかな」と勢《いきほひ》のない聲《こゑ》で云《い》つて、初野《はつの》は西《にし》の方《はう》へフラフラ步《ある》いて行《ゆ》く。 吉松《きちまつ》は情《なさけ》なくなつて淚《なみだ》を浮《うか》べた。この瞬間《しゆんかん》恐《おそ》ろしい源《げん》の事《こと》を忘《わす》れ、只《たゞ》白痴《ばか》の妹《いもと》が年中《ねんぢう》村《むら》の子供《こども》の玩具《おもちや》になるのを恥《はづか》しく思《おも》つた。そして悄然《しよんぼり》家《うち》へ歸《かへ》ると、母《はゝ》は膳《ぜん》を出《だ》したまゝ、板《いた》の間《ま》へ眠《ねむ》つてゐて、頭《あたま》の側《そば》には一《ひと》つ二《ふた》つの蚊《か》が幽《かす》かな音《おと》を立《た》てゝ飛《と》んでゐる。  (三) 吉松《きちまつ》は酒《さけ》も飮《の》まぬ。唄《うた》も唄《うた》へぬ。漁師《れうし》仲間《なかま》とは性《しやう》が合《あ》はぬから、平生《ふだん》仲《なか》のよい友逹《ともだち》は少《すくな》い。今夜《こんや》の集合《よりあひ》にも誘《さそ》ひに來《く》る者《もの》もなく、又《また》とても行《ゆ》く氣《き》にもなれぬ。で、早《はや》く晚食《ばんしよく》を濟《す》ませ、神棚《かみだな》の燈明皿《とうみやうざら》に燈火《あかり》をつけ、上《あが》り框《かまち》に腰《こし》を掛《か》けて沈《しづ》んでゐた。昨夜《ゆうべ》は幟《のぼり》に忙《いそが》しくて何《なん》となく悅《うれ》しかつたが、今夜《こんや》からは繪《ゑ》の仕事《しごと》もなくなつた。平生《ふだん》なら夜業《よなべ》に草鞋《わらじ》を造《つく》るのだが、今夜《こんや》は肩《かた》が怠《だる》くて氣分《きぶん》が欝《ふさ》いで槌《つち》を持《も》てさうでもない。婆《ばあ》さんは行燈《あんどん》も點火《とぼ》さず、燈明《とうみやう》の光《ひかり》で絲《いと》を紡《つむ》いでゐる。數町《すうちやう》を隔《へだ》てた宮《みや》では太皷《たいこ》の音《おと》がます〳〵賑《にぎ》やかに聞《き》こえる。 「吉《きち》よ、汝《われ》や錢《ぜに》を何處《どこ》へ置《お》いたか」と、母《はゝ》に問《と》はれて、吉松《きちまつ》は振返《ふりかへ》り。 「其處《そこ》の戶棚《とだな》に入《はい》つとらあ」と云《い》つて、薄光《うすあか》りに緖卷《をまき》の絲《いと》のブル〳〵震《ふる》ふのを見《み》てゐる。 「何《なん》ぼ溜《たま》つたか」 「今月《けふ》は三|圓《ゑん》ばかし貰《もら》うて來《き》た。まだ三|軒《げん》殘《のこ》つとらあ」 「そがい[#「そがい」に傍点]に吳《く》れたかい、そいぢやえゝお節句《せつく》が出來《でき》るなあ、お母《かあ》も明日《あした》はお高姊《たかねえ》の宅《うち》へお祈禱《はらひ》に賴《たの》まれとるから、又《また》錢《ぜに》になるし、麥《むぎ》の二|俵《ひやう》や三|俵《びやう》は庭《には》へ積《つ》めるわい、汝《われ》も嫁《よめ》を娶《と》るなら今《いま》が丁度《ちやうど》えゝ機會《しほ》ぢや、誰《だ》れでも好《す》きな女子《をなご》がありや連《つ》れて來《こ》い」 「私《わし》や嫁《よめ》を娶《と》らんでもえゝ、一|生《しやう》獨《ひと》りで暮《くら》すんぢや」 「そいでも、今朝《けさ》は嫁《よめ》を娶《と》りたいと云《い》ふたぢやないか、芳《よし》でも鶴《つる》でも梅《うめ》でも皆《み》んな嫁《よめ》があるんじやもの、汝《われ》も欲《ほ》しからうがな」 婆《ばあ》さんの聲《こゑ》は欠伸《あくび》まぜりで、次第《しだい》に絲車《いとぐるま》も間斷勝《とだえが》ちになる。吉松《きちまつ》は時折《ときをり》話《はな》しかけられても碌《ろく》に答《こた》へぬ。で、暫《しば》らく母子《おやこ》脊合《せなかあ》はせで默《だま》つてゐると、何時《いつ》の間《ま》にか初野《はつの》が勝手口《かつてぐち》からノロ〳〵入《はい》つて來《き》た。白痴《ばか》の中《うち》でも陽氣《やうき》に騷《さは》ぐ方《はう》ではなし、口數《くちかず》は少《すくな》く戶外《そと》へ出《で》るにも歸《かへ》るにも、大抵《たいてい》は忍《しの》び足《あし》で、家《うち》の者《もの》にも氣《き》づかぬ位《くらゐ》だ。兩方《りやうはう》の袖口《そでくち》を持《も》つて、しよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]庭《には》に突立《つゝた》つたまゝ左右《さいう》を見廻《みまわ》し、 「お母《かあ》、家《うち》は暗《くら》いなあ、兄《ああ》よ、お宮《みや》は賑《にぎ》やかぢやぞ」と、低《ひく》い聲《こゑ》で云《い》つて、草履《ざうり》を引摺《ひきず》つて又《また》戶外《そと》へ出《で》かけた。 「初《はつ》は朝《あさ》から御飯《ごはん》も食《た》べいで、何《なに》をしとるんなら、もう何處《どこ》へも行《い》かいで、早《はや》うお夕飯《ゆふはん》を食《た》べなよ」 と、婆《ばあ》さんは猫撫聲《ねこなでごゑ》で云《い》つたが、初野《はつの》は「そいでも家《うち》は淋《さび》しいもの」と、何處《どこ》へか行《い》つてしまつた。 「また皆《み》んなに嬲《なぶ》られたいんか」と、婆《ばあ》さんは獨言《ひとりごと》のやうに云《い》つたが、最早《もはや》娘《むすめ》を氣《き》にも掛《か》けず、絲車《いとぐるま》を離《はな》れもせぬ。 吉松《きちまつ》も今宵《こよひ》は住《す》み馴《な》れた家《いへ》を、際立《きはだ》つて暗《くら》く感《かん》じた。室《うへ》に這《は》ひ上《あが》つて行燈《あんどん》をつけ、燈心《とうしん》をかき立《た》てたが、隅々《すみ〴〵》は尙《なほ》暗《くら》い。天氣《てんき》が變《かは》つたのか東風《こち》が吹《ふ》き出《だ》し、ソヨ〳〵と裏口《うらぐち》から入《はい》つて來《く》る。枇杷《びわ》の木《き》も騷《さわ》ぎ出《だ》した。宮《みや》の太鼓《たいこ》の音《おと》は止《や》んだが、ワイワイ叫《さけ》ぶ聲《こゑ》は一|層《そう》盛《さか》んに聞《きこ》える。彼《か》れは耳《みゝ》を傾《かたむ》けてゐたが、やがて不意《ふい》に起上《おきあが》つて、聲《こゑ》する方《はう》へ向《むか》つた。三日月《みかづき》は既《すで》に沈《しづ》んで、天《てん》遠《とほ》く星《ほし》が力《ちから》弱《よわ》く光《ひか》つてゐる。 彼《か》れは小暗《こぐら》き道《みち》を通《とほ》つて、玉垣《たまがき》の側《そば》に彳《たゝず》んだ。鳥居《とりゐ》の根本《ねもと》は出入《でいり》の提灯《ちやうちん》の光《ひかり》に照《て》らされ、松葉《まつば》に蔽《おほ》はれた敷石《しきいし》が明《あか》るくなり暗《くら》くなつてゐる。醉漢《よひどれ》の聲《こゑ》が遠《とほ》くなり近《ちか》くなる。神社《やしろ》の扉《とびら》は廣《ひろ》く開《ひら》いて、神前《しんぜん》には大《おほ》きな蠟燭《らうそく》の光《ひかり》が燿《かゞや》き、左右《さいう》には數《すう》十の漁夫《れうし》が居並《ゐなら》び、中《なか》には片肌《かたはだ》を脫《ぬ》いでる者《もの》、胸毛《むなげ》を露《あら》はしてる者《もの》。怒鳴《どな》つては呑《の》み、呑《の》んでは怒鳴《どな》り、言葉《ことば》の綾《あや》も分《わか》らず、只《たゞ》騷《さわ》がしい蠻音《ばんおん》が一《ひと》つになつて、酒《さけ》の香《にほ》ひと共《とも》に神《かみ》の境内《けいだい》に漲《みなぎ》つてゐる。神社《やしろ》の周圍《まわり》には小兒《こども》が群《むら》がり戯《たはむ》れてゐる。常《つね》の夜《よ》は漣《さゞなみ》の音《おと》と松風《まつかぜ》ばかり。丑《うし》三《み》つには呪咀《のろい》の女《をんな》が白裝束《しろしやうぞく》で蠟燭《らうそく》を頭《かしら》に戴《いたゞ》き、呪文《じゆもん》を誦《じゆ》して松《まつ》の幹《みき》に、胸《むね》の恨《うら》みを籠《こ》めた五|寸《すん》釘《くぎ》を打《う》つと、母《はゝ》から聞《き》いてゐるが、その淋《さび》しい淨地《じやうち》は、一|村《そん》の勸樂《くわんらく》の巷《ちまた》となつてゐる。 吉松《きちまつ》はその聲《こゑ》を聞《き》きその香《か》を嗅《か》ぎ、熊《くま》の如《ごと》き腕《かいな》をまくつた人々《ひと〴〵》の勇《いさ》ましい姿《すがた》を垣間見《かいまみ》てゐた。しかし團樂《まどゐ》に飛込《とびこ》みもしない。 「兄《あゝ》よ」と後《うしろ》から突如《だしぬけ》に聲《こゑ》がした。顧《かへり》みると初野《はつの》は依然《いぜん》兩方《りやうはう》の袖口《そでくち》を持《も》つて、無心《むしん》に身體《からだ》を搖《ゆす》ぶつてゐる。 「兄《あゝ》はお宮《みや》の中《なか》へ行《ゆ》かんのか」と、兄《あに》の顏《かほ》を不思議《ふしぎ》さうに見《み》た。 「汝《われ》やまだ此處《こゝ》に居《を》るんか、皆《み》んなに嬲《なぶ》られん間《ま》に、早《はや》う家《うち》へ戾《もど》れ、お母《かあ》が待《ま》つとる」と、吉松《きちまつ》は常《つね》になく柔《やさ》しく云《い》つて、妹《いもと》の袖《そで》を捕《とら》へやうとすると、初野《はつの》は身《み》を翻《ひるが》へして松《まつ》の蔭《かげ》に逃《に》げた。 濃《こ》い雲《くも》が東《ひがし》の山《やま》から吐《は》き出《だ》されて、空《そら》へ廣《ひろ》がつてゐる。 「明日《あした》は雨《あめ》か」と、チヨン髷《まげ》の老漁夫《らうぎよふ》がいぢかり[#「いぢかり」に傍点]股《また》で石段《いしだん》を下《お》りた。 飮《の》み盡《つ》くした空德利《からどくり》を提《さ》げた千鳥足《ちどりあし》が鳥居《とりゐ》の左右《さいう》へ散《ち》つてゐる。先立《さきだ》つたのと遲《おく》れたのと互《たが》ひに呼《よ》んでは答《こた》へ、「畜生《ちくしやう》め」「馬鹿《ばか》野郞《やらう》」の聲《こゑ》が姦《かしま》しく闇《やみ》から闇《やみ》に傳《つた》はる。吉松《きちまつ》は彼等《かれら》が今宵《こよひ》至《いた》る所《ところ》に賭博《とばく》に耽《ふけ》り、女《をんな》に弄《たは》むれる樣《さま》を想像《さう〴〵》して、羨《うらや》ましく嫉《ねたま》しく感《かん》じた。 大勢《おほぜい》の後《あと》から、手拭《てぬぐひ》を首《くび》に結《むす》んだ一群《ひとむれ》が、社内《しやない》を出《で》て、お百|度《ど》石《いし》を取圍《とりかこ》み、何《なに》か小聲《こごゑ》で話《はな》し合《あ》つてゐる。虎《とら》もゐる。龜《かめ》もゐる。頻《しき》りに首肯《うなづ》いてゐるのは源《げん》らしい。と思《おも》ふと、吉松《きちまつ》は空想《くうさう》の消《き》えて急《きふ》に恐氣《おぢけ》がつき、玉垣《たまがき》の蔭《かげ》に小《ちい》さくなつた。そして彼等《かれら》が鳥居《とりゐ》を潜《くゞ》るのを待《ま》ち、靜《しづ》かに歸《かへ》りかけた。 星《ほし》は殘《のこ》りなく隱《かく》れた。沖《おき》には常《つね》に見《み》る漁火《いさりび》の一《ひと》つもなく、舟唄《ふなうた》も聞《きこ》えず、暗《くら》い波《なみ》は黑《くろ》い雲《くも》と接《せつ》して、只《たゞ》風《かぜ》にもまれた滿汐《みちしほ》の音《おと》が高《たか》い。 「兄《あゝ》よ、沖《おき》にや海坊主《うみばうず》が居《を》るんぢやなあ」と初野《はつの》は闇《やみ》の中《なか》から聲《こゑ》を掛《か》けた。吉松《きちまつ》は默《だま》つて妹《いもと》の手《て》を執《と》つて家《うち》へ歸《かへ》つた。母《はゝ》の影《かげ》は障子《しやうじ》に薄《うす》く映《うつ》つてゐる。絲車《いとぐるま》の音《おと》も聞《きこ》える。  (四) 翌日《よくじつ》は雨《あめ》。風《かぜ》も少《すこ》し加《くは》はつた。婆《ばあ》さんは鈴《すゞ》を持《も》つて、お高《たか》姊《あねえ》の家《うち》へ生靈《いきりやう》退治《たいぢ》に出《で》かけた。初野《はつの》は柏餅《かしはもち》を腹《はら》一|杯《ぱい》詰込《つめこ》み、津蟹《づがに》の鋏《はさみ》を絲《いと》で縛《しば》つて弄《もてあそ》んでゐたが、やがて厭《あ》いたのか、傘《からかさ》も差《さ》さずに、雨《あめ》を犯《おか》して當度《あてど》なく出《で》て行《い》つた。吉松《きちまつ》は只《たゞ》腹匐《はらば》ひになつて戶外《そと》を眺《なが》める。 びしよ[#「びしよ」に傍点]濡《ぬ》れの水汲《みづくみ》女《をんな》が昨日《きのふ》と同《おな》じく、跡切《とぎ》れ〴〵に通《かよ》つてゐる。醉《よ》つて銅鑼《どら》聲《ごゑ》で唄《うた》つて通《とほ》る者《もの》も多《おほ》い。竹《たけ》の皮鼻緒《かははなを》の足駄《あしだ》を引《ひき》ずり德利《とくり》を提《さ》げた子供《こども》が俯首《うつむ》いて錢《ぜに》を讀《よ》み〳〵通《とほ》つた。番傘《ばんがさ》を擔《かつ》いで萌黃《もえぎ》の重箱《ぢうばこ》包《づゝみ》を柄《え》の先《さき》にぶら[#「ぶら」に傍点]下《さ》げた小娘《こむすめ》が粽《ちまき》を嚙《かぢ》りながら通《とほ》つた。どれもどれも見馴《みな》れた顏《かほ》だ。 彼《か》れは目《め》では戶外《そと》を見《み》ながら、心《こゝろ》では昨日《きのふ》の出來《でき》事《ごと》を思《おも》ひ浮《うか》べた。他鄉《たきやう》を知《し》らず書《しよ》も讀《よ》まぬ彼《か》れには、夢《ゆめ》にも現《うつゝ》にも一|村《そん》の事件《じけん》が凡《すべ》ての智識《ちしき》であり想像《さうぞう》であるのだ。で、今日《けふ》も彼《か》れの貧《あは》れな智識《ちしき》の卷《まき》を繰廣《くりひろ》げて見《み》たが、その全世界《ぜんせかい》には源《げん》もゐる、龜《かめ》もゐる。彼等《かれら》は繪本《ゑほん》で見《み》た綱《つな》や金時《きんとき》のやうな腕《うで》を持《も》つて、一|村《そん》に跋扈《ばつこ》してゐる。彼等《かれら》が生《い》ける限《かぎ》りこの村《むら》は泰平《たいへい》ではない。私《わし》のやうな痩腕《やせうで》で叶《かな》うものか。 彼《か》れは又《また》お竹《たけ》のことを思《おも》ひ出《だ》した。その機織《はたおり》姿《すがた》や田植《たうえ》姿《すがた》が印象《いんしやう》の强《つよ》い頭《あたま》にあり〳〵と浮《うか》び、兼《か》ねてのひそ〳〵[#「ひそ〳〵」に傍点]話《ばなし》も、今《いま》聞《き》く如《ごと》く感《かん》ぜられたが、ふと源《げん》の事《こと》に思《おも》ひ及《およ》ぶと、樂《たの》しい夢《ゆめ》は一|時《じ》に消《き》えてしまひ、果《はた》してお竹《たけ》が源《げん》を思《おも》つてるのか、虎《とら》の吿口《つげぐち》が眞《まこと》であるか戯言《じやうだん》であるか、靜《しづ》かに考《かんが》へる暇《いとま》がない。只《たゞ》彼《か》れを打《う》たんとして源《げん》が拳《こぶし》を握《にぎ》つてる姿《すがた》が見《み》えて、自然《しぜん》に目《め》を瞑《つむ》つた。 雨《あめ》は急《きふ》に强《つよ》くなり、戶外《そと》は一|層《そう》暗《くら》くなつた。板《いた》の間《ま》には藁屋根《わらやね》から雫《しづく》が垂《た》れる。隣《とな》りの牛《うし》が大儀《たいぎ》さうに吼《ほ》える。知《し》らぬ間《ま》にお竹《たけ》が綛《かすり》の前垂《まへだ》れを頭《かしら》に戴《いたゞ》いて軒下《のきした》に立《た》つてゐた。 「吉《きち》さん、傘《かさ》を貸《か》してお吳《く》れんか」 吉松《きちまつ》は幻影《まぼろし》でも現《あら》はれたやうにギヨツ[#「ギヨツ」に傍点]として、目《め》を丸《まる》くした。 「私《わし》んとこに傘《かさ》があるもんか」と、態《わざ》と橫《よこ》を向《む》いた。 「家《うち》にや誰《だ》れも居《を》らんかな」 「むん」 と、微《かす》かに云《い》つたのみで、吉松《きちまつ》は薄緣《うすべり》に顏《かほ》をすり付《つ》けてゐる。 「吉《きち》さん、先日《こないだ》の話《はなし》はどないするんかな、考《かんが》へちや居《を》らんのかな」と、お竹《たけ》は小聲《こごゑ》で云《い》ふ。吉松《きちまつ》は默《だま》つてゐる。 「ちつとは小降《こぶり》になつた」と、お竹《たけ》は空《そら》を仰《あふ》いで、「なあ吉《きち》さん、お節句《せつく》が濟《す》んだら船《ふね》が出《で》るから來《き》てお吳《く》れな」と甘《あま》えて云《い》つて、前垂《まへだれ》を被《かぶ》つたまゝ尻端折《しりはしお》つて駈《か》け出《だ》した。 吉松《きちまつ》は頭《かしら》を持上《もちあ》げて、夢《ゆめ》見《み》たやうにその後《うしろ》を見送《みおく》り、姿《すがた》が見《み》えなくなると又《また》寢《ね》そべつた。何故《なぜ》もつと話《はな》さなかつたらう、問《と》はなかつたらうと後悔《こうくわい》した。「舟《ふね》が出《で》たら會《あ》はう」、節句《せつく》が濟《す》めばお竹《たけ》の父《ちゝ》も沖《おき》へ出《で》て、彼女《あれ》の身《み》も暇《ひま》になる。源《げん》も龜《かめ》も海《うみ》へ行《ゆ》く。さうなればお竹《たけ》の心《こゝろ》も確《たしか》められる。と思《おも》ふと一|縷《る》の希望《きぼう》が浮《うか》ばぬでもない。明日《あす》明後日《あさつて》明後々日《しあさつて》と、彼《か》れは指《ゆび》を折《を》つて、「八日《やうか》には腕《うで》の强《つよ》い血《ち》を恐《おそ》れん奴《やつ》は、島《しま》の向《むか》う浪《なみ》の荒《あら》い沖《おき》へ出《で》てしまう」と、にやりと[#「にやり」に傍点]笑《わら》つた。 しかし子供《こども》の時分《じぶん》から胸《むね》に刻《きざ》み込《こ》んだ不安心《ふあんしん》は、今《いま》も消《き》え失《う》せず、ちよろ〳〵舌《した》を出《だ》す。彼《か》れには村《むら》が恐《こわ》いのだ。盂蘭盆《うらぼん》とか氏神祭《うじがみまつり》とか、四|季《き》折々《をり〳〵》の賑《にぎは》ひには、屹度《きつと》下駄《げた》が飛《と》び鉈《なた》が飛《と》び、血塗《ちまみ》れ騷《さわ》ぎの起《おこ》るに定《きま》つたこの殺伐《さつばつ》な村《むら》が恐《こわ》い。何《なん》だつて皆《み》んなが仲《なか》よく面白《おもしろ》く暮《くら》さんのだらう。せめて命知《いのちい》らずの源《げん》が死《し》んだなら、此《この》村《むら》も少《すこ》しは穩《おだや》かになるかも知《し》れぬ。喧嘩《けんくわ》の數《かず》も少《すくな》くならう。龜《かめ》や米《よね》も源《げん》に唆《そゝの》かされて付元氣《つけゞんき》で暴《あば》れ廻《まわ》るんだから、親分《おやぶん》の源《げん》がゐなければ、あんなに無理《むり》非道《ひだう》な人困《ひとこま》らせをせんに極《きま》つてゐる。 「村《むら》の爲《ため》自身《じゝん》の爲《ため》、源《げん》が死《し》んだら〳〵」と、二十|分《ぷん》も三十|分《ぷん》もそればかり考《かんが》へた。驟雨《ゆうだち》模樣《もやう》のドシヤ降《ぶ》りが通《とほ》ると、密雲《みつうん》が薄《うす》らいで戶外《そと》は稍々《やゝ》明《あか》るくなつた。初野《はつの》の弄《もてあそ》んでゐた津蟹《づがに》は泡《あわ》を吹《ふ》きながら、吉松《きちまつ》の頭《あたま》の側《そば》へ這《は》つて來《き》た。彼《か》れはふと思《おも》ひ立《た》つて、絲《いと》を手繰《たぐ》つて、蟹《かに》を柱《はしら》に縛《しばり》りつけ、塵紙《ちりがみ》に寫生《しやせい》を始《はじ》めた。蟹《かに》は飛《と》び出《で》た目《め》に怒《いかり》を含《ふく》んで藻搔《もが》き出《だ》す、紙《かみ》にもその藻搔《もが》いてる樣《さま》が生々《いき〳〵》と現《あら》はれた。興《きよう》が湧《わ》いて五|枚《まい》六|枚《まい》書《か》き續《つゞ》けたが、やがて惜氣《おしげ》もなく鼻《はな》をかんで、丸《まる》めて外《そと》へ投《な》げた。軒下《のきした》に羽搔《はがい》を縮《ちゞ》めてコロ〳〵と鳴《な》いてた鷄《とり》は、餌《ゑば》と思《おも》つたか、反古紙《ほごかみ》をつゝき出《だ》した。低《ひく》い石《いし》ころ道《みち》を番傘《ばんがさ》さして、白裝束《しろしやうぞく》の母《はゝ》と赤《あか》い顏《かほ》した妹《いもと》とが歸《かへ》つて來《く》る。 「本當《ほんま》に〳〵、源《げん》の死《しに》ぞこない奴《め》覺《おぼ》えてやがれ」と、母《はゝ》は怒鳴《どな》つて、初野《はつの》を家《うち》へ引上《ひきあ》げた。初野《はつの》はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立《た》つてゐたが、蟹《かに》が目《め》につくと、柱《はしら》から離《はな》して居間中《ゐまぢう》を引《ひき》まはす。 「おのれ糞《くそ》、源《げん》の獄道《ごくだう》」「罰當《ばちあた》り奴《め》」と、喧《かしま》しい聲《こゑ》が響《ひゞ》き渡《わた》る。吉松《きちまつ》は呆氣《あつけ》に取《と》られて、母《はゝ》の顏《かほ》を見上《みあ》げ、 「お母《かあ》、どうしたんなら」 「どうしたも何《なに》もあるもんか、汝《われ》まあ聞《き》いて吳《く》れい、お高《たか》姉《ねえ》のとこから戾《もど》りに、米公《よねこう》の前《まへ》を通《とほ》ると、初野《はつの》が眞赤《まつか》な顏《かほ》をして裸《はだか》になつとるぢやないか、何《なに》をしとるんかと思《おも》うて入《はい》つて見《み》ると、汝《われ》、源《げん》や龜《かめ》が大胡床《おほあぐら》かいて酒《さけ》を食《くら》うとりやがつてなあ、初野《はつの》に無理《むり》無體《むたい》に酒《さけ》を呑《の》ませて踊《をど》らせとるんぢやでな、そりを見《み》て、私《わし》や腹《はら》が立《た》つて〳〵、飛《とび》込《こ》んで叱《しか》りつけてやると、汝《われ》、尙《なほ》の事《こと》皆《み》んなが惡戯氣《ふざけ》出《だ》しやがる、終《しまひ》にや私《わし》の持《も》つとる鈴《すゞ》を出《だ》して、囃《はや》しちや馬鹿踊《ばかをど》りを初《はじ》めやがる、大事《だいじ》な鈴《すゞ》が汚《よご》れちや、私《わし》の命《いのち》を取《と》られたも同《おな》じでないか、今《いま》に見《み》て居《を》れ、祈《いの》り殺《ころ》してやるぞ」 と口惜《くやし》淚《なみだ》を濺《そゝ》いだ。吉松《きちまつ》は心《こゝろ》では怖氣《おぢけ》がついたが、それでも母《はゝ》を慰《なぐさ》めるつもりで、 「そがい[#「そがい」に傍点]に怒《おこ》らいでも、私《わし》が仇《かたき》を取《と》つて上《あ》げらあ」と云《い》つたが、母《はゝ》は氣《き》がむしやくしや[#「むしやくしや」に傍点]して、常《つね》になく邪慳《ぢやけん》に、 「汝《われ》や口《くち》ばつかりで、源《げん》の腕《うで》に叶《かな》ふもんか、汝《われ》が弱虫《よわむし》じやから、初野《はつの》まで皆《み》んなに意地《いぢ》められるんぢやがな」 「さう云《い》ひなさんな、私《わし》も男《をとこ》ぢやもの」と、吉松《きちまつ》は不快《ふくわい》な顏《かほ》をした。母《はゝ》は鈴《すゞ》を眺《なが》めて血相《きつさう》を變《か》へてゐる。  (五) 晩餐《ばんさん》が終《をは》ると、母《はゝ》は絲車《いとぐるま》へ手《て》を掛《か》けたが、もう氣《き》が落付《おちつ》いたらしく、慳貪《けんどん》な口《くち》も利《き》かなくなり、顏色《かほいろ》も平生《ふだん》の通《とほ》りに眠《ね》むさうだ。雨《あめ》がまだ止《や》まぬので早《はや》く戶締《とじまり》をして、初野《はつの》は宵《よひ》の口《くち》から寢間《ねま》へ入《はい》つた。遠方《ゑんぱう》から幽《かす》かな聲《こゑ》が風《かぜ》につれて吹《ふ》き込《こ》むのみで、今夜《こんや》は昨夕《ゆふべ》と異《ちが》つて靜《しづ》かだ。 「吉《きち》、もう寢《ね》えよ、お母《かあ》も寢《ね》るから」 「私《わし》やまだ眠《ね》むたうない」 吉松《きちまつ》は村長《そんちやう》の宅《たく》へ繪本《ゑほん》でも見《み》せて貰《もら》ひに行《ゆ》かうかと思《おも》ひ、門口《かどぐち》まで出《で》た。見《み》る限《かぎ》り果《は》てのない暗黑《あんこく》世界《せかい》、後《うしろ》の山《やま》も宮《みや》の松《まつ》も闇《やみ》に沒《ぼつ》して、天《てん》にも地《ち》にも豆粒《まめつぶ》ほどの光《ひかり》もない。で、急《きふ》に恐《おそ》ろしくなつて家《いへ》の中《なか》へ駈《か》け込《こ》んだ。煤《くす》ぶつた金比羅《こんぴら》神社《じんじや》のお札《ふだ》の前《まへ》に、燈火《ともしび》は丁子《ちやうじ》を結《むす》んでゐる。彼《か》れは燈明《とうみやう》を搔《か》き立《た》て、油《あぶら》を注《つ》ぎ、その前《まへ》に端坐《たんざ》して、一|家《か》安穩《あんおん》四|海《かい》泰平《たいへい》の願《ねがひ》を籠《こ》めた。初野《はつの》は夢《ゆめ》に泣聲《なきごゑ》を立《た》てゝ、「兄《あゝ》よ、來《き》て吳《く》れ、恐《こわ》いがな〳〵」と叫《さけ》んで、口《くち》から涎《よだれ》を垂《た》れてゐる。 吉松《きちまつ》は自分《じぶん》が妹《いもと》一人《ひとり》庇《かば》うことも出來《でき》ぬ腑甲斐《ふがひ》なさを思《おも》つた。親子《おやこ》三|人《にん》が雨風《あめかぜ》に曝《さら》され、乞食《こぢき》になつて流浪《るらう》する樣《さま》が思《おも》はれた。 でも、考《かんが》へてる中《うち》に何時《いつ》となく妹《いもと》の傍《そば》へもぐり[#「もぐり」に傍点]込《こ》み、木枕《きまくら》をして眠入《ねい》つた。斷《た》え斷《だ》えに苦《くる》しい夢《ゆめ》に襲《おそ》はれたが、ふと芥溜《ごみため》で拾《ひろ》つた錆《さ》びた瓦釘《かはらくぎ》を持《もつ》て、宮《みや》の松《まつ》の樹《き》に源《げん》を呪《のろ》つては打《う》ち〳〵してゐると、愕然《がくぜん》と目《め》が醒《さ》めた。妹《いもと》が彼《か》れの肚腹《ひばら》を蹴《け》つてゐる。燈明《とうみやう》は消《き》えかゝつてゐる。 丑三《うしみ》つは今《いま》時分《じぶん》だらう、宮《みや》へ詣《まゐ》つて源《げん》を咀《のろ》ひ殺《ころ》したい。彼《か》れが死《し》ぬりや一|村《そん》の災《わざわひ》が除《の》けると思《おも》ひ込《こ》んだ揚句《あげく》、自分《じぶん》が自分《じぶん》で恐《おそ》ろしくなつて、蒲團《ふとん》の中《なか》へ首《くび》を引込《ひつこ》めた。  * * * * * * 翌日《よくじつ》は五|月《ぐわつ》五日《いつか》。雨《あめ》は名殘《なごり》なく晴《は》れ、冴《さ》えた光《ひかり》は一|村《そん》を包《つゝ》んでゐる。吉松《きちまつ》は晝餐《ひる》の御馳走《ごちさう》にと魚買《さかなか》ひに出《で》た。道《みち》の左右《さいう》の葺屋《わらや》瓦屋《かはらや》、家々《いへ〳〵》の門《かど》には五|月《ぐわつ》幟《のぼり》が勇《いさ》ましく飜《ひるがへ》つてゐる。小兒等《せうにら》は諸方《しよはう》の幟《のぼり》見物《けんぶつ》に廻《まわ》つてゐる。吉松《きちまつ》は何《なん》となく得意《とくい》になつて空《そら》を見上《みあ》げてゐると、源《げん》が籠《かご》を提《さ》げて近《ちか》づき、 「吉公《きちこう》、汝《われ》も壯健《たつしや》か、久振《ひさしぶ》りじやのう」と笑顏《ゑがほ》をして、「沙魚《はぜ》をたんと[#「たんと」に傍点]貰《もら》うたから、汝《われ》にも分《わ》けてやらう、さあその鍋《なべ》を此方《こちら》へ出《だ》せ」吉松《きちまつ》は返事《へんじ》もせず棒立《ぼうだち》ちになつてゐる。凉《すゞ》しい鹽風《しほかぜ》が顏《かほ》を掠《かす》める。  村塾 寄宿舎《きしゆくしや》のはづれ、松《まつ》の樹《き》に蔽《おほ》はれた櫓風《やぐらふう》の高《たか》い古堂《ふるだう》から、ドン〳〵と太鼓《たいこ》が鳴《な》つて、擂鉢《すりばち》の底《そこ》のやうな平地《へいち》を越《こ》して、向《むか》うの山《やま》へ響《ひゞ》き渡《わた》る。その最後《さいご》の音《おと》の消《き》えぬ間《ま》に、袴《はかま》を着《つ》けた二十歲《はたち》前《まへ》の少年《せうねん》が、正門《せいもん》や通用門《つうようもん》から打《うち》つゞいて、幾人《いくにん》となく現《あら》はれて來《く》る。校舎《かうしや》の石壁《いしべい》を背《せ》にして丁字《てうじ》形《がた》の細《ほそ》い道路《だうろ》に溢《あふ》れて、麥《むぎ》の中《なか》、菜種《なたね》の中《なか》にも散《ち》らばつた。 今澤《いまざわ》定吉《ていきち》もその一|人《にん》だ。文章《ぶんしやう》軌範《きはん》と靖獻《せいけん》遺言《ゐげん》とを、布呂敷《ふろしき》にも包《つゝ》まず左《ひだり》の脇《わき》に抱《かゝ》へ、右《みぎ》の手《て》は木綿《もめん》の兵子帶《へこおび》に挿《はさ》み、同《おな》じ年頃《としごろ》の通學生《つうがくせい》A君《くん》と無邪氣《むぢやき》な話《はな》しをしながら、草履《ざうり》穿《ば》きで畦道《あぜみち》を傳《つた》つた。この學生《がくせい》とは四五|日前《にちぜん》に、東京《とうきやう》の雜誌《ざつし》の交換《かうくわん》を約《やく》してから、急《きふ》に懇意《こんい》になつたので、每晚《まいばん》往來《わうらい》して、文章《ぶんしやう》の議論《ぎろん》などをして居る。 「君《きみ》は何故《なぜ》寄宿舎《きしゆくしや》に入《はい》らんのだ」 「僕《ぼく》あ入《はい》りたいんだけれど、親爺《おやぢ》が寄宿舎《きしゆくしや》を嫌《きら》つてるから」 「そうかい、昨夕《ゆふべ》は谷村《たにむら》が蒲團蒸《ふとんむ》しにされたさうだな、寄宿舎《きしゆくしや》の奴《やつ》は亂暴《らんぼう》だ」 「何《なん》だか賄《まかなひ》征伐《せいばつ》をやると力《りき》んでる奴《やつ》がある、喜公《きいこう》も生意氣《なまいき》だから擲《なぐ》ると云《い》つてるよ」 「寄宿舎《きしゆくしや》の者《もの》あ、碌《ろく》に勉强《べんきやう》もせんで、そんなことばかり考《かんが》へとる、僕《ぼく》等《ら》は矢張《やはり》通學《つうがく》して、餘暇《よか》には文章《ぶんしやう》でも書《か》いた方《はう》がいゝねえ、君《きみ》」と、A君《くん》はさも深《ふか》く感《かん》じたように云《い》ふ。 やがてA君《くん》は支道《えだみち》へ分《わか》れた。 「ぢや失敬《しつけい》」 「今夜《こんや》は僕《ぼく》の家《うち》へ來給《きたま》へ、紅葉亭《こうえふてい》の方《はう》へ散步《さんぽ》しよう」 今澤《いまざわ》は「あの男《をとこ》も面白《おもしろ》いいゝ人間《にんげん》だ」と思《おも》つた。此頃《このごろ》は凡《すべ》ての人《ひと》が懷《なつか》しい。新《あたら》しい知合《しりあひ》になつた村《むら》の人《ひと》も學友《がくいう》も、凡《すべ》て懷《なつか》しい。 二三|步《ぽ》すると、麥《むぎ》と麥《むぎ》との間《あひだ》に女《をんな》の背《せな》が見《み》える。よく見《み》ると宿《やど》の娘《むすめ》だ。十七だと云《い》ふが、色《いろ》が白《しろ》く靨《えくぼ》があつて可愛《かあい》らしく、そして親切《しんせつ》だ。これも懷《なつ》かしい一|人《にん》。 娘《むすめ》は藁畚《ふご》から腐《くさ》つた木《こ》の葉《は》を攫《つか》み出《だ》して、畆《はたけ》の中《なか》へ散《ち》らしてゐたが、彼《か》れが近《ちか》づくと莞爾《につこり》として、汚《よご》れた手《て》で頭《あたま》の手拭《てぬぐひ》を取《と》り、恭《うや〳〵》しく挨拶《あいさつ》して、 「もうお歸《かへ》んなさるかな」 「いゝや、今日《けふ》は午後《ひる》からお休《やす》みだから、少《ちつ》との間《ま》、何處《どこ》かで遊《あそ》んで歸《かへ》ります、晝《ひる》の御飯《ごはん》もゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]でよろしい」 「左樣《さう》かな、最少《もすこ》しすると、向《むか》ひの叔父《おぢ》さんも魚市《いち》から戾《もど》つて來《き》ませうから、何《なに》かお魚《さかな》を持《も》つて來《き》て吳《く》れませう」 「ぢや、それ迄《まで》僕《ぼく》は腹《はら》を減《へら》して來《く》る。」 今澤《いまざわ》は肥料《こやし》の香《にほ》ひが、畝《はたけ》の中《なか》から湧《わ》き上《あが》るのに眉《まゆ》を顰《ひそ》め、急《いそ》いで通《とほ》り拔《ぬ》けた。小溝《こみぞ》の丸木橋《まるきばし》を渡《わた》り、道側《みちばた》から馬《うま》の背《せ》ほど高《たか》くなつてる空地《あきち》へ匍《は》ひ上《あが》つた。柔《やはら》かい草《くさ》が一|面《めん》に生《は》へてゐて、寢《ね》ころぶと肱《ひじ》や首筋《くびすじ》にひやり[#「ひやり」に傍点]と觸《ふ》れる。それが何《なん》となくいゝ氣持《きもち》だ。雌摑《めくぬぎ》の歪《ゆが》んだ葉《は》が疎《まだ》らに空《そら》を遮《さへぎ》つて、眞晝《まひる》の光《ひかり》も眩《まぶ》しくはない。雲雀《ひばり》の聲《こゑ》が獨《ひと》り忙《せは》しく、近《ちか》く遠《とほ》く聞《きこ》える。 彼《か》れは今年《ことし》の三|月《ぐわつ》――明治《めいぢ》二十五|年《ねん》――初《はじ》めて兩親《りやうしん》の膝下《しつか》を離《はな》れ、この山間《さんかん》の百|姓家《しやうや》に、自分《じぶん》で寢床《ねどこ》をのべ、獨《ひと》り淋《さび》しく眠《ね》るやうになつてから、天氣《てんき》さへよければ、殆《ほと》んど每日《まいにち》この空地《あきち》へ來《く》る。時《とき》には國民《こくみん》新聞《しんぶん》や少年園《せうねんゑん》を漢書《かんしよ》の間《あひだ》に挾《はさ》み、放課《はうくわ》時間《じかん》に讀《よ》みに來《く》ることがある。或《ある》大家《たいか》の「熱海《あたみ》だより」に「上《かみ》に幽禽《ゆうきん》の囀《さへ》ずるを聞《き》き、下《しも》に淸瀨《せいらい》の咽《むせ》ぶを聞《き》き、ヲルヅヲルスの詩《し》を誦《じゆ》し候《さふらふ》」とあるを讀《よ》んで、小《ちい》さい胸《むね》を轟《とゞろ》かせ、自分《じぶん》もその境涯《けうがい》に身《み》を置《お》いて、ヲルヅヲルスの代《かは》りに、靖獻《せいけん》遺言《ゐげん》の屈原傳《くつげんでん》を朗讀《らうどく》したこともあつた。時《とき》には母《はゝ》の手紙《てがみ》を持《も》つて來《き》て、繰返《くりかへ》し〳〵暗記《あんき》する程《ほど》讀《よ》んで、逸《はる》かに故鄕《こきやう》の春《はる》を思《おも》つたこともある。或《あるひ》は袂《たもと》に駄菓子《だぐわし》の袋《ふくろ》を入《い》れて、この木蔭《こかげ》で腹《はら》一|杯《ぱい》に貪《むさぼ》つては、喉《のど》が乾《かは》くと、篠笹《しのざゝ》に縋《すが》つて後《うしろ》の渓流《けいりう》へ下《くだ》り、淸水《しみづ》に口《くち》を浸《ひた》すこともある。 しかし今日《けふ》は讀《よむ》べき雜誌《ざつし》も新聞《しんぶん》も持《も》つてゐない。食《く》ふべき菓子《くわし》も持《も》つてゐない。只《たゞ》寢《ね》ころんで春《はる》の空氣《くうき》に浴《よく》してゐるばかり。やがて兩手《りやうて》で頰杖《ほゝづゑ》ついて、目前《めさき》にちらちらする糸遊《いとゆう》を眺《なが》め、ピイツク〳〵と雲雀《ひばり》の口《くち》眞似《まね》をした。それも厭《あ》くと、何《なん》だか眠《ねむ》くなつて、暫《しばら》くウト〳〵してゐた。 車力《しやりき》の音《おと》に夢《ゆめ》が融《と》けて、寢《ね》たなり目《め》を開《ひら》くと、數町《すうちやう》先《さき》の彼《か》れの宿《やど》のあたり[#「あたり」に傍点]から、淡《あは》い煙《けぶり》が舞《ま》い上《あが》つてゐる。 悠長《いうちやう》な鼻《はな》唄《うた》と共《とも》に、道《みち》の曲角《まがりかど》から竹籠《ざる》を擔《かつ》いだ逹公《たつこう》――宿《やど》の娘《むすめ》の所謂《いはゆる》叔父《をぢ》さん――が現《あら》はれた。 「貴下《あなた》は何《なに》をしてゐなさる」 「何《なん》でもない、お前《まへ》の歸《かへ》るのを待《ま》つとるんだ。甘《おいし》い魚《さかな》があるかな」 「あるとも、まあ下《お》りて見《み》なされ」と、竹籠《ざる》を下《した》へ置《お》いて、鉢卷《はちまき》を取《と》つて、それを廻《まわ》して風《かぜ》を呼《よ》ぶ。 今澤《いまざわ》は投《な》げ出《だ》されてる書物《しよもつ》を拾《ひろ》つて、懷中《ふところ》にねぢ込《こ》んで驅《か》け下《お》りた。逹公《たつこう》は竹籠《ざる》の柴《しば》を搔《か》き分《わ》けて、 「そうれ、黑鯛《ちぬ》もあらあ、針魚《さより》もあらあ」と指示《さしゝめ》した。 「甘《うま》さうだな」と、今澤《いまざわ》はさも欲《ほ》しさうに云《い》つて、針魚《さより》の長《なが》い嘴《くちばし》を抓《つま》んで見《み》る。靑《あを》い縞《しま》が日《ひ》を受《う》けて燦《かゞや》く。逹公《たつこう》は自分《じぶん》の子供《こども》でも綾《あや》すやうに、 「さあ一|緖《しよ》に歸《かへ》りませう、歸《かへ》つて料理《れうり》して上《あ》げます」と、竹籠《ざる》に葢《ふた》をして擔《にな》つた。 野道《のみち》には通學生《つうがくせい》は消《き》えて、寄宿生《きしゆくせい》はまだ散步《さんぽ》に出《で》て來《こ》ない。逹公《たつこう》は黑《くろ》い脚《あし》に太《ふと》い筋《すぢ》を浮《う》かせて、先《さ》きに立《た》つて行《ゆ》く。今澤《いまざわ》は肩上《かたあ》げのある粗《あら》い絣《かすり》の袷《あはせ》を着《き》て、減《す》き腹《ばら》に强《つよ》い食慾《しよくよく》を感《かん》じて、後《あと》からついて行《ゆ》く。 逹公《たつこう》は本職《ほんしよく》の畠《はたけ》仕事《しごと》の傍《かたはら》、魚賣《さかなう》りをして、三日《みつか》に一|度《ど》位《ぐらゐ》は三|里《り》あまりもある海邊《うみべ》へ出掛《でか》ける。總領《そうりやう》の喜助《きすけ》は寄宿舎《きしゆくしや》の賄方《まかなひかた》に入《はい》つてゐる。そして今澤《いまざわ》は宿《やど》が逹公《たつこう》の家《いへ》と向《むか》かひ合《あ》つてゐるので、風呂《ふろ》にも入《はい》りに行《ゆ》く。怠屈《たいくつ》な時《とき》は話《はなし》をしに行《ゆ》く。初《はじめ》は逹公《たつこう》の顏《かほ》が恐《こわ》かつたが、腹《はら》の中《なか》は柔《やさ》しい親切《しんせつ》な人《ひと》らしく、二三|度《ど》會《あ》うとこれも懷《なつ》かしい一|人《にん》となつた。家族《かぞく》の者《もの》が皆《み》んなして可愛《かあい》がつて吳《く》れる。入學《にふがく》當時《たうじ》旅窓《りよそう》の淋《さび》しさ怠屈《たいくつ》さをこの家族《かぞく》によつてどれ程《ほど》慰《なぐさ》められたであらう。「貴下《あんた》はこんな山《やま》の中《なか》へ來《き》て、お甘《いし》い者《もの》が食《た》べられんからお困《こま》りぢやらう、不味《まづ》い者《もの》食《た》べて瘠《や》せちや、國《くに》のお母《かあ》さんが泣《な》きなさる。」とは、逹公《たつこう》の女房《かみさん》の口癖《くちぐせ》で、團子《だんご》やお萩《はぎ》が出來《でき》ると必《かなら》ず持《も》つて來《き》て吳《く》れる。魚市《いち》へ行《ゆ》くと屹度《きつと》魚《さかな》を屆《とゞ》けて吳《く》れる。そして今澤《いまざわ》は母《はゝ》から送《おく》つて來《く》る小使錢《こづかひぜに》の半《なか》ばは、この魚代《さかなだい》に拂《はら》つてしまう。 彼《か》れの宿《やど》の前《まへ》は欝蒼《うつさう》たる山《やま》、木樵《きこり》の斧《おの》の音《おと》も手《て》に取《と》るやうに聞《きこ》える。彼《か》れは開《あ》け放《はな》した部屋《へや》で飯《めし》を食《く》ひ、母《はゝ》への手紙《てがみ》を認《したゝめ》てゐると、「御勉强《ごべんきやう》ですか」と、靑脹《あをぶ》くれの背《せ》の高《たか》い男《をとこ》が日《ひ》を遮《さへぎ》つて前《まへ》に立《た》つた。壯太《さうた》と云《い》つて、喜助《きすけ》と同《おな》じく、寄宿舎《きしゆくしや》の賄方《まかなひかた》だが、中々《なか〳〵》大志《たいし》を抱《いだ》いてゐて、暇《ひま》があれば學課《がくゝわ》を傍聽《ばうちやう》してゐる。前《まへ》からこの家《うち》へは遊《あそ》びに來《き》てゐたが、今澤《いまざわ》とは同國《どうこく》だといふので、遂《つひ》に懇意《こんゐ》になり、古雜誌《ふるざつし》などを借《か》りて行《ゆ》く。 「君《きみ》は今日《けふ》講義《こうぎ》を聽《き》きに出《で》ましたか」と、今澤《いまざわ》は手紙《てがみ》を卷《ま》いて仰向《あふむ》いた。 「いや行《ゆ》きません、今日《けふ》はごた〳〵してゐましたから」 「君《きみ》、今日《けふ》の靖獻《せいけん》遺言《ゐげん》は大層《たいそう》面白《おもしろ》かつた、中野《なかの》先生《せんせい》は甘《うま》いなあ」といつたが、壯太《さうた》は何時《いつ》ものやうに乗出《のりだ》して來《こ》ない。 「さうですか、僕《ぼく》はもう暇《ひま》を貰《もら》つて國《くに》へ歸《かへ》らうかと思《おも》ひます」と、何《なん》となく萎《しほ》れた色《いろ》が見《み》える。 「何故《なぜ》歸《かへ》るんです、え、君《きみ》」と、今澤《いまざわ》は少《すこ》し驚《おどろ》いて問《と》ひ詰《つ》めた。 「何《なん》でもありません、只《たゞ》國《くに》が戀《こひ》しくなりましたから」 「だつて、君《きみ》は此校《こゝ》でうん[#「うん」に傍点]と勉强《べんきやう》するつもりで來《き》たんでせう」 「しかしもう[#「もう」に傍点]厭《いや》になりました、學問《がくもん》も厭《いや》だし、この村《むら》の者《もの》も厭《いや》だし」 今澤《いまざわ》は腹《はら》の中《なか》で「變《へん》だな」と思《おも》ひ、相手《あひて》の顏《かほ》をジロ〴〵見《み》て、「君《きみ》、寄宿舎《きしゆくしや》の者《もの》あ、賄《まかなひ》に不平《ふへい》を云《い》つてるさうだな、何《なに》かあるんですか」 「さあ、何《なん》だか知《し》らんが、今《いま》に騷動《さうどう》があるでせう」 「賄《まかなひ》の中《うち》では喜公《きいこう》が惡《にく》まれとるさうだが、どうしたんでせう、あれもいゝ人《ひと》だがなあ………昨夕《ゆふべ》も遲《おそ》くこの家《うち》へ來《き》てゐた」 「さうですか、どんな話《はなし》をしてゐました」と、壯太《さうた》は厭《いや》に聲《こゑ》を低《ひく》くして、目《め》を据《す》ゑた。 「どんな話《はなし》だか僕《ぼく》あ寢《ね》つちまつたから知《し》りません」 「ふゝん」と云《い》つて、壯太《さうた》は考《かんが》へてゐたが、暫《しばら》くして「ぢや貴下《あなた》はよく勉强《べんきやう》なさい、當分《たうぶん》お目《め》に掛《かゝ》れんかも知《し》れません」と云《い》つて、お辭義《じぎ》をして机《つくゑ》の前《まへ》を離《はな》れた。 娘《むすめ》は門《かど》で鎌《かま》を磨《と》いでゐる。壯太《さうた》は屈《かゞ》んで娘《むすめ》と何《なに》か話《はなし》をしてゐたが、やがて娘《むすめ》を小突《こづ》いて、怒《おこ》つた顏《かほ》をしてスタ〳〵と行《い》つてしまつた。今澤《いまざわ》は驚《おどろ》き呆《あき》れた。そして書《か》きさしの手紙《てがみ》に向《むか》ひ、村《むら》の靜《しづ》かで景色《けいしよく》も佳《よ》いこと、住民《じうみん》の善良《ぜんりやう》なること、學課《がくゝわ》の面白《おもしろ》いことなどを美文調《びぶんてう》で書《か》いて、それを封《ふう》じながら、壯太《さうた》の事《こと》を考《かんが》へた。 この家《うち》には夜《よる》になつて、よく村《むら》の百|姓《しやう》や寄宿舎《きしゆくしや》の賄方《まかなひかた》の連中《れんぢう》が遊《あそ》びに來《く》る。しかし世間《せけん》話《ばなし》ばかりで、別《べつ》に變《かは》つたこともない。壯太《さうた》も宿《やど》の老爺《ぢいさん》の好《す》きな狐鮨《きつねずし》を買《か》つて來《き》て、父娘《おやこ》二人《ふたり》に自分《じぶん》の行末《ゆくすゑ》の大望《たいまう》を話《はな》しなどして歸《かへ》るばかりだ。壯太《さうた》はよく「私《わたし》だけは他國《よそ》の者《もの》だから、どうも仲間《なかま》と折合《をりあひ》が惡《わる》い」と零《こぼ》してゐたが、逹公《たつこう》は度々《たび〴〵》宿《やど》の娘《むすめ》に向《むか》つて、「今澤《いまざわ》さんなんか、遠方《ゑんぱう》から來《き》てゐなさるんだから、不自由《ふじいう》なことが多《おほ》からう、氣《き》をつけてお上《あ》げよ、他國《よそ》の人《ひと》は大事《だいじ》にせねばならん」と注意《ちうい》する程《ほど》だから、他鄉《よそ》の者《もの》を虐待《ぎやくたい》する譯《わけ》はない。 で、彼《か》れは暫《しばら》く疑《うたが》つて見《み》たが、別《べつ》に壯太《さうた》と深《ふか》い關係《かんけい》があるのでもないから、間《ま》もなく忘《わす》れてしまひ、聲《こゑ》を出《だ》して靖獻《せいけん》遺言《ゐげん》の復習《ふくしふ》をした。折々《おり〳〵》木《き》の倒《たふ》れる音《おと》、木樵《きこり》の唄《うた》が聞《きこ》える。復習《ふくしふ》が終《をは》つた頃《ころ》、その唄《うた》も止《や》み山《やま》は靜《しづか》になり、春《はる》の日《ひ》も山《やま》へ入《はい》つた。狹《せま》い谷間《たにま》だから、日《ひ》の隱《かく》れるのが早《はや》いが、容易《ようい》に暗《くら》くはならぬ。淡《あは》い長閑《のどか》な夕暮《ゆふぐれ》が長《なが》く續《つゞ》く。今澤《いまざわ》は閾《しきゐ》に腰掛《こしか》けて、朧《おぼ》ろに霞《かす》んだ逹公《たつこう》の藁屋《わらや》を眺《なが》めてゐると、宿《やど》の娘《むすめ》が 「向《むか》ひに風呂《ふろ》が湧《わ》いたからお入《はい》りなさい」と知《し》らせて來《き》たので、何氣《なにげ》なく、 「壯太《さうた》さんは播州《ばんしう》へ歸《かへ》るさうですね、どうしたのか知《し》らん」 と聞《き》くと、「私《わたし》、存《ぞん》じません」と、卒氣《そつけ》ない返事《へんじ》をして、何時《いつ》もの愛嬌《あいけう》を見《み》せて吳《く》れなかつた。しかし今澤《いまざわ》は不思議《ふしぎ》にも感《かん》じない。そして丸裸《まるはだか》になつて、小《ちい》さい野菜《やさい》畝《ばた》を橫切《よこぎ》り、野天《のてん》の据風呂《すゑふろ》へ飛込《とびこ》んだ。半月《はんげつ》が次第《しだい》に明《あか》るくなるのを眺《なが》めて、柔《やはら》かい湯《ゆ》に漬《つか》つてゐると、裏口《うらぐち》から逹公《たつこう》が來《き》て太《ふと》い柴《しば》を無雜作《むざうさ》にへし折《を》つては燒《く》べる。 「よく湧《わ》いてるから、もうよろしい」と云《い》つても、 「大事《だいじ》な子《こ》に風《かぜ》でも引《ひ》かせちやならん」と承知《しやうち》しない。今澤《いまざわ》は燃《も》え上《あが》る火《ひ》の、逹公《たつこう》の頑丈《がんじやう》な赤《あか》い顏《かほ》を照《て》らすのを見《み》てゐたが、 「叔父《をぢ》さんは力《ちから》が强《つよ》いだらうな」 「强《つよ》いとも、十|人力《にんりき》だ、貴下《あんた》位《ぐらゐ》は手《て》の表《ひら》でさし上《あ》げらあ、村《むら》の若《わか》い者《もの》でも私《わし》にや降參《こうさん》するからな」と大《おほ》きな聲《こゑ》で云《い》つて、ハツ〳〵と笑《わら》ひ、「學問《がくもん》する人《ひと》は、何《なん》で皆《みな》弱《よわ》いんだらう」 「そりや色《いろ》んなことを考《かんが》へるから、百|姓《しやう》してるやうにボンヤリしちや居《を》れんもの」 と、今澤《いまざわ》がマセた口《くち》を利《き》くと、逹公《たつこう》はへゝんと嘲笑《あざわら》つて、 「百|姓《しやう》でもボンヤリしちや居《を》りませんぜ、貴下《あんた》なんかこそ今《いま》の間《うち》は本《ほん》を讀《よ》んで逹《たつ》の魚《さかな》でも食《た》べとりや、外《ほか》に云分《いひぶん》はないんだから結構《けつこう》だ、しかし貴下《あんた》だつて今《いま》に心配事《しんぱいごと》が出來《でき》て來《く》る、屹度《きつと》出來《でき》る、今歲《ことし》十四におなりなさるんだから、卒業《そつげふ》迄《まで》まだ後《あと》四|年《ねん》だ、この村《むら》にゐる間《うち》に、もうそろ〳〵[#「そろ〳〵」に傍点]慮見方《れうけんかた》が違《ちが》つて來《き》まさあ」 「そんな事《こと》あ本《ほん》を讀《よ》んで知《し》つてらあ」 「さうでないて、壯太《さうた》なんかゞな、エラさうな口《くち》を利《き》くと、私《わし》が云《い》つて聞《き》かせます。私《わし》の目《め》にやお前《まへ》逹《たち》の腹《はら》は見《み》え透《す》いてるつてね、逹公《たつこう》は明盲《あきめくら》でも頭《あたま》にちやん[#「ちやん」に傍点]と四|書《しよ》五|經《きやう》が備《そなは》つとるんですぜ、だから忰《せがれ》にもちつとばかりの學問《がくもん》をせんでも、親爺《おやぢ》の敎《をし》へをよく聞《き》け、それで澤山《たくさん》だと云《い》ふんです、忰《せがれ》もあれで親爺《おやぢ》の子《こ》だ、ヘマな眞似《まね》をして耻《はぢ》を搔《か》くやうなことはしません」と、息子《むすこ》の自慢《じまん》をして、獨《ひと》りで笑《わら》つた。今澤《いまざわ》はゆで[#「ゆで」に傍点]鮹《だこ》のやうになつて聞《き》いてゐた。 その夜《よ》今澤《いまざわ》が散步《さんぽ》から歸《かへ》ると、直《す》ぐ寢床《ねどこ》へ入《はい》り、朝《あさ》まで夢《ゆめ》一《ひと》つ見《み》ずに熟睡《じゆくすゐ》した。起《お》きると例《れい》の如《ごと》く畦《あぜ》傳《づた》ひに學校《がくかう》へ向《むか》つた。通學生《つうがくせい》の溜《たま》りへ入《はい》ると、既《すで》に四五|人《にん》集《あつま》つて賑《にぎ》やかに喋《しや》べつてゐたが、その一|人《にん》が今澤《いまざわ》を見《み》ると、 「ぢや今澤君《いまざわくん》に聞《き》いて見《み》玉《たま》へ」といふ。 「何《なん》だい」と、今澤《いまざわ》は駈《か》けてその群《むれ》へ入《はい》つて目《め》をきよろ〳〵させた。 「君《きみ》はまだ知《し》らんのか、昨夕《ゆふべ》の賄方《まかなひかた》の喧嘩《けんくわ》を、喜公《きいこう》が打《ぶ》たれたさうだぜ」 「え、喜公《きいこう》が誰《だ》れに」 「壯太《さうた》といふ奴《やつ》に」 「本當《ほんたう》か、何故《なぜ》だらう」 「だから君《きみ》に聞《き》くんさ、君《きみ》は二人《ふたり》ともよく知《し》つてるから」 今澤《いまざわ》は驚《おどろ》いてよく聞《き》くと、壯太《さうた》は刃物《はもの》を持《も》つてゐたので、他《ほか》の者《もの》は恐《おそ》れて近《ちか》づかず、喜公《きいこう》は思《おも》ふさま打《ぶ》たれた。そして壯太《さうた》は昨夕《ゆふべ》から寄宿舎《きしゆくしや》にゐないさうだ。 この噂《うはさ》は放課《はうくわ》時間《じかん》每《ごと》に話題《わだい》に上《のぼ》り、逹公《たつこう》が賄《まかなひ》部屋《べや》で怒鳴《どな》つてる樣《さま》を報吿《ほうこく》する者《もの》もあれば、その原因《げんいん》を硏究《けんきう》する者《もの》もある。學校《がくかう》は一|日《にち》これで賑《にぎ》はつた。 學課《がくゝわ》が終《をは》ると、今澤《いまざわ》は例《れい》の木蔭《こかげ》で休《やす》んで、書物《しよもつ》を讀《よ》み草《くさ》の香《にほ》ひに浸《した》つて、最早《もはや》喧嘩《けんくわ》の原因《げんいん》などを念頭《ねんとう》に置《おか》なかつた。 その晚《ばん》、彼《か》れは近頃《ちかごろ》覺《おぼ》えた詩吟《しぎん》をしながら、谷川《たにがは》に沿《そ》うて散步《さんぽ》した。宿《やど》の娘《むすめ》は鍬《くわ》を洗《あら》つてゐる。側《そば》には二三の百|姓《しやう》が脚胖《きやはん》と草鞋《わらじ》を投《な》げ出《だ》して足《あし》を洗《あら》つてゐる。茲《こゝ》でも高《たか》い聲《こゑ》で喧嘩《けんくわ》の噂《うはさ》だ。 「喜公《きいこう》も意氣地《いくぢ》のない奴《やつ》だのう」「播州者《ばんしうもの》なんかに毆《なぐ》られるなんて村《むら》の名折《なを》れだ」「彼奴《あいつ》がまだ村《むら》にゐようなら袋叩《ふくろたゝ》きにしてやるになあ」と、口々《くち〴〵》に憤慨《ふんがい》してゐる。 「何《なん》でも壯太《さうた》の野郞《やらう》が惡《わる》いに違《ちが》いない、ちつとばかりの學問《がくもん》を鼻《はな》にかけて、漢語《かんご》なんか使《つか》やがつて、平生《ふだん》から小憎《こにく》らしい奴《やつ》だつた」 「全體《ぜんたい》彼奴《あいつ》生意氣《なまいき》だ、新田《しんでん》の辰《たつ》の娘《むすめ》に艶書《ふみ》をつけたといふぜ、女《をんな》を口說《くど》くに小六《こむつ》ケ|敷《しい》艶書《ふみ》にも及《およ》ぶまい」 「他國《たこく》の奴《やつ》に女《をんな》を荒《あ》らされて溜《たま》るもんか」と皆《み》んなで笑《わら》つた。宿《やど》の娘《むすめ》は鍬《くわ》を擔《かつ》いで急《いそ》いで歸《かへ》つた。入違《いりちが》つて逹公《たつこう》が佛頂面《ぶつてうづら》をして來《き》たが、今澤《いまざわ》が蹲《しやが》んで道《みち》を防《ふさ》いでるので、 「そうら、退《ど》いた〳〵」と邪慳《ぢやけん》に云《い》つて、彼《か》れを突飛《つきと》ばすやうにして、馬《うま》をザブリと水《みづ》へ入《い》れた。水《みづ》は四邊《あたり》に飛《と》びかゝる。 「逹《たつ》さん、壯太《さうた》は行方知《ゆくへし》れずか」 「何《なん》であんな無茶《むちや》な事《こと》をしたんだらう」と、左右《さいう》より問《と》ひかけた。 「播州《ばんしう》の奴《やつ》あ畜生《ちくしやう》だ、穩順《おとなし》さうな面《つら》してやがつて」と、逹公《たつこう》は凄《すご》い顏《かほ》をして、手綱《たづな》で馬《うま》を打《う》つた。 今澤《いまざわ》は目《め》を丸《まる》くして恐々《こは〴〵》見《み》てゐたが、やがて逃《に》げるやうに川下《かはしも》へ下《くだ》つた。水《みづ》は月光《げつくわう》を乗《の》せて耳語《さゝや》くやうに足下《あしもと》を流《なが》れてゐる。彼《か》れは生《うま》れて初《はじ》めて他鄉《たきやう》孤獨《こどく》の感《かん》を覺《おぼ》えた。  空想家  (一) 單調《たんてう》な自分《じぶん》の生涯《しやうがい》でも、三十五|年《さい》の今《いま》から過去《かこ》を振返《ふりかへ》つて見《み》ると、知《し》らぬ間《ま》に幾多《いくた》の波瀾《はらん》を經過《けいくわ》してゐる。何故《なぜ》あんな事《こと》を考《かんが》へてゐたのだらうと、昔《むかし》の幼稚《えうち》な自分《じぶん》を冷笑《れいせう》したくなるが、それと共《とも》に五|年前《ねんまへ》十|年前《ねんまへ》が懷《なつ》かしく、あゝ今《いま》一|度《ど》あんな氣《き》になりたいなどと思《おも》はぬでもない。 自分《じぶん》は學校《がくかう》を卒業《そつげふ》する十|年前《ねんまへ》、雜多《ざつた》の空想《くうさう》や希望《きばう》が取留《とりとめ》もなく湧《わ》き上《あが》り、一人《ひとり》で悅《うれ》しかつたり氣遣《きづ》かはしかつたりした時《とき》、山吹町《やまぶきちやう》の素人宿《しらうとやど》に下宿《げしゆく》することゝなつた。普通《ふつう》の下宿《げしゆく》屋《や》は騷々《さう〴〵》しいから、靜《しづ》かな家《うち》へ移《うつ》つて、うん[#「うん」に傍点]と勉强《べんきやう》して卒業《そつげふ》後《ご》社會《しやくわい》へ出《で》る準備《じゆんび》をしやうぢやないかと、最《もつと》も親《した》しい細野《ほその》徹《とほる》と相談《さうだん》して、漸《やうや》く捜《さが》し當《あ》てたのが五十ばかりの寡婦《くわふ》と十四五の男《をとこ》の子《こ》と二人《ふたり》切《き》りの或《ある》家《うち》。別《べつ》に生活《くらし》に困《こま》るのではないが、小人數《こにんず》で淋《さび》しくはあり、家《うち》に不用《ふよう》の室《ま》があるのだから、温和《おとなし》い人《ひと》になら貸《か》してもいゝといふのを、或所《あるところ》から聞込《きゝこ》み、早速《さつそく》談判《だんぱん》して承諾《しやうだく》を得《え》たのである。長《なが》い間《あひだ》手《て》を入《い》れぬと見《み》え、家《いへ》は隨分《ずゐぶん》古《ふる》びてゐるが、狹《せま》いながらも、庭《には》もあり、殊《こと》に自分《じぶん》共《ども》の借《か》りた二|階《かい》からは早稻田《わせだ》の森《もり》まで一|面《めん》に見渡《みわた》される。 で、二人《ふたり》は引越《ひきこ》した時《とき》、籖引《くじびき》で席《せき》を定《さだ》め、細野《ほその》は西《にし》自分《ゞぶん》は東《ひがし》に机《つくゑ》を据《す》え、勉强《べんきやう》時間《じかん》も定《き》めて、その間《あひだ》决《けつ》して無駄《むだ》話《ばなし》をしないことにした。互《たがひ》に負《ま》けぬやうに讀《よ》んでは考《かんが》へ、考《かんが》へては讀《よ》み、時々《とき〴〵》小聲《こごゑ》で話《はなし》をする外《ほか》、常《つね》に靜《しづ》かに机《つくゑ》に向《むか》つてゐるので女主人《かみさん》は非常《ひじやう》に感心《かんしん》し、自分《じぶん》共《ども》に向《むか》つて「貴下方《あなたがた》は屹度《きつと》御出世《ごしゆつせ》なさる」と褒《ほ》めそやし、暇《ひま》に任《ま》かせて、五月蠅《うるさ》い位《くらゐ》何《なに》かの世話《せわ》を燒《や》いて吳《く》れる。その上《うへ》來《く》る人《ひと》來《く》る人《ひと》に、自分《じぶん》等《ら》の噂《うはさ》を持出《もちだ》す。それも婆《ばあ》さんの癖《くせ》として、つまらぬことまで仰山《ぎやうさん》に吹聽《ふゐちやう》するので、二|階《かい》で聞《き》いてゐても可笑《をか》しくなる。「ほんとに今時《いまどき》珍《めづ》らしい書生《しよせい》さんですよ、お酒《さけ》を召上《めしあが》るぢやなし、寄席《よせ》を聞《き》きに一|度《ど》入《い》らつしやるぢやなし、」と褒《ほ》められるのは當前《あたりまへ》だが、時《とき》とすると「御飯《ごはん》だつてちよんびり[#「ちよんびり」に傍点]しか召上《めしあが》らない」と、さも感心《かんしん》したらしく褒《ほ》めることがある。 或日《あるひ》細野《ほその》がまだ學校《がくかう》から歸《かへ》らず、自分《じぶん》一人《ひとり》東《ひがし》の窓《まど》を開《あ》けて初秋《はつあき》の澄《す》んだ空《そら》を仰《あふ》ぎ、ぼんやりしてゐると、階下《した》で女主人《かみさん》が來客《らいきやく》に向《むか》つて、べちや〳〵お喋舌《しやべり》をしては笑《わら》つてるのが聞《きこ》える。相變《あひかは》らず自分《じぶん》共《ども》の自慢《じまん》をもしてゐるらしい。暫《しばら》くしてその話《はなし》聲《ごゑ》の消《き》えると、窓《まど》の下《した》の垣根《かきね》に若《わか》い女《をんな》が現《あら》はれ、自分《じぶん》を見上《みあ》げたが、急《きふ》に驚《おどろ》いて俯首《うつむ》いて、すた〳〵と通《とほ》り過《す》ぎた。色《いろ》の白《しろ》い細《ほつ》そりした女《をんな》で、髮《かみ》は束髮《そくはつ》、葡萄色《ぶだういろ》の羽織《はおり》を着《き》てゐた。自分《じぶん》は目《め》に映《うつ》つて直《す》ぐ消《き》えたこの姿《すがた》を思《おも》ひ浮《うか》べ、懷《なつか》しくて溜《たま》らない氣《き》がする。今《いま》女主人《かみさん》と話《はな》してた女《をんな》に違《ちが》ひないが、何處《どこ》の者《もの》だらうと、得意《とくい》の空想《くうさう》を逞《たくまし》うして、甞《かつ》て或《ある》處《ところ》で出會《であ》ひ、互《たが》ひに戀《こひ》を打明《うちあ》けやうとする間《うち》に何《なに》かに遮《さへぎ》られ、別《わか》れ別《わか》れになつた女《をんな》ではないかなどと、考《かんが》へてゐた。すると向《むか》ひの家《うち》の庭《には》から椽側《えんがは》へ上《あが》り、障子《しやうじ》を開《あ》けて内《うち》へ入《はい》る女《をんな》が見《み》える。後姿《うしろすがた》だけだが、束髮《そくはつ》で葡萄色《ぶだういろ》の羽織《はおり》、首筋《くびすじ》が滑《なめ》らかで白《しろ》い。自分《じぶん》は意外《いぐわい》に驚《おどろ》いたが、譯《わけ》なく悅《うれ》しかつた。「隣家《となり》には宮内省《くないしやう》の役人《やくにん》が住《す》んでゐて、別嬪《べつぴん》の娘《むすめ》さんがゐる」と、女主人《かみさん》が問《と》はず語《がた》りをしたことがあつて、自分《じぶん》は別《べつ》に氣《き》にも留《と》めなかつたが、あの女《をんな》を云《い》つたのだ。側《そば》にゐながら自分《じぶん》は一|度《ど》も見《み》たことがなかつたが、細野《ほその》はこの窓側《まどぎわ》に居《ゐ》るんだから、屹度《きつと》見《み》てゐたに違《ちが》ひない。 で、窓《まど》を離《はな》れずに、それからそれと考《かんが》へてゐる間《うち》、細野《ほその》が例《れい》の如《ごと》く、長《なが》い髮《かみ》をふは〳〵させ、沈《しづ》んだ顏《かほ》をして、白木綿《しろもめん》の風呂敷《ふろしき》包《づゝみ》を抱《いだ》いて歸《かへ》つて來《き》た。 「郊外《そと》がよくなつたね、僕《ぼく》は『經濟《けいざい》』を休《やす》んで、一|時間《じかん》落合《おちあひ》の方《はう》を散步《さんぽ》した」 と、細野《ほその》は包《つゝみ》を開《あ》けて、書物《しよもつ》や筆記帳《ひつきちやう》を取出《とりだ》し、キチンと机《つくゑ》の上《うへ》に重《かさ》ねた。 「さうか、これから又《また》戶山《とやま》の原《はら》で讀書《とくしよ》が出來《でき》るね」といつて、態《わざ》と平氣《へいき》で、「君《きみ》は向《むか》ひの娘《むすめ》を見《み》たか」と問《と》ふた。 「むん、何《なん》だか知《し》らんが、若《わか》い女《をんな》を一二|度《ど》見《み》たよ」と云《い》つて細野《ほその》は微笑《びせう》した。頰《ほゝ》も少《すこ》し紅味《あかみ》を帶《お》びる。 「美人《びじん》だね」 「品《ひん》のある女《をんな》だ」 これだけの話《はなし》で、自分《じぶん》は元《もと》の机《つくゑ》へ戾《もど》り、近世史《きんせいし》を讀《よ》みかけたが、頻《しき》りに心《こゝろ》が動搖《どうえう》して頁《ページ》が墓取《はかと》らない。 そも〳〵自分《じぶん》が細野《ほその》と親《した》しくなつたのはこの時《とき》から一|年前《ねんまへ》の秋《あき》である。それ迄《まで》は陰氣《いんき》な因循《いんじゆん》な、何《なん》となく齒切《はぎ》れの惡《わる》い男《をとこ》とのみ思《おも》ひ、打解《うちと》けて話《はなし》をすることもなかつた。所《ところ》が或《あ》る溫《あたゝ》かき小春日《こはるび》に自分《じぶん》が落合《おちあひ》の方《はう》へ散步《さんぽ》に行《ゆ》くと、土手《どて》の木蔭《こかげ》に背《せな》を靜《しづ》かな秋《あき》の日《ひ》に曝《さ》らして一|心《しん》に讀書《とくしよ》してる男《をとこ》がある。よく見《み》ると細野《ほその》だ。好奇心《こうきしん》から近《ちかづ》いて會釋《ゑしやく》し、 「何《なに》を讀《よ》んでるんです」 と、小形《こがた》の書物《しよもつ》をのぞくと、カツセル版《ばん》の「ウエルテルの悲哀《ひあい》」である。 「小說《せうせつ》ですか」と再《ふたゝ》び問《と》ふた。 「まあそんな者《もの》です」と、細野《ほその》は書物《しよもつ》を閉《と》ぢて懷《ふところ》に入《い》れたが目《め》が潤《うる》むでゐる。自分《じぶん》は不思議《ふしぎ》に感《かん》じて、 「それは哀《あは》れな小說《せうせつ》ですか」と聞《き》くと、 「え、主人公《しゆじんこう》が失戀《しつれん》で苦悶《くもん》して自殺《じさつ》するんです」 「君《きみ》はそんな者《もの》に同感《どうかん》しますか」 細野《ほその》は躊躇《ちうちよ》して、「君《きみ》はどうです」と問返《とひかへ》した。 「僕《ぼく》は無論《むろん》同感《どうかん》します、君《きみ》は」 「僕《ぼく》も同《おな》じ事《こと》です」 「そうですか、僕《ぼく》は君《きみ》が戀《こひ》に泣《な》く人《ひと》とは知《し》らなかつた。」と、自分《じぶん》はステツキで櫻《さくら》の枝《えだ》を叩《たゝ》きながら、「どうです一|緒《しよ》に其《そ》の邊《へん》を散步《さんぽ》しませんか」と促《うなが》すと、細野《ほその》は立上《たちあが》つて衣服《きもの》の埃《ほこり》を拂《はら》ひ、土手《どて》を駈《か》け下《お》りた。 で、二人《ふたり》は寄《よ》りつ離《はな》れつ、鐵道《てつだう》線路《せんろ》を橫切《よこぎ》つて田圃《たんぼ》道《みち》を步《あゆ》み、小說《せうせつ》の話《はなし》から戀《こひ》の議論《ぎろん》をした。その間《あひだ》にも細野《ほその》は目《め》を留《と》め耳《みゝ》を澄《す》まして、しんみりした周圍《しうゐ》の景色《けしき》を味《あぢは》つてゐるやうである。既《すで》に初雪《はつゆき》の降《ふ》つたといふ富士山《ふじさん》は白《しろ》く正面《しやうめん》に聳《そび》え、天《てん》は深《ふか》く澄《す》んで、雲《くも》もなく風《かぜ》もなく、只《たゞ》兵士《へいし》の射的《しやてき》のみが、物凄《ものすご》く空氣《くうき》を騷《さは》がせてゐる。 「僕《ぼく》は每日《まいにち》この界隈《かいわい》を散步《さんぽ》します」と、細野《ほその》は上目《うはめ》で空《そら》を仰《あふ》ぎ、「僕《ぼく》は靑《あを》い空《そら》を見《み》たり、白《しろ》い雲《くも》の漂《たゞよ》うてるのを見《み》ると、身體《からだ》が地《ち》の上《うへ》からふら〳〵飛《と》んで行《ゆ》くやうな氣《き》がするんです、自然《しぜん》という者《もの》は實《じつ》に神々《かう〴〵》しい美《うつく》しい者《もの》だ、それに何故《なぜ》人間《にんげん》ばかりは汚《きたな》いことや殘酷《ざんこく》なことをして下品《げひん》な生活《せいくわつ》を送《おく》つてるんでせう、昨日《きのふ》もね風《かぜ》が吹《ふ》いて寒《さむ》かつたけれど、此處《こゝ》を散步《さんぽ》して、木《こ》の葉《は》がさら〳〵と雨《あめ》の降《ふ》るやうに落《お》ちて、小鳥《ことり》が哀《あは》れさうに鳴《な》いてるのを聞《き》いてると、魂《たましひ》がとろける[#「とろける」に傍点]やうになりました。君《きみ》はどうです、自然《しぜん》を見《み》てそんな感《かん》じはしませんか。」 自分《じぶん》は左程《さほど》深《ふか》くは感《かん》じないのだが、細野《ほその》の言葉《ことば》に感心《かんしん》した所《ところ》だから、强《し》いて同意《どうい》して、 「僕《ぼく》も君《きみ》と同感《どうかん》です、つまり人間《にんげん》の慾望《よくばう》の中《うち》で最《もつと》も神聖《しんせい》な者《もの》は、自然《しぜん》を愛《あい》する心《こゝろ》と戀愛《れんあい》とでせう」 「自然《しぜん》に醉《ゑ》ひ戀《こひ》に醉《ゑ》ひか」と、細野《ほその》は銀《ぎん》の鈴《すゞ》でも鳴《な》らすやうな聲《こゑ》で、朗吟《らうぎん》して深《ふか》く自《みづ》から感《かん》じてゐる。自分《じぶん》は初《はじ》めて彼《か》れを面白《おもしろ》い男《をとこ》だと思《おも》つた。 で、これ迄《まで》の經歷《けいれき》を聞《き》くと、彼《か》れは作州《さくしう》津山《つやま》の生《うま》れ、縣《けん》の中學《ちうがく》を卒業《そつげふ》すると直《たゞ》ちに上京《じやうきやう》したが、學資《がくし》の支給《しきう》が充分《じふゞん》でないので、二三|年《ねん》で身《み》に藝《げい》をつけ、自活《じくわつ》した上《うへ》兩親《りやうしん》の世話《せわ》までせねばならぬ。その爲《ため》に止《や》むなく私立《しりつ》學校《がくかう》の政治科《せいぢくわ》へ入學《にふがく》したものゝ、元來《ぐわんらい》政治《せいぢ》や法律《はふりつ》は好《この》ましくない。だから學科《がくゝわ》を勉强《べんきやう》する傍《かたはら》、詩《し》や小說《せうせつ》を讀《よ》んで慰《なぐさ》めてゐるので、時々《とき〴〵》は自身《じゝん》でも新體詩《しんたいし》などを作《つく》るとのこと。 「先日《こないだ》も天使《エンゼル》の詩《し》を作《つく》つたんです、靑年《せいねん》男女《だんぢよ》の純潔《じゆんけつ》な戀《こひ》物語《ものがたり》を天《てん》の使《つかひ》が白雲《しらくも》の上《うへ》で聞《き》いてゐて、永久《えいきう》に戀《こひ》が醒《さ》めぬやうに神泉《しんせん》の水《みづ》を注《そゝ》ぎかけてやる所《ところ》を歌《うた》つたのです、近日《きんじつ》君《きみ》に見《み》せませう、批評《ひゝやう》して下《くだ》さい」 「そりや面白《おもしろ》い、是非《ぜひ》見《み》せて吳《く》れ玉《たま》へ、二三|日間《にちゝう》に訪問《はうもん》しますから」 自分《じぶん》は同級《どうきふ》の友人《いうじん》の多《おほ》くが、寄《よ》ると觸《さは》ると徒《いたづ》らに悲歌《ひか》慷慨《かうがい》して天下《てんか》國家《こくか》を談《だん》じ、或《あるひ》は淫猥《いんわい》な話《はなし》に耽《ふけ》るのを快《こゝろよ》く思《おも》はず、殊《こと》に酒《さけ》を呑《の》んで下女《げぢよ》に戯《たはむ》れたり、遊廓《いうくわく》に出入《しゆつにふ》するのを苦々《にが〳〵》しく感《かん》じ、卑俗《ひぞく》下劣《げれつ》の徒《と》と卑《いや》しみ、自分《じぶん》と趣味《しゆみ》の同《おな》じい學友《がくいう》のないのを遺憾《いかん》に思《おも》つてゐた所《ところ》だから、細野《ほその》に會《あ》つたのを無上《むじやう》に喜《よろこ》び、翌日《よくじつ》學校《がくかう》の歸《かへ》りに、彼《か》れの下宿《げしゆく》へ立寄《たちよ》つた。四|疊半《でふはん》で床《とこ》もない部屋《へや》だが、小《こ》さつぱりと取片付《とりかたづ》けてある。 「よく來《き》ましたね」と、情愛《じやうあい》のある聲《こゑ》で迎《むか》へられると、もう懷《なつ》かしくて悅《うれ》しくて溜《たま》らなかつた。それから奇麗《きれい》な文字《もじ》に滿《み》ちた天使《エンゼル》の詩《し》の朗吟《らうぎん》を聞《き》き、自分《じぶん》は批評《ひゝやう》どころではなく、一|字《じ》一|句《く》悉《こと〳〵》く感動《かんどう》させられ、自分《じぶん》もこんな詩《し》を作《つく》つて見《み》たいと、心底《しんそこ》から細野《ほその》の才《さい》が羨《うらや》ましくなつた。情死《じやうし》の是非《ぜひ》、自殺論《じさつろん》、精神《せいしん》の自由說《じいうせつ》、社會《しやくわい》の俗趣味《ぞくしゆみ》の攻擊《こうげき》、それからそれと話《はなし》の絕《た》ゆる暇《ひま》なく、遂《つひ》に晚飯《ばんめし》を共《とも》にして、夜《よ》の十|時《じ》頃《ごろ》迄《まで》腰《こし》を据《す》えた。 かくて二人《ふたり》は無《む》二の親友《しんいう》となつたのである。  (二) 「お神《かみ》さん、今《いま》來《き》てた女《をんな》は向《むか》ひの娘《むすめ》ですか」と、晚餐《ばんめし》の膳《ぜん》に向《むか》つて聞《き》くと、女主人《かみさん》は指《ゆび》の先《さ》きで長火鉢《ながひばち》の緣《ふち》をこすりこすり、微笑《びせう》して、 「貴下《あなた》御覽《ごらん》なすつて」 「え、一寸《ちよつと》見《み》ました」 「いゝ女《をんな》でせう、先《ま》づこの近所《きんじよ》では天神町《てんじんちやう》の煙草屋《たばこや》の娘《むすめ》か、隣《となり》の娘《こ》かが評判《ひやうばん》の女《をんな》ですけれど、どうして角力《すまふ》になる者《もの》ですか、第《だい》一|品《ひん》が違《ちが》ひまさあね、それに堤《つゝみ》のお多津《たつ》さんは、學問《がくもん》が大變《たいへん》お出來《でき》なさるし、生花《いけばな》であれ裁縫《ぬいもの》であれ、何《なに》一《ひと》つ女《をんな》の藝《げい》に缺《か》けたものはないので御座《ござ》いますよ、もう十九ですから彼方《あちら》からも此方《こちら》からも、お嫁《よめ》に吳《く》れろつて、やい〳〵云《い》つて來《く》るさうですがね、中々《なか〳〵》親御《おやご》が確《しつ》かり者《もの》だから、おいそれとは行《ゆ》かないんで御座《ござ》いますよ、それにもつと藝《げい》を仕込《しこ》んで、何處《どこ》へ出《だ》しても耻《はづ》かしくないものにしたいつてね」と、女主人《かみさん》は一息《ひといき》に喋舌《しやべ》つて、湯沸《ゆわか》しをチヤブ臺《だい》に置《お》き、「貴下方《あなたがた》も堤《つゝみ》さんへ御遊《おあそ》びに被入《いらつしや》いましな、今《いま》は旦那《だんな》が御用《ごよう》で西京《さいきやう》の方《はう》へ行《い》らしつて、無人《ぶにん》で淋《さび》しがつてゐられるんだから、お話《はなし》相手《あひて》でも出來《でき》ると、屹度《きつと》お喜《よろこ》びなさいますよ、些《ちつ》とも氣《き》の置《お》けぬ氣持《きもち》のいゝ家《うち》でね、私《わたし》共《ども》もよく伺《うかゞ》つては長話《ながばなし》をするんで御座《ござ》いますよ、昨日《きのふ》も奧《おく》さんに貴下方《あなたがた》のお話《はなし》を致《いた》しますと、大變《たいへん》褒《ほ》めて入《いら》つしやつたんですわ」 自分《じぶん》は平生《ふだん》女主人《かみさん》が物事《ものごと》を仰山《ぎやうさん》に云《い》ふのを苦々《にが〳〵》しく思《おも》つてゐたが、隣家《となり》の話《はなし》については少《すこ》しも疑《うたがひ》を挿《さしはさ》まなかつた。それに自分《じぶん》等《ら》の事《こと》をも隣《とな》りの家族《かぞく》に向《むか》つて大袈裟《おほげさ》に吹聽《ふゐちやう》したことゝ察《さつ》せられるが、それが少《すこ》しも厭《いや》な氣《き》がせぬのみか、却《かへつ》て悅《うれ》しい氣《き》がした。 しかし、自分《じぶん》はよく知《し》らぬ家《うち》へ推《おし》かけて行《ゆ》く勇氣《ゆうき》のあらう筈《はず》なく、只《たゞ》時々《とき〴〵》窓《まど》から隣《とな》りの庭《には》や緣側《えんがは》を見下《みくだ》し、その姿《すがた》が現《あら》はれるかと空賴《そらだの》みするのみであつた。隣《とな》りは平屋建《ひらやだ》てゞ左程《さほど》大《おほ》きくはないが、古色《こしよく》を帶《お》びて由緒《よし》ありげに見《み》え、庭《には》が可成《かな》りに廣《ひろ》く秋草《あきくさ》が垣根《かきね》に茂《しげ》り片隅《かたすみ》には小《ちい》さな畠《はたけ》がある。自分《じぶん》はその家庭《かてい》をも連想《れんさう》し、氣品《きひん》のある母《はゝ》と、古風《こふう》の父《ちゝ》と、かの素直《すなほ》な娘《むすめ》とが穩《おだや》かな生活《くらし》をしてゐる樣《さま》を思《おも》ひ浮《うか》べ、源氏《げんじ》物語《ものがたり》などにある床《ゆか》しい住居《すまゐ》を目《め》に見《み》てゐるやうに感《かん》じた。夜《よる》になり、冴《さ》えた月《つき》がその草《くさ》の生《は》へた屋根《やね》を照《て》らし、庭《には》の草叢《くさむら》では蟲《むし》が頻《しき》りに鳴《な》き出《だ》すと、向《むか》ひの家《いへ》が夢《ゆめ》の世界《せかい》になる。自分《じぶん》は憧憬《あこがれ》の目《め》を以《もつ》てそれを眺《なが》め、果《は》てのない空想《くうさう》の浮《うか》び、悅《うれ》しい悲《かなし》みが胸《むね》に滿《み》ちる。 こんな風《ふう》で二三|日《にち》を送《おく》つたが、あの女《をんな》が自分《じぶん》の念頭《ねんとう》を去《さ》らぬことは、少《すこ》しも細野《ほその》に語《かた》らない。細野《ほその》は又《また》卒業後《そつげふご》の責任《せきにん》を感《かん》じながら、絕《た》えず新體詩《しんたいし》に心《こゝろ》を取《と》られ、今《いま》も『知《し》られぬ戀《こひ》』などを作《つく》つてゐる。それで晚食《ばんめし》後《ご》散步《さんぽ》しながら、學問上《がくもんじやう》の議論《ぎろん》や卒業後《そつげふご》の生活《せいくわつ》方法《はうはふ》について互《たが》ひに語《かた》り合《あ》ふ時《とき》も、何時《いつ》の間《ま》にか肝心《かんじん》の話《はなし》が外《そ》れて、人生《じんせい》の問題《もんだい》や戀《こひ》の如何《いかん》が話題《わだい》に上《のぼ》り、熱心《ねつしん》に感想《かんさう》を述《の》べ意見《いけん》を闘《たゝか》はす。細野《ほその》は屡々《しば〳〵》ダンテの悲慘《ひさん》なる失戀《しつれん》に同情《どうじやう》を寄《よ》せて說《と》き、「人生《じんせい》は要《えう》するに悲慘《ひさん》だ」とお定《きま》りの結論《けつろん》をする。ロメオの悲戀《ひれん》、ハムレツトの煩悶《はんもん》、細野《ほその》はそれ等《ら》の物語《ものがたり》を凉《すゞ》しい聲《こゑ》で詩的《してき》の調子《てうし》を以《もつ》て話《はな》し、自分《じぶん》は眞面目《まじめ》に聞《き》いて、間接《かんせつ》に其等《それら》の主人公《しゆじんこう》に同感《どうかん》し、自分《じぶん》も彼等《かれら》と同《おな》じく、浮世《ゆきよ》の哀《あは》れを身《み》にひし〳〵と覺《おぼ》えてゐる一人《ひとり》だと信《しん》じてゐた。それと共《とも》にその哀《あは》れを解《かい》しない我々《われ〳〵》の仲間《なかま》は俗物《ぞくぶつ》だとの自負《じぶ》心《しん》も多少《たせう》ないでもなかつた。  (三) 舊曆《きうれき》八|月《ぐわつ》の十五|夜《や》、これから散步《さんぽ》に出《で》やうとしてる所《ところ》へ女主人《かみさん》が二|階《かい》の入口《いりぐち》へ首《くび》を出《だ》して、 「ね槇田《まきた》さん、今《いま》お隣《とな》りからお使《つか》ひが來《き》ましてね、今夜《こんや》お月見《つきみ》をするから、太郞《たらう》(女主人《かみさん》の子《こ》)と、それから貴下方《あなたがた》にも是非《ぜひ》入《い》らしつて下《くだ》さいと云《い》ふのですよ、行《い》つて御覽《ごらん》なさい、私《わたし》一人《ひとり》でお留守番《るすばん》しますから」と勸《すゝ》めた。 自分《じぶん》は飛立《とびた》つやうであつたが、態《わざ》と躊躇《ちうちよ》の體《てい》で、 「さうですね、細野君《ほそのくん》は行《ゆ》くかい」 「でも知《し》らん家《うち》へ行《い》くのは變《へん》だね」 「だつて太郞《たらう》もまゐるんですから、いゝぢやありませんか」 と、女主人《かみさん》は頻《しき》りに促《うな》がす。 「ぢや行《い》つて見《み》るかな、君《きみ》は」と聞《き》くと細野《ほその》も同意《どうい》した。 で、二人《ふたり》は太郞《たらう》について、裏木戶《うらきど》から庭《には》を橫切《よこぎ》つた。太郞《たらう》は緣側《えんがは》に立《た》つて、 「叔母《をば》さん來《き》ましたよ、皆《み》んなを連《つ》れて」と大聲《おほごゑ》で呼《よ》んだ。すると四十|位《ぐらゐ》の小柄《こがら》な女《をんな》と太郞《たらう》と同《おな》じ年輩《ねんぱい》の顏《かほ》の靑《あを》い男《をとこ》の子《こ》が奧《おく》から出《で》て來《き》て、 「よく入《い》らしつた、さあお上《あが》んなさい」と、頻《しき》りに後退《しりごみ》する自分《じぶん》等《ら》を、引張《ひつぱり》上《あ》げるやうにして座敷《ざしき》へ通《とほ》した。 自分《じぶん》は窮屈《きうくつ》に畏《かしこ》まつて只《たゞ》「はい〳〵」と受答《うけこた》へをしてゐたが、妻君《さいくん》は愛想《あいそ》よく、快活《くわいくわつ》な調子《てうし》で、絕間《たえま》なくいろんな世間《せけん》話《ばなし》を持出《もちだ》すので、自分《じぶん》も何時《いつ》の間《ま》にか釣込《つりこ》まれて、例《れい》の娘《むすめ》が枝豆《えだまめ》や白玉《しらたま》を盆《ぼん》に載《の》せて運《はこ》んで來《き》た時《とき》は、最早《もはや》膝《ひざ》も崩《くづ》れてゐた。 「私《わたし》は面倒《めんだう》臭《くさ》い世態話《しよたいばなし》は大嫌《だいきら》ひな性分《しやうぶん》で御座《ござ》いましてね、若《わか》い方《かた》と一|緖《しよ》になつて、罪《つみ》のないお話《はな》しをするのが一|番《ばん》面白《おもしろ》いんで御座《ござ》いますよ、ですからどうか度々《たび〳〵》入《い》らつして下《くだ》さいましな、此頃《このごろ》は主人《あるじ》が留守《るす》だし、小人數《こにんず》で本當《ほんたう》に淋《さび》しくてね、退屈《たいくつ》で〳〵困《こま》つてるので御座《ござ》いますよ」と白玉《しらたま》をコツプに盛《も》つて、砂糖《さとう》をぶつかけて吳《く》れた。妻君《さいくん》は痩《や》せて目《め》の下《した》に小皺《こじは》があるが、顏立《かほだち》は娘《むすめ》によく似《に》てゐる。娘《むすめ》は岐阜《ぎふ》提灯《ぢやうちん》を點火《とも》して軒《のき》に釣《つ》るし、母《はゝ》の側《そば》に座《すわ》つた。太郞《たらう》は緣側《えんがは》で白玉《しらたま》を頰張《ほゝば》りながら、靑白《あをじろ》い子息《こども》と、蟲籠《むしかご》を弄《もてあそ》んでゐる。 「今夜《こんや》はいゝお月樣《つきさま》だ」と、妻君《さいくん》は仰視《あふむ》いて空《そら》を見上《みあ》げた。 「私《わたし》はこんな晚《ばん》には哀《あは》れな音樂《おんがく》が聞《き》きたくなります」と細野《ほその》が云《い》つた。 「音樂《おんがく》がお好《す》きなの、では此女《これ》がもつと上手《じやうず》だとお聞《き》かせ申《まを》すんですけれど」 「琴《こと》がお上手《じやうず》だつて云《い》ふぢやありませんか、聞《きか》せて頂《いたゞ》くといゝんだが」 「だつて暫《しば》らくお稽古《けいこ》を止《や》めてますから」と娘《むすめ》は低《ひく》い聲《こゑ》で云《い》つて、澄《すま》してゐる。細野《ほその》も自分《じぶん》も强《し》いて求《もと》むる勇氣《ゆうき》はない。 「細野《ほその》君《くん》は新體詩《しんたいし》の朗讀《らうどく》が上手《じやうず》です、全《まつた》く音樂《おんがく》的《てき》です」と自分《じぶん》は座興《ざきよう》を增《ま》すやうにと差出口《さしでぐち》を聞《き》いた。 「おやさう、是非《ぜひ》聞《きか》せて下《くだ》さいましな」と、妻君《さいくん》が促《うなが》すので、細野《ほその》は初《はじ》め一寸《ちよつと》辭退《じたい》したが、遂《つひ》に中音《ちうおん》で「天使《エンゼル》の歌《うた》」を吟《ぎん》じた。こんな場合《ばあひ》、細野《ほその》の性質《せいしつ》として別《べつ》に氣取《きど》りもせず羞耻《はにかみ》もせぬから、如何《いか》にも聲《こゑ》が自然《しぜん》で歌《うた》ひ振《ぶり》が面白《おもしろ》かつた。妻君《さいくん》は口《くち》を極《きは》めて褒《ほ》め、娘《むすめ》は莞爾《につこり》して「いゝ聲《こゑ》だわねえ」と母《はゝ》を見《み》て云《い》つた。 「槇田《まきだ》さんも何《なに》か隱《かく》し藝《げい》がおありなさるでせう」と、妻君《さいくん》が自分《じぶん》の方《はう》を見《み》る。 「いえ僕《ぼく》は駄目《だめ》です、詩吟《しぎん》位《ぐらゐ》だから」と自分《じぶん》は氣乗《きの》りもしなかつたが、あまりに攻《せ》められるので、詮方《せんかた》なく簡短《かんたん》に漢詩《かんし》を怒鳴《どな》つたが、あまり感心《かんしん》はされなかつたらしい。それから太郞《たらう》の軍歌《ぐんか》があつて、互《たが》ひに打解《うちと》けて來《く》ると、妻君《さいくん》はトランプでもと云《い》ひ出《だ》したが、自分《じぶん》等《ら》は後日《ごじつ》を期《き》して宿《やど》へ歸《かへ》つた。 これから堤《つゝみ》の家族《かぞく》と懇意《こんい》になり、二三|度《ど》訪《たづ》ねても行《い》き、その度《たび》每《ごと》に妻君《さいくん》は機嫌《きげん》よく迎《むか》へて吳《く》れるが、娘《むすめ》は何時《いつ》も口數《くちかず》が少《すくな》く、ツンとした態度《たいど》を執《と》つてゐる。自分《じぶん》は東京《とうきやう》の若《わか》い女《をんな》に全《まつた》く知邊《しるべ》のないためか、これに對《たい》しては一|種《しゆ》の畏《おそ》れを感《かん》じて居《を》り、殊《こと》に堤《つゝみ》の娘《むすめ》は神々《かう〴〵》しいやうで、あまり馴《な》れ〳〵しく言葉《ことば》を掛《か》けると、無禮《ぶれい》を咎《とが》められはせぬかと思《おも》つた。で、たまたま「欝陶《うつとう》しいお天氣《てんき》ですこと」とか、「どちらへ御散步《ごさんぽ》に行《いら》つしやつたの」とか、何《なん》でもない挨拶《あいさつ》をされた丈《だけ》で、非常《ひじやう》に愉快《ゆくわい》に感《かん》じてゐた。 「何故《なぜ》あの女《をんな》はあゝ冷《コールド》なんだらう」と細野《ほその》に問《と》ふと、細野《ほその》は、 「肉感《にくかん》が乏《とぼ》しいからだらう、純潔《じゆんけつ》な女《をんな》は冷《ひやゝ》かに見《み》えるんだ、しかしあれで戀《こひ》を感《かん》じやうなら、顏《かほ》に生命《いのち》が現《あら》はれて溫味《あたゝかみ》を帶《お》びて來《く》るよ」と鹿爪《しかつめ》らしく說《と》く。 「さうかも知《し》れん、しかしあの女《をんな》はまだ戀《こひ》を感《かん》じたことがないんだらうか。」 「無《な》いとも、戀《こひ》した目《め》と戀《こひ》しない目《め》とは、ちやんと區別《くべつ》がある。」 「さうかね」と、自分《じぶん》は一も二もなく同意《どうい》して、只《たゞ》その戀《こひ》する目《め》を見《み》たいと思《おも》つた。しかし自分《じぶん》がこの二|階《かい》で、軟《やはら》かい空想《くうさう》に包《つゝ》まれながら、矢鱈《やたら》に勉强《べんきやう》する平和《へいわ》の時代《じだい》は長《なが》くは續《つゞ》かなかつたのである。  (四) 或日《あるひ》同鄉《どうきやう》の友人《いうじん》葛原《くづはら》勇吉《ゆうきち》が訪《たづ》ねて來《き》て、盛《さか》んにこの宿《やど》を褒《ほ》め、「僕《ぼく》も少《すこ》し勉强《べんきやう》したいから、靜《しづ》かな家《うち》へ移《うつ》りたい、此家《こゝ》には置《お》いて吳《く》れんだらうか」と云《い》つたが、自分《じぶん》はこの男《をとこ》の騷々《さう〴〵》しいのを嫌《きら》つてゐたから、「外《ほか》に部屋《へや》もないやうだし、人出《ひとで》がないから大勢《おほぜい》を留《と》める譯《わけ》に行《い》かんだらう」と諦《あきら》めさせた。すると葛原《くづはら》は階下《した》へ下《お》りて、二三十|分《ぷん》間《かん》女主人《かみさん》と話《はな》して來《き》たが、どう說《と》きつけたのか、太郞《たらう》の勉强《べんきやう》部屋《べや》を借《かり》ることに定《き》めたさうだ。口先《くちさ》きの味《うま》い爲《ため》、女主人《かみさん》も否《いや》と云《い》へなかつたのであらう。 案《あん》の通《とほ》りこの男《をとこ》が來《き》てからは、一|家《か》の空氣《くうき》が異《ちが》つてしまう、自分《じぶん》と細野《ほその》とは三|度《ど》の食事《しよくじ》の時《とき》、女主人《かみさん》と話《はなし》をするのみで、箸《はし》を置《を》くと直樣《すぐさま》二|階《かい》へ上《あが》るのだが、葛原《くづはら》は煙草《たばこ》を吸《す》うて一|時間《じかん》も話《はな》し込《こ》み、時々《とき〴〵》は太郞《たらう》の將來《しやうらい》についても親切《しんせつ》さうに相談《さうだん》對手《あひて》になつてやる。根《ね》が我々《われ〳〵》とは違《ちが》ひ、快活《くわいくわつ》で調子《てうし》のいゝ洒落《しやれ》の巧《うま》い男《をとこ》だから、二三|日《にち》の中《うち》に、すつかり女主人《かみさん》の氣《き》に入《い》つた。自分《じぶん》等《ら》は勉强《べんきやう》家《か》で身持《みもち》がよいと褒《ほ》められても好《す》かれはしない。葛原《くづはら》は午寢《ひるね》をしやうと、夜深《よふか》しをしやうと、人間《にんげん》が面白《おもしろ》くて、淋《さび》しい家《いへ》を賑《にぎや》かにするのだから好《す》かれない譯《わけ》がない。土曜日《どえうび》の晚《ばん》には屹度《きつと》一|本《ぽん》つけさせ、微醉《ほろゑひ》で落語《らくご》の眞似《まね》をしたり、色話《いろばな》しをする。細野《ほその》の夕陽美《せきやうび》の講釋《かうしやく》や、新體詩《しんたいし》の說明《せつめい》よりは、どんなに面白《おもしろ》く、女主人《かみさん》の耳《みゝ》に響《ひゞ》いたであらう。或晚《あるばん》も葛原《くづはら》は自分《じぶん》等《ら》を前《まへ》に置《お》いて一|本《ぽん》平《たひ》げて、更《さら》に一|合《がふ》だけを强請《ねだ》り、窪《くぼ》んだ眼《め》の緣《ふち》を紅《あか》くし、尖《とが》つた頤《あご》を突出《つきだ》し、 「だつてお母《つか》さん、僕《ぼく》なんか酒《さけ》でも呑《の》まなけりやつまらないさ、こんな御面相《ごめんさう》で、情婦《いろ》が一人《ひとり》出來《でき》るんじやなしさ。」 「今《いま》からお酒《さけ》なんか召上《めしあが》るから、尙《なほ》出來《でき》ないんぢやありませんか」 「しかし槇田君《まきたくん》だつて細野《ほその》君《くん》だつて、まだ戀人《こひゞと》といふ奴《やつ》が出來《でき》んのは不思議《ふしぎ》だ、磨《みが》き上《あ》げれば皆《みな》色男《いろをとこ》たる風采《ふうさい》を持《も》つてるんだがね、我黨《わがとう》振《ふる》はざる久《ひさ》しだ、ハツヽヽヽ」 「どうして槇田《まきた》さんなぞは、卒業《そつげふ》さへなされば、どんないゝ奧樣《おくさま》でもお好《この》み次第《しだい》ですわねえ、堤《つゝみ》のお孃《じやう》さんだつて、槇田《まきた》さん〳〵つて大騷《おほさわ》ぎなんだから」と、女主人《かみさん》はさも眞實《まこと》らしく云《い》ふ。自分《じぶん》は「あゝ又《また》婆《ばあ》さんが捏造《ねつざう》を初《はじ》めたな」と思《おも》つたが、多少《たせう》嬉《ゝれ》しくも感《かん》ぜられた。 「本當《ほんたう》かい槇田君《まきたくん》」と、葛原《くづはら》は目《め》を丸《まる》くして眞顏《まがほ》で聞《き》いた。 「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものか」と、自分《じぶん》は苦笑《くせう》した。 「なにね、槇田《まきた》さんは御存知《ごぞんぢ》なくつても、向《むか》うでは屹度《きつと》思《おも》つて居《ゐ》らつしやるに違《ちが》ひない」と老婆《ばあさん》は意地惡《いぢわる》く確《たしか》めた。 「眞實《ほんと》でも虛僞《うそ》でも、そんな噂《うはさ》が立《た》つだけでも名譽《めいよ》だ、一《ひと》つ奢《おご》り玉《たま》へ、何《なん》ならこれ一|本《ぽん》に負《ま》けて置《お》くから」と瓶子《てうし》を振《ふ》つた。 「下《くだ》らんことを云《い》つてらあ」と、自分《じぶん》は取合《とりあ》はずに二|階《かい》へ上《あが》つた。さら〳〵と雨《あめ》を含《ふく》んだ風《かぜ》が窓《まど》に當《あた》り、蟲《むし》の音《ね》が絕間《たえま》なく聞《き》こえ、折々《をり〳〵》は葛原《くづはら》の高《たか》い笑聲《わらひごゑ》も聞《きこ》える。暫《しばら》くして細野《ほその》が側《そば》へ來《き》て、「今《いま》女主人《かみさん》の云《い》つた事《こと》は本當《ほんと》かい、君《きみ》がゐなくなつてから、いろんな皮肉《ひにく》を云《い》つてたよ」と、低《ひく》い聲《こゑ》で、何《なん》だか氣遣《きづか》はしさうに云《い》つたが、彼《か》れの胸《むね》も鼓動《こどう》してるやうだ。 「馬鹿《ばか》な、そんな事《こと》のある筈《はず》がないぢやないか、滅多《めつた》にあの家《うち》へ行《い》きやしないしさ、只《たゞ》老婆《ばあさん》が何《なん》でもないことを意味《いみ》ありげに云《い》ひたがるんだ」 「でも全《まつた》く種《たね》のないことも云《い》はないだらう」 「屹度《きつと》何《なん》だよ、あの娘《こ》が何《なに》かの拍子《ひやうし》で僕《ぼく》の事《こと》を聞《き》いたのだらう、それが老婆《ばあさん》の口《くち》へ上《のぼ》ると、あんなに誇張《こちやう》されてしまうんだから厭《いや》になつちまう」 「さうかねえ」と、細野《ほその》は安心《あんしん》した風《ふう》だ。 しかし自分《じぶん》は、女主人《かみさん》の言葉《ことば》に、或《あるひ》は多少《たせう》の事實《じゝつ》が含《ふく》まれてはゐないかとも思《おも》ひ、又《また》强《し》いてさう思《おも》ふやうにした。で、萬一《まんいち》さうであつたらどうしやう、如何《いか》なる障礙《しやうがい》を破《やぶ》つても、戀《こひ》を成遂《なしと》げるの外《ほか》はない。葛原《くづはら》に揶揄《やゆ》されやうとも老婆《ばあさん》に嘲《あざ》けられやうとも關《かま》うものか、自分《じぶん》は彼《か》の女《をんな》と靜《しづ》かな所《ところ》に清貧《せいひん》なる生涯《しやうがい》を送《おく》ればそれで足《た》つてゐる。彼《か》の女《をんな》とても世俗《せぞく》の榮華《えいぐわ》を追求《つひきう》する風《ふう》はないから、自分《じぶん》の理想《りさう》に同意《どうい》するに違《ちが》ひない。 一|日《にち》二日《ふつか》こんな取留《とりと》めのない空想《くうさう》に頭《あたま》を惱《なやま》してゐたが、敢《あえ》て彼《か》の女《をんな》に會《あ》つて心中《しんちう》を確《たしか》めやうともしない。葛原《くづはら》は堤《つゝみ》の妻君《さいくん》とも懇意《こんい》になり、太郞《たらう》を連《つ》れて頻《しき》りに出入《しゆつにふ》すれど、自分《じぶん》や細野《ほその》は滅多《めつた》に行《い》く機會《きくわい》がない。そして自分《じぶん》は葛原《くづはら》が隣家《となり》と親《した》しくなり、妻君《さいくん》にもチヤホヤされるのが不快《ふくわい》でならなかつた。自分《じぶん》の渇仰《かつかう》する聖殿《せいでん》を泥足《どろあし》で汚《けが》される氣《き》がした。 或晚《あるばん》葛原《くづはら》が、「隣家《となり》では今夜《こんや》大將《たいしやう》が留守《るす》だから、トランプを取《と》ると云《い》つて來《き》たよ、一|緖《しよ》に行《い》かうぢやないか」と自分《じぶん》等《ら》に勸《すゝ》めた。 「トランプは知《し》らんもの」 「知《し》らなくたつていゝさ、人《ひと》が少《すくな》いと面白《おもしろ》くないから、是非《ぜひ》付合《つきあ》つて吳《く》れ玉《たま》へ、君《きみ》等《ら》もあまり勉强《べんきやう》に凝《こ》ると毒《どく》だよ、少《すこ》しは呑氣《のんき》に遊《あそ》ぶ方《はう》がいゝよ」 「ぢや行《い》つて見《み》やう」 と、太郞《たらう》と共《とも》に凡《すべ》て四|人《にん》で隣家《となり》へ推《おし》かけた。 「叔母《をば》さん、皆《み》んな引張《ひつぱ》つて來《き》ましたよ」と、葛原《くづはら》はずんずん座敷《ざしき》へ上《あが》つた。彼《か》れは宿《やど》の女主人《かみさん》をお母《つか》さんと呼《よ》び、堤《つゝみ》の妻君《さいくん》を叔母《をば》さんと云《い》ひ、娘《むすめ》をお多津《たつ》さんと呼《よ》ぶのだ。 「お多津《たつ》さん、今日《けふ》は負《ま》けたものが奢《おご》るんですよ」 「えゝ〳〵、よう御座《ござ》んすとも、どうせ負《ま》けやしないから」と、娘《むすめ》は違《ちが》ひ棚《だな》から札《ふだ》を取出《とりだ》し、一|同《どう》は輪《わ》をなした。で、葛原《くづはら》が札《ふだ》を切《き》つて順々《じゆん〴〵》に撒《ま》いて行《い》つたが、その手際《てぎは》は甘《うま》いものだ。自分《じぶん》や細野《ほその》は只《たゞ》敎《をそ》はつた通《とほ》り機械的《きかいてき》にやつてるのみで別《べつ》に興味《きようみ》もない。娘《むすめ》は夢中《むちう》になつて、身體《からだ》を搖《ゆす》ぶり札《ふだ》を持《も》つた手《て》をもぢ〴〵させて勝敗《しやうはい》を氣遣《きづか》つてゐる。葛原《くづはら》は叫《さけ》んだり笑《わら》つたり、頭《あたま》を搔《か》いたり舌《した》を出《だ》したり、一人《ひとり》で騷《さわ》いで座《ざ》を賑《にぎや》かにする。自分《じぶん》は折々《をり〳〵》うつとり[#「うつとり」に傍点]して、この家庭《かてい》の行末《ゆくすゑ》を思《おも》ひ、葛原《くづはら》のやうな卑俗《ひぞく》な男《をとこ》が出入《しゆつにふ》して、穩《おだや》かな床《ゆか》しい生活《くらし》を搔亂《かきみだ》し、下等《かとう》な趣味《しゆみ》を注《そゝ》ぎ込《こ》み、一|家《か》が堕落《だらく》してしまうことを氣遣《きづか》ひ、「何《なに》を考《かんが》へて入《いら》つしやるの、貴下《あなた》の番《ばん》ぢやありませんか」と、側《そば》の妻君《さいくん》から叱《しか》られる位《くらゐ》であつた。 遂《つひ》に細野《ほその》と自分《じぶん》とが劣敗者《れつぱいしや》と定《き》まり、蕎麥《そば》を奢《おご》らされた。葛原《くづはら》は萬歲《ばんざい》を唱《とな》へ、娘《むすめ》はほつと息《いき》を吐《つ》き、「あゝよかつた」と莞爾《につこり》する。自分《じぶん》等《ら》は如何《いか》にもつまらない。それで今《いま》一|度《ど》と娘《むすめ》が云《い》ひ出《だ》して外《ほか》の者《もの》は同意《どうい》したが、自分《じぶん》等《ら》二人《ふたり》は辭退《じたい》して歸《かへ》つた。歸《かへ》つて二|階《かい》の窓《まど》を開《あ》けて、星影《ほしかげ》を仰《あふ》いでゐると、堤《つゝみ》の座敷《ざしき》の燈火《あかり》が微《かす》かに見《み》える。まだトランプをやつてるのであらう。 「困《こま》るね、葛原《くづはら》が侵入《しんにふ》しては、此家《こゝ》だつて、あの男《をとこ》が來《き》てから、すつかり婆《ばア》さんの態度《たいど》が違《ちが》つてしまつた。が、それはまあいゝとして、堤《つゝみ》の家《うち》へ行《い》つちや困《こま》るよ、家《うち》の婆《ばア》さんなんか、どうせ趣味《しゆみ》が低《ひく》いんだから、葛原《くづはら》に感化《かんくわ》されるのも當然《たうぜん》だがね、隣《とな》りの家族《かぞく》は敎育《けういく》もあり品位《ひんゐ》も備《そな》へてるのに、何故《なぜ》葛原《くづはら》を勸迎《くわんげい》するんだらう」と、自分《じぶん》が細野《ほその》に話《はな》しかけると、 「さうだね」と細野《ほその》は首《くび》を傾《かし》げ、「僕《ぼく》は隣《とな》りの母子《おやこ》が决《けつ》して葛原《くづはら》を喜《よろこ》んでやしないと思《おも》ふ、擧動《きよどう》や顏色《がんしよく》でさう察《さつ》しられるぢやないか、殊《こと》に娘《むすめ》は胸《むね》に何《なに》かの苦《くるし》みがあつて堪《たま》らないから、それでトランプや馬鹿《ばか》話《ばなし》で忘《わす》れやうとしてるんだ、あの目《め》は確《たし》かに美《うつ》くしい者《もの》や淸《きよ》い戀《こひ》を求《もと》めてるといふ風《ふう》だ」と、上目《うはめ》で空《そら》を見《み》て、落付《おちつ》いた聲《こゑ》で云《い》つた。 自分《じぶん》は細野《ほその》の說《せつ》には少《すこ》しの根據《こんきよ》もないと思《おも》つたが、「さうかねえ」と云《い》つて、別《べつ》に反對《はんたい》もしなかつた。平生《ふだん》自分《じぶん》は己《おの》れの希望《きばう》や想像《さう〴〵》について、多少《たせう》の疑《うたが》ひを有《いう》してゐたが、細野《ほその》は决《けつ》してそんな事《こと》なく、何事《なにごと》についても一|種《しゆ》の意見《いけん》を有《いう》してゐて、自分《じぶん》が聞《き》いてすら、幼稚《えうち》な空想《くうさう》だと思《おも》ふ事《こと》を確信《かくしん》してゐた。 で、兎《と》に角《かく》自分《じぶん》は細野《ほその》の如《ごと》く樂觀《らくゝわん》してゐられぬ。堤《つゝみ》一|家《か》のために、葛原《くづはら》を遠《とほざ》ける工夫《くふう》を講《かう》ぜぬばならぬと、腹《はら》の中《なか》で藻搔《もが》いてゐた。所《ところ》がその翌晚《よくばん》、葛原《くづはら》が女主人《かみさん》と太郞《たらう》とを連《つ》れて寄席《よせ》へ行《い》つた後《あと》、 「御免《ごめん》なさい、叔母《をば》さんはお留守《るす》?」 と勝手《かつて》の方《はう》で呼《よ》ぶ聲《こゑ》がする。自分《じぶん》は留守番《るすばん》を仰《あふ》せつかつてゐるから、早速《さつそく》駈《か》け下《お》りて見《み》ると、それがお多津《たつ》である。萩餅《おはぎ》を持《も》つて來《き》て吳《く》れたのだ。 「まあお上《あが》んなさい、皆《みんな》留守《るす》だけれど」 「葛原《くづはら》さんも」 「え僕《ぼく》と細野《ほその》君《くん》だけです、」 「昨夕《ゆふべ》お負《ま》けなすつて、今夜《こんや》又《また》お留守番《るすばん》ではつまらないわねえ」と、目《め》に笑《わら》ひを含《ふく》んで馴《な》れ〳〵しい態度《たいど》。 「僕《ぼく》は寄席《よせ》は嫌《きら》ひだから行《い》きたくはないんです、トランプだつて些《ちつ》とも面白《おもしろ》くはないし、負《ま》けたつて口惜《くや》しくはありません」といつたが、今夜《こんや》は珍《めづ》らしくお多津《たつ》の態度《たいど》が打解《うちと》け易《やす》いやうであり、又《また》他人《ひと》を交《まじ》へずに差向《さしむか》ひで話《はな》す機會《きくわい》は又《また》と得《え》られぬのであるから、思《おも》ひ切《き》つて、 「僕《ぼく》は是非《ぜひ》貴女《あなた》にお話《はなし》したいことがあるんですが、此方《こちら》へ上《あが》つて聞《き》いて吳《く》れませんか」と、氣《き》を靜《しづ》めて、言葉《ことば》も强《し》いて穩《おだや》かにした。 「何《なん》のお話《はな》し」と、例《いつも》の冷《ひやゝ》かな調子《てうし》で云《い》つて、勝手《かつて》に板《いた》の間《ま》に腰《こし》を下《おろ》し、橫向《よこむ》きに自分《じぶん》の顏《かほ》を見詰《みつ》めた。 「何《なん》と云《い》つて別《べつ》に何《なん》でもないが」とドキマギした揚句《あげく》、「僕《ぼく》は貴女《あなた》初《はじ》め、家族《かぞく》の方《かた》を尊敬《そんけい》してるんです、お宅《たく》へ行《い》くと優雅《いうが》なしつとり[#「しつとり」に傍点]した空氣《くうき》が滿《み》ちてるやうに感《かん》ぜられるんです。貴女《あなた》は幸福《かうふく》な家庭《かてい》に生《うま》れて純白《じゆんぱく》な生涯《しやうがい》を送《おく》るんだから」と、又《また》云《い》ひ淀《よど》んだ。 「あらそんなお話《はな》し、槇田《まきた》さんも隨分《ずゐぶん》可笑《をか》しな方《かた》ね」と、お多津《たつ》は半《なか》ば身《み》を起《おこ》した。 「だから貴女《あなた》は天《てん》から授《さづ》かつた純白《じゆんぱく》な性質《せいしつ》を傷《きづゝ》けんやうにしなくちやならん、下品《げひん》な趣味《しゆみ》や野卑《やひ》な談話《だんわ》は貴女《あなた》には適《てき》しないんです。」 「槇田《まきた》さんは六《むつ》ケ|敷《しい》ことばかり仰有《おつしや》るのね、お說敎《せつけう》でも聞《きい》てるやうだわ」と笑《わら》つて、 「下品《げひん》な趣味《しゆみ》といふのは何《なん》ですか、トランプを取《と》ること」 「さうでもないんだが、兎《と》に角《かく》葛原《ゝづはら》なんかに感化《かんくわ》されちや駄目《だめ》ですよ」 「え、葛原《くづはら》さんがどうかしたの」 「あの男《をとこ》は面白《おもしろ》い人間《にんげん》だけれど、どうも趣味《しゆみ》が下品《げひん》だからいかん、貴女《あなた》もそのつもりで御交際《おつきあひ》なさるがいゝ」 「私《わたし》趣味《ゝゆみ》が下品《げひん》だつていゝのよ」と、例《れい》のツンとして立上《たちあが》つた。 「僕《ぼく》は貴女《あなた》を尊敬《そんけい》してるから云《い》つたのです、惡《わる》い意味《いみ》に取《と》らないやうにして下《くだ》さい」 と、自分《じぶん》は狼狽《うろた》へた氣味《きみ》。 「つまり葛原《くづはら》さんとお交際《つきあひ》するなと仰有《おつしや》るんでせう、貴下《あなた》は何故《なぜ》お友逹《ともだち》を除物《のけもの》になさるの、葛原《くづはら》さんは被入《いらつしや》る度《たび》に、貴下《あなた》方《がた》をお褒《ほ》めなさるのに、貴下《あなた》は葛原《くづはら》さんの惡口《わるくち》なんか云《い》つて、」 「さうぢやないさ、しかし貴下《あなた》はまだ御存知《ごぞんぢ》ないだらうが、葛原《くづはら》はこれ迄《まで》ズボラで評判《ひやうばん》の惡《わる》い男《をとこ》だから、あんな男《をとこ》を家庭《かてい》へ侵入《しんにふ》さすと信用《しんよう》に關《くわん》すると思《おも》つて云《い》つたのです、僕《ぼく》は貴女《あなた》に初《はじ》めてお目《め》に掛《かゝ》つた時《とき》から、貴女《あなた》を品性《ひんせい》の傑《すぐ》れた方《かた》と思《おも》つて、一|生《しやう》天使《エンゼル》のやうな生涯《しやうがい》を送《おく》るやうに願《ねが》つてゐます。」 お多津《たつ》は澄《すま》した顏《かほ》で不審《いぶかし》げに自分《じぶん》の顏《かほ》を見《み》て、「私《わたし》、尊敬《そんけい》されたり、天使《エンゼル》とかになりたくはありませんわ、貴下《あなた》こそ餘程《よつぽど》妙《めう》ね……お話《はな》しつてそれつ切《き》り」と云《い》つて、會釋《ゑしやく》して歸《かへ》つてしまつた。自分《じぶん》は失望《しつばう》して二|階《かい》へ上《あが》ると、細野《ほその》が、 「君《きみ》は何《なに》を話《はな》してたんだ」 「向《むか》ひの娘《むすめ》が來《き》たから葛原《くづはら》の人《ひと》と爲《な》りを聞《き》かせたけれど、薩張《さつぱ》り分《わか》らない、矢張《やはり》平凡《へいぼん》な女《をんな》だね」 「僕《ぼく》はさう思《おも》はない」と、細野《ほその》は彼《か》の女《をんな》を月世界《げつせかい》から降《ふ》つて來《き》た女《をんな》のやうに思《おも》つてゐるらしい。自分《じぶん》は葛原《くづはら》に大事《だいじ》の寶《たから》を踏碎《ふみくだ》かれ、又《また》理想《りさう》の女《をんな》から愛相《あいそ》を盡《つか》された如《ごと》く感《かん》じ、急《きふ》にこの宿《やど》が厭《いや》になり、轉居《てんきよ》しやうと决心《けつしん》し、細野《ほその》に同意《どうい》を求《もと》めたが、細野《ほその》は面倒《めんだう》臭《くさ》いからといふ口實《こうじつ》で賛成《さんせい》しない。 で、その翌日《よくじつ》から學校《がくかう》の歸途《きと》自分《じぶん》一人《ひとり》で宿《やど》を捜《さが》し廻《まは》り、二三|日《にち》の間《うち》に、漸《やうや》く氣《き》に向《む》いた所《ところ》を見《み》つけた。いよ〳〵轉宅《てんたく》と定《きま》つた日《ひ》に、葛原《くづはら》は二|階《かい》へ來《き》て、 「諦《あきら》めて逃《に》げ出《だ》すんか」と、皮肉《ひにく》を云《い》ひ、「君《きみ》はひどいな、レデイに向《むか》つて僕《ぼく》の事《こと》を趣味《しゆみ》の低《ひく》い奴《やつ》だと云《い》つたさうだが」 「何《なに》さうぢやないよ」と、自分《じぶん》は少《すこ》し紅《あか》くなつて辯解《べんかい》しやうとすると、葛原《くづはら》は無邪氣《むじやき》に口《くち》を開《あ》けて笑《わら》ひ、 「それはどうでもいゝさ、しかし、君《きみ》、女《をんな》に向《むか》つて趣味《しゆみ》の高下《かうげ》を論《ろん》ずるなんか、野暮《やぼ》の極《きよく》だぜ、レデーでもエンゼルでもお薩《さつ》を喜《よろこ》んで召上《めしあが》るんだもの」  (五) 自分《じぶん》の轉居《てんきよ》先《さ》きは雜司《ざうし》ケ谷《や》の百|姓家《しやうや》、藁葺《わらぶき》の軒《のき》の傾《かた》むき、壁《かべ》は骨《ほね》を出《だ》し、疊《たゝみ》は擦《す》りむけて足《あし》に引《ひつ》かゝる程《ほど》だが、前《まへ》に大根《たいこん》畑《ばた》があり四|方《はう》は楢《なら》や樅《もみ》が取圍《とりかこ》み、外《ほか》の人家《じんか》とかけ離《はな》れて、荒寺《あれてら》のやうである。下町《したまち》のさる富豪《ふがう》の所有《しよいう》で、やがて地代《ぢだい》の上《あが》るのを待《まち》ち賣《うり》はなす筈《はず》だが、それ迄《まで》番人《ばんにん》として、獨身《ひとりもの》の作藏《さくざう》爺《ぢい》に無代《むだい》で貸與《たいよ》してゐるのだ。自分《じぶん》はこの爺《ぢい》さんの白痴《はくち》の如《ごと》く逹人《たつじん》の如《ごと》く、何《なん》となく世間《せけん》離《ばな》れしてゐるのを面白《おもしろ》く感《かん》じ、一|緖《しよ》に引割《ひきわり》飯《めし》を食《く》ひ、時々《とき〴〵》は大根《だいこ》の蟲取《むしと》りの手傳《てつだひ》をもしてやり、無論《むろん》學問《がくもん》は怠《おこた》らなかつた。で、山吹町《やまぶきちやう》へは全《まつた》く足《あし》を向《む》けぬ。細野《ほその》は屡々《しば〳〵》訪《たづ》ねて來《き》ては、楢林《ならばやし》の下《した》に落葉《おちば》を敷《し》いて、暮《く》れ行《ゆ》く秋《あき》を眺《なが》めて、夢《ゆめ》のやうな話《はなし》に耽《ふけ》つてゐた。しかし自分《じぶん》は堤《つゝみ》の娘《むすめ》の事《こと》は成《なる》べく口《くち》に出《だ》さぬやうにし、細野《ほその》も語《かた》らなかつた。 しかし細野《ほその》も間《ま》もなく山吹町《やまぶきちやう》の宿《やど》を出《で》て、戶塚町《とつかまち》の植木屋《うゑきや》の一|室《ま》を借《か》り、卒業《そつげふ》迄《まで》其處《そこ》で暮《く》らしたのである。 卒業後《そつげふご》は二人《ふたり》とも一|日《にち》も早《はや》く職業《しよくげふ》を求《もと》めねばならぬ。殊《こと》に細野《ほその》は鄉里《きやうり》の家族《かぞく》を補助《ほじよ》する義務《ぎむ》さへあつて、自分《じぶん》よりも糊口《こゝう》の方法《はうはふ》を焦《あせ》らねばならぬのだ。しかるに彼《か》れは試驗《しけん》が濟《す》むと、一|生涯《しやうがい》の重荷《おもに》を卸《おろ》した氣《き》で、衣服《きもの》や敎課書《けうくわしよ》を賣拂《うりはら》つて、相州《さうしう》葉山《はやま》へ旅行《りよかう》した。そして或日《あるひ》自分《じぶん》が先輩《せんぱい》を訪問《はうもん》して職業《しよくげふ》の周旋《しうせん》を依賴《いらい》し、汗《あせ》と埃《ほこり》にまみれて歸《かへ》ると、彼《か》れからの手紙《てがみ》が來《き》てゐた。 「…………僕《ぼく》は今《いま》相模灣《さがみわん》を見下《みおろ》した小高《こだか》い寺《てら》に寄寓《きぐう》し、菜食《さいしよく》に滿足《まんぞく》し、肉慾《にくよく》を忘《わす》れて靈《れい》の生活《せいくわつ》をしてゐる。朝《あさ》は早《はや》く起《お》きて、まだ人影《ひとかげ》もなく、海《うみ》も神秘《しんぴ》の水氣《すゐき》に閉籠《とぢこ》められてゐる頃《ころ》、明神崎《みやうじんざき》へ行《い》つて、岩蔭《いはかげ》に踞《きよ》して作詩《さくし》の工夫《くふう》を凝《こ》らし、晝《ひる》は寺《てら》の廣間《ひろま》に寢《ね》ころんで、海風《かいふう》に耳《みゝ》の穴《あな》まで撫《な》でられて、キーツやヲルヅヲルスの詩《し》を朗讀《らうどく》してゐる。僧侶《そうりよ》の讀經《どくきやう》や筧《かけひ》の水音《みづおと》は、柔《やはら》かに僕《ぼく》の膓《はらわた》まで染《し》み込《こ》む。今《いま》も夕暮《ゆふぐれ》の磯傳《いそづた》ひから歸《かへ》り、苔《こけ》に蔽《おほ》はれた石段《いしだん》を上《あが》つてゐると、鐘《かね》の音《ね》が永遠《エターニチー》の響《ひゞ》きを傳《つた》へ、僕《ぼく》は宇宙《うちう》の神靈《しんれい》に觸《ふ》れた如《ごと》く感《かん》じ、希悅《きえつ》の淚《なみだ》が出《で》た。戀《こひ》に絕望《ぜつばう》し世《よ》に倦《う》んだ古《いにしへ》の人《ひと》が、寺院《じゐん》に身《み》を遁《のが》れたのは、さもあるべき事《こと》と思《おも》はれる。……」 と記《しる》し、最後《さいご》に現在《げんざい》の我《わ》が心《こゝろ》だとして、キーツのソンネツト"Oh! How I love, on a fair summer's eve"の全體《ぜんたい》を寫《うつ》し添《そ》へた。 彼《か》れは殆《ほと》んど生活《せいくわつ》の方針《はうしん》などを念頭《ねんとう》に置《お》いてゐないらしい。歸京《きゝやう》してからでも敢《あえ》て齷齪《あくそく》として職《しよく》を漁《あさ》るでもなく、月給《げつきう》取《とり》となり一|家《か》を構《かま》へるよりも、秋《あき》が來《き》て郊外《かうぐわい》散步《さんぽ》の出來《でき》る時《とき》を待《ま》つてるやうだ。超然《てうぜん》としたその態度《たいど》、純潔《じゆんけつ》なその精神《せいしん》、自分《じぶん》は細野《ほその》を尊敬《そんけい》せずにはゐられなかつた。 幸《さいはひ》にして自分《じぶん》も細野《ほその》も會社員《くわいしやゐん》の口《くち》に有《り》ついたが、自分《じぶん》は大阪《おほさか》、細野《ほその》は東京《とうきやう》、別《わか》れ〳〵に勤《つと》めねばならぬ。で、自分《じぶん》が出立《しゆつたつ》の二三|日前《にちまへ》、二人《ふたり》きりで離別《りべつ》の會《くわい》を催《もよほ》し、自分《じぶん》は將來《しやうらい》活動《くわつどう》の計畵《けいくわく》を詳《くは》しく語《かた》り、細野《ほその》は理想《りさう》、神靈《しんれい》、淸《きよ》き戀《こひ》などについて美《うる》はしい夢《ゆめ》を語《かた》つた。 それから四五|年《ねん》、細野《ほその》に會《あ》ふ機會《きくわい》はなかつた。初《はじ》めの間《うち》は書信《しよしん》の往復《わうふく》が頻繁《ひんぱん》であつたが、月《つき》を重《かさ》ぬるにつれ次第《しだい》に減《げん》じ、後《のち》には殆《ほと》んど音信《おんしん》不通《ふつう》、たまの手紙《てがみ》も極《きは》めて簡短《かんたん》で、君《きみ》も無事《ごぶじ》にや、僕《ぼく》も無事《ぶじ》、殘暑《ざんしよ》酷《きび》しく候《そろ》位《くらゐ》に過《す》ぎぬ。 この間《あひだ》に自分《じぶん》の生活《せいくわつ》狀態《じやうたい》は餘程《よほど》變《かは》つた。酒《さけ》も飮《の》む、遊廓《いうくわく》へも行《ゆ》く、上役《うはやく》の目顏《めがほ》を注視《ちうし》するやうにもなつた。月日《つきひ》の徒《いたづ》らに早《はや》く過《す》ぎて、豫想《よさう》の一《ひと》つ〳〵外《はづ》れて行《ゆ》くことも知《し》つた。しかしまだ若《わか》い血潮《ちしほ》が乾《か》れてはゐない。詩《し》を讀《よ》んで泣《な》き、會社《くわいしや》の冷遇《れいぐう》を憤《いきどほ》り、或《あるひ》は戀人《こひゞと》と共《とも》に淵川《ふちかは》に身《み》を投《とう》ずるの勇氣《ゆうき》がないでもなく、從《したが》つて多少《たせう》の波瀾《はらん》が一|身上《しんじやう》に湧《わ》いて起《おこ》こつたが其等《それら》は他日《たじつ》を期《き》して茲《こゝ》には語《かた》らぬ。 さて或年《あるとし》の夏《なつ》、辛《から》うじて一|週間《しうかん》の休暇《きうか》を得《え》て上京《じやうきやう》した。久振《ひさしぶ》りであり、訪《と》ふべき先輩《せんぱい》や友人《いうじん》も多《おほ》いけれど、先《ま》づ遇《あ》つて見《み》たきは細野《ほその》徹《とほる》。長《なが》らく消息《せうそく》に接《せつ》しなかつたのだが、どんなに變《かは》つてるだらうと、大手町《おほてまち》の會社《くわいしや》を訪《たづ》ねると、先頃《さきごろ》退社《たいしや》したとかで宿所《しゆくしよ》も分《わか》らぬ。で、二三|軒《げん》聞《き》き廻《まわ》つて、漸《やうや》く移轉先《ゐてんさき》を突留《つきと》め、早速《さつそく》車《ゝるま》で駆《か》けつけたのだが品川《しながは》御殿山《ごてんやま》の門構《もんがま》へ嚴《いかめ》しい家《うち》。此處《こゝ》で何《なに》をしてゐるのだらうと訝《いぶか》りながら案内《あんない》を乞《こ》ふと、玄關《げんくわん》に出《で》て來《き》たのが細野《ほその》である。「ヤア」と自分《じぶん》は目《め》を見張《みは》つて、彼《か》れの痩《や》せて靑《あを》く鼻《はな》ばかり尖《とが》つた顏《かほ》を見《み》てゐたが、彼《か》れも驚《おどろ》いて「君《きみ》も非常《ひじやう》に異《ちが》つたね、會社員《くわいしやゐん》らしくなつた」と、兎《と》に角《かく》直《す》ぐ傍《そば》の書生《しよせい》部屋《べや》へ案内《あんない》した。 「君《きみ》は會社《くわいしや》を止《よ》したさうだね、今《いま》は何《なに》をしてるんだ」と、自分《じぶん》は座《すわ》るや否《いな》や聞《き》くと、 「この通《とほ》り書生《しよせい》部屋《べや》にごろ〳〵してる、しかし突然《とつぜん》君《きみ》に會《あ》つたので、何《なん》だか外《ほか》の世界《せかい》へ來《き》てる氣《き》がするよ」と、自分《じぶん》をのぞき込《こ》んで沈《しづ》んだ聲《こゑ》で云《い》ひ、目《め》が潤《うる》んでゐる。 「僕《ぼく》も忙《いそが》しいもんだから、つい手紙《てがみ》も怠《おこた》つて濟《す》まなかつた、その後《ご》君《きみ》はどうしてゐた、何《なん》だか身體《からだ》も惡《わる》さうぢやないか」 「うん少《すこ》し弱《よわ》つてるがね、大《たい》したこともあるまい」と、彼《か》れは云《い》ひさして、急《きふ》に「氷《こほり》でも取《と》つて來《こ》やう」と出《で》て行《い》つた。後《あと》で自分《じぶん》は羽織《はおり》を脫《ぬ》いで、扇子《せんす》を激《はげ》しく使《つか》ひ、汗《あせ》を乾《かは》かせながら、部屋《へや》の隅々《すみ〴〵》を見《み》るに、衣紋竿《えもんざを》にかけた衣服《きもの》も、小《ちい》さい本箱《ほんばこ》も、茶道具《ちやだうぐ》まで四五|年前《ねんまへ》の下宿《げしゆく》屋《や》時代《じだい》とあまり變《かは》つてゐない。只《たゞ》海邊《かいへん》の水彩畵《すゐさいぐわ》が一|枚《まい》かかつてゐるのが目新《めあたら》しい位《ぐらゐ》。本箱《ほんばこ》を開《あ》けて見《み》ると、矢張《やはり》キーツやシエレーの詩集《ししふ》があつて、前《まへ》よりも手垢《てあか》がついてゐる。机《つくゑ》には二三|帖《てう》の半紙《はんし》を載《の》せ、感想錄《かんさうろく》やうの者《もの》を書《か》きかけてゐる。 「昨夜《さくや》公園《こうえん》を散步《さんぽ》して瞑想《めいさう》に耽《ふけ》る、美《うつく》しき世界《せかい》よとの感切《かんせつ》にして、随喜《ずゐき》の淚《なみだ》にむせんだ。夕暮《ゆふぐれ》の紅《あか》い雲《くも》が見《み》る間《ま》に色《いろ》を失《うしな》ひ、一|抹《まつ》の靄《もや》が大崎《おほさき》の平地《へいち》を籠《こ》め、あちこちの燈火《とうくわ》は水中《すゐちう》に浮動《ふどう》してゐるやうであつたが、やがて際立《きはだ》つて赤《あか》い一|點《てん》の燈火《とうくわ》が、大蛇《だいじや》の眼《まなこ》の如《ごと》く光《ひか》つて、靄《もや》を突破《つきやぶ》つて疾驅《しつく》して、轟々《ぐわう〴〵》と音《おと》のみ殘《のこ》して姿《すがた》を隱《かく》すと、靄《もや》は次第《しだい》々々《〳〵》に消《き》え失《う》せ、月光《げつくわう》は隈《くま》なく照《て》り渡《わた》り、谷《たに》を隔《へだ》てた彼方《かなた》の欝蒼《うつさう》たる森林《しんりん》から、目《め》の下《した》の小《ちい》さい藁小屋《わらごや》まで、風情《ふぜい》ある詩《し》の世界《せかい》、床《ゆか》しき夢《ゆめ》の里《さと》となつてしまつた。人間《にんげん》の聲《こゑ》もせぬ。風《かぜ》の音《おと》もせぬ。只《たゞ》停車場《ステーシヨン》の向《むか》う、森《もり》の右端《いうたん》、白雲《しらくも》が渦卷《うづま》いてる遠《とほ》き〳〵所《ところ》に、電光《でんくわう》が銳《するど》く光《ひか》つてる計《ばか》り。予《よ》は翼《つばさ》を得《え》て光《ひかり》の中《なか》に漂《たゞよ》ひたく思《おも》つた。冴《さ》えた月影《つきかげ》は戀《こひ》する男《をとこ》戀《こひ》する女《をんな》を乗《の》せて、遠《とほ》き光明《くわうめう》の鄉《さと》へ送《おく》るに適《てき》してゐる。」 と書《か》き、尙《なほ》「月《つき》曰《い》く」と題《だい》をつけ、何《なに》をか書《か》かんとしてゐる。 自分《じぶん》はこれを讀《よ》んで、「まだこんなことを考《かんが》へてるな、身體《からだ》は非常《ひじやう》に痩《や》せ衰《をとろ》へてるが心《こゝろ》は昔《むかし》の通《とほ》りだな」と思《おも》つてゐると、ドアが開《あ》いて、 「細野《ほその》さん、蟲干《むしぼし》をするんだから、一寸《ちよつと》新座敷《しんざしき》へ來《き》て下《くだ》さいな」と、美人《びじん》が顏《かほ》を出《だ》し、自分《じぶん》を見《み》て直《す》ぐ引込《ひつこ》んだ。 間《ま》もなく細野《ほその》が歸《かへ》つて來《き》た。 「今《いま》美人《びじん》が君《きみ》を呼《よ》びに來《き》たよ、あれは此家《こゝ》の娘《むすめ》かい」 「うん」 「一|體《たい》何《なん》の緣故《えんこ》で君《きみ》は此家《こゝ》へ入《はい》り込《こ》んだ」 「一寸《ちよつと》した關係《かんけい》で來《く》るやうになつたのさ」 「何《なに》か目的《もくてき》があるのか」 「外《ほか》に食《く》ふ道《みち》がないから」 「しかし玄關番《げんくわんばん》はひどいぢやないか、何《なに》か外《ほか》に仕事《しごと》があるだらうに」と、自分《じぶん》は眉《まゆ》を顰《ひそ》めたが、細野《ほその》は敢《あえ》てそれを苦《く》にもしない風《ふう》だ。彼《か》れは無限《むげん》の空《そら》を仰《あふ》いで泣《な》き、詩《し》を讀《よ》んで泣《な》くことが多《おほ》いけれど、自己《じこ》の境遇《けうぐう》について萎《しほ》れることはない。 「僕《ぼく》は放浪《はうらう》すべき運命《うんめい》を有《も》つてるんだ。定職《ていしよく》に拘束《こうそく》されてゐたくてもゐられない。社《しや》を止《や》めたのも、自分《じぶん》でいやで止《や》めたのでもなし、敢《あえ》て免職《めんしよく》さゝれたのでもない。只《たゞ》何《なん》となく止《や》めるやうになつたのだ。運命《うんめい》だね。此處《こゝ》へ來《き》たのも、ほんの偶然《ぐうぜん》の事《こと》さ。社《しや》の或《ある》友人《いうじん》に連《つ》れられて、此處《こゝ》へ古畵《こぐわ》を見《み》せて貰《もら》ひに來《き》た時《とき》、主人《しゆじん》に繪《ゑ》の話《はなし》をしたら、此處《こゝ》の主人《しゆじん》も少《すこ》し變物《へんぶつ》と見《み》えてね、僕《ぼく》の感想《かんさう》が面白《おもしろ》いと云《い》ふんだ。それから懇意《こんい》になつて、食扶持《くひふち》に離《はな》れた時《とき》、轉《ころ》がり込《こ》むことになつたんだが、何《なに》、長《なが》く居《ゐ》るつもりはないんさ。一體《いつたい》僕《ぼく》は祖父《ぢいさん》に能《よ》く似《に》てるさうだがね、祖父《ぢいさん》は維新前《いしんまへ》に西國《さいこく》四|國《こく》と巡禮《じゆんれい》の旅《たび》ばかりして、最後《さいご》に善光寺《ぜんくわうじ》で往生《わうじやう》したんだ。面白《おもしろ》い一|生《しやう》ぢやないか。僕《ぼく》は昨夜《ゆふべ》その祖父《ぢいさん》の巡禮《じゆんれい》姿《すがた》を夢《ゆめ》に見《み》たよ、雲《くも》に乗《の》つて、脊《せな》には負笈《おひづる》、手《て》には金剛杖《こんがうづゑ》、菅笠《すげがさ》には同行《どうぎやう》二|人《にん》と書《か》いてある。二人《ふたり》の一人《ひとり》は僕《ぼく》かも知《し》れん、僕《ぼく》も多少《たせう》の旅費《りよひ》が出來《でき》たら、都會《とくわい》を出《で》て巡禮《じゆんれい》で暮《くら》して見《み》たい」と、云《い》つて微笑《びせう》した。が、彼《か》れの面《おもて》は四五|年前《ねんぜん》よりも更《さら》に俗氣《ぞくき》が少《すくな》い。 「それも面白《おもしろ》からう、君《きみ》は生存《せいそん》競爭《けうさう》の渦中《くわちゆう》に投《とう》ずる人《ひと》ぢやないんだから。しかし國《くに》の家族《かぞく》はどうする、君《きみ》が貢《みつ》がなくてもいゝんかい。」 「いや國《くに》ぢや困《こま》つてるだらう」 「ぢや、君《きみ》一人《ひとり》仙人《せんにん》になる譯《わけ》にも行《い》かんぢやないか、第《だい》一|經濟科《けいざいくわ》に入《はい》つたのが、既《すで》に君《きみ》自身《じしん》の好《この》みぢやなくつて、一|家《か》の事《こと》を思《おも》つたからだもの」 「無論《むろん》さうだがね」と細野《ほその》の面《おもて》にも少《すこ》しは憂色《いうしよく》が現《あら》はれたが、それも瞬《またゝ》く間《うち》に消《き》え失《う》せ、「しかし僕《ぼく》は鄉家《くに》の事《こと》ばかり考《かんが》へちやゐられない、それで彼方《あちら》から手紙《てがみ》でも來《く》ると、厭《いや》な氣《き》がしてならんから、成《なる》べく讀《よ》まんやうにしてる」 「だつて、何時《いつ》までもそれぢやゐられまい、君《きみ》だつて既《すで》に二三|年《ねん》も會社《くわいしや》で働《はたら》いてたんだから、多少《たせう》事務《じむ》の經驗《けいけん》も積《つ》んだらうしね、捜《さが》したら相當《さうたう》な職《しよく》が得《え》られるだらう、何《なん》なら僕《ぼく》が周旋《しうせん》しやうか」 「先《ま》づ當分《たうぶん》見合《みあは》せる、それに僕《ぼく》にや經驗《けいけん》が役《やく》に立《た》たんから駄目《だめ》だよ。尤《もつと》も社《しや》へ出《で》てる間《あひだ》は漸《やうや》く一人《ひとり》前《まへ》の事《こと》だけ出來《でき》んでもなかつたがね、社《しや》を出《で》ると直《す》ぐにその經驗《けいけん》が消《き》えてしまつた氣《き》がする。社《しや》にゐた時《とき》でも、帳簿《ちやうぼ》に向《むか》つてると、何《なん》だかかう、脊《せな》に石《いし》でも脊負《せお》つてるやうで、呼吸《いき》も苦《くる》しくなるんだ、それで社《しや》から歸《かへ》りに堀端《ほりばた》へ出《で》て、あの石垣《いしがき》や松《まつ》を見《み》ると、急《きふ》に重荷《おもに》が下《お》りて氣《き》が淸々《せい〳〵》するよ。で、終《しまひ》には算盤《そろばん》持《も》つて何《なに》かやつてゝも、目《め》の前《まへ》に石垣《いしがき》がちら〳〵することがあつた位《くらゐ》だ」 「何時《いつ》までも君《きみ》は變《かは》らないね、その點《てん》は羨《うらや》ましいが、少《すこ》しは生活《せいくわつ》も考《かんが》へ玉《たま》へな」 「あゝその間《うち》どうかする」 それから二人《ふたり》は、戀《こひ》を談《だん》じ詩《し》を語《かた》り、人生《じんせい》の憂苦《いうく》を歎《たん》じた。細野《ほその》の顏《かほ》は窶《やつ》れて、如何《いか》にも世路《せいろ》に疲《つか》れてるやうに見《み》えるが、心《こゝろ》は昔《むかし》のまゝだ。人間《にんげん》の冷熱《れいねつ》世路《せろ》の艱難《かんなん》は彼《か》れの肉《にく》を殺《そ》ぎ骨《ほね》を削《けづ》つても、その心《こゝろ》を傷《きづゝ》けることは出來《でき》ぬのであらう。彼《か》れの胸中《きやうちゆう》には永《とこし》へに汚《けが》されぬ靈花《れいくわ》が潛《ひそ》んでゐる。自分《じぶん》の心《こゝろ》にもまだ多少《たせう》昔《むかし》の影《かげ》が殘《のこ》つてるのか彼《か》れの詩《し》の話《はなし》を聞《き》くと胸躍《むねおど》つて、俗事《ぞくじ》に身《み》を沒《ぼつ》するのが厭《いと》はしく、社長《しやちやう》や重役《ぢうやう》の俗氣《ぞくき》紛々《ふん〴〵》たる顏《かほ》に唾《つばき》でも引《きつ》かけたくなる。 「時《とき》に山伏町《やまぶしちやう》の婆《ばア》さんはどうしたらう、君《きみ》はちつとも行《い》かないか」と、自分《じぶん》は突如《だしぬけ》に聞《き》いた。 「むん、婆《ばア》さんには一|度《ど》も會《あ》はないが、先月《せんげつ》だつたか、あの近所《きんじよ》へ行《い》つたからね、餘所《よそ》ながらどうなつたか見《み》やうと思《おも》つて、迂廻《まわりみち》して行《い》つて見《み》ると、もう前《まへ》の家《いへ》はない、打壞《うちこわ》して新築《しんちく》に取《と》りかゝつてる」 「で、堤《つゝみ》の家《うち》はどうだ」 「あれは元《もと》の通《とほ》りだ、家《うち》の者《もの》には會《あ》はないが、妻君《さいくん》の話《はなし》聲《ごゑ》はしてゐたよ、それで僕《ぼく》はいろんな事《こと》が考《かんが》へられて、暫《しば》らくあの前《まへ》をうろ〳〵してゐたよ、君《きみ》、僕《ぼく》等《ら》が住《す》んでた二|階《かい》はもう倒《たほ》されて影《かげ》も形《かたち》もないのだ」と細野《ほその》は感《かん》じを籠《こ》めた聲《こゑ》で、白目《しろめ》を寄《よ》せて云《い》ふ。 「あの二|階《かい》時代《じだい》が僕《ぼく》の一|生《しやう》で一|番《ばん》愉快《ゆくわい》な空想《くうさう》の時代《じだい》だつたがね、もう壞《こわ》されたかね。そして堤《つゝみ》の娘《むすめ》はどうしたらう、無論《むろん》何處《どこ》かへ片付《かたづ》いたらうが、君《きみ》は知《し》らないか」 「知《し》らんよ」 「さうか、僕《ぼく》はね、今《いま》だから云《い》ふんだが、あの女《をんな》にラブしてたよ」と自分《じぶん》は初《はじ》めて他人《たにん》に打明《うちあ》けた。 「さうか」と細野《ほその》は驚《おどろ》いた風《ふう》もなく、「君《きみ》は獨《ひと》りで思《おも》つてただけか」 「無論《むろん》さ、今《いま》ならあの位《くらゐ》の女《をんな》に恐《おそ》れを抱《いだ》きやしない、成功《せいこう》か失敗《しつぱい》か、兎《と》に角《かく》當《あた》つて見《み》るがね、あの時《とき》は奇麗《きれい》な女《をんな》を見《み》りや、頭《てん》から天女《てんによ》のやうな氣《き》がして、うつかり手出《てだ》しは出來《でき》やしない、只《たゞ》拜《おが》んでばかりゐたんさ、」 「しかしあの女《をんな》は純潔《じゆんけつ》だよ、僕《ぼく》は今《いま》でもあの女《をんな》を思《おも》ふと、一|種《しゆ》の刺激《しげき》を受《う》ける。そして若《も》しか彼女《あれ》が卑俗《ひぞく》な男《をとこ》に結婚《けつこん》してゐやしないかと思《おも》ふと、非常《ひじやう》に哀《あは》れに感《かん》ぜられる、」 「なあにあれだつて只《たゞ》の女《をんな》だらう、で、君《きみ》はどうだつた、あの女《をんな》に思召《おぼしめ》しがあつたか」 細野《ほその》は少《すこ》し頰《ほゝ》を紅《あか》めて、「あの女《をんな》は一|時《じ》僕《ぼく》の理想《りさう》だつたんさ、無論《むろん》結婚《けつこん》したいの何《なん》のといふ考《かんが》へは更《さら》になかつたがね、その代《かは》り他人《たにん》とも結婚《けつこん》しないやうに望《のぞ》んでゐた、結婚《けつこん》すれば堕落《だらく》する、だから何時《いつ》までも獨身《どくしん》で、女神《めがみ》で一|生《しやう》を送《おく》るやうに願《ねが》つてたんだ」 「だが、幾《いく》ら君《きみ》だつて、今《いま》あの女《をんな》に會《あ》つたら失望《しつばう》するだらう、理想《りさう》の女神《めがみ》先生《せんせい》、もう子供《こども》の一人《ひとり》や二人《ふたり》は生《う》んで、所帶《しよたい》染《じ》みてるだらう、」と、自分《じぶん》は冷笑《れいせう》して、「あれから、葛原《くづはら》の大將《たいしやう》は何處《どこ》にゐるだらう、僕《ぼく》は堤《つゝみ》の奴《やつ》よりも葛原《くづはら》に遇《あ》ひたいよ」 「あの男《をとこ》は凾館《はこだて》にゐるさうだ、物產《ぶつさん》會社《くわいしや》で多少《たせう》重《おも》く用《もち》ひられて、今《いま》は彼地《あちら》へ派遣《はけん》されてるさうだ」 「さうか、葛原《くづはら》は理想《りさう》のない俗物《ぞくぶつ》だが、どうもエライ所《ところ》があるよ」  (七) 自分《じぶん》は大阪《おほさか》へ歸《かへ》つて、半歲《はんとし》程《ほど》は月《つき》に二三|度《ど》必《かなら》ず細野《ほその》へ手紙《てがみ》を送《おく》つてゐたが、次第《しだい》に怠《おこた》り勝《がち》になり、以前《いぜん》と同《おな》じく全《まつた》く音信《おんしん》の絕《た》えるやうになつた。で、殆《ほと》んど彼《か》れの名《な》をすら思《おも》ひ浮《うか》べなくなつた。所《ところ》が或日《あるひ》、全《まつた》く緣《えん》のない人《ひと》から彼《か》れの變死《へんし》の噂《うはさ》を聞《き》いたのである。自分《じぶん》は驚《おどろ》いて詳《くは》しいことを尋《たづ》ねたが、明瞭《めいれう》には分《わか》らない。只《たゞ》或《ある》山間《さんかん》の溪《たに》に落《お》ちて死《し》んだとばかり、自殺《じさつ》やら過失《くわしつ》やら、それも分《わか》らぬ。で、自分《じぶん》は色々《いろ〳〵》に想像《さう〴〵》して見《み》た。巡禮《じゆんれい》に出《で》て崖《がけ》の上《うへ》で、何《なに》か考《かんが》へ込《こ》んで足《あし》を辷《すべ》らしたのかも知《し》れぬ。水中《すゐちゆう》に天女《てんによ》の影《かげ》を見《み》て飛込《とびこ》んだのかも知《し》れぬ。しかし彼《か》れは生活《せいくわつ》の困難《こんなん》の爲《ため》に自殺《じさつ》するやうな男《をとこ》ではない。ウエルテルに同感《どうかん》してゐたけれど、决《けつ》して失戀《しつれん》の爲《ため》に自殺《じさつ》する男《をとこ》ではない。自分《じぶん》の生活《せいくわつ》や戀《こひ》の苦《くるし》みも、自分《じぶん》から離《はな》して見《み》て、泣《な》いたり笑《わら》つたりしてゐた男《をとこ》だと、一人《ひとり》で定《き》めて、敢《あえ》て細野《ほその》の死《し》について、彼《か》れの鄉家《くに》や友人《いうじん》から事情《じゞやう》を聞《き》かうともしなかつた。それから五|年《ねん》の後《のち》、自分《じぶん》は東京《とうきやう》の支店《してん》に勤《つと》めることゝなり、飛立《とびた》つやうに喜《よろこ》んで上京《じやうきやう》し、小石川《こいしかは》に一|家《か》を構《かま》へた。この時《とき》は既《すで》に結婚《けつこん》をして子供《こども》も一人《ひとり》設《まう》けてゐたのである。 或夏《あるなつ》の午後《ごゞ》仕事《しごと》を濟《す》ませ茅場町《かやばちやう》の會社《くわいしや》を出《で》て、電車《でんしや》の停留場《ていりうぢやう》へ向《む》けて步《ある》いてると、向《むか》うから鍔《つば》の廣《ひろ》いパナマの帽子《ぼうし》を被《かぶ》つた大柄《おほがら》の男《をとこ》が、綱引《つなびき》付《つき》の車《くるま》で駈《か》けて來《く》る。稍々《やや》近《ちか》づいて見《み》ると、それが葛原《くづはら》のやうだ。もしやと疑《うたが》ひながらその顏《かほ》を見詰《みつ》めてゐた。するとその男《をとこ》も自分《じぶん》の顏《かほ》を不審《ふしん》げに見《み》てゐたが、摺違《すれちが》う機會《とたん》に、彼《か》れから大聲《おほごゑ》で、「槇田君《まきたくん》ぢやないか」と云《い》つて車《くるま》を止《と》めた。 「葛原《くづはら》君《くん》ですか、どうもさうだらうと思《おも》つた。久振《ひさしぶ》りだねえ」 「いゝ所《ところ》で會《あ》つた、色々《いろ〳〵》話《はなし》もしたいんだが、今日《けふ》は急用《きふよう》があるんだからね、近日《きんじつ》改《あらた》めて會《あ》はうぢやないか、堅《かた》く約束《やくそく》して置《お》かう」と互《たが》ひに住所《じうしよ》を交換《かうくわん》して別《わか》れた。 この後《ご》自分《じぶん》は二三|度《ど》葛原《くづはら》に會《あ》つて、彼《か》れのお供《とも》をして料理屋《れうりや》や待合《まちあひ》入《ばいり》をして呑《の》み明《あ》かすこともある。或時《あるとき》彼《か》れに向《むか》つて、 「僕《ぼく》は山伏町《やまぶしちやう》時代《じだい》には寧《むし》ろ君《きみ》を嫌《きら》つてたが、今《いま》ぢや君《きみ》に感服《かんぷく》する、君《きみ》はあの時分《じぶん》から世間《せけん》を心得《こゝろえ》てたからね、確《たし》かに僕《ぼく》等《ら》より十|年《ねん》も進步《しんぽ》してゐたのだ」と云《い》つて細野《ほその》の話《はなし》をすると、葛原《くづはら》も久振《ひさしぶ》りで細野《ほその》を思《おも》ひ出《だ》したらしく、 「あの男《をとこ》には一|度《ど》停車場《ステーシヨン》で會《あ》つたよ、あれが死《し》にに旅行《りよかう》する時《とき》だつたらう、元氣《げんき》のない顏《かほ》で、ぼんやり立《た》つてたよ」と面白《おもしろ》さうに笑《わら》ひ、 「山吹町《やまぶきちやう》にゐた時《とき》、何《なん》でも君《きみ》が一人《ひとり》で外《ほか》へ移《うつ》つた後《あと》でね、餘程《よほど》面白《おもしろ》かつた。細野《ほその》奴《め》、隣《とな》りの美人《びじん》に惚《ほ》れてゝ、獨《ひと》りで煩悶的《はんもんてき》のことをやつてたさ、或時《あるとき》も何《なに》を考《かんが》へたかね、夜中《よなか》に起《お》きて、裏木戶《うらきど》から堤《つゝみ》の庭《には》へ入《はい》り込《こ》んでうろ〳〵してたんだらう、其處《そこ》を書生《しよせい》か誰《だ》れかに見《み》つかつて、大騷《おほさわ》ぎになつたんだがね、隨分《ずゐぶん》滑稽《こつけい》だつたよ。水《みづ》で死《し》んだのも、流行《りうかう》の失戀《しつれん》的《てき》煩悶《はんもん》か何《なに》かの結果《けつくわ》だらう」と、冷笑的《れいせうてき》に云《い》ふ。しかし自分《じぶん》は細野《ほその》が庭《には》に忍《しの》び込《こ》んだのも、何《なに》かの夢《ゆめ》に誘《さそ》はれたので、別《べつ》に意味《いみ》もなからうと思《おも》ふ。彼《か》れの死《し》については偶然《ぐうぜん》か故意《こい》か、誰《だ》れも知《し》らぬ。只《たゞ》葛原《くづはら》は細野《ほその》のことを話《はな》す每《ごと》に、「變《へん》な男《をとこ》だ」とか「あれぢや飯《めし》が食《う》へん、生《い》きてられる譯《わけ》がない」とか、一口《ひとくち》に嘲《あざけ》つてしまうのが例《れい》で、自分《じぶん》も同意《どうい》はする。しかし時々《とき〴〵》は細野《ほその》が空《そら》を仰《あふ》いでる姿《すがた》を思《おも》ひ出《だ》し、彼《か》れが白雲《しらくも》の徂徠《そらい》を見《み》て感淚《かんるゐ》にむせんでる五|分間《ふんかん》と、葛原《くづはら》の一|代《だい》の事業《じげふ》と、何《いづ》れが味《あぢ》が深《ふか》いだらうかと疑《うたが》ふこともある。  株虹 太平洋岸《たいへいやうがん》の激浪《げきらう》怒濤《どとう》、東北《とうほく》地方《ちはう》の荒凉《かうれう》たる光景《くわうけい》は見馴《みな》れてゐるが、これ等《ら》はどうも予《よ》の性《しやう》に合《あ》はぬ。それでこの秋《あき》は局面《きよくめん》を變《か》へて、瀨戶内海《せとないかい》の沿岸《えんがん》に寫生《しやせい》旅行《りよかう》をした。氣《き》に入《い》つた土地《とち》には五日《いつか》でも六日《むいか》でも滯在《たいざい》し、厭《いや》になれば夜中《よなか》にでも出立《しゆつたつ》する。贅澤《ぜいたく》を盡《つく》す旅《たび》でもなく、名所《めいしよ》舊蹟《きうせき》を遍歷《へんれき》するのでもなく、只《たゞ》海岸《かいがん》を巡《めぐ》つて柔《やはら》かい波《なみ》の音《おと》を聞《き》き、よく食《くら》ひよく眠《ねむ》るを喜《よろこ》んで一月《ひとつき》ばかりを過《すご》した。その中《うち》旅費《りよひ》も乏《とぼ》しくなり、歸京《きゝやう》の期《き》も迫《せま》り、申譯《まをしわけ》ばかりのスケツチも、大分《だいぶん》量張《かさば》つた頃《ころ》、或《ある》無名《むめい》の海岸《かいがん》に最後《さいご》の旅裝《りよさう》を解《と》いて數日《すうじつ》を送《おく》ることゝした。 夜《よる》遲《おそ》く着《つ》いて撰擇《せんたく》の暇《ひま》もなく、酒樓《しゆらう》兼帶《けんたい》の小《ちい》さい薄汚《うすぎたな》い旅人宿《はたごや》に宿《とま》つたが、案外《あんぐわい》によく眠《ねむ》れたので、翌日《よくじつ》は早朝《さうてう》から畫板《ぐわばん》を提《ひつさ》げて海邊《かいへん》へ出《で》た。藻草《もくさ》の臭《にほ》ひや魚《さかな》の臭《にほひ》はするが、既《すで》に鼻《はな》に馳《な》れて、それが何《なん》となくいゝ氣持《きもち》がする。呟《つぶや》く如《ごと》く足下《あしもと》へ寄《よ》る波《なみ》の音《おと》を聞《き》くと、潮《うしほ》の中《なか》へ全身《ぜんしん》を浸《ひた》して、骨髓《こつずゐ》まで海氣《かいき》に染《そ》みたくなる。山間《やまが》には秋《あき》の哀《あは》れさ淋《さび》しさが露骨《むきだし》にあらはれてゐやうが、少《すくな》くも瀨戶内海《せとないかい》の潮風《しほかぜ》には、しんみり[#「しんみり」に傍点]した穩《おだや》かな香《にほひ》が漂《たゞよ》うてゐても、萬物《ばんぶつ》を凋落《てうらく》せしむる氣《き》を含《ふく》んで居《ゐ》ない。 予《よ》は二三十|分間《ぷんかん》徐《おもむ》ろに滿《み》ち來《く》る潮《うしほ》に對《たい》し、陸《りく》から十|丁《ちやう》乃至《ないし》一|里《り》の海中《かいちゆう》に浮《うか》んでる二三の小《ちい》さい島《しま》の間《あひだ》から、一つ二つ夜漁《やれふ》の舟《ふね》の歸《かへ》りかけてるのを見《み》て後《のち》、スケツチに取《とり》かゝつてると、知《し》らぬ間《ま》に後《うしろ》から誰《たれ》やら覗《のぞ》いてゐて、「うまい物《もの》だな」と無遠慮《ぶえんりよ》に聲《こゑ》を掛《か》けた。旅行中《りよかうちゆう》寫生《しやせい》の度《たび》每《ごと》に田舎物《ゐなかもの》に取卷《とりま》かれて、高《たか》い聲《こゑ》で奇妙《きめう》な批評《ひゝやう》を聞《き》かされるのに馴《な》れてゐるから、別《べつ》に氣《き》にも留《と》めなかつたが、この男《をとこ》は予《よ》の前《まへ》に立《た》つて、如何《いか》にも馴《な》れ〳〵しく、 「貴下《あなた》は何處《どこ》からお出《いで》なすつた、岡山《をかやま》ですか、上方《かみがた》ですか」と問《と》ひ掛《か》ける。 予《よ》は變《へん》に思《おも》つて見上《みあ》げると、丈《たけ》の短《みじ》かい筒袖《つゝそで》を着《き》、鼻下《びか》に髯《ひげ》を蓄《たくは》へた男《をとこ》で、釣竿《つりざほ》を肩《かた》にかけ、手《て》に魚籠《びく》を提《さ》げてゐる。言葉《ことば》つきから態度《たいど》まで、只《たゞ》の漁夫《れうし》とは思《おも》へない。肥《ふと》つた柔和《にうわ》な顏《かほ》には微笑《ゑみ》を含《ふく》んでゐる。 「東京《とうきやう》です」と、予《よ》が簡單《かんたん》に答《こた》へると、 「はゝは東京《とうきやう》ですか、私《わたし》も十|年《ねん》も前《まへ》に彼地《あちら》に參《まゐ》つたことがあります」と、多少《たせう》自慢《じまん》の色《いろ》を見《み》せて、「そして、今《いま》は何處《どこ》に宿《やど》をお取《と》りですか」と、さも懇意《こんい》さうに話《はな》しかける。 「日野屋《ひのや》といふ家《うち》です」 「うん、彼家《あすこ》ですか」と、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、「ぢや八釜《やかま》しくてお困《こま》りでせう。あれは下等《かとう》な家《うち》でさあ、とても東京《とうきやう》の方《かた》がお宿《とま》りなさる所《ところ》ぢやありません。と云《い》つて、外《ほか》にいゝ宿《やど》もないんですが」と、賴《たの》みもせぬに、首《くび》を傾《かし》げて考《かんが》へてゐたが、やがて、「ぢや、どうです、私《わたし》の家《うち》へお出《い》でなすつちや、丁度《ちやうど》離座敷《はなれ》が空《あ》いてゐますから、お貸《か》し申《まを》しても差支《さしつか》へありません」 「はあ、都合《つがふ》でお願《ねが》ひに參《まゐ》りませう」と予《よ》は卒氣《そつけ》ない返事《へんじ》をして、あまり取合《とりあ》はなかつたが、彼《か》れは「是非《ぜひ》お出《い》でなさい」と繰返《くりかへ》し、「あの宮《みや》の後《うしろ》です、鶴崎《つるざき》といやあ直《す》ぐ分《わか》ります」と、顋《あご》で敎《をし》へて、丁寧《ていねい》に予《よ》に一|禮《れい》し、杭《くひ》に繋《つな》いである小舟《こぶね》に飛乗《とびの》つた。予《よ》はその漕《こ》ぎ行《ゆ》く姿《すがた》を見送《みおく》り、田舎物《ゐなかもの》の呑氣《のんき》で隔《へだ》てなきを羨《うらや》ましく感《かん》じた。それからぞろ〳〵[#「ぞろ〳〵」に傍点]集《あつま》つて來《く》る鼻垂《はなた》れ小憎《こぞう》子守《こもり》などを相手《あひて》に寫生《しやせい》したり、無邪氣《むじやき》な話《はなし》をして一|日《にち》を暮《くら》した。で、宿《やど》へ歸《かへ》ると、据風呂《すゑふろ》に入《はい》つて後《のち》、相宿《あひやど》の旅商人《たびしやうにん》と世間《せけん》話《ばなし》をしながら、夕食《ゆふめし》を食《く》つてゐたが、ふと彼《か》の男《をとこ》を思《おも》ひ出《だ》し、お給仕《きうじ》の女主人《かみさん》に向《むか》ひ、 「女主人《おかみさん》、鶴崎《つるざき》といふ家《うち》があるだらう、何《なに》をする家《うち》かね」 と聞《き》くと、女主人《かみさん》は頓狂聲《とんきやうごゑ》を出《だ》して、 「何《なに》もしちやゐなさらん、お金持《かねもち》だもの」 「髯《ひげ》のある人《ひと》は、あれが鶴崎《つるざき》の旦那《だんな》かい」 「ありや若旦那《わかだんな》だあ」 「ぢやあの人《ひと》は釣《つり》ばかりして、遊《あそ》んで暮《く》らしてるんかい」 「えゝ、釣《つり》にも行《ゆ》きなさるし、獵《れう》にも行《ゆ》きなさる。結構《けつかう》な身分《みぶん》で御座《ござ》いまさあ」 「ぢや釣《つり》も獵《れう》も上手《じやうず》だらうな」 「なあに、去年《きよねん》も鐵砲《てつぱう》の狙《ねら》ひを間違《まちが》へて、柴草《しばくさ》あ刈《か》つてる女《をんな》の足《あし》に傷《きづ》をつけたんで御座《ござ》いまさあ、それからちうものは、若旦那樣《わかだんなさま》が鐵砲打《てつぱうゝ》ちに出《で》なさると、芝刈《しばかり》は逃《に》げ出《だ》す位《くらゐ》だ」と女主人《かみさん》は鐵漿《おはぐろ》の齒莖《はぐき》を出《だ》してにつたり[#「につたり」に傍点]笑《わら》つた。 「鶴崎《つるざき》といやあ、この界隈《かいわい》で一|番《ばん》の家柄《いへがら》でさあ、隨分《ずゐぶん》村《むら》の事《こと》にや肩《かた》を入《い》れたもので、この海端《うみばた》の道普請《みちぶしん》なんか一人《ひとり》でやつたものでね、村《むら》の者《もの》がお禮《れい》に石碑《せきひ》を立《た》てた程《ほど》だ。村《むら》にや大《たい》した恩人《おんじん》で、鶴崎《つるざき》の屋敷《やしき》にや落書《らくがき》一《ひと》つする者《もの》がないていふ評判《ひやうばん》だつたが、今《いま》は世《よ》が違《ちが》つて來《き》た」と、旅商人《たびあきんど》の素麺屋《そうめんや》は、薄黑《うすぐろ》い飯《めし》を鵜呑《うの》みにして、赧《あか》い顏《かほ》に歎息《たんそく》の樣子《やうす》を見《み》せた。「ねえ、お神《かみ》さん、今《いま》の鶴崎《つるざき》の大將《たいしやう》も惡《わる》いぢやないか、丸《まる》八の嚊《かゝ》を引掛《ひつか》けてるちうぢやないかい」 「そんな噂《うはさ》だがな、困《こま》つた若旦那《わかだんな》だ。去年《きよねん》も吉《きち》どんが鮪《まぐろ》取《と》りに土佐《とさ》へ行《い》つた留守《るす》にも、何《なん》だかあつたやうだしな」と、女主人《かみさん》は小聲《こごゑ》で云《い》つた。 「大將《たいしやう》、金《かね》はあるし懷手《ふところで》で遊《あそ》んでるから、そんなことでもせねや日《ひ》が立《た》つまい。それに丸《まる》八も鶴崎《つるざき》の家《うち》にや親爺《おやぢ》の代《だい》から借金《しやくきん》があるし、世話《せわ》になつてるんだから、目《め》をつぶつて我慢《がまん》してるんだらう。嚊《かゝあ》のお伽《とぎ》は借金《しやくきん》の利息《りそく》のやうなものだ、ハツヽヽヽ」 予《よ》はこんな話《はなし》を聞《き》いて、好奇心《かうきしん》が湧《わ》き上《あが》り、急《きふ》に鶴崎《つるざき》を訪《たづ》ねて見《み》たくなり、飯《めし》が濟《す》むと、女主人《かみさん》に案内《あんない》させ、提灯《ちやうちん》ぶら提《さ》げて、その家《うち》へ行《い》つた。潜戶《くゞり》を入《はい》ると、庭前《にはさき》で盲目《めくら》の男《をとこ》が唐臼《からうす》を搗《つ》き、かの若主人《わかしゆじん》は臼《うす》の側《そば》に立《た》つて、何《なに》やら小言《こごと》を云《い》つてゐたが、予《よ》を見《み》ると、ぺこ〳〵二三|度《ど》も頭《あたま》を下《さ》げて、「よくお出《い》で下《くだ》すつた」と、手《て》を取《と》らぬばかりにして、座敷《ざしき》へ通《とほ》した。 予《よ》が旅行中《りよかうちう》の見聞談《けんぶんだん》を緖《いとぐち》とし、主人《しゆじん》は釣《つり》の話《はなし》獵《れう》の話《はなし》をぺら〳〵と絕間《たえま》なく述《の》べ立《た》て、終《しまひ》には倉《くら》から書畵《しよぐわ》を一|抱《かゝ》へも持出《もちだ》して、一々|所由《いはれ》の說明《せつめい》を始《はじ》める。舊家《きうか》ほどあつて、山陽《さんやう》や文晁《ぶんてう》や竹田等《ちくでんとう》の眞筆《しんぴつ》もあるが、中《なか》にはひどい贋作《がんさく》も交《まじ》つてゐる。 「御覽《ごらん》の通《とほ》りの貧乏村《びんばふむら》で、外《ほか》に書畵《しよぐわ》なんか持《も》つてる家《うち》は一|軒《けん》もありませんがね、私《わたし》の家《うち》は祖父《ぢゞ》の代《だい》から、多少《たせう》風流氣《ふうりうぎ》がありましてな、矢鱈《やたら》にこんな者《もの》を集《あつ》めたのです。この竹田《ちくでん》のなぞは祖父《ぢゞ》が九|州《しう》へ參《まゐ》つた時《とき》、わざ〳〵賴《たの》みましたので、丹山翁《たんざんおう》の需《もと》めに應《おう》ずとある丹山《たんざん》は、祖父《ぢい》の雅號《ががう》ですよ」 「しかし隨分《ずゐぶん》お集《あつ》めになつたものですな、これ丈《だけ》あれば東京《とうきやう》へ持《も》つてゝも大《たい》したものですよ」 と、褒《ほ》め立《た》てれば、主人《しゆじん》は「へゝゝゝ」と笑《わら》つて、「なあにこれ許《ばか》りぢや、まだ自慢《じまん》になりません、私《わたし》も一《ひと》つ奮發《ふんぱつ》して名作《めいさく》を蒐《あつ》めたいと思《おも》つてゐます。で、どうでせう、折角《せつかく》お近付《ちかづき》になつたんですから、貴下《あなた》にも一《ひと》つ書《か》いて頂《いたゞ》く譯《わけ》に行《い》きませんか、大切《たいせつ》にして子孫《しそん》に傳《つた》へます」 「どうして私《わたし》共《ども》の者《もの》が」 「いえ是非《ぜひ》お願《ねが》ひ申《まを》したい。こんな好機會《かうきくわい》はないんですから」 と、東京《とうきやう》では埃屑《ごみくづ》の如《ごと》き予《よ》を、天下《てんか》の大美術家《だいびじゆつか》でゝもあるやうに、頻《しき》りに嘆願《たんぐわん》し、 「こんな田舎《ゐなか》でもね、昔《むかし》から年《ねん》に二|度《ど》や三|度《ど》は、書家《しよか》だの歌人《うたよみ》だのが、私《わたし》の家《うち》を訪《たづ》ねて、幾日《いくか》も逗留《とうりう》して行《い》きますよ、貴下《あなた》も御遠慮《ごゑんりよ》なく私《わたし》の家《うち》へお越《こ》しになつて、五|日《か》でも六|日《か》でも御逗留《ごとうりう》なすつて、ゆつくりお書《か》き下《くだ》さい、明日《あす》あたり釣《つり》にでも御案内《ごあんない》しませう」 予《よ》はこれ程《ほど》尊敬《そんけい》され優待《ゆうたい》されたことは、甞《かつ》て例《れい》がないのだから、多少《たせう》得意《とくい》になり、二三|度《ど》形式的《けいしきてき》に辭退《じたい》した後《のち》、翌日《よくじつ》から此家《こゝ》の離座敷《はなれ》に移《うつ》ることを約《やく》した。 一|村《そん》の半《なかば》は疊《たゝみ》のない家《いへ》で、障子《しやうじ》の代《かは》りに蓆《むしろ》を垂《た》れてる程《ほど》だが、その間《あひだ》に在《あ》つて鶴崎《つるざき》の家《うち》は一|箇《こ》の小城廓《せうじやうくわく》の趣《おもむ》きがある、四|方《はう》を練塀《ねりべい》で圍《かこ》み、屋敷内《やしきうち》に數畝《すうほ》の菜園《さいえん》もあり、土藏《どざう》が二《ふた》つ、母屋《おもや》は百|餘年《よねん》を經《へ》たもので、柱《はしら》に蝕《むし》ばんだ跡《あと》もあるが、如何《いか》にも手丈夫《てじやうぶ》で宏壯《こうさう》に出來《でき》てゐる。 若主人《わかしゆじん》は丁度《ちやうど》三十|歲《さい》、小學校《せうがくかう》卒業後《そつげふご》、近村《きんそん》の漢學塾《かんがくじゆく》に學《まな》んだのみで、左程《さほど》學問《がくもん》をしたらしくはない。今《いま》は一|家《か》の主權者《しゆけんしや》だが、何《なん》と定《きま》つた仕事《しごと》もなく、一|村《そん》の問題《もんだい》にも少《すこ》しも關係《くわんけい》せぬさうだ。 「しかし貴下《あなた》が村《むら》を指導《しだう》なさらなくちや、外《ほか》に適任者《てきにんしや》はないでせう」と、予《よ》が問《と》うと、彼《か》れは髯《ひげ》を捻《ひね》つて鹿爪《しかつめ》らしく、 「いやこの村《むら》の奴《やつ》は皆《みな》野獸《やじう》のやうでしてね、目上《めうへ》の者《もの》を敬《うやま》うことを知《し》らず、行儀《ぎやうぎ》作法《さはふ》も辨《わきま》へんのですから、指導《しだう》も何《なに》もありませんよ、だから私《わたし》は村《むら》の者《もの》等《ら》が何《なに》をしやうと、一|切《さい》關《かま》はないで、自分《じぶん》は自分《じぶん》で好《す》きな事《こと》をして氣樂《きらく》に暮《くら》してゐます。しかし四五|年前《ねんまへ》から私《わたし》が先《さ》きに立《た》つて碁《ご》の會《くわい》や淨瑠璃《じやうるり》の稽古《けいこ》を始《はじ》めました。そのために多少《たせう》は上品《じやうひん》な氣風《きふう》が出來《でき》て來《き》たやうです、明日《あす》も朝《あさ》から碁《ご》の師匠《しゝやう》が來《く》る筈《はず》ですが、貴下《あなた》も會《くわい》にお加《くはゝ》りなすちや如何《いかゞ》です」 「えゝ有難《ありがた》う、しかし田舎《ゐなか》にゐると長命《ながいき》をする譯《わけ》ですね、私《わたし》もどうかして、こんな風景《ふうけい》のいゝ田舎《ゐなか》の遊民《いうみん》になりたいものだ」 と、染々《しみ〴〵》彼《か》れの境遇《けうぐう》を羨《うらや》んだが、彼《か》れはそれを當然《たうぜん》の如《ごと》く思《おも》つて、「ぢやどうです、此地《こゝ》に永住《えいじう》なすつちや、向《むか》ひの島《しま》は私《わたし》の家《うち》で有《も》つてるんですが、お望《のぞ》みならば、あれを全部《ぜんぶ》お貸《か》し申《まを》してもいゝ。今《いま》は近所《きんじよ》の者《もの》に貸《か》してるんですが、何《なに》、何時《いつ》だつて取上《とりあ》げりやいゝんでさあ」 と、事《こと》もなげに云《い》つて、大口《おほぐち》開《あ》けて笑《わら》ふ。 「はあ、私《わたし》もうんと稼《かせ》いで財產《ざいさん》を造《つく》つたら、島《しま》を拜借《はいしやく》して、別莊《べつさう》でも建《た》てるんですね、しかし島《しま》一《ひと》つ御自身《ごじしん》の者《もの》だと、貴下《あなた》は丸《まる》で王樣《わうさま》のやうですね」 と、予《よ》も相手《あひて》を見《み》て煽動《おだて》ると、 「いや、この小《ちい》さい村《むら》ですが、畠《はたけ》の三|分《ぶん》の一ばかりは私《わたし》の所有《しよいう》です、全體《ぜんたい》この村《むら》の草分《くさわけ》は私《わたし》の先祖《せんぞ》で、代々《だい〴〵》村《むら》のためには盡《つく》したものです。だから明治《めいぢ》の初《はじ》めに頌德碑《しやうとくひ》を立《た》てゝ、お祭《まつり》をした位《くらゐ》ですが、どうも世《よ》の中《なか》の風儀《ふうぎ》は惡《わる》くなりましたね、今《いま》じや石碑《せきひ》も滅茶《めちや》々々《〳〵》に瑕《きづ》がついてゐます。一《ひと》つは今《いま》の學校《がくかう》敎育《けういく》が惡《わる》いんですな、貴賤《きせん》の區別《くべつ》も敎《をし》へるぢやなし」 と、大《おほい》に憤慨《ふんがい》した。それから下女《げぢよ》がわざ〳〵隣村《りんそん》から取《と》つて來《き》た酒《さけ》の御馳走《ごちそう》があり、予《よ》は十|時《じ》過《す》ぎに宿《やど》へ歸《かへ》り、旅商人《たびしやうにん》と一|緖《しよ》に、襖《ふすま》もない居室《へや》に眠《ねむ》つた。 その翌朝《よくてう》から予《よ》は鶴崎《つるざき》の賓客《ひんかく》となり、三|度《ど》々々|取立《とりた》ての魚《さかな》を饗《きやう》せられ、絹夜具《きぬやぐ》に寢《ね》かされ、「先生《せんせい》」と呼《よ》ばれて、二三|日《にち》を送《おく》つた。で、主人《しゆじん》の日常《にちじやう》生活《せいくわつ》を見《み》てると、彼《か》れは朝《あさ》早《はや》く起《お》きて、褞袍《どてら》を着《き》たまゝ胡座《あぐら》をかき、煙草《たばこ》を吸《す》ひながら、作男《さくをとこ》を指圖《さしづ》し、自身《じゝん》も時々《とき〴〵》はぶらり〳〵畠廻《はたけまは》りに行《ゆ》くらしい、家《うち》にゐる間《あひだ》は一|時間《じかん》に一|度《ど》位《ぐらゐ》、下女《げぢよ》か下男《げなん》か妻君《さいくん》か誰《だ》れかに向《む》かつて、何《なに》か云《い》つては怒鳴《どな》つてゐる。屡々《しば〳〵》屋敷《やしき》の周圍《まはり》を懷手《ふところて》でぶらつき、偶々《たま〳〵》落書《らくがき》でも見《み》やうなら、凄《すさま》じい聲《こゑ》で下男《げなん》を呼《よ》んで削《けづ》らせ、惡戯者《いたづらもの》でも見《み》つけたらば、子供《こども》であらうと女《をんな》であらうと引捕《ひつとら》へて縛《しば》り上《あげ》る。しかし予《よ》に對《たい》しては穩《おだや》かで親切《しんせつ》で、全《まつ》たく人《ひと》が異《ちが》うやうだ。妻君《さいくん》は痩《や》せて靑《あを》く、大抵《たいてい》は奧《おく》へ引込《ひつこ》んでゝ、家《いへ》の事《こと》にはあまり關《かま》つてゐないやうだが、一人《ひとり》變《へん》な男《をとこ》が始終《しよつちう》出入《でいり》して、下男《げなん》下女《げぢよ》以上《いじやう》の特權《とくけん》を持《もつ》てゐるやうだ。婢僕《ひぼく》はこの男《をとこ》を馬鹿市《ばかいち》々々々と蔭《かげ》で呼《よ》んで居るが、主人《しゆじん》には餘程《よほど》のお氣《き》に入《い》りと見《み》え、何《なに》をしても小言《こゞと》を喰《く》つたことがない。丈《たけ》が短《ひく》くて顏《かほ》が圖拔《づぬけ》て大《おほ》きく、智慧《ちゑ》の足《た》らんやうな所《ところ》もあるが、又《また》極《きは》めて敏捷《びんしやう》で、樹登《きのぼ》りや屋根傳《やねづた》ひをさすと、飛鳥《ひてう》の如《ごと》く身《み》を運《はこ》ぶ。それに不仁身《ふじみ》であつて、打《ぶ》たれても毆《なぐ》られても痛《いた》くはないといふ。 或晚《あるばん》主人《しゆじん》は、予《よ》の前《まへ》にこの馬鹿市《ばかいち》を呼《よ》び、鞭《むち》を持《も》つてぴしやり〳〵脊中《せなか》を打《う》ち、「不思議《ふしぎ》ぢやありませんか、これで何《なん》とも感《かん》じないんですから、さあ貴下《あなた》も一《ひと》つ打《ぶ》つて御覽《ごらん》なさい、實際《じつさい》當人《たうにん》に苦痛《くつう》はないんです」と、鞭《むち》を前《まへ》に置《お》いて勸《すゝ》めたが、予《よ》は如何《いか》にも殘酷《ざんこく》な氣《き》がして、座興《ざきよう》にもそんな眞似《まね》は出來《でき》ず、その代《かは》りに杯《さかづき》を差《さ》してやると、市公《いちこう》は續《つゞ》け樣《ざま》に五六|杯《はい》を煽《あほ》つて、その悟《さと》れる如《ごと》く愚《ぐ》なるが如《ごと》き顏《かほ》を赤《あか》くして、船頭唄《せんどうゝた》を唄《うた》つた。聲《こゑ》もいゝし唄《うた》も面白《おもしろ》いが、予《よ》には何《なん》となく哀《あは》れに感《かん》ぜられる。 で、主人《しゆじん》に向《むか》つて、「一|體《たい》この男《をとこ》は何物《なにもの》です」と聞《き》くと、 「孤兒《こじ》ですよ、親爺《おやぢ》は鳴門《なると》で難船《なんせん》して死《し》ぬる、阿母《おふくろ》は旅商人《たびあきんど》と駈落《かけおち》する、後《あと》に一人《ひとり》殘《のこ》されてたのを、可愛《かあい》さうだから、私《わたし》共《ども》が育《そだ》て上《あ》げてやつたんです、今《いま》は舟乗《ふなのり》になつて、糊口《くちすぎ》だけは出來《でき》るんですが、氣《き》まぐれ物《もの》で、何處《どこ》へ行《い》つても永《なが》くは勤《つとま》らんのです」 「しかし孤兒《こじ》ぢや可愛《かあい》さうですね」と、市公《いちこう》を見《み》て、同情《どうじやう》を表《ひやう》したが、彼《か》れは平氣《へいき》な顏《かほ》をして、予《よ》と主人《しゆじん》とを見比《みくら》べてゐる。 予《よ》は出立《しゆつたつ》の前日《ぜんじつ》、スケツチ帖《てう》の一《ひと》つを材料《ざいれう》とし、主人《しゆじん》に約束《やくそく》の小《ちい》さい風景畵《ふうけいぐわ》を申譯《まをしわけ》だけに書《か》き上《あ》げ、獨《ひと》り屋後《おくご》の丘《をか》や畠《はたけ》の畦《あぜ》を散步《さんぽ》し、感興《かんきよう》に耽《ふけ》つた。中秋《ちうしう》の空《そら》は底深《そこふか》く澄《す》み、目《め》の下《した》には靜《しづ》かな海《うみ》が廣《ひろ》がり、一|村《そん》は柔《やはら》かな光《ひかり》を浴《あ》びて眠《ねむ》れるが如《ごと》く、寂《せき》として人語《じんご》なく、只《たゞ》漁船《れうせん》から物打《ものう》つ音《おと》がコト〳〵と幽《かす》かに響《ひゞ》くのみ。小徑《こみち》の左右《さいう》には大木《たいぼく》はなく、山間《さんかん》のやうに落葉《おちば》を踏《ふ》むの興《きよう》はなけれど、灌木《くわんぼく》が繁《しげ》つて、その間《あひだ》に女郞花《をみなへし》濱萩《はまはぎ》が交《まじ》つてゐる。予《よ》は此等《これら》の花《はな》を雜草《ざつさう》の間《うち》から、一|本《ぽん》づつ撰《え》り出《だ》しては折《を》り、花束《はなたば》を作《つく》りながら、無意識《むいしき》に菜畠《なばたけ》を橫《よこ》ぎつてると、後《うしろ》から怒鳴《どな》る聲《こゑ》がする。顧《かへり》みると一|丁《ちやう》程《ほど》隔《へだ》てゝ頰被《ほゝかむ》りをした大男《おほをとこ》が鍬《くわ》をついて立《た》つてゐる。予《よ》は別《べつ》に氣《き》にも止《と》めず、ずん〳〵步《ある》いてると、彼《か》の男《をとこ》は物《もの》をも云《い》はず、いきなり、後《うしろ》から予《よ》の後腦《こうのう》を打《う》つた。力《ちから》が籠《こも》つてるのでもないが、痩身《やせみ》には酷《ひど》く應《こた》へて、前《まへ》へのめつたのを、漸《やうや》く踏《ふ》み止《と》まつて、「何《なに》をするんだ」と、身構《みがま》へすると、 「馬鹿《ばか》、何《なに》をするもあつたものか、おれの大事《だいじ》な畠《はたけ》を何故《なぜ》踏《ふ》みやがつた、今《いま》鍬《くわ》を入《い》れたばかりぢやないか」 と、恐《おそ》ろしい劍幕《けんまく》に、予《よ》は吃愕《びつくり》して、一口《ひとくち》の返答《へんたふ》も出來《でき》ず、ぼんやり相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》てると、突如《だしぬけ》に目《め》の前《まへ》に市公《いちこう》が現《あら》はれて、 「この人《ひと》は若旦那《わかだんな》の大事《だいじ》なお客樣《きゃくさま》だぞ」 と相手《あひて》を叱《しか》り、予《よ》の手《て》を執《と》つて、さも保護者《ほごしや》でゝもあるやうな態度《たいど》をして、大股《おほまた》に步《あゆ》み出《だ》した。予《よ》は胸《むね》を鎮《しづ》めて、 「彼奴《あいつ》は誰《だ》れだ」と問《と》ふと、 「丸《まる》八といふ奴《やつ》さ」と云《い》ふ。 「うん、あれか」と獨《ひと》りで首肯《うなづ》いて「市《いち》さん、お前《まへ》は鶴崎《つるざき》の旦那《だんな》のことを知《し》つてるだらう」 「そりや知《し》つてるとも、何《なん》でも知《し》つてらあ、あの旦那《だんな》はえらい人《ひと》だ、誰《だ》れでも意地《いぢ》める者《もの》があつたら、旦那《だんな》にさへ云《い》ひつけやうなら、直《す》ぐ敵《かたき》を取《と》つて吳《く》れらあ、何《なに》しろ我等《おいら》あ、旦那《だんな》のお氣《き》に入《い》りだもの」と、大得意《だいとくゐ》の風《ふう》をして、「それで我等《おいら》あ、村《むら》の者《もの》が、旦那《だんな》の惡口《わるくち》を云《い》つてると、直《す》ぐ吿口《つげぐち》をしてやらあ、旦那《だんな》は喜《よろこ》ぶせ」と首《くび》をすくめて予《よ》の顏《かほ》をのぞき〳〵、その吿口《つげぐち》の例《れい》を話《はな》す。 予《よ》は市公《いちこう》に連《つ》れられて、宿《やど》へ歸《かへ》つたが、百|姓《しやう》に毆《なぐ》られたことは一言《ひとこと》も語《かた》らず、獨《ひと》り離座敷《はなれ》に引籠《ひきこも》り、鞄《かばん》を整頓《せいとん》し、翌朝《よくてう》出立《しゆつたつ》の用意《ようい》をなし東京《とうきやう》の友人《いうじん》宛《あ》てに、二三の端書《はがき》を認《したゝ》めて居ると、母屋《おもや》の方《はう》で、主人《しゆじん》の怒鳴《どな》り聲《ごゑ》がして、靜《しづ》かな空《そら》に尖《するど》く異樣《ゐやう》に響《ひゞ》く。又《また》始《はじ》めたなと、障子《しやうじ》の隙間《すきま》から窺《のぞ》くと、主人《しゆじん》は小高《こだか》い緣側《えんがは》に座《すわ》り、その下《した》の石段《いしだん》に、かの見覺《みおぼ》えある百|姓《しやう》が蹲《しやが》んでゐる。少《すこ》し隔《へだ》つてる爲《ため》、言葉《ことば》の綾《あや》はよく分《わか》らぬが、見《み》た所《ところ》、白洲《しらす》のお捌《さば》きといつた風《ふう》だ。 主人《しゆじん》は疎《まば》らな髯《ひげ》を捻《ひね》つて尊大《そんだい》に構《かま》へ、眉《まゆ》を怒《いか》らせて相手《あひて》を睨《にら》みつけてゐたが、百|姓《しやう》は俯《うつむ》いて、口《くち》を噤《つぐ》み、暫《しば》らくして挨拶《あひさつ》もせずに歸《かへ》つてしまつた。 予《よ》は主人《しゆじん》に對《たい》して、不快《ふくわい》な氣《き》が萠《きざ》し、優遇《いうぐう》も有難味《ありがたみ》がなくなり、この平靜《へいせい》の漁村《ぎよそん》も多少《たせう》厭《い》やになり出《だ》した。 すると主人《しゆじん》は微笑《にこ》〳〵して入《はい》つて來《き》て、 「散步《さんぽ》して入《いら》しつたんですか、今《いま》ね、市公《いちこう》に聞《きゝ》ますと、馬鹿奴《ばかめ》が貴下《あなた》に大變《たいへん》御無禮《ごぶれい》な事《こと》を致《いた》したさうで、どうも無敎育《むけういく》の者《もの》は仕方《しかた》がありませんよ、それについて私《わたし》も申譯《まをしわけ》がないと思《おも》ひましてな、早速《さつそく》彼奴《あいつ》を呼《よ》びつけて小言《こゞと》を云《い》つときました。なあに不都合《ふつがふ》な奴《やつ》には、田地《でんぢ》を取上《とりあ》げてやりますよ、あの田地《でんぢ》だつて皆《みな》私《わたし》の者《もの》ですからな」 と、自身《じゝん》の威光《いくわう》を見《み》よと云《い》はぬばかりの風《ふう》をする。 「だつて、それ位《くらゐ》の事《こと》で、あんな貧乏者《びんばふもの》の田地《でんぢ》を取上《とりあ》げるのは可愛想《かあいさう》ぢやありませんか、どうせ私《わたし》が惡《わる》いんだし」 「いや〳〵、あんな蟲《むし》けら同然《どうぜん》の者《もの》には口《くち》で敎《をし》へたつて駄目《だめ》です、食《く》ふにも困《こま》るやうになつたら、少《すこ》しは性根《しやうね》が入《い》るでせう」 と、彼《か》れは百|姓共《しやうども》の卑《いや》しい汚《きたな》い生活《くらし》の樣《さま》を說明《せつめい》して、頻《しき》りに「蟲《むし》けら同然《どうぜん》です」を繰返《くりかへ》した後《のち》、「どうです、釣《つり》にお出《い》でなすつちや、私《わたし》が御案内《ごあんない》致《ゝた》しませう」と勸《すゝ》める。予《よ》は今日《けふ》に限《かぎ》り釣魚《つり》に心《こゝろ》も向《む》かなかつたが、この一|日《にち》が瀨戶内海《せとないかい》の見收《みおさ》めであれば、强《し》いて心《こゝろ》を引立《ひきた》てゝ承諾《しやうだく》した。 で、市公《いちこう》に釣道具《つりだうぐ》を擔《かつ》がせて、一足《ひとあし》先《さき》へやり、予《よ》と主人《しゆじん》とは後《あと》から磯《いそ》へ出《で》たが、何時《いつ》もの通《とほ》り肥桶《こへたご》を擔《かつ》いだ老農夫《らうのうふ》も網《あみ》を抱《だ》いてるチヨン髷《まげ》の漁夫《れうし》も、皆《みな》擦《す》れ違《ちが》ひ樣《ざま》に鉢卷《はちまき》を取《と》つて恭《うや〳〵》しく挨拶《あひさつ》し、主人《しゆじん》は目《め》か顎《あご》で會釋《ゑしやく》して村王《そんわう》の威《ゐ》を示《しめ》す。中《なか》には予《よ》に對《たい》しても腰《こし》を屈《かゞ》める者《もの》もあつたが、ふと埠頭場《はとば》に集《あつ》まつて艫綱《ともづな》を造《つく》つてる二三の若《わか》い漁夫《れうし》が、互《たが》ひに予《よ》を見《み》ては嘲《あざ》けつてるやうなのが目《め》についた。ほんの耳語《さゝや》いてるのであらうが、田舎者《ゐなかもの》なれば、自然《しぜん》に聲《こゑ》が大《おほ》きくて、予《よ》の過敏《くわびん》な耳《みゝ》には響《ひゞ》いて來《く》る。 「あの人間《にんげん》をぶん毆《なぐ》つたら、田地《でんぢ》を捲上《まきあ》げられるんぢやちうぜ」 「彼奴《あいつ》は馬鹿市《ばかいち》の相棒《あひぼう》だらう、馬鹿《ばか》旦那《だんな》の御機嫌取《ごきげんと》りに遠方《ゑんぱう》から來《き》たんさ」 「おれ逹《たち》や腕《うで》さへありや、五|兩《りやう》や十|兩《りやう》は何時《いつ》でも稼《かせ》げらあ、船板《ふないた》三|尺《しやく》下《した》あ地獄《ぢごく》と决《きま》つてるんだから、誰《だ》れだつて恐《こわ》かあないさ、」 「さうとも、あの大將《たいしやう》、又《また》漁場《れふば》へ邪魔《じやま》をしに行《い》きやがらあ、鰒《ふぐ》でも釣《つ》るんかい」 と、彼等《かれら》の一人《ひとり》は予《よ》に向《むか》つて握拳《にぎりこぶし》を突出《つきだ》して見《み》せ、くつ〳〵笑《わら》つてゐる。予《よ》は不快《ふくわい》で溜《たま》らなくなつた。主人《しゆじん》には聞《きこ》えぬのか聞《きこ》えたのか知《し》らぬが、高聲《たかごゑ》で釣《つり》の講釋《こうしやく》をしながら、舟《ふね》に乗《の》り、市公《いちこう》には閼伽《あか》をすくはせ、自分《じぶん》では櫓《ろ》を操《あやつ》る。予《よ》は舳《へさき》に彳《たゝづ》んで煙草《たばこ》を吹《ふ》かせてゐたが、不快《ふくわい》の念《ねん》は容易《ようい》に去《さ》らぬ。 舟《ふね》は油《あぶら》を流《なが》したやうな水面《すゐめん》を辷《すべ》つて、島蔭《しまかげ》へ來《き》た。主人《しゆじん》は櫓《ろ》を棄《す》てゝ水棹《みさほ》を取《と》り、 「魚《うを》にも巢《す》があります、だから釣《つり》もその巢《す》を見《み》つけてからでなくちや、幾《いく》ら上手《じやうず》でも釣《つ》れるもんぢやありません」と、舟《ふね》をその魚《うを》の巢《す》の側《そば》へ留《と》め、市公《いちこう》に碇《いかり》を卸《おろ》させた。蒼《あを》く澄《す》んだ水《みづ》の底《そこ》に藻屑《もくづ》が生《お》ひ茂《しげ》り、小《ちい》さい魚《うを》が水面《すゐめん》に飛《と》び上《あが》るのを見《み》ると、予《よ》は心躍《こゝろおど》り、先《さき》の不快《ふくわい》も忘《わす》れてしまう。此處《こゝ》には既《すで》に二三|艘《さう》の漁船《れうせん》がゐて、一|心《しん》に釣《つり》をしてゐたが、我等《われら》の舟《ふね》を見《み》ると、漁夫《れうし》は變《へん》な顏《かほ》をして、相《あひ》ついで他方《たはう》へ逃《に》げて行《ゆ》く。 「そら疫病神《やくびやうがみ》が」と云《い》つてるやうに見《み》える。 「私《わたし》等《ら》が釣《つ》ると、外《ほか》の漁夫《れうし》の妨害《ばうがい》になるんぢやありませんか」 と、予《よ》が氣兼《きがね》をすると、 「いや、此處《こゝ》は私《わたし》が見《み》つけたので、先《ま》づ私《わたし》の領分《れうぶん》のやうなものです、何卒《どうぞ》御遠慮《ごゑんりよ》なくお釣《つ》りなさい」 と、主人《しゆじん》は小蝦《こゑび》の肉《にく》を餌《えさ》にして、釣針《つりばり》を垂《た》れると、見《み》る間《ま》に大《おほ》きな沙魚《はぜ》が釣《つ》れた。予《よ》は市公《いちこう》に敎《をそ》はつては釣《つり》を垂《た》れ、不馴《ふな》れな手《て》ですら二三|時間《じかん》に、沙魚《はぜ》や海鯽《ちぬ》や或《あるひ》は鰒《ふぐ》が數《すう》十|尾《び》も釣《つ》れた。 釣《つ》りの面白《おもしろ》さに、我等《われら》は多《おほ》く話《はな》しもせず夕方《ゆふがた》までこの島蔭《しまかげ》に漂《たゞよ》ひ、釣《つ》つては魚《うを》を舟《ふね》の底《そこ》に投《な》げ入《い》れ〳〵してゐた。 「どうです一|服《ぷく》やりますか」と、主人《しゆじん》は釣竿《つりさを》を置《お》いてマツチを擦《す》つた。 「成程《なるほど》よく釣《つ》れますね、これだと商賣《しやうばい》になるでせう、僕《ぼく》も繪《ゑ》を止《や》めて漁夫《れうし》になるかな」と、予《よ》は舟底《ふなぞこ》に重《かさ》なり合《あ》つてる魚《うを》が、ばしや〳〵音《おと》をさせるを聞《き》き、漁村《ぎよそん》の秋氣《しうき》の膓《はらわた》まで染《し》み込《こ》むを覺《おぼ》えた。風《かぜ》はます〳〵凪《な》ぎ、ちぎれ〴〵の夕雲《ゆふぐも》も空《そら》に固定《こてい》してるやうだ。 主人《しゆじん》は兩膝《りやうひざ》を抱《いだ》いて銜《くは》へ煙管《ぎせる》で、「どうだ、市公《いちこう》、水練《すゐれん》を御覽《ごらん》に入《い》れちや」と、予《よ》に向《むか》ひ、「此男《これ》は水潜《みづくゞり》の名人《めいじん》です」と云《い》つたが、市公《いちこう》はその言葉《ことば》の耳《みゝ》に入《い》らぬ程《ほど》、一|心《しん》に空《そら》を見《み》つめ、 「や、株虹《かぶにじ》が出《で》た、大風《おほかぜ》だ〳〵」と叫《さけ》んだ。 主人《しゆじん》もその方《はう》を見上《みあ》げて、「御覽《ごらん》なさい、あの虹《にじ》を、あれが出《で》ると、屹度《きつと》空模樣《そらもやう》が變《かは》るんです」 山《やま》の端《は》には、太《ふと》い短《みじか》い虹《にじ》が物凄《ものすご》くかゝつてゐた。この内海《ないかい》の大嵐《おほあらし》はどんなであらう。予《よ》が歸京後《きゝやうご》に描《ゑが》いた大作《たいさく》は、三|人《にん》が舟中《しうちう》でこの虹《にじ》を見《み》て居《ゐ》る所《ところ》である。  凄い眼 工場《こうぢやう》の奧《おく》に疊《たゝみ》を敷《し》いた一室《ひとま》がある。狹《せま》い一|方《ぽう》口《ぐち》で丁度《ちやうど》袋《ふくろ》のやうだ。滅多《めつた》に掃除《さうじ》もせねば隅々《すみ〴〵》には埃《ほこり》が積《つ》もり、壁《かべ》は一|體《たい》に黑《くろ》ずんでゐる。棚《たな》にある磨滅《まめつ》した活字《くわつじ》、開《ひら》いてる傘《からかさ》窄《すぼ》めてる傘《からかさ》、散《ちら》ばつてる衣服《きもの》や帶《おび》、この居室《ゐま》にある者《もの》に一《ひと》つとして汚《よご》れめのない者《もの》はない。それに空氣《くうき》の流通《りうつう》は惡《わる》い。時候《じこう》は梅雨《つゆ》で二三|日《にち》來《らい》鮮《あざや》かな日光《につくわう》が窓《まど》ガラスを通《とほ》つたことはない。異樣《ゐやう》の臭氣《しうき》が室内《しつない》に漲《みなぎ》る。 しかしこの廢物《はいぶつ》同樣《どうやう》の居室《ゐま》も、數多《あまた》の人《ひと》に利用《りよう》されてゐる。騷《さわ》がしい社會《しやくわい》の隱《かく》れ家《が》となつてゐる。仕事《しごと》に疲《つか》れた老《お》いたる社員《しやゐん》が、こつそり此處《こゝ》に忍《しの》んで、肱枕《ひぢまくら》で腰《こし》を叩《たゝ》いてゐることもある。丸髷《まるまげ》の女工《ぢよこう》が火鉢《ひばち》の前《まへ》に立膝《たてひざ》をして二三|服《ぷく》煙草《たばこ》を吸《す》うて行《ゆ》く。夜勤《やきん》の四五|人《にん》がジメ〳〵した座蒲團《ざぶとん》を取捲《とりま》いて、片肌《かたはだ》拔《ぬ》いで花札《はなふだ》を弄《もてあそ》ぶ。折々《をり〳〵》は艶《なま》めかしい言葉《ことば》さへ聞《き》かれるさうだ。 そして集金《しふきん》掛《がゝり》帆田《ほだ》常造《つねざう》は十|數年《すうねん》來《らい》此處《こゝ》に起臥《おきふし》してゐる。年齡《とし》は五十を越《こ》したばかりだが、顏《かほ》が萎《し》なびて頰《ほゝ》が凹《くぼ》み、櫛梳《くしけづ》らぬ髮《かみ》は野生《やせい》の雜草《ざつさう》の如《ごと》く、星明《ほしあか》りに黃《き》ばんだ痩腕《やせうで》を投《な》げ出《だ》して寢《ね》てゐる姿《すがた》はこの世《よ》の人《ひと》とも思《おも》はれぬ。朝《あさ》は職工《しよくこう》が威勢《いせい》よく入《はい》つて來《き》て、周圍《まはり》で騷《さわ》ぐのに目《め》を醒《さ》まされ、ヒヨロ〳〵と起上《おきあが》つて、足《あし》を引《ひき》ずり匐《は》ふやうにして階子段《はしごだん》を下《お》りる。顏《かほ》を洗《あら》ふと裏《うら》の屋臺店《やたいみせ》で鹽餡《しほあん》の大福餅《だいふくもち》を三つ買《か》つて來《き》て、應接所《おうせつじよ》か車夫《しやふ》溜《だま》りで、顏《かほ》中《ぢゆう》をモグ〳〵させて食《く》ふ。喰《く》うてしまふと水道《すゐだう》の水《みづ》を茶椀《ちやわん》に一|杯《ぱい》呑《の》んで、自分《じぶん》の居室《ゐま》へ歸《かへ》る。それから外出《そとで》の身仕度《みじたく》をして草鞋《わらじ》を穿《は》き、風呂敷《ふろしき》を脊負《せお》ひ、細《ほそ》い竹《たけ》の杖《つゑ》をついて、トボ〳〵と集金《しふきん》に廻《まは》る。雨《あめ》が降《ふ》ると番傘《ばんがさ》を竹《たけ》の杖《つゑ》に代《か》へるのみで、一|日《にち》たりとも休《やす》んだことがない。吹《ふ》けば飛《と》ぶやうな身體《からだ》で重《おも》さうな傘《かさ》をかついで、風雨《ふうゝ》を衝《つ》いて步《ある》いてゐるのは、外目《よそめ》には悲慘《みじめ》に感《かん》ぜられるが、當人《たうにん》は苦《く》にもしない。命《めい》ぜられた通《とほ》りに賣捌店《うりさばきてん》を順《じゆん》ぐりに廻《めぐ》つて、夕暮《ゆふぐれ》には時刻《じこく》を違《たが》へずに歸《かへ》つて來《く》る。それから足《あし》を濯《すゝ》いで、晩餐《ばんめし》に取掛《とりかゝ》るのだが、晩餐《ばんめし》も朝《あさ》と同《おな》じく一《ひと》つ一|錢《せん》の大福《だいふく》か鐵砲卷《てつぱうまき》、只《たゞ》朝《あさ》は生水《なまみづ》で濟《す》ますのに、晚《ばん》には小使《こづかひ》部屋《べや》から暖《あたゝ》かい茶《ちや》を貰《もら》つて來《き》て飮《の》むだけ異《ちが》つてゐる。夜《よる》はこの居室《ゐま》には不似合《ふにあひ》な電燈《でんとう》の下《した》に腹這《はらば》ひになつて、珠盤《そろばん》を前《まへ》に帳簿《ちやうぼ》を調《しら》べ、一|錢《せん》の相違《さうゐ》もないのを幾度《いくたび》も見屆《みとゞ》けて、初《はじ》めて安心《あんしん》してごろり[#「ごろり」に傍点]と橫《よこ》になる。尤《もつと》も時々《とき〴〵》は自分《じぶん》の財產《ざいさん》調《しら》べもするので、胴卷《どうまき》の金庫《きんこ》から幾重《いくへ》にも白紙《はくし》で包《つゝ》んだ紙幣《しへい》を取出《とりだ》し一|枚《まい》々々《〳〵》調《しら》べて押頂《おしいたゞ》き、又《また》元《もと》の通《とほ》りに收《をさ》めて胴卷《どうまき》を枕《まくら》の下《した》にかくして眠《ねむ》る。この財產《ざいさん》調《しら》べの折《をり》には、人目《ひとめ》を憚《はゞか》るのと悅《うれ》しいのとで元氣《げんき》のない目《め》も活々《いき〳〵》して來《く》る。貯蓄額《ちよちくがく》はせい〴〵二三百|圓《ゑん》であらうが、社員《しやゐん》の噂《うはさ》では千|圓《ゑん》には逹《たつ》したと定《き》められてゐる。費用《つひへ》を恐《おそ》れて妻《つま》を離緣《りえん》し子《こ》をも勘當《かんだう》して、獨《ひと》りぼつちで食《く》ふ者《もの》も食《く》はずに貯蓄《ちよちく》して何《なに》にするのであらうとは、若《わか》い社員等《しやゐんら》の疑問《ぎもん》で、屡々《しば〳〵》調戯《からかひ》半分《はんぶん》に聞《き》いて見《み》るが、彼《か》れは薄氣味《うすきみ》惡《わる》く笑《わら》ふのみで相手《あひて》にもしない。一|日《にち》の仕事《しごと》――食事《しよくじ》もこの人《ひと》には樂《たのし》みではなくて仕事《しごと》の一《ひと》つだ――を終《をは》ると、居室《ゐま》の片隅《かたすみ》に他人《ひと》の邪魔《じやま》にならぬやうに煎餅蒲團《せんべいぶとん》を額《ひたひ》まで被《かぶ》つて寢《ね》る。寢《ね》てからは只《たゞ》翌日《あす》を待《ま》つばかりで、側《そば》で誰《だ》れが何《なに》をしてゐようと、少《すこ》しも心《こゝろ》に留《と》めぬ。輪轉機《りんてんき》の音《おと》、植字歌《しよくじうた》、雨《あめ》の音《おと》、嵐《あらし》の響《ひゞき》、職工《しよくこう》の喧嘩《けんくわ》も口論《こうろん》も、皆《みな》老人《らうじん》の耳《みゝ》を煩《わづら》はさずに消《き》えて行《ゆ》く、睡《ねむ》りを妨《さまた》ぐる者《もの》もない。 所《ところ》がこの二三|日《にち》、帆田《ほだ》老人《らうじん》は腰《こし》のあたりにビリ〳〵微《かす》かな疼痛《いたみ》を感《かん》じて、容易《ようい》に眠《ね》つかれぬ。かねて醫藥《いやく》の料《れう》にと物干臺《ものほしだい》で乾《かは》かした蕺草《どくだみ》枇杷《びは》の葉《は》などの藥草《やくさう》を煎《せん》じて呑《の》んでも利目《きゝめ》がない。で、今日《けふ》――六|月《ぐわつ》二十三|日《にち》――も蒲團《ふとん》へ橫《よこ》になると自分《じぶん》で腰《こし》を撫《な》でゝ小聲《こごゑ》で呻吟《うめい》てゐたが、不圖《ふと》枕許《まくらもと》で自分《じぶん》を呼《よ》ぶ聲《こゑ》がする。 「君《きみ》一《ひと》つお賴《たの》みがあるんだがね」と、夜勤《やきん》の宇野《うの》が靴《くつ》のまゝ疊《たゝみ》の上《うへ》に立《た》つて、「今《いま》香川《かがは》から電話《でんわ》が掛《かゝ》つたんだが、赤坂《あかさか》で飮《の》んで金《かね》が足《た》らぬので歸《かへ》れんそうだから、君《きみ》迎《むか》へに行《い》つて吳《く》れ玉《たま》へ」と云《い》ふ。 帆田《ほだ》は白布《しらぬの》の夜具《やぐ》から乗《の》り出《だ》し、顏《かほ》を顰《しか》めて宇野《うの》を見《み》たが、暫《しば》らく返事《へんじ》をしない。 「ねえ君《きみ》行《い》つて吳《く》れ玉《たま》へ、金《かね》は今《いま》會計《くわいけい》から借《か》りて持《も》つて來《き》てるんだ。使賃《つかひちん》は出《だ》すよ」 「行《い》つてもえゝが、今夜《けふ》は氣分《きぶん》が惡《わる》いでなあ」と、皺枯《しやが》れ聲《ごゑ》で云《い》つた。 「二十|錢《せん》出《だ》すよ、一|時間《じかん》で行《い》つて來《こ》られるんだから、先日《こなひだ》よりや割《わり》がいゝよ」 帆田《ほだ》は尙《なほ》躊躇《ちうちよ》してゐたが、やがて、 「ぢや行《い》かうかい」と、蒲團《ふとん》から匐《は》ひ出《だ》した。寢衣《ねまき》は着《き》ず菱形《ひしがた》の腹當《はらあて》のみを着《つ》け、脊骨《せぼね》は高《たか》く現《あら》はれてゐる。破扉《やれドア》二《ふた》つを繼《つ》ぎ併《あは》せた衣桁《いかう》から衣服《きもの》を卸《おろ》して、ゆる〳〵身體《からだ》に卷《ま》きつけ、胴卷《どうまき》をぐつと締《し》め、尻端折《しりはしを》つて出《で》て行《い》つた。糠《ぬか》のやうな五月雨《さみだれ》の降《ふ》つてゐる中《なか》を傘《かさ》もさゝず、電車《でんしや》にも乗《の》らぬ。小石《こいし》に躓《つま》づいても倒《たふ》れさうな足《あし》を踏占《ふみし》め〳〵、竹《たけ》の杖《つゑ》を手賴《たよ》りに赤坂《あかさか》まで往復《わうふく》した。 二十|錢《せん》銀貨《ぎんくわ》を財布《さいふ》に入《い》れ、腰《こし》の疼《いた》みを我慢《がまん》して步《ある》いたが、次第《しだい》に疲《つか》れて、社《しや》近《ちか》くなると途《みち》にへたばり[#「へたばり」に傍点]そうになる。喉《のど》は渇《かは》いて來《く》る。そしてふつと[#「ふつと」に傍点]酒《さけ》が飮《の》みたくなつた。酒《さけ》と云《い》ふもの月《つき》に一|度《ど》飮《の》むことも稀《まれ》だが、今夜《こんや》はよく〳〵堪《た》へがたくなつて、使賃《つかひちん》の半分《はんぶん》を捨《す》てるつもりで、ギヨロ〳〵見《み》まはした。酒屋《さかや》もビアーホールも左右《さいう》にあれど、電燈《でんとう》に輝《かゞや》いて美《うつく》しく、氣臆《きおく》れがしてとても入《はい》れそうにない。で、わざ〳〵社《しや》の前《まへ》を行過《ゆきす》ぎ迂道《まはりみち》して、大根《だいこん》河岸《がし》向《むか》うの繩暖簾《なはのれん》を潜《くゞ》つた。ランプは薄暗《うすぐら》く、土間《どま》は連日《れんじつ》の雨《あめ》に濕《しめ》り、腐《くさ》つた臭《にほ》ひが漂《たゞよ》うてゐて、外《ほか》に客《きやく》は一人《ひとり》もゐない。彼《か》れはべた〳〵汚《よご》れた腰掛《こしかけ》にぐつたり身體《からだ》を曲《ま》げて座《すわ》り、燒酎《せうちう》を啜《すゝ》つた。一|杯《ぱい》が五|錢《せん》だ。 手《て》についた滴《しづく》を頰《ほゝ》になすくり、十五|錢《せん》の釣錢《つり》を財布《さいふ》に入《い》れて戶外《そと》へ出《で》たが、頭《あたま》も足《あし》も一|緖《しよ》にふら〳〵[#「ふら〳〵」に傍点]する。手拭《てぬぐひ》で鉢卷《はちまき》をして細《ほそ》い雨《あめ》の中《なか》を踊《をど》るやうな手《て》つきで通《とほ》つて 「ア、コラ〳〵」と皺枯《しやが》れ聲《ごゑ》で拍子《ひやうし》を取《と》つて社《しや》へ入《はい》つた。 「大變《たいへん》景氣《けいき》がいゝね、君《きみ》が酒《さけ》を飮《の》んだのは初《はじ》めて見《み》た」 と、宇野《うの》は微笑《にこ》々々《〳〵》して云《い》つた。 帆田《ほだ》は「へゝゝ」と笑《わら》つて奧《おく》へ行《ゆ》きかけたが、又《また》後戾《あともど》りして、懷《ふところ》から鉛筆《えんぴつ》の受取書《うけとりがき》を宇野《うの》に渡《わた》した。 「受取《うけとり》なんか入《い》らないのに」 「でも間違《まちが》ひがあつちやならん」 と云《い》つて、帆田《ほだ》は又《また》「ア、コラ〳〵」を續《つゞ》けて、自分《じぶん》の居室《ゐま》へ入《はい》ると、電燈《でんとう》の側《そば》で職工《しよくこう》が四人《よにん》花札《はなふだ》を並《なら》べ、銅貨《どうくわ》の音《おと》をさせてゐた。 物珍《ものめづ》らしそうに上《うへ》から覘《のぞ》くと、その中《うち》の一人《ひとり》が、 「帆田《ほだ》さん明日《あす》まで五十|錢《せん》ばかり借《か》して吳《く》れませんか」 と、顏《かほ》を上《あ》げた。 帆田《ほだ》はへゝゝと云《い》つたきり、隅《すみ》の寢床《ねどこ》へ轉《ころ》げ込《こ》んだ。濡《ぬ》れた衣服《きもの》のまゝ鉢卷《まちまき》をも取《と》らずグツスリ睡《ね》てしまつた。 それから一|時間《じかん》、香川《かがは》が赤《あか》い顏《かほ》をして、ビシヨ濡《ぬ》れで歸《かへ》つて來《き》た。上衣《うはぎ》を脫《ぬ》いで黑《くろ》ずんだ肉色《にくいろ》のシヤツ一|枚《まい》になり、宇野《うの》と賑《にぎ》やかに話《はな》してゐたが、夜《よ》は更《ふ》けて、周圍《あたり》も靜《しづ》かに、繁吹《しぶ》きに曇《くも》つた玻璃窓《ガラスまど》から、柳葉《りうえう》の風《かぜ》に亂《みだ》れてゐるのが見《み》える。 「さあ歸《かへ》らうか、電車《でんしや》のある中《うち》に」と、宇野《うの》は椅子《いす》を離《はな》れた。 「僕《ぼく》も寢《ね》ようか」と、香川《かゞは》は眠《ねむ》そうな目《め》で時計《とけい》を見《み》て欠伸《あくび》をした。 「可愛《かあい》そうだね、そんな大《おほ》きな身體《からだ》をして宿《やど》るに家《いへ》なしぢや、」 「うゝん」 宇野《うの》の靴《くつ》の音《おと》が消《き》えると、香川《かゞは》は椅子《いす》を二|脚《きやく》づゝ兩手《れうて》で提《さ》げて、隣《とな》りの豫備《よび》應接室《おうせつしつ》へ行《はい》つた。此處《こゝ》には新聞《しんぶん》の綴込《とぢこ》みが保存《ほぞん》され、テーブルと椅子《いす》が据《す》ゑつけられてゐる。光《ひかり》は廊下《らうか》の電燈《でんとう》が隅《すみ》の方《はう》から薄《うす》く照《て》らすばかり。香川《かゞは》はテーブルを片寄《かたよ》せ、椅子《いす》を四|脚《きやく》づゝ二|列《れつ》にくつゝけて並《なら》べ、その上《うへ》に毛布《けつと》を敷《し》き、厚《あつ》い冬夜具《ふゆやぐ》をかけ、素裸《すつぱだか》になつて藻《も》ぐり込《こ》んだ。書物《しよもつ》を枕《まくら》に首《くび》だけ出《だ》して寢《ね》てゐたが、蒸暑《むしあつ》くて身體《からだ》が汗《あせ》ばんで來《く》るので、我知《われし》らず夜具《やぐ》を腰《こし》から下《した》へ押《おし》のけ、胸毛《むなげ》のある赤《あか》らんだ胴《どう》を曝《さ》らし、一《ひと》つ二《ふた》つ蚊《か》の襲《おそ》ふのも知《し》らずに眠入《ねい》つた。 夜《よ》は更《ふ》けて電車《でんしや》も絕《た》え、街上《がいじやう》は靜《しづ》かに、雨《あめ》は或《あるひ》は急《きふ》に或《あるひ》は緩《ゆる》く降《ふ》りつゞけてゐる。香川《かゞは》は酒《さけ》の醉《よ》ひに若《わか》い血汐《ちしほ》の心《こゝろ》よくめぐつて、夢《ゆめ》も見《み》ず、片足《かたあし》を投《な》げ出《だ》して、太《ふと》い緩《ゆる》い息《いき》をして眠《ねむ》つてゐる。帆田《ほだ》は一|時《じ》忘《わす》れてゐた疼痛《いたみ》の又《また》も起《おこ》つては、屡々《しば〳〵》夢《ゆめ》を破《やぶ》られて呻吟《うめい》てゐる。 工場《こうぢやう》の奧《おく》の電燈《でんとう》も消《け》された。暗《くら》い中《なか》に老人《らうじん》の低《ひく》い呻吟《うめき》と香川《かゞは》の高《たか》い鼾鼻《いびき》とが漂《たゞよ》うてゐた。その間《あひだ》に階下《した》では輪轉機《りんてんき》の音《おと》、新聞《しんぶん》を積出《つみだ》す音《おと》がしてゐる。 空《むな》しき編輯局《へんしうきよく》には時計《とけい》が一|時《じ》を打《う》ち、二|時《じ》を打《う》つ。三|時《じ》を打《う》たんとした頃《ころ》、香川《かゞは》は口《くち》をもが〳〵させ唾《つばき》を呑《の》んでゐたが、やがて鼻《はな》を鳴《な》らして深《ふか》く息《いき》を吸《す》ひ、目《め》を細《ほそ》くして寢返《ねが》へりをした。喉《のど》が乾《かは》く。 で、椅子《いす》を脫《ぬ》け出《で》て、柱《はしら》の釘《くぎ》に釣《つる》した洋服《やうふく》の上衣《うはぎ》を裸身《はだかみ》に纏《まと》ひ、階下《した》へ驅《か》け下《お》りて水道《すゐだう》の水《みづ》をガブ呑《の》みして歸《かへ》つた。 此頃《このごろ》は癖《くせ》になつて今《いま》時分《じぶん》に目《め》が醒《さ》める。今夜《こんや》は酒《さけ》の勢《いきほ》ひで睡過《ねす》ごしたが、それでもまだ短《みじ》かい夜《よる》の明《あ》けんともせぬ。空氣《くうき》は寢《ね》た間《ま》に冷《ひ》えて來《き》て、身體《からだ》がゾク〳〵する。彼《か》れは嚔《くさめ》をした。椅子《いす》の足《あし》にからまつてる夜具《やぐ》を引上《ひきあ》げて首《くび》まで被《かぶ》つた。 天井《てんじやう》の黃《きい》ろい紙《かみ》が垂《た》れ、連日《れんじつ》の雨《あめ》に黴臭《かびくさ》い香《にほ》ひが、締切《しめき》つた居室《ゐま》の中《うち》に何處《どこ》からともなく湧《わ》き出《で》て來《く》る。 彼《か》れの目《め》は冴《さ》えて再《ふたゝ》び睡《ね》つかれぬ。筋肉《きんにく》の逞《たく》ましい腕《うで》に力《ちから》を籠《こ》め、脊延《せの》びをして、 「おれも何時《いつ》になつたら滿足《まんぞく》に疊《たゝみ》の上《うへ》に寢《ね》られることか」と思《おも》つた。グツと夜明《よあけ》まで睡《ね》れゝばよいが、暗《くら》い中《うち》に目《め》が開《あ》くと、屹度《きつと》この惡念《あくねん》に取《とり》つかれる。殊《こと》に醉《よ》つて騷《さわ》いだ晚《ばん》はひどい。 しかし醉《よ》つた間《あひだ》に何《なに》を唄《うた》つたか、何《なに》を喋舌《しやべ》つたか、何《ど》んなにして女《をんな》と戯《たはむ》れたか、彼《か》れの頭《あたま》にはハツキリ殘《のこ》つてゐない。只《たゞ》ボンヤリ「面白《おもしろ》かつた」と云《い》ふ感《かん》じが浮《うか》んで來《く》る。それにつれて、「明日《あす》の辨當代《べんたうだい》もなくて、こんな事《こと》をしてゐたつて」と云《い》ふ感《かん》じが激《はげ》しく胸《むね》に響《ひゞ》ゐて來《く》る。 彼《か》れは又《また》强《つよ》い嚔《くさめ》をした。それが淋《さび》しい居間《ゐま》に鳴《な》り渡《わた》る。 「まだ夜《よ》の明《あ》けるに間《ま》があらう」と、頭《あたま》を持上《もた》げて玻璃《ガラス》越《ご》しに廊下《らうか》を見《み》ると、工場《こうば》の入口《いりくち》からコソ〳〵と草履《ざうり》の足音《あしおと》が聞《きこ》える。外《そと》は雨《あめ》で暗《くら》い、足音《あしおと》は次第《しだい》に近《ちか》づいて寢室《しんしつ》の側《そば》まで來《き》た、「今《いま》時分《じぶん》誰《だ》れだらう」と疑《うたが》つて、薄氣味《うすきみ》惡《わる》く思《おも》つて見《み》てゐると、薄光《うすびかり》に幽靈《ゆうれい》のやうな帆田《ほだ》の半身《はんしん》が現《あら》はれた。幽《かす》かに呻吟《うめ》きながら階子段《はしごだん》の手摺《てすり》に凭《もた》れた。 香川《かゞは》はこの痩《や》せさらぼへる老人《らうじん》が、自分《じぶん》と同《おな》じように一人《ひとり》ぼつちで、奧《おく》で寢《ね》てゐることを思《おも》ひ出《だ》した。で、ドアを開《あ》けて首《くび》を出《だ》し、 「お爺《ぢい》さん、何《なに》をしてる」と、陽氣《やうき》な聲《こゑ》で問《と》うた。 「腹《はら》が痛《いた》くつて」と、帆田《ほだ》は牡蠣《かき》のやうな目《め》を向《む》けて、虫《むし》の音《ね》で云《い》ふ。 「そうか困《こま》つたね、醫者《いしや》でも呼《よ》んで來《こ》ようか」 「なあにそれにや及《およ》ばん」 帆田《ほだ》は匐《は》ふやうにして階下《した》へ下《お》りた。厠《かはや》へでも行《い》つたのだらう。 香川《かゞは》は階子段《はしごだん》の隅《すみ》の玻璃《ガラス》窓《まど》を開《あ》けて冷《つめ》たい空氣《くうき》を吸《す》うた。暗澹《あんたん》たる雲《くも》は低《ひく》い屋根《やね》から屋根《やね》へ垂《た》れて、曙光《しよくわう》はまだ堰《せ》き止《と》められてゐる。 彼《か》れは再《ふたゝ》び寢床《ねどこ》へ歸《かへ》つたが、帆田《ほだ》老人《らうじん》の事《こと》が氣《き》になる。あれで金《かね》ばかり溜《た》めてゝ何《なに》をするんだらう。家《いへ》もなく、病氣《びやうき》の看護《かんご》もされず、紙幣《さつ》を抱《だ》いて死《し》んでしまう。それつきりだ。それ以上《いじやう》になすべきこともないのだ。しかし自分《じぶん》は歲《とし》も若《わか》い、身體《からだ》も强《つよ》い、爲《な》すべきことが多《おほ》い。爲《な》すべき時《とき》に何《なに》もせず、徒《いたづ》らに帆田《ほだ》のやうな骸骨《がいこつ》になるのは無念《むねん》だ。「あゝ金《かね》が欲《ほ》しい」帆田《ほだ》には無用《むよう》の金《かね》だが、自分《じぶん》には生《い》きて役《やく》に立《た》つ。隣《となり》同士《どうし》で寢《ね》てゐて、老人《らうじん》は何時《いつ》死《し》ぬかも分《わか》らぬ。財產《ざいさん》の相續人《さうぞくにん》もなく、財產《ざいさん》の高《たか》も知《し》つた人《ひと》はない。 で、香川《かゞは》は夜具《やぐ》で顏《かほ》を蔽《おほ》うて、それからそれと雜念《ざつねん》に襲《おそ》はれてゐたが、周圍《まはり》の騷々《さう〴〵》しくなるに氣付《きづ》いて、首《くび》を出《だ》すと、何時《いつ》の間《ま》にか夜《よ》は明《あ》けて、小使《こづかひ》が掃除《さうじ》をしてゐる。 香川《かゞは》の雜念《ざつねん》は搔《か》き消《け》す如《ごと》く消《き》えてしまう。で、元氣《げんき》よく起《お》きて、洋服《やうふく》を着《つ》け、顏《かほ》を洗《あら》つて後《のち》、髯《ひげ》を捻《ひね》りながら、無心《むしん》に社内《しやない》をぶら[#「ぶら」に傍点]ついてゐると、應接室《おうせつしつ》に帆田《ほだ》の後姿《うしろすがた》が見《み》える。朝餐《あさめし》を食《く》ひながら、前《まへ》に算盤《そろばん》を置《お》いて帳簿《ちやうぼ》を調《しら》べてゐる。 香川《かゞは》が後《うしろ》から近《ちか》づくと、老人《らうじん》は驚《おどろ》いたやうに胸《むね》に手《て》を當《あ》てゝ振向《むりむ》いた。 「もう病氣《びやうき》はよくなつたのかね」 「もう大丈夫《だいじやうぶ》だ」 「でも大事《だいじ》にせんといかんよ、一|日《にち》位《くらゐ》休《やす》んでもいゝだらう」 「はゝゝ、休《やす》む譯《わけ》にも行《い》かんでな」 「僕《ぼく》が代理《だいり》で廻《まは》らうか、僕《ぼく》は君《きみ》に肖《あや》かつて金持《かねもち》になりたいから」 帆田《ほだ》は鹽餡《しほあん》の大福《だいふく》を豆粒《まめつぶ》程《ほど》に千切《ちぎ》つては口《くち》に入《い》れて、相手《あひて》に耳《みゝ》を貸《か》さず、震《ふる》へる指先《ゆびさき》で算盤《そろばん》を彈《はじ》いてゐた。 「君《きみ》は僕《ぼく》を養子《やうし》にして吳《く》れんかね、二人《ふたり》で家《うち》を持《も》つて稼《かせ》いだ方《はう》がいゝぢやないか、僕《ぼく》は親爺《おやぢ》がないんだから、君《きみ》を實《じつ》の親《おや》のやうにして孝行《かう〳〵》するよ、ねえ、その方《はう》がいいぢやないか」と、香川《かゞは》は笑《わら》ひながら五月蠅《うるさ》く云《い》ふので、帆田《ほだ》は物《もの》をも云《い》はず、帳簿《ちやうぼ》を抱《いだ》いて應接所《おうせつしよ》を出《で》て行《い》つた。 一|時間《じかん》後《ご》には帆田《ほだ》は草鞋《わらじ》脚絆《きやはん》の身裝《みづくり》をして、集金《しふきん》に出《で》かけた。二|時間《じかん》後《ご》に香川《かゞは》は車《くるま》に乗《の》つて政黨《せいとう》本部《ほんぶ》や官省《くわんしやう》を廻《まは》つた。 この日《ひ》帆田《ほだ》は一手柄《ひとてがら》をしたつもりで新聞《しんぶん》の材料《たね》を持《も》つて來《き》た。云《い》ふ事《こと》がボンヤリしてよく要點《えうてん》を得《え》ないが、何《なん》でも本鄉《ほんがう》の弓町《ゆみちやう》邊《へん》で人殺《ひとごろ》しがあつたのださうだ。被害者《ひがいしや》は高利貸《かうりかし》、殺害《さつがい》の原因《げんいん》は借金《しやくきん》を催促《さいそく》したからだと云《い》ふ。 「老爺《おぢい》さん、又《また》夢《ゆめ》でも見《み》たのだらう」 「先月《せんげつ》も公園《こうえん》で首《くび》くゝりがあつたつて知《し》らせて來《き》たが、あれでも社員《しやゐん》と云《い》ふ意識《いしき》があるからだらう。態々《わざ〳〵》知《し》らせに來《く》るだけ感心《かんしん》だ」 「首《くび》くゝりか人殺《ひとごろ》しか、何時《いつ》かも下《くだ》らない小泥棒《こどろぼう》の噂《うはさ》を持《も》つて來《き》た。老爺《おぢい》碌《ろく》な事《こと》を見《み》ないんだね」 と、三|面《めん》の連中《れんちう》はあまり取合《とりあ》はず、探訪《たんぼう》をも特派《とくは》しなかつた。 帆田《ほだ》は顏《かほ》と足《あし》とを水道《すゐだう》で洗《あら》つて、自分《じぶん》の居間《ゐま》へ上《あが》つた。擦《す》れちがひに歸《かへ》つて行《ゆ》く職工《しよくこう》、入《はい》つて來《く》る職工《しよくこう》、階子段《はしごだん》は傘《かさ》の雫《しづく》でズブ濡《ぬ》れになつてゐる。日《ひ》は早《はや》く暮《く》れて、電燈《でんとう》はジメ〳〵した疊《たゝみ》を照《て》らしてゐる。老人《らうじん》は例《れい》によつて帳簿《ちやうぼ》調《しら》べをしようと思《おも》つたが、疲勞《ひらう》と腹《はら》の痛《いた》みに弱《よわ》つて、晩餐《ばんめし》も食《く》はずに寢床《ねどこ》へ入《はい》つた。何《なん》となく寢苦《ねぐる》しい。それに晝《ひる》の人殺《ひとごろ》し騷《さわ》ぎが折々《をり〳〵》思《おも》ひ出《だ》したように胸《むね》に浮《うか》ぶ。 で、長《なが》い間《あひだ》眠《ね》つ醒《さ》めつした揚句《あげく》、眞夜中《まよなか》頃《ごろ》人氣《ひとけ》のないのを見《み》て、藥湯《やくとう》を飮《の》み、唯一《ゆゐいつ》の樂《たのし》みの財產《ざいさん》調《しら》べを初《はじ》めた。 「老爺《おやぢ》さん、淋《さび》しいだらう」と、香川《かゞは》は突如《だしぬけ》に入《はい》つて來《き》た。酒《さけ》の息《いき》を吐《は》いてゐる。帆田《ほだ》はモグ〳〵口《くち》の中《なか》で云《い》つたが、それは香川《かゞは》には聞《きこ》えない。 「いよ〳〵工場《こうば》も建增《たてま》しをすることに决《きま》つたそうだから、この部屋《へや》も壞《こは》されるのだらう。そしたら老爺《おぢい》さんも何處《どこ》かへ立退《たちの》かなくちやなるまい、どうするつもりかね」 と、詰責《きつせき》するような調子《てうし》で問《と》うたが、老人《らうじん》は何《なん》とも答《こた》へない。心《こゝろ》では只《たゞ》自分《じぶん》の樂《たのし》みの妨害者《ぼうがいしや》を怒《いか》つてゐた。工場《こうぢやう》建增《たてま》しの噂《うはさ》は時々《とき〴〵》老人《らうじん》の耳《みゝ》にも入《はい》つて來《く》るが、それが別段《べつだん》刺激《しげき》をも與《あた》へない。過去《くわこ》と將來《しやうらい》はこの老人《らうじん》の衰《おとろ》へた頭《あたま》を惱《なや》ますに足《た》らぬのである。 で、香川《かゞは》の去《さ》つた後《のち》は、何《なに》か不安《ふあん》らしく、有合《ありあは》せの板片《いたぎれ》で入口《いりくち》を蔽《おほ》うて眠《ねむり》に就《つ》いた。翌朝《よくてう》も雨《あめ》で、顏《かほ》を見《み》ると人々《ひと〴〵》は皆《みな》いやな天氣《てんき》を歎《たん》じてゐたが、帆田《ほだ》は獨《ひと》り默《だま》つて仕事《しごと》に出《で》た。衰弱《すゐじやく》せる上《うへ》に氣候《きこう》の不順《ふじゆん》に害《そこな》はれて、顏《かほ》は死人《しにん》のようであるが、誰《た》れも怪《あや》しむ者《もの》はなく、氣遣《きづか》つてやる者《もの》もない。 香川《かゞは》は尙《なほ》夜中《よなか》に目《め》の醒《さ》める癖《くせ》が止《や》まぬ。醒《さ》めると雜念《ざつねん》が起《おこ》る。雜念《ざつねん》の中《うち》には帆田《ほだ》老人《らうじん》が織《お》り込《こ》まれる。かの無用《むよう》の財產《ざいさん》は自分《じぶん》の手《て》にあらば幸福《こうふく》に使《つか》へるのだとの思《おも》ひは夜々《よゝ》に嵩《かさ》まつて來《く》る。男《をとこ》一|匹《ぴき》世《よ》の中《なか》に活躍《くわつやく》するの地步《ちほ》もつくれるとも思《おも》はれる。そして香川《かゞは》は老人《らうじん》の牡蠣《かき》のやうな凄《すご》い眼《め》を暗中《あんちう》にも思《おも》ひ浮《うか》べるようになつた。二人《ふたり》は何《なん》となく關係《くわんけい》があるやうな氣《き》がする。宿世《しゆくせ》の緣《ゑん》が成立《なりた》つてゐるやうな氣《き》がするのであつた。 降《ふ》るか曇《くも》るかの鬱陶《うつとう》しい梅雨期《ばいうき》がつゞく。その中《うち》に老人《らうじん》は衰弱《すゐじやく》を重《かさ》ねて、步《あゆ》むにも堪《た》へかね、或《ある》晚《ばん》階子段《はしごだん》で倒《たふ》れたなり、遂《つひ》に床《とこ》に就《つ》いて起《お》き得《え》なくなつた。 小使《こづかひ》に粥《かゆ》を煑《に》て貰《もら》ふばかりで、誰《だ》れにも顧《かへり》みられず看護《かんご》されず、殆《ほど》んど存在《そんざい》をも認《みと》められずに、幽《かす》かな呻吟《うめき》と昏睡《こんすゐ》とを續《つゞ》けてゐた。 只《たゞ》香川《かゞは》のみは半《なか》ば好奇心《かうきしん》から、時々《とき〴〵》見舞《みま》つてやるが、老人《らうじん》は不快《ふくわい》な目《め》を向《む》けて、少《すこ》しも喜《よろこ》ぶ風《ふう》はない。恨《うら》めしいやうな恐《おそ》ろしいやうな顏《かほ》をして、側《そば》へ寄《よ》られるのを厭《いや》がり、痩腕《やせうで》で防禦《ばうぎよ》するやうな身構《みがま》へをすることもある。或《ある》晚《ばん》は夢心地《ゆめごゝち》で、「この野郞《やらう》まだおれを意地《いぢ》めに來《く》るか、もう親《おや》でないぞ、子《こ》とは思《おも》はんぞ」と叫《さけ》んで、尙《なほ》不明瞭《ふめいれう》な聲《こゑ》で獨言《ひとりごと》を云《い》つた。香川《かゞは》は理由《わけ》は分《わか》らないが、何《なん》となく恐《おそ》ろしくなつて逃《に》げて歸《かへ》つた。そして老人《らうじん》は職工《しよくこう》などが幾《いく》ら周圍《まはり》で立騷《たちさわ》がうと、自分《じぶん》を冷《ひや》かしてゐやうと、無感《むかん》無覺《むかく》でゐるが、香川《かゞは》を見《み》ると面相《めんさう》が變《かは》つて來《く》る。 「何故《なぜ》だらう」と、香川《かゞは》は怪《あや》しんで宇野《うの》に話《はな》した。 「何《なに》か惡《わる》いことをしたんぢやないか、金《かね》でも借《か》りたんぢやないか」 「あの老爺《ぢいさん》が何《なん》で人《ひと》に金《かね》を貸《か》すものか、それに僕《ぼく》だけが多少《たせう》同情《どうじやう》してるんだから、感謝《かんしや》すべき筈《はず》だ」 「君《きみ》の顏《かほ》が老爺《ぢいさん》の息子《むすこ》にでも似《に》てるんぢやないか」 「なあに彼奴《あいつ》の子《こ》は身體《からだ》が痩《や》せてゝ、親爺《おやぢ》のやうな恐《こわ》い目《め》をしてるそうだ」 「兎《と》に角《かく》君《きみ》も酷《ひど》い奴《やつ》に見込《みこ》まれたものだね」 「氣味《きみ》の惡《わる》い老耄《おいぼれ》だよ」 香川《かゞは》はその夜《よ》から目《め》が醒《さ》めると、暗中《あんちゆう》にかの凄《すご》い目《め》を見《み》て震《ふる》えることがある。で、二三|日《にち》すると遂《つひ》に堪《た》へかねて、詮方《せんかた》なく外《ほか》へ轉居《てんきよ》した。 暫《しば》らく老人《らうじん》の事《こと》を忘《わす》れて、金《かね》の苦面《くめん》に惱《なや》んでゐたが、或《ある》日《ひ》不圖《ふと》社《しや》の前《まへ》で彼《か》れに出會《であ》つた。病氣《びやうき》は治《なほ》つたのか治《なほ》らぬのか、尋《たづ》ねても、齒《は》の拔《ぬ》けた口《くち》をもぐ〳〵させた許《ばか》りで分《わか》らなかつたが、風呂敷《ふろしき》包《づゝみ》を脊負《せお》うて、フラつく足《あし》で出《で》て行《い》つた。 香川《かゞは》は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて顏《かほ》を脊《そむ》けた。  世間並  (一) 私《わたし》は小《こ》半時間《はんじかん》東片町《ひがしかたまち》の加瀨《かせ》の宿《やど》を捜《さが》した。彼《か》れとは今年《ことし》になつて、一|度《ど》も相會《あひあ》ふの機會《きくわい》がなかつた。又《また》强《し》いて會《あ》ひたくもなかつた。所《ところ》が昨夜《ゆふべ》情熱家《じやうねつか》の豐島《とよしま》が私《わたし》の家《うち》へ來《き》て、加瀨《かせ》の戀《こひ》を語《かた》つて憤慨《ふんがい》した。彼《か》れの戀《こひ》は熱烈《ねつれつ》でない沈痛《ちんつう》でない、浮薄《ふはく》だ、キザだ、見得坊《みえばう》だ、柔弱《じうじやく》だと罵倒《ばたふ》を續《つゞ》け、終《しまひ》にお定《きま》りのバイロン、ハイネを叫《さけ》んで歸《かへ》つた。加瀨《かせ》の戀《こひ》々々々々、私《わたし》の耳《みゝ》には多少《たせう》面白《おもしろ》く響《ひゞ》く。それで急《きふ》に訪《たづ》ねて見《み》たくなり、雨《あめ》をも厭《いと》はず大久保《おほくぼ》から遙々《はる〴〵》來《く》るには來《き》たが、さて容易《ようい》に家《うち》が見《み》つからぬ。先頃《さきごろ》久振《ひさしぶ》りで、引越《ひつこし》の通知《つうち》を兼《か》ねて手紙《てがみ》を吳《く》れたけれど、彼《か》れに用事《ようじ》はないと、そのまゝ反古《ほご》にして仕舞《しま》つたので、番地《ばんち》は分《わか》らぬ。○○方《かた》と云《い》ふ○○もはつきり[#「はつきり」に傍点]記憶《きおく》に留《とゞ》まつてゐない。只《たゞ》小山《こやま》とか戶山《とやま》とか山《やま》の字《じ》のあつたことは覺《おぼ》えて居《ゐ》る。それから 「僕《ぼく》の宿《やど》を尋《たづ》ねんとならば、垣根《かきね》に沿《そ》える椿《つばき》の花《はな》を目印《めじるし》となさるべく候《そろ》」と、あの男《をとこ》相應《さうおう》の文句《もんく》を書《か》き添《そ》へてあつたことは覺《おぼ》えてゐる。 私《わたし》は幾《いく》つも路次《ろじ》を通《とほ》つた。傘《かさ》の必要《ひつえう》もない程《ほど》の春雨《はるさめ》が降《ふ》つてゐる。下駄直《げたなほ》しの皷《つゞみ》の音《おと》、煑豆屋《にまめや》の鈴《すゞ》の音《おと》が、ゆるやかな空《そら》に響《ひゞ》いてゐる。私《わたし》は無理《むり》に焦《あせ》つて尋《たづ》ねる氣《き》もなく、「會《あ》つたつて格別《かくべつ》話《はな》しもないんだもの」と、通《とほ》りへ突拔《つきぬ》けやうとすると、往來《わうらい》安全《あんぜん》の瓦斯燈《ぐわすとう》の向《むか》うに眞紅《しんく》の椿《つばき》の花《はな》が鮮《あざや》かに目《め》に映《うつ》つた。果《はた》して小山《こやま》といふ門札《もんさつ》が見《み》える。狭《せま》い門《もん》が開《あ》いて、塗《ぬ》りの新《あたら》しい車《くるま》が道《みち》を塞《ふさ》いで、玄關《げんくわん》先《さき》に橫《よこたは》つてゐる。 案内《あんない》を乞《こ》ふ迄《まで》もなく、開《あ》け放《はな》した座敷《ざしき》に加瀨《かせ》の立姿《たちすがた》が見《み》えた。光《ひか》るやうなフロツクコートを着《き》て、長《なが》い髮《かみ》を奇麗《きれい》に分《わ》け、頻《しき》りに衣紋《いもん》を正《たゞ》してゐる。私《わたし》は彼《か》れを見違《みちが》へる程《ほど》であつた。 「さあ上《あが》り玉《たま》へ」と、彼《か》れは靜《しづか》に云《い》つて、色《いろ》の白《しろ》くて目鼻《めはな》の尋常《じんじやう》な、しかし皮膚《ひふ》の硬《こわば》つた顏《かほ》に幽《かす》かに微笑《びせう》を浮《うか》べた。 「出掛《か》けるのか」と、私《わたし》は座敷《ざしき》へ通《とほ》つて、中折《なかを》れを被《かぶ》つたまゝ、椅子《ゐす》に腰《こし》を掛《か》けた。 「ウン」と加瀨《かせ》は輕《かろ》く首肯《うなづ》く、小《ちい》さい丸髷《まるまげ》を結《ゆ》つた、背《せ》の低《ひく》い痩身《やせぎす》の、もう老婆《ばあさん》と云《い》つてもよささうな女《をんな》が、緣側《えんがは》で山高《やまたか》帽子《ぼうし》の塵《ちり》を拂《はら》つてゐたが、私《わたし》を見《み》ると、「オヤ被入《いらつ》しやいまし」と、もう二三|度《ど》も會《あ》つた人《ひと》のやうに馴々《なれ〳〵》しい顏《かほ》をした。私《わたし》はぢろり[#「ぢろり」に傍点]と老婆《ばあさん》を見《み》たばかりで、あまり構《かま》ひつけず、「何處《どこ》へ行《ゆ》くんだい」と、再《ふたゝ》び加瀨《かせ》に聞《き》いた。 「菊坂《きくざか》まで、直《す》ぐに歸《かへ》つて來《く》るから、待《ま》つてゐ玉《たま》へ、折角《せつかく》來《き》て吳《く》れたのに失敬《しつけい》だが、約束《やくそく》してあつて是非《ぜひ》行《ゆ》かなくちやならんのだ」 「さうか、ぢや行《い》つて來《き》玉《たま》へ、僕《ぼく》は此處《こゝ》で晝寢《ひるね》でもしやう」 加瀨《かせ》は老婆《ばあさん》の手《て》から帽子《ぼうし》を執《と》つて、「失敬《しつけい》」とゆるく[#「ゆるく」に傍点]云《い》つたきり、姿勢《しせい》正《たゞ》しく澄《すま》した足《あし》取《ど》りで玄關《げんくわん》へ下《お》りた。老婆《ばあさん》は見送《みおく》つてゐる。 私《わたし》は腰掛《こしか》けたまゝ動《うご》かなかつた。居室《ゐま》はフロツクコートの住人《じうにん》には不似合《ふにあひ》で、天井《てんじやう》は低《ひく》く疊《たゝみ》は茶色《ちやいろ》になり、床《とこ》の間《ま》は漸《やうや》く花瓶《くわびん》を載《の》せるだけの深《ふか》さしかない。しかし庭《には》は割合《わりあひ》に廣《ひろ》く、數種《すうしゆ》の椿《つばき》の外《ほか》、几帳面《きちやうめん》に沈丁花《ぢんちやうくわ》が植《う》はつてゐて、濃《こ》い香《にほひ》を送《おく》つて來《く》る。春日楓《かすがもみぢ》の鉢植《はちうゑ》も五ツ六ツ並《なら》んでゐる。家《いへ》といひ庭《には》といひ、先《ま》づ大久保《おほくぼ》の私《わたし》の家《うち》と大差《たいさ》がないが、加瀨《かせ》の財產《ざいさん》は以前《いぜん》よりも遙《はる》かに殖《ふ》ゑて、舊態《きうたい》依然《ゝぜん》たる私《わたし》とは比較《ひかく》にならぬ。衣紋竿《ゑもんざを》には糸織《いとおり》であらうか、いやに光《ひか》つた着物《きもの》が掛《か》けてある。鼠色《ねづみいろ》の縮緬《ちりめん》の襦袢《じゆばん》の袖口《そでくち》も見《み》える。ふつくり[#「ふつくり」に傍点]した座蒲團《ざぶとん》も四五|枚《まい》重《かさ》ねてある。讀《よ》めぬ筈《はず》の英書《えいしよ》が二《ふた》つ、本箱《ほんばこ》にギツシリ詰《つ》め込《こ》まれ、テーブルの上《うへ》には金蒔繪《きんまきゑ》の卷煙草《まきたばこ》入《いれ》、毛糸《けいと》のランプ敷《しき》、鋏《はさみ》や耳搔《みゝかき》の小道具《こだうぐ》まで、ちやんと揃《そろ》つてゐる。 老婆《ばあさん》は茶《ちや》を汲《く》んでテーブルに置《お》き、散《ち》らかつた白縮緬《しろちりめん》の兵子帶《へこおび》、キヤラコの紺足袋《こんたび》などを片付《かたづ》けながら、「每日《まいにち》いけないお天氣《てんき》で御座《ござ》います」とか、「上野《うへの》はもう咲《さ》いたで御座《ござ》いませう」とか、頻《しき》りに話《はなし》をしかける。 五月蠅《うるさ》いと思《おも》つたが、返事《へんじ》をせぬ譯《わけ》にも行《ゆ》かず、よい加減《かげん》にあしら[#「あしら」に傍点]つてゐると、老婆《ばあさん》はビスケツトを持《も》つて來《き》て、椅子《ゐす》の前《まへ》に坐《すわ》り込《こ》んだ。私《わたし》は餘儀《よぎ》なく相槌《あひづち》を打《う》ちながら、加瀨《かせ》の變遷《へんせん》を思《おも》つた。老婆《ばあさん》の話《はなし》と自分《じぶん》の追想《つゐさう》とがごつちやになつて、加瀨《かせ》の面影《おもかげ》が頭《あたま》の中《なか》に動搖《どうえう》する。 彼《か》れが上京《じやうきやう》したのは一昨年《おとゝし》の春《はる》。同鄉《どうきやう》の緣《えん》で暫《しばら》く私《わたし》の家《いへ》に同居《どうきよ》してゐた。普通《ふつう》の學資《がくし》位《ぐらゐ》出《だ》せぬ身分《みぶん》でもないから、何處《どこ》かへ入學《にふがく》するのだらうと思《おも》つたら、少《すこ》しもそんな希望《きばう》はない。そして私《わたし》の知《し》らぬ間《ま》に先輩《せんぱい》を歷訪《れきはう》して、その紹介《しやうかい》で或《ある》女學《ぢよがく》雜誌《ざつし》の記者《きしや》となつた。訪問《はうもん》には洋服《やうふく》でなくては不便《ふべん》だと云《い》つて、直《す》ぐに有合《ありあは》せの三|圓《ゑん》足《た》らずの金《かね》で、白《しろ》い小倉《こくら》の夏服《なつふく》を造《つく》つた。私《わたし》はさんざ[#「さんざ」に傍点]冷《ひや》かしてやつた。しかし彼《か》れはにやり[#「にやり」に傍点]〳〵笑《わら》ふばかりで、何《なん》とも思《おも》はぬ。職業《しよくげふ》を得《え》ると同時《どうじ》に、最早《もはや》一|人前《にんまへ》になつたつもりか、私《わたし》の家《うち》を出《で》て植木屋《うゑきや》の離座敷《はなれ》を借《か》りた。持物《もちもの》は月々《つき〳〵》に殖《ふ》ゑて行《ゆ》く。國訛《くになま》りの目醒《めざ》ましく消《き》えると共《とも》に、身體《からだ》の泥《どろ》も次第《しだい》に拔《ぬ》けて行《ゆ》くやうだ。夏《なつ》の末《すゑ》には絽《ろ》の襦袢《じゆばん》を着《き》て柾目《まさ》の下駄《げた》を穿《は》く。私《わたし》は彼《か》れよりも五歲《いつゝ》の年長者《ねんぢやうじや》で、十|年《ねん》も東京《とうきやう》に住《す》まつてゐるが、身裝《みなり》は彼《か》れが半歲《はんとし》の進步《しんぽ》にも劣《おと》つてゐる。で、會《あ》ふと目顏《めかほ》や口先《くちさき》で揶揄《からか》つてやる。「いくら鍍金《めつき》したつて肥桶《こえたご》は肥桶《こえたご》だぜ」と云《い》ふと、「僕《ぼく》は虛榮《みえ》を張《は》るんぢやない、自分《じぶん》に氣持《きもち》がいゝからだ」と落付《おちつ》いて答《こた》へる。雜誌《ざつし》社《しや》の者《もの》に聞《き》くと、この男《をとこ》は社中《しやちう》第《だい》一の勉强《べんきやう》家《か》で、器用《きよう》でもあり主任《しゆにん》の信用《しんよう》も厚《あつ》いさうだ。月給《げつきう》もずん〳〵昇《のぼ》つて行《ゆ》くらしい。彼《か》れにはコツ〳〵六《むつ》ケ敷《しい》敎科書《けうくわしよ》いぢりをするよりは、雜誌《ざつし》記者《きしや》で飛廻《とびまは》る方《はう》が面白《おもしろ》いのだ。成程《なるほど》生活《せいくわつ》のためにいや〳〵[#「いや〳〵」に傍点]勤《つと》めるのとは異《ちが》つて、足《た》らねば國《くに》から送《おく》らされる身分《みぶん》の、二十二三の靑年《せいねん》の雜誌《ざつし》道樂《だうらく》なら面白《おもしろ》からう。そして社《しや》の者《もの》は「加瀨《かせ》さんは大變《たいへん》大人《おとな》振《ぶ》つた人《ひと》ですね、行《おこなひ》も謹直《きんちよく》だし、非常《ひじやう》にしつかりしてる」と褒《ほ》めるが、私《わたし》の目《め》には矢張《やはり》歲《とし》相當《さうたう》のお坊《ぼ》つちやんだ。無口《むくち》でマセてはゐるが、私《わたし》には小憎《こぞ》ツ子《こ》と見《み》える。甘《あま》い奴《やつ》と見《み》える。實際《じつさい》はさうでなくても、私《わたし》自身《ゞしん》に無理《むり》にさう思《おも》つて見《み》る。向《むか》うから親《した》しんで來《き》ても、此方《こつち》からは何《ど》うしても打解《うちと》ける氣《き》になれぬ。これが二三|年來《ねんらい》の私《わたし》の性分《しやうぶん》で、又《また》一|種《しゆ》憐《あは》れなプライドとなつてゐるのだ。 その後《ご》彼《か》れは越前堀《えちぜんぼり》へ移《うつ》つた。江戶《えど》趣味《しゆみ》硏究《けんきう》のためか、綠雨《りよくう》の文集《ぶんしふ》を買集《かひあつ》めて熟讀《じゆくどく》しては氣《き》に入《い》つた文句《もんく》に線《せん》を引《ひ》き圈點《けんてん》を付《ふ》し、餘白《よはく》には頻《しき》りに感歎《かんたん》の辭《じ》を書《か》き散《ち》らしてゐたのもこの時《とき》。女學《ぢよがく》雜誌《ざつし》の隅《すみ》の方《はう》に三四|行《ぎやう》づゝの皮肉《ひにく》の書《か》き出《だ》したのもこの時《とき》。私《わたし》に當《あ》てこすつたつもりか、或《ある》號《がう》には「我《われ》を貴族《きぞく》主義《しゆぎ》なりと云《い》ふものあり、我《われ》を平民《へいみん》主義《しゆぎ》なりと云《い》ふものあり、或《ある》時《とき》は埃及《えじぷと》煙草《たばこ》を吸《す》ひ、或《ある》時《とき》は朝日《あさひ》を吸《す》ふを哂《わら》ふものあり、彼等《かれら》は變通《へんつう》の道《みち》を知《し》らぬ徒輩《しれもの》なり、晴天《せいてん》にも足駄《あしだ》を穿《は》いて步《あゆ》む人《ひと》なり、我《われ》は月《つき》の初《はじ》めには辨當《べんたう》に鰻《うなぎ》や牛肉《ぎうにく》を食《く》ひ、月《つき》の終《をは》りには饂飩《うどん》か麺麭《パン》にて濟《す》ます、この趣《おもむき》拘泥派《こうでいは》の知《し》る所《ところ》にあらず」と書《か》いたが、これなどが彼《か》れの警句中《けいくちう》の壓卷《あつくわん》であつて、隨分《ずゐぶん》一人《ひとり》合點《がてん》の無意味《むいみ》の者《もの》が多《おほ》かつた。 しかし越前堀《えちぜんぼり》移轉《ゐてん》以後《いご》はあまり往來《わうらい》しない。學校《がくかう》生活《せいくわつ》をせぬ彼《か》れは、眞味《しんみ》の友人《いうじん》の少《すくな》いので、時々《とき〴〵》は私《わたし》に向《むか》つて人懷《ひとなつ》かしい手紙《てがみ》を送《おく》つて來《く》るが、私《わたし》はあまり構《かま》ひつけぬ。で、暫《しば》らく彼《か》れの發展《はつてん》を知《し》らなかつた。  (二) 「加瀨《かせ》さんは本當《ほんと》にお柔《やさ》しいんで御座《ござ》いますね、それにお若《わか》い癖《くせ》によく何《なに》にでも氣《き》がお付《つ》きなさいますし」と、老婆《ばあさん》は指先《ゆびさき》で耳《みゝ》の後《うしろ》を撫《な》で〳〵、世間《せけん》話《ばなし》から加瀨《かせ》の噂《うはさ》に移《うつ》つた。 「暫《しば》らく會《あ》はん間《うち》に非常《ひじやう》にハイカラになつた」と、私《わたし》は獨言《ひとりごと》のやうに云《い》つて、「加瀨《かせ》は粧《めか》してばかりゐるんでせう」と、笑《わら》ひ〳〵聞《き》いた。 「え、そりや大變《たいへん》で御座《ござ》いますよ」と、老婆《ばあさん》は少《すこ》し乗出《のりだ》し、「油《あぶら》をつけたり、チツクで撫《な》でたり、每朝《まいあさ》お出掛《でか》けまで一《ひと》仕事《しごと》で御座《ござ》いますわ、それに何《なん》であんなに髮《かみ》をおのばしなさるんでせう、さぞお五月蠅《うるさい》でせうのに」と、女《をんな》に有勝《ありがち》な皮肉《ひにく》な口付《くちつき》で云《い》つた。 「ハイカラになるのも容易《ようい》ぢやありませんね、一|體《たい》加瀨《かせ》は誰《だ》れの紹介《しやうかい》でお宅《たく》へ來《き》たのです?自分《じぶん》で捜《さが》したんですか」 「何《なに》ね、私《わたし》の甥《をひ》があの方《かた》と同《おな》じ雜誌《ざつし》社《しや》へ勤《つと》めてゐますのでね、二三|度《ど》宅《たく》へも遊《あそ》びに被入《いらつし》つたのが御緣《ごえん》で、ついお越《こ》しなさるやうになつたので御座《ござ》います。無人《ぶにん》でとても人樣《ひとさま》のお世話《せわ》なんか出來《でき》ませんのですが、ついねえ……こんな窮屈《きうくつ》な所《ところ》で、さぞお困《こま》りだらうと思《おも》ひますのにね」 私《わたし》は老婆《ばあさん》の顏色《かほいろ》を讀《よ》んで、「いや却《かへつ》て貴女《あなた》の方《はう》で御迷惑《ごめいわく》でせう、この通人《つうじん》先生《せんせい》、そんなことにはお氣《き》のつかん方《はう》だし、それに不愛相《ぶあいそ》で氣《き》の置《お》ける男《をとこ》だから」 「いゝえ、どうしてお愛相《あいそ》がよくて、中々《なか〳〵》お話《はなし》がお好《す》きで被入《いらつ》しやる、十|時《じ》頃《ごろ》からお茶《ちや》を召上《めしあが》つて、每晚《まいばん》お話《はなし》がはずむんですよ」 「そりや不思議《ふしぎ》だ、何《なに》を話《はな》すんです」 「あの方《かた》は何《なん》でもよく御存知《ごぞんぢ》なんですね、頭《あたま》の物《もの》から足《あし》の裏《うら》まで、何《なに》にでもよく目《め》がおつきなさいます」 「あれがそんな話《はなし》をするんですか」と、私《わたし》は少《すこ》し驚《おどろ》いた風《ふう》をすると、老婆《ばあさん》は乗《の》り出《だ》して、 「えい〳〵、私《わたし》逹《たち》よりもよく御存《ごぞん》じで被入《いらつ》しやる、櫛《くし》は小形《こがた》が流行《はや》るの、羽織《はおり》は桔梗納戶《きゝやうなんど》が色合《いろあひ》がいゝのと、そりや驚《おどろ》いてしまうんですよ、一昨日《おとゝひ》の晩《ばん》も宅《たく》で歌留多《かるた》を取とりまして、娘《むすめ》さん方《がた》が四五|人《にん》被入《いらつ》しやると、あの人《ひと》には何《なに》が似合《にあ》う、この人《ひと》には何《なに》が似合《にあ》うと、一々お見立《みた》てをなさるんですよ」 「雜誌《ざつし》にでもあるんでせう」と、私《わたし》は笑《わら》つて、少《すこ》し碎《くだ》けた口振《くちぶ》りで「加瀨《かせ》に色女《いろをんな》があると云《い》ふぢやありませんか、」と問《と》うた。 「何《なん》だかそんなことを甥《をひ》が申《まを》して居《を》りますがね、」と、老婆《ばあさん》は窪くぼんだ目《め》に微笑《びせう》を湛《たゝ》えてゐる。 「誰《だ》れでせう、」 「御自分《ごじぶん》ではいろんな[#「いろんな」に傍点]事《こと》を有仰《おつしや》るんですから、見當《けんたう》が付《つ》き兼《か》ねますが、何《なん》でもお樂《らく》といふ女《をんな》に一|番《ばん》御執心《ごしふしん》のやうで御座《ござ》いますよ、下谷《したや》に居《ゐ》ました時分《じぶん》から娘《むすめ》のお友逹《ともだち》でちよい[#「ちよい」に傍点]〳〵宅《たく》へもまゐります、大變《たいへん》なハイカラで、讀《よ》み書《か》きも可成《かな》り上手《じやうず》ださうで御座《ござ》いますよ、先日《せんじつ》も加瀨《かせ》さんが僕《ぼく》はあゝ云《い》つた肌合《はだあひ》が好《す》きだと有仰《おつしや》るから、ぢやお貰《もら》ひなすつたらと申《まを》しますと、さうさ何《ど》うしやうかと考《かんが》へて被入《いらつしや》るのです」 「ぢや、まだ女《をんな》が出來《でき》たと云《い》ふ譯《わけ》ぢやないんですね」 「えい〳〵、まだこうと定《きま》つてるのぢや御座《ござ》いますまいよ、尤《もつと》もね、加瀨《かせ》さんの事《こと》ですから外《ほか》にどんなのが出來《でき》てゐるのか、ちつとも存《ぞん》じませんけれど」と、老婆《ばあさん》は息《いき》を吐《つ》き、「何《なに》しろあの方《かた》ですから」と、低《ひく》い聲《こゑ》で無意味《むいみ》な事《こと》を云《い》つて、兩手《りやうて》を膝《ひざ》の上《うへ》で揉《も》みながら、「何時《いつ》かも甥《をひ》とお酒《さけ》を召上《めしあが》つて、お話《はなし》がはずんだ時《とき》に、僕《ぼく》あ女《をんな》を惚《ほ》れさせて廻《まは》るのが面白《おもしろ》いと有仰《おつしや》るのです、何《なん》でも品川《しながは》にも銀座《ぎんざ》にもお目《め》に留《と》まる者《もの》があるそうでしてね、甥《をひ》はよく戯談《じやうだん》に、僕《ぼく》が一|緖《しよ》に行《い》かなくちや幕《まく》が開《あ》かんのだから厄介《やくかい》で仕方《しかた》がない、僕《ぼく》あ丸《まる》で若樣《わかさま》のお幇間《たいこ》のやうな者《もの》だ、無給金《むきうきん》で、加之《おまけに》時々《とき〴〵》は持出《もちだ》しまでして、こんな下《くだ》らないことはないと申《まを》すんで御座《ござ》いますよ」と、さも面白《おもしろ》さうに云《い》ふ。次《つぎ》の室《ま》では娘《むすめ》がクツ〳〵笑《わら》つて居《ゐ》る。 「さうですかねえ」と、私《わたし》は冷淡《れいたん》に云《い》つて、目《め》を轉《てん》じてテーブルの上《うへ》のバイブルを飜《ひるがへ》して、老婆《ばあさん》にはあまり耳《みゝ》を貸《か》さなかつた。 しかし老婆《ばあさん》は問《と》はず語《がた》りに加瀨《かせ》の噂《うはさ》――頓間《とんま》な江戶《えど》ツ子振《こぶ》り、辻褄《つじつま》の合《あ》はぬ裝飾方《しやれかた》、變梃《へんてこ》な田舎《ゐなか》言葉《ことば》の丸出《まるだ》しの柔《やさ》しい惡罵《あくば》――を止《や》めなかつたが、やがて臺所《だいどころ》で魚屋《さかなや》の聲《こゑ》のするのを機會《しほ》に立《た》つて行《い》つた。 加瀨《かせ》は容易《ようい》に歸《かへ》つて來《こ》ぬ。私《わたし》は日曜《にちえう》一|日《じつ》待《まち》甲斐《がひ》のない人《ひと》を待《ま》つて過《す》ごすのが惜《おし》くてならぬ。歸《かへ》らうかと立上《たちあが》つたが、又《また》思《おも》ひ返《かへ》して疊《たゝみ》の上《うへ》に橫《よこ》になつた。雨垂《あまだ》れが落《お》ちては又《また》落《お》ちてゐる。新《あら》たにいゝ香《にほ》ひが庭《には》から吹《ふ》きつける。後《うしろ》では車井戶《くるまゐど》の音《おと》がギイ〴〵と聞《きこ》える。私《わたし》は眠《ねむ》くなつた。氣《き》が緩《ゆる》んだ。すると、ふとお靜《しづ》も憎《にく》くないなと思《おも》はれた。私《わたし》が寢卷《ねまき》のまゝ顏《かほ》を洗《あら》つてゐると、派手《はで》な絣《かすり》の道行《みちゆき》を着《き》て、勝手口《かつてぐち》から傘《かさ》をすぼめて入《はい》つて來《き》た彼《あ》の女《をんな》の可憐《かれん》な姿《すがた》、身體《からだ》が華奢《きやしや》で髮《かみ》が濃《こ》くて、島田《しまだ》の重《おも》みに堪《た》へぬと云《い》つた風《ふう》に、首垂《うなだ》れ勝《がち》のその顔付《かほつき》。こんなことが此頃《このごろ》の私《わたし》には珍《めづ》らしく目《め》に浮《うか》んだ。しかし直《す》ぐに自分《じぶん》で自分《じぶん》を嘲《あざけ》つて見《み》て、間《ま》もなく常《つね》の心《こゝろ》になつた。 やがてよい氣持《きもち》で眠入《ねい》つた。 暫《しばら》くして自分《じぶん》の家《いへ》にゐる氣《き》で、細《ほそ》く目《め》を開《あ》けて伸《の》び上《あが》ると、加瀨《かせ》は緣側《えんがは》に膝《ひざ》を抱《だ》いてニコ〳〵してゐる。 「よく眠《ね》てるね、どうしたんだ、昨夕《ゆふべ》夜更《よふか》しでもしたんぢやないか」 「もう何時《いつ》かね」と、私《わたし》は目《め》をこすり〳〵臺所《だいどころ》へ顏《かほ》を洗《あら》ひに行《い》つた。老婆《ばあさん》と娘《むすめ》とが膳立《ぜんだ》てをしてゐる。娘《むすめ》の顏立《かほだち》は老婆《ばあさん》に似《に》て、左程《さほど》美《うつく》しくもないが、年頃《としごろ》だから皮膚《ひふ》が艶々《つや〳〵》しい。私《わたし》は娘《むすめ》の手《て》から西洋《せいやう》手拭《てぬぐひ》を借《か》りて顏《かほ》を拭《ぬぐ》ひながら、偸《ぬす》むやうにして相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》た。娘《むすめ》は不快《ふくわい》な顏《かほ》をして橫《よこ》へ向《む》いた。子供《こども》の時《とき》から私《わたし》の目付《めつき》は人《ひと》を馬鹿《ばか》にしてゐると云《い》はれてゐたが、殊《こと》にこの頃《ごろ》は毒氣《どくき》が加《くは》はつて來《き》たのか、何氣《なにげ》なしに見《み》てさへ相手《あひて》によつて、薄氣味《うすきみ》惡《わる》く感《かん》ずるさうだ。ましてこの頃《ごろ》の私《わたし》は穩《おだ》やかに柔《おとな》しく人《ひと》に接《せつ》することが出來《でき》ぬ。冷笑《れいせう》するやうな、蔑視《べつし》するやうな、腹《はら》の底《そこ》まで見拔《みぬ》いてやるぞと云《い》つたやうな氣持《きもち》になつて喜《よろこ》んでゐる。 私《わたし》は緣側《えんがは》へ戾《もど》つて、「この家《いへ》は一|體《たい》何《なに》をしてるんだ」と小聲《こゞゑ》で聞《き》いた。加瀨《かせ》は袂《たもと》から淸心丹《せいしんたん》を出《だ》して舌《した》に載《の》せ絹手巾《きぬはんけち》で赤《あか》い唇《くちびる》のあたりを拭《ふ》き〳〵、 「これでも昔《むかし》はちよつといゝ旗本《はたもと》だつたさうだが、今《いま》ぢや親爺《おやぢ》は元町《もとまち》の女學校《ぢよがくかう》の會計《くわいけい》をしとる、月給《げつきう》は極《ご》く僅《わづ》かだが、多少《たせう》家《ゝち》に財產《ざいさん》があるから、氣樂《きらく》に暮《くら》しとるやうだ」 「家内《かない》は三|人《にん》限《き》りかい」 「うん、娘《むすめ》が跡取《あとゝ》りで養子《やうし》でもするんだらう」 「そんな大事《だいじ》な一人《ひとり》娘《むすめ》の側《そば》に、君《きみ》のやうな美男子《びだんし》がゐちや危險《きけん》だね」 「馬鹿《ばか》な」と、加瀨《かせ》は幽《かす》かな聲《こゑ》で云《い》つて、ニヤ〳〵笑《わら》ひを續《つゞ》ける。 「しかしこんな家《うち》にゐちや窮窟《きうくつ》ぢやないか」 「別《べつ》にそんな感《かん》じはしない、却《かへ》つて家庭的《かていてき》で居心地《ゐごゝち》がいゝ」 「だが、越前堀《えちぜんぼり》の江戶《えど》趣味《しゆみ》から退化《たいくわ》したぢやないか、僕《ぼく》は君《きみ》は早晩《さうばん》藝者屋《げいしやゝ》の長火鉢《ながひばち》の前《まへ》に坐《すわ》る男《をとこ》だと思《おも》つてゐたんだが、矢張《やはり》山《やま》の手《て》の野暮《やぼ》臭《くさ》い家《うち》が君《きみ》の柄《がら》に相當《さうたう》してるんかね」 「下町《したまち》は衞生《ゑいせい》に惡《わる》いから」 「うまく言譯《いひわけ》するね、しかし君《きみ》のことだから何《なに》か竊《ひそ》かに理由《りいう》があるんだらう」と、私《わたし》は卷莨入《まきたばこいれ》をテーブルから下《おろ》して、加瀨《かせ》の側《そば》に橫《よこ》になつて煙草《たばこ》を吸《す》ひながら、「君《きみ》も東京《とうきやう》へ來《き》てから大分《だいぶ》嗅《か》いで步《ある》いてるが、今《いま》に鼻《はな》も足《あし》も疲《つか》れてしまうぜ、君《きみ》の鼻《はな》は銳敏《えいびん》な方《はう》ぢやないがね、それでも君《きみ》の親爺《おやぢ》のとは異《ちが》つてるから、」 「何《なん》だ、謎《なぞ》のやうなことを云《い》つて」と、加瀨《かせ》は淸心丹《せいしんたん》の香《にほ》ひを吐《は》いて、相變《あひかは》らず氣樂《きらく》な顏《かほ》で微笑《びせう》してゐる。 「今《いま》に謎《なぞ》の解《と》ける時《とき》が來《く》る」と云《い》つたきり、私《わたし》は口《くち》を噤《つぐ》んだ。加瀨《かせ》も默《もく》して只《たゞ》庭《には》を眺《なが》めてゐたが、やがて何《なに》を思《おも》つたか尺《しやく》八を取《と》つて吹《ふ》き出《だ》した。顏《かほ》は少《すこ》し紅味《あかみ》を帶《お》び、長《なが》い前髮《まへがみ》を震《ふる》はせ、白《しろ》い指先《ゆびさき》を輕《かろ》く鮮《あざや》かに動《うご》かし、私《わたし》をば相手《あひて》にせぬやうな風《ふう》で勝手《かつて》に吹《ふ》いてゐる。これはこの男《をとこ》の癖《くせ》で、心《こゝろ》では私《わたし》の訪問《はうもん》したのを喜《よろこ》んでゐるのだが、さて話《はな》すこともなく、打解《うちと》ける手段《てだて》もない。で、私《わたし》の方《はう》からそれ相應《さうおう》の話題《わだい》でも持出《もちだ》さぬ限《かぎ》りは、詮方《せんかた》なしに、主人《しゆじん》は主人《しゆじん》、お客《きやく》はお客《きやく》の態度《たいど》を執《と》るのだ。しかし彼《か》れの心《こゝろ》づくしは何時《いつ》ものやうに食卓《しよくたく》に現《あら》はれてゐる。 老婆《ばあさん》と娘《むすめ》とは甲斐《かひ》々々《〴〵》しくチヤブ臺《だい》を運《はこ》び込《こ》んだ。いろ〳〵の御馳走《ごちさう》が一|杯《ぱい》に並《なら》べられた。ビールさへ添《そ》うてゐる。 加瀨《かせ》は尺《しやく》八を下《した》へ置《お》き、「サア」とコツプを私《わたし》の前《まへ》へ出《だ》して、置《おき》つぎをした。私《わたし》はそれを尻目《しりめ》に見《み》て、 「君《きみ》は尺《しやく》八が甘《うま》くなつたね、續《つゞ》いて稽古《けいこ》をしてるんか」 「いや別《べつ》に稽古《けいこ》もせん、退屈《たいくつ》すると出鱈目《でたらめ》に吹《ふ》くだけだ。」 「君《きみ》の尺《しやく》八を聞《き》くと思《おも》ひ出《だ》す、君《きみ》は上京《じやうきやう》の時《とき》に手紙《てがみ》を寄《よこ》して、⦅一|管《くわん》の笛《ふゑ》を携《たづさ》えて都《みやこ》の花《はな》を尋《たづ》ね申《まを》すべし⦆と云《い》つてゐたぢやないか、此頃《このごろ》はどんな花《はな》を尋《たづ》ねてる、君《きみ》は田舎《ゐなか》にゐた時分《じぶん》から風流《ふうりう》の嗜《たしな》みがあつたさうだし、僕《ぼく》等《ら》とは異《ちが》つて五|官《くわん》が發逹《はつたつ》しとるんだから、東京《とうきやう》の味《あぢ》も少《すこ》しや味《あぢ》はつたらう」 「それよりや魚《さかな》でも食《た》べ玉《たま》へな」と、加瀨《かせ》は不味《まづ》さうに二三|口《くち》ビールを啜《すゝ》つて、兩膝《りやうひざ》を抱《だ》いて、私《わたし》を見《み》てゐたが、「君《きみ》は矢張《やはり》學校《がくかう》へ出《で》てるのか」と、分《わか》り切《き》つたことを聞《き》く。 「厭《いや》でも仕方《しかた》がないからね、月給《げつきう》三十五|圓《ゑん》の先生《せんせい》で、朝寢《あさね》は一|週《しう》に一|度《ど》しきや出來《でき》ん、憫《あは》れむべき生涯《しやうがい》だらう」 「厭《いや》なら止《よ》して何《なに》か面白《おもしろ》い仕事《しごと》を求《もと》めりやいゝぢやないか、世間《せけん》は廣《ひろ》いのに」と、加瀨《かせ》は不愛相《ぶあいさう》に云《い》ふ。聲《こゑ》も態度《たいど》も大人《おとな》振《ぶ》つてゐる。私《わたし》は暫《しば》らく無言《むごん》で二三の皿《さら》を平《たひら》げて後《のち》、低《ひく》い聲《こゑ》で何氣《なにげ》なく、 「君《きみ》もハイカラのお樂《らく》とか云《い》ふ女《をんな》を知《し》つてると云《い》ふぢやないか」 「それがどうかしたのか」と、加瀨《かせ》は少《すこ》し頰《ほゝ》を赤《あか》くした。 「何《なに》、どうもしないが、君《きみ》があの女《をんな》に惚《ほ》れとると云《い》ふから」 「馬鹿《ばか》あ云《い》つてる」と、加瀨《かせ》は澄《すま》してゐる。 「いや僕《ぼく》は眞面目《まじめ》だ、僕《ぼく》には戀《こひ》の經驗《けいけん》がないが、君《きみ》は年少《ねんせう》にしてその道《みち》の硏究者《けんきうしや》だから、よく色《いろ》んなことを知《し》つてるだらう、少《すこ》し聞《き》かせて吳《く》れ玉《たま》へな」 「硏究《けんきう》も何《なに》もないぢやないか、戀《こひ》は戀《こひ》だから」と云《い》つたきり、加瀨《かせ》はあまり話《はなし》に身《み》を入《い》れぬ。既《すで》に醉《よ》つてゐれど、私《わたし》に向《むか》つては妙《めう》に腹帶《はらおび》を締《し》めて、他所行《よそゆき》の言葉《ことば》ばかり使《つか》つて本音《ほんね》を吐《は》かぬ。そして私《わたし》の不思議《ふしぎ》な好奇心《かうきしん》は、ます〳〵募《つの》る。この男《をとこ》を攻《せ》め落《おと》して、見得《みえ》も自惚《うぬぼれ》も搔《か》き消《け》し、表面《うはべ》でも腹《はら》の中《なか》でも、眞《しん》に萎《しほ》れ返《かへ》らせて見《み》たい。一|度《ど》でも身《み》の腑甲斐《ふがひ》なさ、世《よ》の味《あぢ》の苦《にが》さを感《かん》じさせて見《み》たい。 私《わたし》はこんなことを思《おも》ひながら、口《くち》では途切《とぎ》れ〴〵に何《なん》の興《きよう》もない短《みじ》かい會話《くわいわ》を取《と》りやりして、午餐《ひるめし》を終《をは》つた。跡片付《あとかたづけ》が濟《す》んで又《また》緣側《えんがは》へ出《で》て、暫《しば》らく前《まへ》のやうな平凡《へいぼん》な對話《たいわ》をしたり、雨《あめ》の音《おと》に心《こゝろ》を澄《す》ませてゐると、 「やー、お客樣《きやくさま》か」と、小柄《こがら》な男《をとこ》が帽子《ぼうし》を被《かぶ》つたなり、ニコ〳〵入《はい》つて來《き》た。 「小山《こやま》君《くん》、昨夕《ゆふべ》はどうだつた」と、加瀨《かせ》は私《わたし》に對《たい》する時《とき》とは打《う》つて變《かは》つて、快活《くわいくわつ》な口調《くてう》で云《い》ふ。 「えゝ、又《また》やられたよ、運命《うんめい》の神《かみ》に見放《みはな》されたのだね」と、薄唇《うすくちびる》の大《おほ》きな口《くち》を捻《ね》ぢてハツ〳〵と笑《わら》ひ、「どうだい、歌留多《かるた》は、今夜《こんや》二三|人《にん》美人《びじん》を招待《せうたい》しといたよ」と云《い》つて後《うしろ》を顧《かへり》み、「楠《くす》ちやんお茶《ちや》をお吳《く》んな」と叫《さけ》ぶ。この男《をとこ》眉《まゆ》が短《みじか》く首《くび》が長《なが》く、一寸《ちよつと》しやくつ[#「しやくつ」に傍点]た顏《かほ》は見《み》るから罪《つみ》がなさゝうだ。加瀨《かせ》の紹介《しやうかい》を待《ま》たずとも、老婆《ばあさん》の甥《をひ》と云《い》ふことは分《わか》つてゐる。私《わたし》とも直《す》ぐに懇意《こんい》になつた。 「貴下《あなた》も晚《ばん》まで遊《あそ》んでゝ歌留多《かるた》をやつちやどうです」 「僕《ぼく》は歌留多《かるた》を知《し》らんから駄目《だめ》です」 「いゝぢやありませんか、加瀨《かせ》君《くん》だつて極《きは》めて下手《へた》なんですもの、隨分《ずゐぶん》美人《びじん》が來《く》るから見《み》てゐらつしやい。加瀨《かせ》君《くん》の御馳走《ごちさう》で美人《びじん》見物《けんぶつ》をするだけでも得《とく》ですからね、これで此頃《このごろ》は每晚《まいばん》のやうに歌留多《かるた》をやるんですが、實《じつ》は歌留多《かるた》を餌《ゑば》に女《をんな》を釣《つ》るんです」と、無遠慮《ぶゑんりよ》な聲《こゑ》で喋舌《しやべ》り立《た》てた。 「馬鹿《ばか》云《い》つちやいかんぜ」と、加瀨《かせ》は障子《しやうじ》に頭《あたま》を持《もた》たせ苦笑《くせう》した。 老婆《ばあさん》と娘《むすめ》も菓子皿《くわしざら》や茶盆《ちやぼん》を持《も》つて來《き》て、それを機會《しほ》に團樂《まどゐ》の中《なか》に入《はい》つた。皆《み》んな笑顏《ゑがほ》をしてゐる。小山《こやま》は頻《しき》りに歌留多《かるた》仲間《なかま》の品評《ひんぴやう》を始《はじ》め、一|座《ざ》はこれに相槌《あひづち》打《う》つて、暫《しば》らく陽氣《やうき》に賑《にぎ》はつた。加瀨《かせ》もこれ迄《まで》東京《とうきやう》に孤獨《こどく》の月日《つきひ》を送《おく》つてゐたのだから、この一|家《か》の温《あたゝ》かい空氣《くうき》に浴《よく》して、さも悅《うれ》しさうだ。 空《そら》はます〳〵暗《くら》くなつて、雨《あめ》は止《や》みさうでない。外出《ぐわいしゆつ》も面倒《めんだう》であり、訪《たづ》ぬべき人《ひと》もなく爲《な》すべき用事《ようじ》もなければ、私《わたし》は引留《ひきと》められるまゝ、遂《つひ》に晩餐《ばんさん》の御馳走《ごちさう》にもなつた。無駄《むだ》話《ばなし》も聞厭《きゝあ》いた。加瀨《かせ》の尺《しやく》八|小山《こやま》の都々一《どゞいつ》も聞厭《きゝあ》いた。私《わたし》を煙《けむ》たさうにしてゐる娘《むすめ》の顏《かほ》も見厭《みあ》いた。やがて一人《ひとり》二人《ふたり》若《わか》い女《をんな》や男《をとこ》が集《あつ》まつて來《き》たが、加瀨《かせ》は新顏《しんがほ》を見《み》る每《ごと》に嬉《うれ》しさうな風《ふう》をする。そして二《ふた》つの明《あか》るいランプは、大勢《おほぜい》の騷《さわ》ぎの中心《ちうしん》となつた。  (三) 私《わたし》は歌留多《かるた》の群《むれ》に入《い》らず、只《たゞ》傍觀《ばうくわん》してゐた。白《しろ》い手《て》と黑《くろ》い手《て》の忙《いそがは》しく入亂《いりみだ》れるのを超然《てうぜん》として見《み》てゐた。一|座《ざ》の中《うち》最《もつと》も熱心《ねつしん》の乏《とぼ》しいのがお樂《らく》で、老婆《ばあさん》の豫報《よほう》した通《とほ》り、派手《はで》な縞《しま》の銘仙《めいせん》に八|丈《ぢやう》の羽織《はおり》を着《き》てゐる。廂髮《ひさしがみ》だがハイカラ風《ふう》でもなく、他《ほか》の女《をんな》共《ども》に比《くら》べると顏付《かほつき》が何《なん》となく意氣《いき》に見《み》える。お納戶《なんど》の襦袢《じゆばん》の襟《ゑり》が白《しろ》く首筋《くびすぢ》に喰《く》ひ入《い》つた加減《かげん》が馬鹿《ばか》に色氣《いろけ》がある。負《ま》けても左程《さほど》口惜《くや》しがる風《ふう》はない。そして加瀨《かせ》と敵《てき》味方《みかた》で向《むか》ひ合《あ》つて、加瀨《かせ》の方《はう》から奪掠《だつりやく》しかけても、敢《あえ》て爭《あらそ》はんともせず、仲間《なかま》から小言《こごと》を云《い》はれると、「だつて加瀨《かせ》さんがズルイんだもの」と甘《あま》えた口《くち》を利《き》く。加瀨《かせ》は口元《くちもと》で微笑《びせう》しながら一|生《しやう》懸命《けんめい》。 二三|番《ばん》の勝負《しやうぶ》あつて、中休《なかやす》みとなり、皆《み》んなが息《いき》を吐《つ》いた。私《わたし》は一人《ひとり》隅《すみ》の方《はう》で欠伸《あくび》をした。そして加瀨《かせ》とお樂《らく》とは交《かは》る〳〵見《み》てゐたが、只《たゞ》加瀨《かせ》がお樂《らく》の方《はう》を見《み》る時《とき》は上目《うはめ》を使《つか》ふ氣味《きみ》があるだけで、別《べつ》に戀《こひ》中《なか》と云《い》つた風《ふう》の素振《そぶり》もない。 小山《こやま》はお喋舌《しやべ》りの間々《あひだ〳〵》に加瀨《かせ》を冷《ひや》かしてゐたが、不意《ふい》に藝競《げいくら》べを主張《しゆちやう》して、 「お樂《らく》さんの長唄《ながうた》も暫《しば》らく聞《き》かんから今夜《こんや》は是非《ぜひ》拜聽《はいちやう》したい、」 といふと、加瀨《かせ》も盛《さか》んに賛成《さんせい》する。否《いや》だと云《い》ふ者《もの》は、小山《こやま》が下駄《げた》を隱《かく》して歸《かへ》さんと强迫《きやうはく》して、一|座《ざ》五六|人《にん》殘《のこ》らず特意《とくい》の藝《げい》を出《だ》した。宿《やど》の娘《むすめ》お楠《くす》の常磐津《ときはづ》、米屋《こめや》の娘《むすめ》の義太夫《ぎだいふ》など、何《いづ》れも大喝采《だいかつさい》。遞信省《ていしんしやう》の女《をんな》判任官《はんにんくわん》のお杉《すぎ》女史《ぢよし》は獨《ひと》りで浮《うか》れて、小山《こやま》の催促《さいそく》も待《ま》たず、肩《かた》を聳《そびや》かし下唇《したくちびる》を突出《つきだ》して、「死《し》んだと思《おも》つたお富《とみ》さん」と誰《た》れかの假聲《こはいろ》を使《つか》つたが、皆《み》んなに笑《わら》はれて極《きま》りが惡《わる》そうに口《くち》を噤《つぐ》んだ。 それから小山《こやま》の卷舌《まきじた》の端唄《はうた》、お樂《らく》の長唄《ながうた》「宵《よひ》は待《ま》ち」があつた。お樂《らく》のは本物《ほんもの》だ。一|座《ざ》鳴《な》りを靜《しづ》め視線《しせん》を唄《うた》ひ手《て》の顏《かほ》に集《あつ》めて聞《き》いてゐた。加瀨《かせ》は首《くび》を傾《かし》げて恍惚《うつとり》としてしまう。白粉《おしろい》臭《くさ》い生若《なまわか》い女《をんな》の香《にほ》ひが漲《みなぎ》る狹《せま》い部屋《へや》に、艶《つや》つぽい聲《こゑ》が柔《やはら》かに耳《みゝ》を掠《かす》めて通《とほ》る。見《み》るから加瀨《かせ》は極樂《ごくらく》淨土《じやうど》にゐるようだ。小山《こやま》は駄洒落《だじやれ》の連發《れんぱつ》で女《をんな》連《づ》れを笑《わら》はせ、餅菓子《もちぐわし》と蜜柑《みかん》とで、主客《しゆかく》は陶然《とうぜん》と醉心地《ゑひごゝち》になつて來《く》る。 「何時《いつ》もこんな馬鹿《ばか》な眞似《まね》をして遊《あそ》んでるんか」と、私《わたし》は突如《だしぬけ》に加瀨《かせ》に問《と》うた。浮《う》かれてゐる連中《れんぢう》は一|時《じ》に私《わたし》の顏《かほ》を見《み》た。 「面白《おもしろ》いぢやないか、君《きみ》の家《うち》でも時々《とき〴〵》やり玉《たま》へな、僕《ぼく》等《ら》が大勢《おほぜい》引連《ひきつ》れて行《ゆ》かう」と、加瀨《かせ》は一|座《ざ》の棟梁《とうれう》氣取《きどり》だ。 「須崎《すさき》(私《わたし》の名《な》)さんだけは、まだ何《なに》も藝《げい》をお出《だ》しになりませんね、お突合《つきあ》ひに一《ひと》つお聞《き》かせなすつちや如何《いかゞ》です」と、老婆《ばあさん》は私《わたし》を顧《かへり》みた。小山《こやま》も加瀨《かせ》も左右《さいう》から手《て》を執《と》るやうにして勸《すゝ》める。 「そんなふざけた[#「ふざけた」に傍点]眞似《まね》が出來《でき》るか、しかし是非《ぜひ》僕《ぼく》のが聞《き》きたけや、加瀨《かせ》君《くん》の親爺《おやぢ》がよくやる權兵衞《ごんべゑ》が種蒔《たねま》きの踊《をどり》でもやらうか、醉《ゑ》ふと素裸《すつぱだ》かになつて腰《こし》を振《ふ》つてやつてたのを、僕《ぼく》も覺えとる。君《きみ》も幼い時分《じぶん》によく親爺の眞似《まね》をしとつた。ねえ、さうだらう」と、私《わたし》が云《い》ふと、加瀨《かせ》は默《だま》つてしまつた。 「だが僕《ぼく》だつて長唄《ながうた》ぐらゐは出來《でき》る。お樂《らく》さんでも三味線《さみせん》を彈《ひ》いて吳《く》れゝば」と、私《わたし》は厭《いや》な思《おも》ひをして云《い》つて、前《まへ》へ乗《の》り出《だ》した。もう二三|年《ねん》にならうか、私《わたし》はお靜《しづ》から戯言《ぢやうだん》半分《はんぶん》に「越後《えちご》獅子《じゝ》」を習《なら》つたことがある。あの時分《じぶん》でも音曲《おんぎよく》は好《す》きな方《はう》ではなかつたが、お靜《しづ》の口《くち》眞似《まね》をしたり、笑《わら》つたり笑《わら》はれたりするのが嬉《うれ》しかつた。今《いま》ではそれを思《おも》ひ出《だ》しても不快《ふくわい》だが、小山《こやま》の周旋《しうせん》で、三味線《さみせん》がお樂《らく》に押付《おしつ》けられたので、詮方《せんかた》なくお樂《らく》と並《なら》んで、うろ覺《おぼ》えの一《ひと》くさりを唄《うた》つた。調子《てうし》もしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]である。加瀨《かせ》は少《すこ》し驚《おどろ》いた風《ふう》で、 「君《きみ》は何時《いつ》習《なら》つた」 「不思議《ふしぎ》だらう、まだ十八番《おはこ》があるんだ。そりやこの次つぎにしやう、何《なん》なら近々《きん〳〵》僕《ぼく》の家《うち》で演藝會《えんげいくわい》をやるから皆《み》んなで來玉《きたま》へ、お樂《らく》さんも三味線《さみせん》を持《も》つて」 「そりや面白《おもしろ》い、是非《ぜひ》おやんなさい、私《わたし》が周旋役《しうせんやく》になるから」と、小山《こやま》は頻《しき》りに勸《すゝ》めた。  (四) 再《ふたゝ》び歌留多《かるた》が初《はじ》まつたので、私《わたし》は退屈《たいくつ》し切《き》つて、一人《ひとり》暇《いとま》を吿《つ》げて薄暗《うすくら》がりの冷《つめ》たい戶外《そと》へ出《で》た。そして電車《でんしや》に飛乗《とびの》つたが、直《す》ぐに大久保《おほくぼ》へは歸《かへ》らなかつた。 數《すう》十|分《ぷん》の後《のち》には傘《かさ》を擔《かつ》いで、土州橋《としうばし》の上《うへ》を步《ある》いてゐた。中洲《なかす》の方《はう》は小雨《こさめ》に煙《けむ》つて、提灯《ちやうちん》の光《ひかり》が空《そら》を飛《と》んでゐる。足下《あしもと》の荷船《にぶね》は晝《ひる》の汚《きたな》い姿《すがた》をかくして、夢《ゆめ》のやうに淡《あは》く水面《すゐめん》に浮《うか》び、濕《しめ》つた光《ひかり》がチラ〳〵して、寢呆聲《ねぼけごゑ》が洩《も》れて來《く》る。橋《はし》を渡《わた》ると早足《はやあし》に右《みぎ》へ曲《まが》つて、玄關《げんくわん》の暗《くら》く二|階《かい》の燈火《ともしび》の花《はな》やかな家《うち》へ上《あが》つた。私《わたし》は一|年《ねん》近《ぢか》くこの家《うち》へ通《かよ》つてゐるのである。 安逹《あだち》が原《はら》の鬼婆《おにばゞあ》から毒氣《どくき》を拔《ぬ》いたやうな老婆《ばあさん》は私《わたし》の顏《かほ》を見《み》ると、齒《は》を剝《む》き出《だ》して、「貴下《あなた》新奇《しんき》なのが出《で》ましたよ」といふ。これがお定《きま》りだ。老婆《ばゞあ》は私《わたし》に對《たい》する骨《こつ》を知《し》つてゐる。只《たゞ》「新奇《しんき》だ」といふ。どんなのだらう。昨年《さくねん》一|年《ねん》、今年《ことし》の今《いま》迄《ゝで》私《わたし》の注意《ちうい》を惹《ひ》き、心《こゝろ》に柔《やさ》しさ温《あたゝ》かさを覺《おぼ》えるのはこればかりである。階子段《はしごだん》を踏《ふ》む足音《あしおと》廊下《らうか》傳《づた》ひの衣摺《きぬず》れの音《おと》、障子《しやうじ》の開《あ》く音《おと》、私《わたし》はそれを聞《き》いてゐる時《とき》にのみ世《よ》に生甲斐《いきがひ》を感《かん》ずるのである。美《うつ》くしい眉《まゆ》滑《なめら》かな肌《はだ》に魂《たましひ》が盪《とろ》けるのではない。優《やさ》しい言葉《ことば》色《いろ》つぽい素振《そぶ》りに胸《むね》が湧立《わきた》つのではない。只《たゞ》「珍《めづ》らしいの」「新奇《しんき》なの」を待設《まちまを》けては、乾《かは》き行《ゆ》く心《こゝろ》を濕《うる》ほさうとするに過《す》ぎぬ。 私《わたし》は上京《じやうきやう》後《ご》七|年間《ねんかん》、豐《ゆた》かならぬ學資《がくし》で學問《がくもん》をした。卒業後《そつげふご》は敎師《けうし》をしてゐる。交友《かういう》も多《おほ》くはなく、自分《じぶん》の出入《しゆつにふ》し目睹《もくと》してゐる社會《しやくわい》は廣《ひろ》くはない。しかし最早《もはや》努力《どりよく》して榮逹《えいたつ》を計《はか》る氣《き》は微塵《みぢん》もない。高名《かうめい》な人《ひと》と伍《ご》して世《よ》に名《な》を唄《うた》はれようと希《ねが》ふ心《こゝろ》も更《さら》にない。心《こゝろ》を許《ゆる》す人《ひと》もなければ、他人《たにん》に心《こゝろ》許《ゆる》されようとも思《おも》はない。知友《ちいう》の中《うち》には私《わたし》を「落付《おちつ》いた確《しつ》かりした男《をとこ》だ」と評《ひやう》する者《もの》がある。又《また》「冷酷《れいこく》無情《むじやう》な男《をとこ》だ」と評《ひやう》する者《もの》もある。有望《いうばう》な靑年《せいねん》か愚昧《ぐまい》な男子《だんし》か、他人《たにん》のお世話《せわ》を待《ま》たずして、自分《じぶん》で自分《じぶん》を知《し》り切《き》つてゐるのだ。圖拔《づぬ》けた天分《てんぶん》もないが、努力《どりよく》すれば並《なみ》の人《ひと》には負《ま》けぬと確信《かくしん》してゐる。處生《しよせい》の法《はふ》ぐらゐ心得《こゝろえ》てゐる。只《たゞ》その煩《わづら》はしさが厭《いや》だから見合《みあ》せてゐるのだ。 凡《すべ》てが煩《わづら》はしい。そして友人《いうじん》の落魄《らくはく》も榮華《えいぐわ》も憐《あは》れとも感《かん》ぜぬ羨《うらやま》しくも思《おも》はぬ。昨年《さくねん》から引續《ひきつゞ》いて兄《あに》が死《し》に叔父《をぢ》が死《し》んだが、それすら私《わたし》には木《こ》の葉《は》の散《ち》つた位《くらゐ》の感《かん》じをしか與《あた》へなかつた。 明日《あす》の私《わたし》はどうなるか、今《いま》の私《わたし》はこんな風《ふう》で死運《しうん》の來《く》るまで生《い》きてゐる。  (五) 「あれは如何《いかゞ》でした」 「さうだね、唇《くちびる》の皮《かは》が硬《こわ》い」 「隨分《ずゐぶん》此頃《このごろ》出《で》ましたから、せい〴〵目《め》をつけときまして」 私《わたし》は老婆《ばゞあ》に見送《みおく》られて外《そと》へ出《で》た。糠雨《ぬかあめ》が身體《からだ》に降《ふ》りかゝれど、所々《ところ〴〵》雲《くも》の剝《は》げて、澄《す》んだ靑空《あをぞら》が現《あら》はれてゐる。私《わたし》は再《ふたゝ》び土州橋《としうばし》を渡《わた》つたが、「明日《あす》は天氣《てんき》だ」と思《おも》ふのみで、外《ほか》に何《なに》をも頭《あたま》に浮《うか》べなかつた。そして電車《でんしや》に乗《の》ると手《て》を拱《こまぬ》き目《め》を瞑《ねむ》り頭《あたま》を窓《まど》にもたせ、半醒《はんせい》半眠《はんみん》で終點《しうてん》に逹《たつ》し、月《つき》を踏《ふ》んで、人氣《ひとけ》の絕《た》えた大久保《おほくぼ》の宿《やど》へ歸《かへ》つた。明日《あす》の勤《つと》めを思《おも》うて、直《す》ぐに寢仕度《ねじたく》をし、二三の郵書《いうしよ》を見《み》たが、その中《うち》に故鄕《こきやう》からの手紙《てがみ》もあつた。父《ちゝ》は老《を》い母《はゝ》は目《め》を病《や》み、弟《おとうと》は小賣商《こうりしやう》をして一|家《か》僅《わづ》かに口《くち》を糊《こ》してゐるので、救助《きうじよ》の願書《ぐわんしよ》の絕《た》えた月《つき》はない。今月《こんげつ》のは殊《こと》に長《なが》い。私《わたし》は卷紙《まきがみ》の半《なか》ばを讀《よ》まぬ中《うち》に、眠氣《ねむけ》さして堪《た》へられぬので、それを机《つくゑ》に廣《ひろ》げたまゝ床《とこ》の中《うち》へ入《はい》つた。 翌朝《よくてう》下女《げぢよ》が雨戶《あまど》を開《あ》ける音《おと》を幽《かす》かに聞《き》きながら、起《お》きもやらず寢返《ねがへ》りして、尙《なほ》ウト〳〵してゐたが、その間《あひだ》に珍《めづ》らしく故鄕《こきやう》の夢《ゆめ》を見《み》た。――兄弟《きやうだい》三|人《にん》裏《うら》の畑《はたけ》に出《で》てゐる。樹木《じゆもく》の少《すくな》い丘《をか》から斜《なゝめ》に麓《ふもと》まで畑《はた》になつてゐて靑々《あを〳〵》と麥《むぎ》は波《なみ》を打《う》ち、畦《あぜ》には蓮華草《れんげさう》が赤《あか》く緣取《ふちど》つてゐる。日《ひ》は眩《まぶ》しい位《くらゐ》照《て》つて居《ゐ》る。兄《あに》は被頰《ほゝかぶり》して汗《あせ》ばんだ手《て》で畑《はた》を耕《たがや》し、私《わたし》は弟《おとうと》と紙鳶《たこ》を飛《と》ばした。風箏《うなり》が靜《しづ》かな空《そら》に氣持《きもち》よく鳴《な》つて、赤《あか》い繪具《ゑのぐ》で塗《ぬ》つた紙鳶《たこ》の影《かげ》は小《ちい》さくなる。私《わたし》は興《きよう》に乗《の》つて畑《はた》を踏《ふ》み丘《をか》へ上《のぼ》り四|方《はう》へ驅《か》り廻《まは》ると、弟《おとうと》は後《あと》から喘《あえ》ぎ〴〵追《お》うて來《く》る。やがて私《わたし》は手《て》に纏《まと》うた糸《いと》を有《あ》る限《かぎ》り手繰《たぐ》り出《だ》したが、運惡《うんわる》く糸《いと》は木《き》の枝《えだ》に引掛《ひつかゝ》つて如何《いか》にするも離《はな》れない。その間《あひだ》に紙鳶《たこ》は糸《いと》を切《き》つてフワ〳〵空《そら》を飛《と》んで行《ゆ》く。私《わたし》も弟《おとうと》も兄《あに》も仰向《あふむ》いてその行衞《ゆくゑ》を眺《なが》めた。――目醒《めざま》し時計《どけい》の鳴《な》る音《おと》に驚《おどろ》いて夢《ゆめ》は消《き》えた。歸國《きこく》每《ごと》に亡兄《ばうけい》は私《わたし》に向《むか》つて、「今《いま》の田地《でんぢ》さへ荒《あら》さなければ、家《うち》のものは生活《くらし》に困《こま》りやしない、お前《まへ》は學才《がくさい》があるんだから、家《うち》の事《こと》は心配《しんぱい》せんで勉强《べんきやう》して早《はや》く出世《しゆつせ》して吳《く》れ」と云《い》つて、自身《じゝん》は死際《しにぎは》まで鍬《くわ》を離《はな》さなかつた。この手紙《てがみ》によると弟《おとうと》は此頃《このごろ》反物《たんもの》を脊負《しよ》つて近村《きんそん》を廻《まわ》つてゐるらしい。そして一|家《か》揃《そろ》うて私《わたし》の噂《うは》さをしてゐるとある。私《わたし》も亦《また》絕《た》えず故鄕《こきやう》の家族《かぞく》を思《おも》つてゐることと向定《むかうぎ》めに定《き》めてゐる。私《わたし》は手紙《てがみ》を座右《ざいう》の反古籠《ほごかご》に入《い》れて、心《こゝろ》淋《さび》しく肌寒《はださむ》く感《かん》じた。  (六) この日《ひ》は宿雨《しゆくう》晴《は》れて、敎員室《けうゐんしつ》は花見《はなみ》の噂《うはさ》が盛《さか》んであつた。日課《につくわ》を終《をは》つて家《うち》へ歸《かへ》り、和服《わふく》に着替《きか》へてゐると、豐島《とよしま》と云《い》ふ私《わたし》の所謂《いはゆる》情熱家《じやうねつか》が訪《たづ》ねて來《き》た。同鄕《どうきやう》で同《おな》じ中學《ちうがく》にゐた男《をとこ》で、加瀨《かせ》がこの家《うち》に同宿《どうしゆく》してゐた頃《ころ》、職《しよく》を失《うしな》つて轉《ころ》がり來《こ》んだこともある。醉《よ》はぬ時《とき》は顏色《かほいろ》靑《あを》く、言葉《ことば》も少《すくな》く、目《め》は潤《う》るんでゐるが、少《すこ》しでも醉《ゑ》ひが廻《まは》ると、悲憤《ひふん》慷慨《こうがい》滿心《まんしん》の血《ち》が湧《わ》き立《た》つて、自身《じゝん》一人《ひとり》で世界《せかい》と角力《すまふ》でも取《と》る勢《いきほひ》だ。彼《か》れの所謂《いはゆる》「お利口連《りこうれん》」を罵《のゝし》つて淚《なみだ》を浮《うか》べることもある。加瀨《かせ》などは頭《あたま》から「馬鹿野郞《ばかやらう》」「靑《あを》二|才《さい》」「僞善者《ぎぜんしや》」の百萬|遍《べん》を浴《あび》せかけられる。 今日《けふ》は七|分《ぶ》の醉《ゑひ》だ。格子戶《かうしど》をガラリと激《はげ》しく開《あ》けると、「大將《たいしやう》居《ゐ》るか」と怒鳴《どな》つて、帽子《ぼうし》を投《な》げて、座敷《ざしき》の眞中《まんなか》に胡床《あぐら》を搔《か》いた。 「大分《だいぶ》元氣《げんき》がいゝね、ちつとは儲《まう》かつたんだらう、おれに金《かね》でも吳《く》れに來《き》たのぢやないか」と、私《わたし》は帶《おび》を締《し》めながら相手《あひて》を見下《みおろ》して云《い》つた。 「馬鹿《ばか》云《い》へ、金《かね》なんかあるもんか」 「宿《やど》は矢張《やはり》下谷《したや》の天井裏《てんじやうゝら》か」 「馬鹿《ばか》云《い》へ、とつくに轉居《てんきよ》して今《いま》は四谷《よつや》の庭《には》の廣《ひろ》い家《うち》にゐる、近《ちか》いから學校《がくかう》の歸《かへ》りにでも寄《よ》れ、アブサンを呑《の》ましてやらあ」 「さうか、モー天井裏《てんじやうゝら》にゐないんか、ぢや少《すこ》し堕落《だらく》した方《はう》だね、僕《ぼく》は君《きみ》があの二|階《かい》にゐるのを悲《かな》しむよりも寧《むし》ろ祝《しゆく》してゐたのだがなあ、鼠《ねづみ》の糞《ふん》や蜘蛛《くも》の巢《す》の中《なか》で、蠟燭《らうそく》を點火《とぼ》して文章《ぶんしやう》を書《か》いてるのを見《み》ると、僕《ぼく》あ拜《おが》みたいやうな氣《き》がした。昔《むかし》の天才《てんさい》や義人《ぎじん》によくある例《れい》だからね。」 「うんにや僕《ぼく》はもう方針《はうしん》を變《か》へた、どんな卑屈《ひくつ》な眞似《まね》をしても金《かね》を儲《まう》けるつもりだ、世《よ》の中《なか》は俗物《ぞくぶつ》ばかりだから、これまでのやうにしちや馬鹿《ばか》を見《み》るからな、もう主義《しゆぎ》變更《へんかう》だ。」 「しかし君《きみ》はどうして金《かね》を儲《まう》ける、何處《どこ》から見《み》たつて素質《そしつ》はないぢやないか、君《きみ》が俗物《ぞくぶつ》になるのは加瀨《かせ》の頭《あたま》が五|分刈《ぶがり》になる時代《じだい》だらう」 「加瀨《かせ》なんかゞ」と、豐島《とよしま》は投《な》げつけるやうに云《い》つて、「あんな男《をとこ》で八|方《ぱう》に色女《いろをんな》が出來《でき》るんだらうか、馬鹿野郞《ばかやらう》に」と叫《さけ》んで、唾《つばき》を迸《ほとば》しらす。 「そうだねえ、僕《ぼく》や君《きみ》にや待《ま》てども〳〵雌猫《めねこ》一|匹《ぴき》寄《よ》つて來《こ》ないんだからね」 「つまり何《なん》だよ、君《きみ》や僕《ぼく》は自分《じぶん》を屈《くつ》して優《やさ》しくなれんから駄目《だめ》なんだよ、お互《たが》ひに金《かね》も出來《でき》にや女《をんな》も出來《でき》ん、けれど僕《ぼく》あこれからやる、戀《こひ》もするし金《かね》も取《と》る、君《きみ》もさうしろ、その方《はう》が得《とく》だもの、どうせ利口《りこう》な奴等《やつら》にや僕《ぼく》等《ら》の心《こゝろ》は分《わか》りやせんのだから、」と豐島《とよしま》は毛《け》の濃《こ》い腕《うで》をまくつて、赤《あか》く肥《ふと》つた頰《ほゝ》をこすり上《あ》げつゝ、充血《じうけつ》した目《め》を瞬《しばだ》たく。 「僕《ぼく》もせい〴〵心掛《こゝろが》けやうよ、しかし君《きみ》は今《いま》何《なに》をしとる、夜學校《やがくかう》の方《はう》は革命論《かくめいろん》か何《なに》かやつて止《や》めたそうだが」 「講義錄《こうぎろく》に關係《かんけい》しとる、大著述《だいちよじゆつ》にも着手《ちやくしゆ》しとる、も少《すこ》し餘裕《よゆう》が出來《でき》たら、新運動《しんうんどう》も初《はじ》める、まだはつきり[#「はつきり」に傍点]言《い》ふ譯《わけ》に行《い》かんが、筆《ふで》を劍《けん》にして口《くち》から焰《ほのほ》を吐《は》いて、惰眠《だみん》を貪《むさぼ》つてる今《いま》の社會《しやくわい》を震動《しんどう》さすんだ、君《きみ》も我黨《わがとう》の士《し》だから、その時《とき》や片端《かたはし》擔《にな》つて吳《く》れ」 「少《すこ》し矛盾《むじゆん》だね、さつきにや金儲《かねまう》けの計畵《けいくわく》をしたぢやないか」 「馬鹿《ばか》云《い》ふな、僕《ぼく》等《ら》はこんな薄《うす》のろい世《よ》に我慢《がまん》出來《でき》んのだ」 「同感《どうかん》々々《〳〵》、早《はや》くその活劇《くわつげき》を見《み》せて吳《く》れ、僕《ぼく》は君《きみ》の「馬鹿野郞《ばかやらう》」の聲《こゑ》が日本國《にほんこく》に地響《ぢひゞき》することを望《のぞ》むんだ」 「屹度《きつと》やる〳〵」と、豐島《とよしま》は頰杖《ほゝづゑ》ついて、何《なに》をか考《かんが》へてゐたが、やがてぶつ[#「ぶつ」に傍点]倒《たふ》れて鼾《いびき》をかき出《だ》した。裾《すそ》の摺《す》り切《き》れた袷《あはせ》から毛脛《けずね》を出《だ》し足袋《たび》を穿《は》かぬ足《あし》は塵《ちり》にまみれてゐる。私《わたし》はぢつと見《み》てゐたが、やがて毛布《もうふ》を出《だ》してそつと肩《かた》にかけてやつた。で、彼《か》れが前後《ぜんご》を忘《わす》れて何《なに》かいゝ夢《ゆめ》を見《み》てゐる間《あひだ》に、私《わたし》は學課《がくゝわ》の下調《したしら》べをしてゐた。 「お客樣《きやくさま》はもうお歸《かへ》り」と、緣側《えんがは》の障子《しやうじ》の破《やぶ》れ目《め》からのぞいた女《をんな》が、「あれ寢《ね》てゐらしつて」と呟《つぶや》いた。 私《わたし》は障子《しやうじ》をそつと開《あ》けた。お靜《しづ》が立《た》つてゐる。少《すこ》し靑《あを》ざめた顏《かほ》に長《なが》い眉《まゆ》と黑《くろ》い眼《め》、肉付《にくつき》の不足《ふそく》の頰《ほゝ》に、鼻《はな》のみが高《たか》く鮮《あざや》かに刻《きざ》まれた、左程《さほど》美《うつく》しくない女《をんな》だ。しかしその哀《あは》れつぽい樣子《やうす》が一二|年前《ねんぜん》の私《わたし》には悅《うれ》しかつた。 「お花見《はなみ》にはゐらつしやらないの」と、お靜《しづ》の癖《くせ》として一寸《ちよつと》口《くち》を歪《ゆが》めて笑《わら》つた。私《わたし》はそれには答《こた》へず、半《なか》ば書物《しよもつ》を見《み》ながら穩《おだや》かに、 「まだ日本橋《にほんばし》へ行《ゆ》かないんかね」 「もう歸《かへ》らなくちやならんのですけど、身體《からだ》がよくなつたら明日《あす》にも來《き》て吳《く》れなくちや困《こま》るつて、今《いま》も手紙《てがみ》が來《き》たのですけど、私《わたし》もうあんな騷々《さう〴〵》しい所《ところ》は厭《あ》き〳〵しましたから」と萎《しほ》れた聲《こゑ》で云《い》つた。顏《かほ》にも萎《しほ》れた色《いろ》が動《うご》いたのであらうが、私《わたし》はよく見《み》なかつた。 「だつて仕方《しかた》がないぢやないか、行《ゆ》かなくちやお母《つか》さんが承知《しやうち》しないんだらう」 「だつて私《わたし》厭《いや》で〳〵、とてもこの上《うへ》半歲《はんとし》も辛抱《しんばう》しちやゐられませんもの」 「さうかねえ、しかし世《よ》の中《なか》はどうしたつて氣樂《きらく》で通《とほ》れりやしないんだから、まあ若《わか》い中《うち》に我慢《がまん》して苦勞《くらう》するさ、お靜《しづ》さんなんか女《をんな》はよし氣立《きだて》もいゝんだから」と、私《わたし》は辭書《じゝよ》を引《ひ》き〳〵、ちらと顏《かほ》を見《み》た。女《をんな》の目《め》は早《は》や濡《うる》んでゐる。 「そんな酷《ひど》いことを云《い》つて」と、聲《こゑ》は四邊《あたり》を憚《はゞか》つて、顏《かほ》付《つき》で不平《ふへい》を訴《うつた》へる。 「何故《なぜ》、お靜《しづ》さんなんかこそ、出世《しゆつせ》する運《うん》を持《も》つてるぢやないか、去年《きよねん》からお母《つか》さんが來《く》る度《たび》に自慢《じまん》してゐたよ、大商人《おほあきんど》の家《うち》へ奉公《ほうこう》して、大變《たいへん》お氣《き》に入《い》つてるんだつて、今《いま》でも家《うち》の娘《むすめ》が〳〵と五月蠅《うるさい》程《ほど》云《い》つてるよ。」 近所《きんじよ》ではお靜《しづ》をさる穩居《いんきよ》の妾《めかけ》であるとか、怪《あや》しい商賣《しやうばい》をしてゐるとか蔭口《かげぐち》を利《き》いてゐるが、私《わたし》はそれを確《たし》かには信《しん》じてゐない。二三|年前《ねんまへ》にこそ一|時《じ》心《こゝろ》の浮立《うきた》つて、忍《しの》び〳〵に弄《もてあそ》むでは、世《よ》の中《なか》へ出初《でぞ》めの淋《さび》しさ苦《くるし》さを忘《わす》れたこともあつたが、今《いま》では初戀《はつこひ》の思《おも》ひ出《で》も只《たゞ》人事《ひとごと》のやうな氣《き》がしてゐる。お靜《しづ》はさうは思《おも》つてゐない。私《わたし》にも昔《むかし》の心持《こゝろもち》が繰返《くりかへ》すものと思《おも》つてゐるのであらう。 「お母《つか》さんは私《わたし》が目《め》を廻《まは》して死《し》んだつて、何《なん》とも思《おも》つてやしないんですもの、人中《ひとなか》へ出《だ》して氣骨《きぼね》を折《を》らせてお母《つか》さんは私《わたし》をどうしやうと思《おも》つてるんでせう、先日《こないだ》もお話《はな》したあのことでね」と、お靜《しづ》は首俯《うつむ》いて、淚《なみだ》ぐんだ聲《こゑ》をする。 「おい〳〵先日《こなひだ》の話《はなし》はもう願《ねが》ひ下《さ》げだよ、耳《みゝ》にたこ[#「たこ」に傍点]の出來《でき》る程《ほど》聞《き》かされたんだからな、そんなことを云《い》つてクヨ〳〵しとるから病氣《びやうき》に取付《とりつ》かれて、靑《あを》くなつてなくちやならん、下《くだ》らないぢやないか、それよりや早《はや》く手賴《たよ》りになる男《をとこ》でも捜《さが》し出《だ》して、面白《おもしろ》い日《ひ》を送《おく》る方《はう》がいゝぜ、一昨年《おとゝし》だつたか、日本橋《にほんばし》へ行《ゆ》く前《まへ》にや大變《たいへん》元氣《げんき》のいゝ事《こと》を云《い》つてたぢやないか」と、あの時《とき》お靜《しづ》が私《わたし》との關係《かんけい》はけろり[#「けろり」に傍点]と忘《わす》れたやうにして、寶《たから》の山《やま》へでも入《はい》る氣《き》で、日本橋《にほんばし》とかへ旅立《たびだ》つ時分《じぶん》の得意《とくい》の樣《さま》を思《おも》つた。 お靜《しづ》はシク〳〵泣《な》き出《だ》した。で、今《いま》にも一昨日《おとゝひ》のやうに、怨《うら》んだ言葉《ことば》自棄《やけ》になりさうな文句《もんく》で、私《わたし》の心《こゝろ》を動《うご》かさうとするだらうと待設《まちまう》けながら、書物《しよもつ》の頁《ページ》を飛《と》ばせてゐると、ザーツと手水鉢《てうづばち》に水《みづ》を入《い》れる音《おと》がした。頭《あたま》を上《あ》げると下女《げぢよ》がバケツを持《も》つて、不思議《ふしぎ》さうにお靜《しづ》を見《み》てゐる。 樹木《じゆもく》も草花《くさばな》もない狹《せま》い庭《には》は蔭《かげ》つて、隣《とな》りの二|階《かい》の壁《かべ》にのみ冴《さ》えた光《ひかり》が止《とゞ》まつてゐる。下女《げぢよ》は勝手《かつて》へ廻《まは》りながら、まだ振返《ふりかへ》り〳〵見《み》てゐる。 豐島《とよしま》も目《め》を覺《さ》ました。片頰《かたほゝ》に赤《あか》く疊《たゝみ》の形《かた》を殘《のこ》して、拳《こぶし》で目《め》をこすつてゐる。 「お靜《しづ》さんぢやあ明日《あす》の晩《ばん》にでもゐらつしやい」と、私《わたし》は外方《そと》へ向《むか》つて笑顏《ゑがほ》で柔《やさ》しく云《い》つて障子《しやうじ》を締《し》め、 「もう醒《さ》めたかい、茫然《ぼんやり》してるね」 「うん」と起上《おきあが》つて、帶《おび》をキチンと締直《しめなほ》し、一《ひと》つ欠伸《あくび》をして、「さあ歸《かへ》らう」 「まあいゝぢやないか、何《なに》か僕《ぼく》に用事《ようじ》はないんか」 「うん、用事《ようじ》もあるんだが、又《また》二三|日中《にちうち》に來《こ》よう、これから本鄉《ほんがう》へ行《ゆ》くから、加瀨《かせ》の家《うち》へも寄《よ》るかも知《し》れん」 「あまり彼奴《あいつ》を意地《いぢ》めるなよ」 豐島《とよしま》は外《ほか》に急用《きふよう》でも控《ひか》へてゐるやうに、急《いそ》いで門《もん》を出《で》た。後《あと》に「敷島《しきしま》」の袋《ふくろ》を置忘《おきわす》れてゐた。袋《ふくろ》の中《なか》には煙草《たばこ》が二|本《ほん》と白銅《はくどう》が二《ふた》つ入《はい》つてゐる。 私《わたし》はこの夜《よ》故鄕《こきやう》の弟《おとうと》への手紙《てがみ》を書《か》いた。中《なか》には「出來《でき》るだけの事《こと》をして、それでも食《く》へなければ仕方《しかた》がない、一|家《か》擧《こぞ》つて乞食《こじき》になつて諸國《しよこく》を流浪《るらう》しやうぢやないか、おれもその仲間《なかま》になつてもよい、何《なに》をしても一|生《しやう》だ」と、筆《ふで》の拍子《ひやうし》でこんなこと迄《まで》書《か》き添《そ》えた。  (七) 私《わたし》は學校《がくかう》の生徒《せいと》に人望《じんばう》のある方《はう》でもないが、敢《あえ》て不評判《ふひやうばん》でもない、職務《しよくむ》に精勤《せいきん》する方《はう》ではなく、病《やまひ》と稱《しやう》して缺席《けつせき》することも多《おほ》いが、免職《めんしよく》される程《ほど》怠《なま》けはせぬ。增給《ざうきう》も覺束《おぼつか》なけれど、これで當分《たうぶん》食《く》ひはづしもないから不平《ふへい》を云《い》ふ必要《ひつえう》もない。衣食《いしよく》の慾《よく》は少《すくな》く、外《ほか》に娯樂《ごらく》を求《もと》めるのでもない。そして豐島《とよしま》などの二三の友人《いうじん》がちよい〳〵訪《たづ》ねて來《く》るので、無聊《ぶれう》で苦《くるし》む時《とき》も少《すくな》い。此頃《このごろ》は豐島《とよしま》の外《ほか》に、加瀨《かせ》の宿《やど》で會《あ》つた小山《こやま》が屡々《しば〳〵》顏《かほ》を出《だ》すやうになつたが、この新奇《しんき》な友人《いうじん》は初對面《しよたいめん》の折《をり》からスツカリ私《わたし》の氣《き》に入《い》つた。此方《こつち》から碎《くだ》けて話《はな》しかけると、直《す》ぐ私《わたし》の懷《ふところ》に入《はい》つて來《く》る。その呑氣《のんき》らしい容貌《ようばう》と心《こゝろ》、微塵《みじん》も苦味《にがみ》辛味《からみ》のなく、ポカンとして無駄《むだ》口《ぐち》を利《き》く工合《ぐあひ》が面白《おもしろ》い。で、「君《きみ》は話《はな》せる、學校《がくかう》の先生《せんせい》連中《れんちう》は元《もと》よりだが、豐島《とよしま》だつて加瀨《かせ》だつて娑婆《しやば》臭《くさ》くつて鼻《はな》持《も》ちもならん、君《きみ》は流石《さすが》に江戶《えど》ツ兒《こ》だ、社會《しやくわい》を咀《のろ》つて革命《かくめい》を唱《とな》へるでもなし、加瀨《かせ》のやうに見得坊《みえばう》でもなし」と感服《かんぷく》すると、小山《こやま》も多少《たせう》得意《とくい》になつて、「加瀨《かせ》君《くん》のやうにしてちや、さぞ氣骨《きぼね》の折《を》れるこつでせう」と笑《わら》ふ。 或日《あるひ》の正午《ひる》過《す》ぎに上野《うへの》を散步《さんぽ》してゐると、小山《こやま》が縞《しま》の羽織《はおり》に袴《はかま》を着《つ》け、不似合《ふにあひ》な山高《やまたか》帽子《ぼうし》を被《かぶ》り、少《すこ》し仰向《あふむ》いて口《くち》を開《あ》け、左《ひだり》の手《て》で突《つき》袂《たもと》をして廣吿隊《くわうこくたい》の後《あと》から澄《す》まして步《ある》いて來《き》たが、その樣子《やうす》が甚《はなは》だ面白《おもしろ》かつた。私《わたし》は呼止《よびと》めて、一|緖《しよ》に夕方《ゆふがた》まで遊《あそ》び暮《くら》したが、彼《か》れは女《をんな》の步《ある》き振《ぶ》りから、その心理《しんり》上《じやう》生理《せいり》上《じやう》の批判《ひはん》を下《くだ》すと云《い》つて、左右《さいう》を顧《かへり》みては、毒《どく》のない毒語《どくご》を放《はな》ち、 「巧《うま》いもんでせう、加瀨《かせ》君《くん》にもよく敎《をし》へてやるんですよ、僕《ぼく》が多年《たねん》の經驗《けいけん》から歸納《きなう》した結果《けつくわ》ですから、一々《いち〳〵》的中《てきちう》します」 と自慢《じまん》した。會《あ》ふ度《たび》每《ごと》にお樂《らく》の身《み》の上《うへ》も加瀨《かせ》の秘密《ひみつ》も、面白《おもしろ》さうに話《はな》して、多少《たせう》のお景物《けいぶつ》まで添《そ》へる。「お樂《らく》の事《こと》は、もう加瀨《かせ》先生《せんせい》がちやんと[#「ちやんと」に傍点]一人《ひとり》で呑込《のみこ》んでる、おれが見込《みこ》んだらどんな女《をんな》でも厭《いや》とは云《い》はせんと、自分《じぶん》で確信《かくしん》してるんです」とか「貴下《あなた》のこともよく例《れい》に引《ひ》いて、あの男《をとこ》はとても女《をんな》に好《す》かれりやしないと云《い》つてる」とか、調子《てうし》に乗《の》つて喋舌《しやべ》る。 この男《をとこ》に連《つ》られて、私《わたし》はお樂《らく》の家《うち》へも行《い》つた。お樂《らく》は從姉《いとこ》と二人《ふたり》で徒士町《おかちまち》の或《ある》小役人《こやくにん》の二|階《かい》を借《か》りて自炊《じすゐ》をしてゐる。遞信省《ていしんしやう》の女《をんな》判任官《はんにんくわん》で十二三|圓《ゑん》の月收《げつしう》があるらしい。 私《わたし》の訪《たづ》ねた時《とき》は、お樂《らく》は役所《やくしよ》から歸《かへ》つて、袴《はかま》を疊《たゝ》んでゐた。部屋《へや》は廣《ひろ》くないのに、簞笥《たんす》や鏡臺《けうだい》や針刺《はりさし》や、諸道具《しよだうぐ》が一通《ひとゝほ》り揃《そろ》つてゐるのだから、非常《ひじやう》に窮屈《きうくつ》だ。小形《こがた》の低《ひく》い机《つくゑ》の上《うへ》には加瀨《かせ》編輯《へんしう》の婦人《ふじん》雜誌《ざつし》と貸本屋《かしほんや》の小說《せうせつ》が載《のつ》てある。 小山《こやま》は餘程《よほど》懇意《こんい》だと見《み》えて、いきなり[#「いきなり」に傍点]胡床《あぐら》を搔《か》いて、「おい、お樂《らく》さん、今日《けふ》は加瀨《かせ》の代《かは》りに須崎《すさき》先生《せんせい》を連《つ》れて來《き》たよ、御馳走《ごちさう》しないか」と云《い》つた調子《てうし》、お樂《らく》はあまり馴々《なれ〳〵》しくもなく愛嬌《あいけう》も賣《う》らず、初々《うい〳〵》しく私《わたし》に挨拶《あひさつ》をした。私《わたし》はろくに口《くち》も利《き》かず、只《たゞ》小山《こやま》の喋舌《おしやべり》とお樂《らく》の擧動《きよどう》を注目《ちうい》してゐた。この女《をんな》田舎《ゐなか》には兩親《りやうしん》があるのださうだが、何故《なぜ》歲頃《としごろ》になつて結婚《けつこん》もせず、こんな風《ふう》に暮《く》らしてゐるのだらう、加瀨《かせ》が愛《あい》してゐると云《い》つて、それがどの位《くらゐ》進行《しんかう》してゐるのだらう、小山《こやま》から聞《き》いたゞけでは腑《ふ》に落《お》ちぬことが多《おほ》い。 小山《こやま》は窓《まど》の閾《しきゐ》に腰《こし》を掛《か》け、膝《ひざ》を重《かさ》ねて貧乏搖《びんばふゆる》ぎをしながら、 「今夜《こんや》姉《ねえ》さんは何處《どこ》かへ行《い》つたのかい」 「えゝ、一寸《ちよつと》道寄《みちよ》りしたのよ、もう歸《かへ》るでせう」 「歸《かへ》つたら皆《み》んなで散步《さんぽ》しようか」 「私《わたし》散步《さんぽ》なんか嫌《いや》だわ」 「お樂《らく》さんは消極的《せうきよくてき》だからいかん、もつと活潑《くわつぱつ》にハキ〳〵しなくちや駄目《だめ》だよ」 「さうですかねえ」と、お樂《らく》は不愛相《ぶあいさう》に云《い》ふ。そしてお茶《ちや》を汲《く》んで、後《あと》は几帳面《きちやうめん》に座《すわ》つて身動《みうご》きもしない。 「今日《けふ》はお樂《らく》さんはどうかしてるね、加瀨《かせ》を連《つ》れて來《こ》んから不平《ふへい》なんぢやないか」と、小山《こやま》は冷《ひや》かすやうに云《い》つたが、お樂《らく》は何《なん》とも答《こた》へず、少《すこ》し俯首《うつむ》いて、膝《ひざ》の上《うへ》で指先《ゆびさき》をいぢつてゐる。 「過日《こなひだ》加瀨《かせ》と何處《どこ》かへ散步《さんぽ》したさうだね、あの時《とき》お樂《らく》さんがこんな事《こと》を云《い》つてたつて、皆《みんな》僕《ぼく》に話《はな》したよ、それでね加瀨《かせ》は近々《きん〳〵》家《うち》を持《も》つと云《い》つて頻《しき》りに準備《じゆんび》をしとる。お樂《らく》さんのためにも祝《しゆく》すべきことだね、二|階《かい》借《か》りをしてお役所《やくしよ》通《がよ》ひなんかしないでもいゝんだから」と、小山《こやま》は相手《あひて》の顏《かほ》色《いろ》には無頓着《むとんちやく》で云《い》ふと、お樂《らく》はツンとして、 「小山《こやま》さんは何時《いつ》も人《ひと》を馬鹿《ばか》にしとるのね」 「何故《なぜ》、僕《ぼく》はお樂《らく》さんには敬意《けいゝ》を拂《はら》つてるから、その幸福《かうふく》のために盡力《じんりよく》してるんぢやないか」 「もう澤山《たくさん》!」 「ぢやその話《はなし》は止《よ》そう」と、小山《こやま》は私《わたし》の方《はう》を向《む》き、「君《きみ》、近々《きん〳〵》大久保《おほくぼ》であの會《くわい》をやらうぢやありませんか、その時《とき》やお樂《らく》さんも是非《ぜひ》お出《い》でよ、この人《ひと》の家《うち》で演藝會《えんげいくわい》をやるんだから、僕《ぼく》が一|緖《しよ》に行《ゆ》きや姉《ねえ》さんも何《なん》とも云《い》やあしないだらう」 「私《わたし》もう何處《どこ》へも行《ゆ》かないわ」 「だつて須崎《すさき》君《くん》の家《うち》ならいゝぢやないか、この人《ひと》は僕《ぼく》にも加瀨《かせ》君《くん》にも親友《しんいう》だし、大變《たいへん》な學者《がくしや》だから。こんな恐《こは》い面《かほ》をしてるけれど、これで氣《き》の輕《かる》い面白《おもしろ》い人《ひと》だよ、時々《ときどき》遊《あそ》びに行《い》つて御覽《ごらん》、二人《ふたり》で長唄《ながうた》でも唄《うた》つて陽氣《やうき》にやるも、加瀨《かせ》君《くん》と差向《さしむか》ひでニヤリ〳〵笑《わら》つてるよりやいゝよ」 私《わたし》は退屈《たいくつ》して苦笑《くせう》して、「もう歸《かへ》らうぢやないか」と小山《こやま》を促《うなが》した。 小山《こやま》は容易《ようい》に歸《かへ》らうともせず、「姊《ねえ》さんはどうしたのだらう」と氣遣《きづか》つてゐたが、暫《しば》らくすると無斷《むだん》で階下《した》へ下《お》りた。誰《だれ》かと高聲《たかごゑ》で話《はな》してゐる。 私《わたし》は窓際《まどぎは》へすり寄《よ》つて、正面《まとも》にお樂《らく》を見《み》た。以前《いぜん》加瀨《かせ》の宿《やど》で見《み》た時《とき》よりは、少《すこ》し色《いろ》が惡《わる》く目《め》もあの時《とき》ほど冴《さ》えてゐない。 「小山《こやま》君《くん》はよく來《く》るんですか」 「えゝ、一|日《にち》隔《お》き位《ぐらゐ》に入《い》らつしやるんですわ」 「來《き》て何《なに》をするのです、あの人《ひと》は面白《おもしろ》いでせう」 「えゝ、お喋舌《しやべり》ばつかりして」と、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、さも不愉快《ゆくわい》さうだ。 「あれ程《ほど》毒氣《ゞくけ》のない秘密《ひみつ》のない男《をとこ》もない、だから皆《み》んなに好《す》かれるんです、加瀨《かせ》なんかもあの人《ひと》には何《なに》もかも打明《うちあ》けると見《み》えて、僕《ぼく》のやうな永《なが》い間《あひだ》の友人《いうじん》が知《し》らんことまで小山《こやま》君《くん》は知《し》つてゐます」 「ですけど小山《こやま》さんにだつて、秘密《ひみつ》はあるでせう、人間《にんげん》は誰《だ》れにだつて秘密《ひみつ》はあるんですもの」と滅入《めい》つた聲《こゑ》だ。 「さうですかねえ、しかし小山《こやま》や加瀨《かせ》の秘密《ひみつ》といつて、高《たか》がきつと情婦《いろをんな》を拵《こしら》えとく位《くらゐ》のことだらう」と冷《ひやゝ》かに笑《わら》つて、殊更《ことさら》に侮蔑《ぶべつ》するやうな目付《めつき》でジツと相手《あひて》を見《み》た。それがお樂《らく》には身震《みぶる》ひする程《ほど》の感《かん》じを與《あた》へたらしい。つツと立《た》つて階下《した》へ下《お》りた。私《わたし》は後《あと》を見送《みおく》つて姿《すがた》のいゝ女《をんな》だと思《おも》つた。少《すくな》くもお靜《しづ》よりは生々《いき〳〵》してゐる。そして小山《こやま》の云《い》ふやうにこの女《をんな》も加瀨《かせ》を戀《こひ》してゐると思《おも》ふと、何《なん》となく不愉快《ふゆくわい》な變《へん》な感《かん》じがする。 暫《しば》らくして私《わたし》も階下《した》へ下《お》りた。小山《こやま》は緣側《えんがは》で肥《ふと》つた女《をんな》と竊《ひそ》かに何《なに》か語《かた》り合《あ》ひ、お樂《らく》は長火鉢《ながひばち》の前《まへ》で夕刊《ゆふかん》の新聞《しんぶん》を讀《よ》みながら、橫目《よこめ》でその方《はう》を偸見《ぬすみゝ》してゐた。 「あれは誰《だ》れだ」と、歸《かへ》り途《みち》に小山《こやま》に聞《き》くと、 「お樂《らく》の姊《あね》さ」と、簡單《かんたん》に答《こた》へて、何時《いつ》ものお喋舌《しやべり》を續《つゞ》けない。 「お樂《らく》も妙《めう》な女《をんな》だね、」 「あれも馬鹿《ばか》に浮《う》いてる時《とき》と、妙《めう》にひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]る時《とき》とある」 この日《ひ》からお樂《らく》は私《わたし》の頭《あたま》に一《ひと》つの蟠《わだか》まりとなつて殘《のこ》つた。懷《なつ》かしくも床《ゆか》しくも思《おも》ふのではないが、只《たゞ》一二|年前《ねんぜん》お靜《しづ》に別《わか》れて以来《いらい》私《わたし》に例《れい》のない一|種《しゆ》のインテレストを惹起《ひきおこ》したのだ。何故《なぜ》だらう、私《わたし》はお樂《らく》と加瀨《かせ》の戀《こひ》に疑問《ぎもん》を抱《いだ》いてゐるので、その經過《けいくわ》を見《み》たいと思《おも》ふ好奇心《かうきしん》から、知《し》らず〴〵お樂《らく》が私《わたし》の心《こゝろ》を去《さ》らなくなつたのだらうと思《おも》つた。で、お樂《らく》ともつと[#「もつと」に傍点]打解《うちと》けて話《はな》して、あの淺薄《せんぱく》な加瀨《かせ》がどんな風《ふう》に女《をんな》の心《こゝろ》に映《うつ》つてゐるか、眞相《しんさう》を捜《さぐ》つて見《み》たいが、容易《ようい》に懇意《こんい》にはなれぬ。 この後《ご》暫《しば》らく私《わたし》は土州橋《としうばし》を渡《わた》ることが繁《しげ》くなつた。それにつれて財政《ざいせい》の平調《へいてう》も破《やぶ》れた。  (八) 大久保《おほくぼ》は躑躅《つゝぢ》が咲《さ》いて人《ひと》の出入《でいり》が多《おほ》くなつた。私《わたし》の家《うち》へも來客《らいきやく》が多《おほ》い。私《わたし》は財囊《ざいのう》の缺乏《けつばふ》を感《かん》じて、内職《ないしよく》に原稿《げんかう》稼《かせぎ》でもしようかと思《おも》つてゐたが、手近《てぢか》い所《ところ》に捌《さば》け口《ぐち》がない。加瀨《かせ》に賴《たの》むのは厭《いや》だ。駈廻《かけまは》つて面識《めんしき》の淺《あさ》い人《ひと》に嘆願《たんぐわん》するのも淺《あさ》ましい氣《き》がする。まだ二十七|歲《さい》の若《わか》い身空《みそら》で、仰《あふ》ぎ見《み》る幻影《まぼろし》もなく、只《たゞ》刻々《こく〳〵》の肉慾《にくよく》を充《み》たさんがために、僅《わづ》かの金《かね》を求《もと》めてゐる自身《じゝん》が可笑《おか》しく感《かん》ぜられた。 或日《あるひ》加瀨《かせ》と小山《こやま》とが躑躅《つゝぢ》見《み》の歸《かへ》りに立寄《たちよ》つた。加瀨《かせ》の唇《くちびる》は臙脂《べに》をさしたやうに赤《あか》い。白《しろ》い細《ほそ》長《なが》い指《ゆび》に黃《きい》ろい指環《ゆびわ》を嵌《は》めてゐる。 「此頃《このごろ》も徒士町《おかちまち》へよく行《ゆ》くかね」と、私《わたし》は加瀨《かせ》を見《み》ると直《す》ぐに問《と》うた。 「僕《ぼく》よりや小山《こやま》君《くん》の方《はう》がよく行《ゆ》く」と、加瀨《かせ》はニヤリ〳〵笑《わら》ふ。 「君《きみ》もよく行《ゆ》くぢやないか、しかしね須崎君《すさきくん》、君《きみ》は徒士町《おかちまち》であまり評判《ひやうばん》がよくないよ、何《なん》だか意地《いぢ》の惡《わる》さうな人《ひと》だと云《い》つてる、僕《ぼく》は頻《しき》りに辯護《べんご》するんだけど」 「さうかねえ、困《こま》つたものだねえ」 「君《きみ》はわざつ[#「わざつ」に傍点]と女《をんな》を侮蔑《ぶべつ》するやうな態度《たいど》を執《と》るからさ、柔《やさ》しくさへすれば女《をんな》は喜《よろこ》んで來《く》る、君《きみ》は下《くだ》らないと云《い》ふだらうが、それで女《をんな》を弄《もてあそ》んでりや、面白《おもしろ》いぢやないか」と加瀨《かせ》は珍《めづ》らしく氣焔《きえん》を吐《は》く。 「君《きみ》も小山《こやま》君《くん》の口《くち》眞似《まね》をするやうになつたね、僕《ぼく》は君《きみ》の戀《こひ》は眞面目《まじめ》なんかと思《おも》つてたのに、ぢや浮氣《うはき》なんだね」 「浮氣《うはき》でもない、それが戀《こひ》の本體《ほんたい》さ。せつぱ詰《つま》つたやうな戀《こひ》は駄目《だめ》だからね、餘裕《よゆう》のある戀《こひ》でなくちや僕《ぼく》等《ら》はいやだ。面白味《おもしろみ》は其處《そこ》にある」 「君《きみ》も進步《しんぽ》したもんだね」と、私《わたし》は加瀨《かせ》がこの家《うち》に同居《どうきよ》してゐた時分《じぶん》を追想《つゐさう》した。今《いま》の彼《あ》れの目《め》は、邪推《じやすゐ》か知《し》らぬが私《わたし》を憐《あは》れむやうに見《み》える。 「何《なに》しろ加瀨《かせ》君《くん》は金《かね》があるから敵《かな》はない。外《ほか》の點《てん》では敢《あえ》て一|步《ぽ》も讓《ゆづ》らんがね」と、小山《こやま》は歎息《たんそく》した。 加瀨《かせ》は勝利者《しやうりしや》の如《ごと》く笑《わら》つて、「この人《ひと》も今《いま》戀《こひ》の苦《くる》しみをしてるんだよ」 私《わたし》は重《かさ》ねて聞《き》かうともしなかつた。加瀨《かせ》は拍子《ひやうし》拔《ぬ》けがして、橫《よこ》を向《む》いて小山《こやま》と小聲《こゞゑ》で話《はな》し出《だ》した。 「徒士町《おかちまち》の姉《あね》の方《はう》は夜遊《よあそ》びをするさうだ、あの家《うち》の妻君《さいくん》が皮肉《ひにく》を云《い》つてたが氣《き》に掛《かゝ》るよ、以前《いぜん》に隨分《ずゐぶん》謂《い》はくのあつた女《をんな》らしいからね」 「早《はや》く結婚《けつこん》して了《しま》へばいゝぢやないか」 「所《ところ》が甘《うま》くさういかんよ、いざとなると逃《に》げてしまうし」 「妹《いもうと》とは違《ちが》うね」 「妹《いもうと》だつて分《わか》るものか」 「ハツ〳〵、君《きみ》は女《をんな》を見《み》る目《め》がない、妹《いもうと》は純潔《じゆんけつ》なものだ、役所《やくしよ》の方《はう》でも評判《ひやうばん》がいゝし、あんなに怠《なま》けないで働《はたら》いてるんだもの、育《そだ》ちが卑《いや》しいのに似合《にあ》はず、あれだけに仕上《しあ》げたんだからね、」 「君《きみ》は成功者《せいこうしや》だが」と、小山《こやま》は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。 「小山《こやま》君《くん》の婦人學《ふじんがく》も理論《りろん》のみだね」と、私《わたし》が橫《よこ》から冷《ひや》かすと、小山《こやま》は「さうでもないさ」と云《い》つて、グツタリ首《くび》を垂《た》れた。その樣子《やうす》が可笑《おか》しくてならぬ。 しかし小山《こやま》の沈《しづ》んだ調子《てうし》は間《ま》もなく消《き》えて、賑《にぎ》やかな世間《せけん》話《ばなし》となつた。 彼等《かれら》は一《ひと》しきり騷《さわ》いで、ランプをつける頃《ころ》に歸《かへ》つた。徒士町《おかちまち》へ行《ゆ》かうと二人《ふたり》は約束《やくそく》して、私《わたし》をも誘《さそ》うたが、私《わたし》はそれに應《おう》じなかつた。 夕餐《ゆふめし》を終《をは》ると戶外《そと》へ出《で》た。無意味《むいみ》に散步《さんぽ》して、散步《さんぽ》しながら加瀨《かせ》と小山《こやま》とが徒士町《おかちまち》の二|階《かい》で戯《たはむ》れて現拔《うつゝぬ》かしてゐる樣《さま》を思《おも》ひ浮《うか》べた。二人《ふたり》とも年中《ねんぢう》飽《あ》きもせずに遊《あそ》んでゐる。加瀨《かせ》の奴《やつ》仕事《しごと》も愉快《ゆくわい》だと云《い》ふ。やがて雜誌《ざつし》の主任《しゆにん》に昇進《しやうしん》するさうだ。案山子《かゝし》にフロツクコートを着《き》せたやうな男《をとこ》が通用《つうよう》する世《よ》の中《なか》だと思《おも》ふと可笑《をか》しいと、私《わたし》は强《し》いて嘲《あざけ》つて冷笑《れいせう》してやつた。 花《はな》は散《ち》つて靑葉《あをば》が柔《やはらか》い風《かぜ》に戰《そよ》いでゐる。軒《のき》ランプもない薄暗《うすぐら》い私《わたし》の家《いへ》の前《まへ》には、子供《こども》が大勢《おほぜい》騷《さわ》いでゐるのが聞《きこ》える。 私《わたし》は小徑《こみち》を五六|丁《ちやう》行戾《ゆきもど》りして、家《いへ》の側《そば》まで來《く》ると座敷《ざしき》の障子《しやうじ》に燈火《あかり》が映《うつ》つてゐる。消《け》して出《で》た筈《はず》だが、誰《だ》れか客《きやく》でも來《き》たのかと、多少《たせう》悅《ゝれ》しかつた。 座敷《ざしき》へ上《あが》つて見《み》ると、お靜《しづ》が片隅《かたすみ》に兩袖《りやうそで》を搔合《かきあは》せて座《すわ》つてゐる。矢張《やはり》顏《かほ》が靑《あを》く唇《くちびる》の色《いろ》も褪《あ》せてゐれど、この前《まへ》ほど厭《いや》に感《かん》ぜられなかつた。 「又《また》日本橋《にほんばし》へ行《い》つたと聞《き》いてたが、まだ居《ゐ》るんだね」 「まだ身體《からだ》がよくなりませんから、……どうせ駄目《だめ》なのですから」と、聲《こゑ》も冴《さ》え冴《ざ》えせず厭《いや》な音《おん》だ。 けれど私《わたし》はあまり憎《にく》まれ口《ぐち》を利《き》かなかつた。冷《ひや》やかしもしなかつた。嘗《かつ》て私《わたし》を棄《す》てゝ他所《よそ》へ行《い》つたこの女《をんな》と火鉢《ひばち》を隔《へだ》てゝ差向《さしむか》ひで、夜更《よふ》ける迄《まで》も物語《ものがた》つた。下手《へた》な虛《うそ》を云《い》つてるなと折々《をり〳〵》心《こゝろ》で嘲《あざ》けりながら、女《をんな》の苦勞《くらう》話《ばなし》を聞《き》いてやつた。  (九) その翌日《よくじつ》、朝《あさ》早《はや》く出勤《しゆつきん》前《まへ》に豐島《とよしま》からのハガキが着《つ》いた。「午後《ごゞ》學校《がくかう》へ尋《たづ》ねて行《ゆ》くから待《まつ》てゐて吳《く》れ」と鉛筆《えんぴつ》で書《か》いてある。どうせ碌《ろく》な用事《ようじ》でもあるまいと思《おも》つたが、別《べつ》に歸宅《きたく》を急《いそ》ぎもせぬから、私《わたし》は同僚《どうれう》が皆《みな》引擧《ひきあ》げた後《あと》に居殘《ゐのこ》つて、この日《ひ》の宿直《しゆくちよく》の長沼《ながぬま》と土臭《つちくさ》い番茶《ばんちや》を啜《すゝ》りながら話《はなし》をしてゐた。長沼《ながぬま》は私《わたし》よりも七《なゝ》ツ八《や》ツ年上《としうへ》で、子供《こども》が二人《ふたり》もあるのに、月給《げつきう》は却《かへつ》て私《わたし》よりも少《すくな》く、生計《くらし》には隨分《ずゐぶん》苦勞《くらう》してゐるのだが、人間《にんげん》が一|風《ぷう》異《かは》つてゐて、敎場《けうぢやう》で鷄《とり》の泣《な》く眞似《まね》をしたり、妙《めう》な身振《みぶり》をして生徒《せいと》を喜《よろこ》ばせてゐる。同僚《どうれう》の中《うち》では一|番《ばん》私《わたし》と話《はなし》が合《あ》ふ方《はう》だ。 「今日《けふ》も僕《ぼく》あさんざ失敗《しくじり》ましたよ、晚酌《ばんしやく》をやり過《すご》して下讀《したよみ》を懶《なま》けたもんだから、下《くだ》らんことで間違《まちが》ひを仕出《しで》かして、生徒《せいと》の奴《やつ》にうん[#「うん」に傍点]と油《あぶら》を取《と》られました。その上《うへ》校長《かうちやう》先生《せんせい》から手嚴《てきび》しい忠吿《ちうこく》を喰《く》ひましてな、敎場《けうぢやう》で飄輕《ひやうきん》な眞似《まね》をしちやならん、敎場《けうぢやう》は神聖《しんせい》な所《ところ》だから飽《あ》くまでも眞面目《まじめ》でなくちやならんと懇々《こん〳〵》と說諭《せつゆ》されて、イヤハヤ面目《めんぼく》もない次第《しだい》ですよ、しかし飄輕《ひやうきん》だからまだ、私《わたし》に脈《みやく》があるんですが、これで御說諭《ごせつゆ》通《どほ》り辛蟲《にがむし》嚙《かみ》つぶした間違《まちがひ》をやつてた日《ひ》にや、生徒《せいと》の方《はう》で承知《しやうち》しません、校長《かうちやう》先生《せんせい》も殘酷《ざんこく》なことを申《まを》されるもんです、」と長沼《ながぬま》は安値《やす》い刻《きざみ》煙草《たばこ》を吸《す》ひながら眞面目《まじめ》で云《い》ふ。 「けれど君《きみ》は間違《まちが》ひを氣《き》に掛《か》けるだけ眞面目《まじめ》なんです、それだけ正直《しやうじき》なんだ、高《たか》が丁年《ていねん》未滿《みまん》の子供《こども》ぢやありませんか、口先《くちさ》きで甘《うま》く云《ひ》ひまるめりやいゝんですよ」と、私《わたし》が事《こと》もなげに云《い》ふと、 「まあそんな者《もの》ですがね」と、長沼《ながぬま》はヒツ〳〵と味《あぢ》のない笑《わら》ひ方《かた》をして、「私《わたし》はどうも敎育《けういく》だけは外《ほか》の事《こと》とは違《ちが》つてる、尊《たつと》い者《もの》だと思《おも》うのでしてな、生徒《せいと》の顏《かほ》を見《み》ると、忠實《ちうじつ》によく敎《をし》へてやりたい少《すこ》しでも早《はや》く學業《がくぎやう》の進《すゝ》むやうに導《みちび》いてやりたいと思《おも》うんですが、其處《そこ》がそれ、私《わたし》に學識《がくしき》が足《た》らんもんですからな、どうも不行屆《ふゆきとゞき》で汗顏《かん〴〵》の至《いた》りに堪《た》へん譯《わけ》です、と云《い》つて辭職《じゝよく》すれば外《ほか》に糊口《くちすぎ》の道《みち》があるぢやなし」 「それだけ眞面目《まじめ》なら貴下《あなた》は立派《りつぱ》な敎師《けうし》です、少《すこ》し位《ぐらゐ》誤謬《ごびやう》を傳《つた》へようと、飄輕《ひやうきん》な眞似《まね》をしようと差支《さしつか》えないさ、僕《ぼく》なんか少年《せうねん》を愛《あい》する氣《き》もないから、初《はじ》めから敎授《けうじゆ》に身《み》の入《はい》つたことはないのです」 「そりや君《きみ》に子供《こども》がないからですよ、自分《じぶん》に子《こ》があつて見《み》りや、他人《たにん》の子《こ》も矢張《やはり》可愛《かあい》い、よく敎育《けういく》してやりたくなりますよ、何《なに》も經驗《けいけん》だ、まあ子《こ》を持《も》つて御覽《ごらん》なさい、世《よ》の中《なか》ががらり[#「がらり」に傍点]と異《かは》つて來《き》ますからね」 「子《こ》を持《も》つと敎場《けうぢやう》で飄輕《ひやうきん》な眞似《まね》をして、生徒《せいと》の御機嫌《ごきげん》と執《と》るやうになるんですね」と笑《わら》ふと、長沼《ながぬま》も苦笑《くせう》して、 「まあ、そんな者《もの》さねえ」と云《い》つて、風呂敷《ふろしき》の中《なか》から講談《かうだん》の「佐倉《さくら》義民傳《ぎみんでん》」を取出《とりだ》し、「今夜《こんや》はこれをお伽《と》ぎで宿直《しゆくちよく》するのだ」と、机《つくゑ》の上《うへ》に廣《ひろ》げて小聲《こゞゑ》で讀《よ》み出《だ》した。言分《いひぶん》が氣《き》に入《い》らぬのか、もう私《わたし》を相手《あひて》にしない。暫《しば》らくして豐島《とよしま》が下駄《げた》のまゝ敎員室《けうゐんしつ》へ入《はい》つて來《き》た。私《わたし》はほん[#「ほん」に傍点]の型式的《けいしきてき》に長沼《ながぬま》を紹介《しやうかい》した。豐島《とよしま》は「今日《けふ》は馬鹿《ばか》に蒸暑《むしあつ》いぢやないか」と、袷《あはせ》の袖《そで》で額《ひたひ》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》ふて目《め》をパチクリさせ、それから一|輪《りん》の花《はな》も一|幅《ぷく》の繪《ゑ》もない薄汚《うすぎたな》い敎員室《けうゐんしつ》を見渡《みわた》した。 「何《なに》か急用《きふよう》か」と、私《わたし》の方《はう》から問《と》ふた。この男《をとこ》何《なん》でもない事《こと》に、さも急用《きふよう》のあるらしく、惶《あわた》だしさうに出《で》たり入《はい》つたりする男《をとこ》だが、今日《けふ》もその顏《かほ》付《つき》が大事《だいじ》を扣《ひか》へた人《ひと》とも見《み》えぬ。 「僕《ぼく》は辭職《じゝよく》した」と、豐島《とよしま》は大聲《おほごゑ》で簡短《かんたん》明瞭《めいれう》に云《い》つた。 「さうか」と云《い》つたきり、私《わたし》は折返《をりかへ》して理由《りゆう》を聞《き》きもしなかつたが、長沼《ながぬま》は片手《かたて》で書物《しよもつ》を壓《おさ》へ、ヂロ〳〵豐島《とよしま》の顏《かほ》を見《み》て、聞耳《きゝみゝ》立《た》てた。 「俗《ぞく》な事《こと》を書《か》かにや氣《き》に入《い》らんのだから、癪《しやく》に觸《さは》つて、僕《ぼく》の方《はう》から出《で》てしまつた。もう向《むか》うから賴《たの》んだつて、あんな仕事《しごと》をやりやしない」と獨《ひと》りで力《りき》んだ。 「それもいゝさ、君《きみ》にはあんな俗務《ぞくむ》は不適當《ふてきたう》だからな、これから君《きみ》の本音《ほんね》を出《だ》して活動《くわつどう》するさ」 「むん、………それから君《きみ》にお願《ねが》ひだが、當分《たうぶん》君《きみ》の家《うち》に置《お》いて吳《く》れんか、迷惑《めいわく》だらうが」と少《すこ》し言淀《いひよど》んだ。 「僕《ぼく》の家《うち》にか」と、私《わたし》は躊躇《ちうちよ》したが、「ぢや來玉《きたま》へ、今夜《こんや》からでも」 「有難《ありがた》う、二三|日《ち》内《うち》に荷物《にもつ》を持《も》つて行《ゆ》く、そうすりや僕《ぼく》も安心《あんしん》して活動《くわつどう》が出來《でき》る」と云《い》つて、豐島《とよしま》は再《ふたゝ》び室内《しつない》を見渡《みわた》した。夕日《ゆふひ》はガラス窓《まど》を通《とほ》して、埃《ほこり》の舞《ま》ふのが見《み》える。 長沼《ながぬま》は自《みづ》から立《た》つて澁茶《しぶちや》を吸《く》んで、豐島《とよしま》の前《まへ》に置《お》いた。豐島《とよしま》は一息《ひといき》に呑《の》み干《ほ》して、 「此處《こゝ》も汚《きたな》い學校《がくかう》だね、しかし君《きみ》のやうな熱烈《ねつれつ》な人間《にんげん》を容《い》れてるんだから、校長《かうちやう》もえらい」  (十) 前夜《ぜんや》私《わたし》が物好《ものず》きに柔《やさ》しい素振《そぶり》を見《み》せたので、お靜《しづ》はもう以前《いぜん》の燒木杭《やけぼつくひ》が再《ふたゝ》び燃《もえ》上《あが》つた氣《き》になつて、せつせと近《ちか》づいて來《き》たが、私《わたし》は最早《もう》腐《くさ》つた菓實《くだもの》を嗅《か》ぐやうで、思《おも》はず顏《かほ》を背《そむ》けたい程《ほど》になる。そして「調《しら》べ物《もの》がある」とか、「金儲《かねもう》けをしてるんだから當分《たうぶん》來《き》て吳《く》れるな、その代《かは》り一二|年《ねん》待《ま》つてりや、お前《まへ》の好《す》きなことをさしてやる」とか云《い》つて、追退《をひの》けるやうにした。間《ま》もなく豐島《とよしま》が、越《こ》して來《き》てからは、お靜《しづ》を遠《とほざ》けるに都合《つがふ》がよくなつた。 豐島《とよしま》は柳行李《やなぎかうり》と机《つくゑ》との總財產《さうざいさん》を持込《もちこ》んだ。何《なに》か著述《ちよじゆつ》をしてゐるようであるが、大抵《たいてい》は外出《ぐわいしゆつ》して夕方《ゆふがた》に醉《ゑ》うて歸《かへ》ることが多《おほ》い。歸《かへ》つての土產《みやげ》話《ばなし》には俗物《ぞくぶつ》と同情《どうじやう》すべき人《ひと》との消息《せうそく》を傳《つた》へる。彼《か》れの世界《せかい》はハツキリこの二|種《しゆ》の人間《にんげん》に分類《ぶんるゐ》されてゐるので、かの長沼《ながぬま》の如《ごと》きは直《す》ぐにその同情《どうじやう》される人《ひと》となつた。「君《きみ》、あの男《をとこ》は保護《ほご》してやり玉《たま》へ」と、度々《たび〳〵》心《こゝろ》の底《そこ》から私《わたし》に賴《たの》むことがある。又《また》彼《か》れの崇拜者《すうはいしや》もあつて、折々《をり〳〵》訪《たづ》ねて來《き》て、夜更《よふ》ける迄《まで》熱烈《ねつれつ》な議論《ぎろん》が戰《たゝか》はされる。 「社會《しやくわい》に反抗《はんこう》するのもいゝが、その前《まへ》に生活《くらし》の法《はふ》ぐらゐ考《かんが》へとかうぢやないか」と、私《わたし》が注意《ちうい》すると、 「なあに僕《ぼく》あ一人《ひとり》身《み》だ、生活《せいくわつ》なんか考《かんが》へる必要《ひつえう》はない、僕《ぼく》あ食《く》へなけや放浪《はうらう》する、水《みづ》ばかり呑《の》んでゝも、爲《な》すだけのことはして見《み》せる」と取合《とりあ》はぬ。 「ぢや何時《いつ》かの俗化《ぞくゝわ》主義《しゆぎ》はお止《や》めだね」 「止《や》めざるを得《え》ないんだ、君《きみ》もどうせ世《よ》に容《い》れられんのだから、放浪《はうらう》生活《せいくわつ》をしろ、僕《ぼく》と一|緖《しよ》にやらう」 「先《ま》づ君《きみ》から經驗《けいけん》して見玉《みたま》へ、面白《おもしろ》けりや僕《ぼく》もやるよ」 そして彼《か》れは繩暖簾《なはのれん》をくゞつて、泥醉《でいすゐ》の後《のち》突如《とつぢよ》として汗臭《あせくさ》い勞働者《らうどうしや》の腕《うで》を握《にぎ》り、その硬張《こわば》つた手《て》の掌《ひら》に熱淚《ねつるゐ》を濺《そゝ》ぎ、「僕《ぼく》は君《きみ》の兄弟《きやうだい》だ」と叫《さけ》んで、周圍《まはり》の客《きやく》を驚《おどろ》かすこともあるが、彼《かれ》自身《じゝん》は敢《あえ》てその好《す》きな放浪《はうらう》無宿《むしゆく》の人《ひと》ともならぬ。手《て》に鶴嘴《つるはし》を持《も》たうともせぬ。私《わたし》の家《いへ》によく寢《ね》て、よく飮《の》みよく食《く》つてゐる。 日《ひ》が立《た》つにつれて、收入《しうにふ》の一|定《てい》した私《わたし》の財政《ざいせい》は次第《しだい》に窮境《きうけう》に陷《おちい》る。豐島《とよしま》のためにも亂《みだ》されたのだ。しかし彼《か》れは私《わたし》を信《しん》じ切《き》つてゐる。私《わたし》の迷惑《めいわく》などは微塵《みぢん》も念頭《ねんとう》に置《お》いてゐない。「困《こま》つたら二人《ふたり》で放浪《はうらう》するさ」と、放浪《はうらう》の夢《ゆめ》を描《ゑが》いて見《み》せるが、私《わたし》にはそれが何《なん》の興味《きようみ》もない。彼《か》れは放浪《はうらう》流離《りうり》薄命《はくめい》の文字《もじ》を見《み》てすら胸《むね》を躍《おど》らすであらうが、私《わたし》には艶《つや》も香《にほ》ひもない空《くう》な文字《もじ》たるに過《す》ぎぬ。それで彼《か》れが無職《むしよく》の徒《と》や貧民《ひんみん》と無理强《むりぢ》いに交際《かうさい》を結《むす》び、彼等《かれら》に解《かい》し難《がた》い氣燄《きえん》を吐《は》いて樂《たのし》みとしてゐる間《あひだ》に、私《わたし》は小山《こやま》に會《あ》ひ、加瀨《かせ》一|輩《ぱい》の噂《うはさ》を聞《き》いて、眠《ねむ》つた心《こゝろ》を醒《さま》してゐた。  (十一) 豐島《とよしま》同居《どうきよ》以來《いらい》小山《こやま》は前程《まへほど》繁々《しげ〳〵》と訪《たづ》ねて來《こ》ぬ。豐島《とよしま》を嫌《きら》つてか、戀事《いろごと》に忙《せわ》しいためかであらう。私《わたし》はこの人《ひと》ばかりは會《あ》ひたくなるので、或日《あるひ》學校《がくかう》の歸《かへ》りに立寄《たちよ》つたが、朝《あさ》から歸《かへ》らぬさうだ。 私《わたし》は失望《しつばう》した。暫《しばら》く上野《うへの》の電車道《でんしやみち》に立《た》つて、何處《どこ》へ行《ゆ》かうかと考《かんが》えた。そして目《め》を尖《とが》らせて停留場《ていりうぢやう》に集《あつ》まつてゐる數多《あまた》の男女《だんぢよ》を見《み》てゐたが、細《ほそ》長《なが》い顏《かほ》丸《まる》い顏《かほ》、皆《みな》夕日《ゆうひ》を浴《あ》びて、汗《あせ》と埃《ほこり》に鈍染《にじ》み、疲《つか》れた色《いろ》をしてゐる。久《ひさ》しく雨《あめ》を見《み》ぬ空《そら》は冴《さ》えぬ色《いろ》をして、その一|方《ぱう》は黃《きい》ろく濁《にご》つてゐる。目《め》の逹《とゞ》く限《かぎ》り生氣《せいき》は見《み》えぬ。若々《わか〳〵》しい色《いろ》も香《か》もない。 私《わたし》は屈託《くつたく》した。 その揚句《あげく》ふとお樂《らく》を訪《たづ》ねる氣《き》になり、徒士町《おかちまち》へ足《あし》を向《む》けた。お樂《らく》には小山《こやま》のお供《とも》で二三|度《ど》會《あ》つたきりで親《した》しくないのみか、私《わたし》はあの女《をんな》に憚《はゞか》られてゐるのだ。しかしその憚《はゞか》られてゐる所《ところ》へ推《おし》かけて行《ゆ》くと云《い》ふことが、私《わたし》の倦《う》んだ心《こゝろ》を刺激《しげき》して多少《たせう》の活氣《くわつき》も湧《わ》いて來《く》る。 威勢《ゐせい》よく格子戶《かうしど》を開《あ》けて、宿《やど》の妻君《さいくん》に「小山《こやま》さんは來《き》てゐませんか」と聞《き》くと、「今《いま》入《い》らしつて直《す》ぐお歸《かへ》りになりました」といふ。 「ぢやお樂《らく》さんは」 「ゐらつしやいますよ」 私《わたし》はそれ丈《だけ》聞《き》いて、無遠慮《ぶえんりよ》につか〳〵二|階《かい》へ上《あが》つた。お樂《らく》は俯首《うつぶし》になつて手紙《てがみ》を讀《よ》んでゐたが、慌《あは》てゝ居住《ゐずま》ひを直《なほ》して、私《わたし》を見上《みあげ》げた。ニコリともせず澁々《しぶ〳〵》座蒲團《ざぶとん》を出《だ》した。 「小山《こやま》君《くん》が來《き》てるかと思《おも》つて」と、私《わたし》は言譯《いひわけ》をして、わざと柔《やさ》しく馴々《なれ〳〵》しい風《ふう》をして、「どうです、僕《ぼく》の家《うち》へも遊《あそ》びに來《き》ませんか」 「はあ」と、女《をんな》は手紙《てがみ》を卷《ま》いて封筒《ふうとう》に入《い》れた。小山《こやま》の噂《うはさ》加瀨《かせ》の話《はなし》と、勉《つと》めて相手《あひて》を誘《さそ》つても、向《むか》うから乗《の》つて來《こ》ない。埃《ほこり》を吹寄《ふきよ》せる風《かぜ》を厭《いと》うて障子《しやうじ》を締切《しめき》つてあれば、冬《ふゆ》洋服《やうふく》着用《ちやくよう》の私《わたし》には暑苦《あつくる》しくて窮屈《きうくつ》だ。で、物好《ものず》きにこんな所《ところ》にゐるにも當《あた》らぬと思《おも》つたが、今日《けふ》は不思議《ふしぎ》に腰《こし》が据《すわ》つて動《うご》かない。 私《わたし》は加瀨《かせ》が結婚《けつこん》する前《まへ》に、不意《ふい》にこの女《をんな》を奪《うば》つて、加瀨《かせ》に鼻《はな》を空《あ》かせたら面白《おもしろ》からうと思《おも》つた。小山《こやま》やその叔母《をば》や從妹《いとこ》の前《まへ》に並《なら》んで、加瀨《かせ》の鈍《にぶ》い神經《しんけい》を驚《おどろ》かしてやりたい。私《わたし》は嫉妬《しつと》からかう思《おも》ふのではない。只《たゞ》私《わたし》の目《め》には今《いま》でもポンチ繪《ゑ》に見《み》える加瀨《かせ》に、自分《じぶん》自身《じしん》をそのやうに感《かん》じさせて見《み》たい。 そして女《をんな》を口說《くど》くに何《なん》の苦心《くしん》が入《い》らう、失敗《しつぱい》を耻《は》づる私《わたし》ではない。他人《たにん》の後指《うしろゆび》を氣《き》にする私《わたし》ではない。かねて電車《でんしや》を飛下《とびお》りる位《くらゐ》の冒險《ばうけん》さへすれば、是非《ぜひ》を云《い》はせず、女《をんな》は我《わ》が者《もの》と信《しん》じてゐるのではないか、甞《かつ》てお靜《しづ》は手《て》を握《にぎ》るだけで充分《じふゞん》であつた。かう思《おも》つたが、思《おも》ふほど尙更《なほさら》口《くち》も手《て》も活動《くわつどう》しなかつた。 お樂《らく》は女學《ぢよがく》雜誌《ざつし》を讀《よ》み出《だ》した。讀《よ》むよりも屛風《びやうぶ》代《がは》りにして私《わたし》の視線《しせん》を避《さ》けるのかも知《し》れぬ。私《わたし》は「何《なに》か面白《おもしろ》いことが書《か》いてありますか」と、雜誌《ざつし》を引《ひつ》たくるやうに取《と》つて、飜《ひるがへ》して見《み》た。表紙《ひやうし》裏《うら》に「△△女史《ぢよし》に呈《てい》す」と書《か》いて、下《した》に加瀨《かせ》の雅號《ががう》がある。お樂《らく》は恨《うら》めしい顏《かほ》付《つき》をした。 「△△つて貴女《あなた》ですか」と、私《わたし》は冷《ひや》かすやうに云《い》つて、ジツとその文字《もじ》を見詰《みつ》めてゐたが、フイとお樂《らく》に目《め》を移《うつ》すと、お樂《らく》は目《め》に淚《なみだ》を湛《たゝ》えてゐる。 「何《なに》か御用《ごよう》があつて被入《いらし》つたんですか」と切口上《きりこうじやう》で云《い》ふ。 「えツ、別《べつ》に用事《ようじ》もないんです」と、私《わたし》は驚《おどろ》いて云《い》つた。 「では何《なに》しに被入《いらしつ》たのです」と、私《わたし》の手《て》から雜誌《ざつし》を奪返《うばひかへ》し、表紙《ひやうし》を引裂《ひきさ》き手《て》に力《ちから》を入《い》れて丸《まる》めながら、「貴下《あなた》だつて加瀨《かせ》さんだつて、私《わたし》を調戯《からか》いに被入《いらつ》しやるんだわ、」 「何故《なぜ》! そんな譯《わけ》はないぢやありませんか、小山《こやま》君《くん》は兎《と》に角《かく》僕《ぼく》や加瀨《かせ》にそんな惡意《あくい》はないさ、殊《こと》に加瀨《かせ》は貴女《あなた》に敬意《けいゝ》を表《ひやう》してるんですもの」 「加瀨《かせ》さんとかゞ何《ど》うなすつたつて、私《わたし》少《ちつ》とも係合《かゝりあ》ひはありませんわ」と、お樂《らく》は淚《なみだ》を拭《ぬぐ》つて、「何《なに》が面白《おもしろ》くつて、皆《みな》さんは五月蠅《うるさ》く私《わたし》の家《うち》へ被入《いらつし》やるんでせう、私《わたし》姉《ねえ》さんのやうに惡戯《ふざ》けたお相手《あひて》は出來《でき》ませんから、私《わたし》一人《ひとり》の時《とき》には、もう何方《どなた》もお出《い》で下《くだ》さらぬやうにお願《ねが》ひ申《まを》します」と、屹《きつ》とした口調《くてう》で云《い》つた。 私《わたし》も多少《たせう》極《きま》りが惡《わる》くないでもなかつたが、それよりもこの女《をんな》を不思議《ふしぎ》に感《かん》じて、尙《なほ》座《ざ》を立《た》たうとはせぬ。 「そんなに我々《われ〳〵》を嫌《きら》はなくつてもいゝでせう、何《なに》か事情《じゞやう》があるんですか」と、私《わたし》は微笑《びせう》しながら靜《しづ》かに云《い》つた。 お樂《らく》は暫《しば》らく默《だま》つてゐたが、先《さ》きのむごい[#「むごい」に傍点]言葉《ことば》を氣《き》の毒《どく》に感《かん》じたのか、急《きふ》に柔《やさ》しい聲音《こはね》で、「此頃《このごろ》は身體《からだ》の加減《かげん》ですか、人樣《ひとさま》と賑《にぎ》やかなお話《はなし》しますのが、何《なん》だかつらいんですから、寧《いつ》そ初《はじ》めからお目《め》にかゝらん方《はう》がいゝと思《おも》ひますわ」 「さうですか、東片町《ひがしかたまち》へもあまり行《ゆ》かんのですか」 「えゝ。ちつとも、何時《いつ》か歌留多《かるた》會《くわい》があつて、貴下《あなた》も被入《いらし》つた時《とき》、參《まゐ》りましたきり、あの後《ご》は一|度《ど》も窺《うかゞ》ひませんの、」 「だがあの連中《れんぢう》はよく此家《こゝ》へ來《く》るんでせう」 「はあ、………あの方逹《かたゝち》は何故《なぜ》あんなお話《はなし》ばかりなさるんでせう、雜誌《ざつし》にお書《か》きになつてることゝは丸《まる》で違《ちが》つてますのね」お樂《らく》は顏《かほ》も心《こゝろ》も落付《おちつ》いたやうだ。で、身體《からだ》を品《しな》やかに曲《ま》げて、雜誌《ざつし》を默讀《もくどく》してゐたが、又《また》起直《おきなほ》つて雜誌《ざつし》を指先《ゆびさ》きでいぢくり[#「いぢくり」に傍点]ながら、「貴下《あなた》は學校《がくかう》の先生《せんせい》をして居《ゐ》らつしやるんですつてね」 「さうです、小《ちい》さい私立《しりつ》學校《がくかう》の敎師《けうし》だから、月給《げつきう》は安《やす》いし、加瀨《かせ》のやうに贅澤《ぜいたく》は出來《でき》ません、これで十|年《ねん》近《ぢか》くも苦學《くがく》して、こんな境遇《けうぐう》ですからね………だが、貴女《あなた》は何故《なぜ》二人《ふたり》つきりで部屋《へや》借《が》りをして、役所《やくしよ》通《がよ》ひなんかしてるのです、尤《もつと》も小山《こやま》君《くん》からは貴女《あなた》の事《こと》をよく聞《き》いてるけれど」 「小山《こやま》さんが何《なに》を云《い》つたつて當《あ》てになるものですか、あんな淺薄《せんぱく》な人《ひと》」と卑下《さげすむ》やうに云《い》つて、「私《わたし》どうかして一|日《じつ》も早《はや》く姉《あね》と別《わか》れて、一人《ひとり》で暮《くら》したいと思《おも》ひます、」 「心《こゝろ》細《ぼそ》いことを云《い》ひますね、何《なに》か考《かんが》へがあるんですか」 「女《をんな》でも學問《がくもん》しなくちやなりませんわね、私《わたし》なんか小學校《せうがくかう》を卒業《そつげふ》したばかりですから………」 「それで澤山《たくさん》さ、橫文字《よこもじ》を習《なら》ふよりや三味線《さみせん》でも習《なら》つた方《はう》が女《をんな》らしくていゝ」 「ですけど、私《わたし》少《ちいさ》い時《とき》から三味線《さみせん》なんか習《なら》つたのを後悔《こうくわい》しますわ、何《なん》だか早《はや》く忘《わす》れてしまひたいやうな氣《き》がしますのよ」と、邪氣《あどけ》ない風《ふう》が見《み》える。 そして私《わたし》が學校《がくかう》の敎師《けうし》であるためか、私《わたし》に向《むか》つて女子《ぢよし》の學問《がくもん》の方法《はうはふ》西洋《せいやう》音樂《おんがく》硏究《けんきう》の順序《じゆんじよ》を質問《しつもん》した。明治《めいぢ》の女子《ぢよし》の心掛《こゝろが》け、新《あたら》しい家庭《かてい》の道德《だうとく》など、女學《ぢよがく》雜誌《ざつし》から得《え》たと思《おも》はれる問題《もんだい》を提出《ていしゆつ》して、漢語《かんご》交《まじ》りで私《わたし》に解答《かいたふ》を促《うなが》した。こんな問題《もんだい》ならさぞ[#「さぞ」に傍点]加瀨《かせ》には興味《きようみ》があるであらうが、私《わたし》の耳《みゝ》にはノンセンスだ、で、いゝ加減《かげん》に返事《へんじ》をして、「休日《きうじつ》に私《わたし》の家《うち》へお出《い》でなさい」と云《い》つて、戶外《そと》へ出《で》た。 家《うち》へ歸《かへ》ると、豐島《とよしま》が垢染《あかじ》みた單衣《ひとへ》を着《き》て肱枕《ひぢまくら》で寢《ね》ころんでゐたが、私《わたし》を見《み》ると、靑《あを》い顏《かほ》を持上《もちあ》げて、「今日《けふ》はいやな天氣《てんき》だから頭《あたま》が重《おも》い」と、口《くち》をもが〳〵させた。 「酒《さけ》を呑《の》まんからだらう」 「うん、金《かね》がないから」 「意氣地《いくぢ》がないね」 「少《すこ》し持《も》つてたのを、今《いま》乞食《こじき》にやつちまつた、………今日《けふ》又《また》あの女《をんな》が來《き》たよ、靑《あを》い顏《かほ》の女《をんな》が、妙《めう》な奴《やつ》だね、何《なに》をしに來《く》るんだらう、君《きみ》はどうして知《し》つてるんだ」 「以前《いぜん》この隣《となり》に住《す》んでたのだ、あれのお母《ふくろ》に飯《めし》を炊《た》いて貰《もら》つたこともある、何《なに》か云《い》つてたか」 「いや、直《す》ぐ歸《かへ》つちやつたが、憐《あは》れつぽい女《をんな》だね、僕《ぼく》は同情《どうじやう》する」 この夜《よ》彼《か》れは豪語《がうご》も吐《は》かず、古行李《ふるかうり》を開《あ》けて黴《かび》の生《は》へた浴衣《ゆかた》、袖《そで》の千切《ちぎ》れた綿入《わたいれ》、古雜誌《ふるざつし》古書物《ふるしよもつ》を引出《ひきだ》して整理《せいり》してゐた。私《わたし》は散步《さんぽ》がてらお靜《しづ》の家《うち》の周圍《まはり》を迂路《うろ》ついて、家《うち》の者《もの》の目《め》を忍《ぬす》んでお靜《しづ》を引出《ひきだ》した。鈍色《にぶいろ》の雲《くも》に星《ほし》も隱《かく》れ、女《をんな》の顏《かほ》ははつきり[#「はつきり」に傍点]見《み》えなかつたが、私《わたし》は顏《かほ》を見《み》ようともせぬ、聲《こゑ》を聞《き》きたくもない。そして晝《ひる》に見《み》たお樂《らく》の柔《やわら》かい肌《はだえ》を黑闇《くらやみ》の中《うち》に思《おも》ひ浮《うか》べながら、お靜《しづ》の袖《そで》に觸《ふ》れ、お靜《しづ》の息《いき》に觸《ふ》れてゐた。 その後《ご》も二三|度《ど》お靜《しづ》に會《あ》つた。會《あ》つた後《のち》は何時《いつ》も不快《ふくわい》な感《かん》に堪《た》へぬので、豐島《とよしま》に向《むか》つて、「彼女《あれ》が又《また》來《き》たら追拂《おつぱら》つて吳《く》れ、性質《たち》の惡《わる》い女《をんな》だから」と賴《たの》んで置《お》く。しかし豐島《とよしま》は「同情《どうじやう》すべき女《をんな》」と定《き》めてしまつて、私《わたし》の留守《るす》にも座敷《ざしき》へ通《とほ》して睦《むつま》じく話《はなし》をするやうになつた。  (十二) 當《あ》てにもしないが、萬一《まんいち》お樂《らく》が私《わたし》を尋《たづ》ねて來《く》るかも知《し》れんと心待《こゝろま》ちにすることもあつた。小山《こやま》は十日《とをか》も顏《かほ》を見《み》せぬ。 その中《うち》五|月《ぐわつ》は暮《く》れる。私《わたし》は豐島《とよしま》同居《どうきよ》が影響《えいきやう》して、月末《げつまつ》の拂《はら》ひに困《こま》つた。豐島《とよしま》は君《きみ》と苦樂《くらく》を共《とも》にすると云《い》つて、汚《よご》れた衣服《きもの》を賣飛《うりと》ばしたが、それが幾何《いくら》にならう。で、寧《いつ》そ有《あ》るに甲斐《かひ》なき家《いへ》を疊《たゝ》んで下宿《げしゆく》をしようか、豐島《とよしま》を追出《おひだ》す口實《こうじつ》にもなるし、それにお靜《しづ》と手《て》を切《き》るに都合《つがふ》もよしと思《おも》ひ、そろ〳〵安下宿《やすげしゆく》の捜索《さうさく》を初《はじ》めた。或日《あるひ》も散步《さんぽ》を兼《か》ねて宿《やど》を捜《さが》すつもりで、電車《でんしや》に乗《の》つたが、思《おも》ひがけなく向側《むかうがは》に小山《こやま》がゐて、突如《だしぬけ》に、「君《きみ》大變《たいへんへん》な事《こと》が出來《でき》てね」と、目《め》を据《す》ゑ口《くち》を尖《とが》らせて云《い》つた。 「そうか」と、私《わたし》は何《なに》を仰山《げふさん》さうにと心《こゝろ》では思《おも》つてゐた。 「徒士町《おかちまち》の美人《びじん》が二人《ふたり》ともゐなくなつたよ、あの家《うち》で聞《き》いても何處《どこ》にゐるか分《わか》らないんだ、それに役所《やくしよ》へも行《い》かんらしいよ、餘程《よほど》變《へん》だよ」 「だが君《きみ》に知《し》らせんとは不思議《ふしぎ》だね、嫌《きら》はれたのか」 「何《どう》だかね、此頃《このごろ》聞《き》いたのだが、姉《あね》の方《はう》は隨分《ずゐぶん》曰《い》はくのある奴《やつ》で、色《いろ》んな男《をとこ》に關係《くわんけい》してたやうだがね」 「君《きみ》もその一人《ひとり》ぢやないか」 「だつて僕《ぼく》あ少《すこ》しも金《かね》を費《つか》はんからいゝさ」と、恍《とぼ》けた顏《かほ》をする。 「加瀨《かせ》も失望《しつばう》してるだらう」と、私《わたし》は加瀨《かせ》の悄氣《しよげ》た樣子《やうす》を想像《さう〴〵》して冷《ひやゝ》やかに笑《わら》つた。 「いや、あの男《をとこ》はそうでもない、あんな女《をんな》は幾《いく》らもあらあと澄《すま》してゝ、此頃《このごろ》は頻《しき》りに品川《しながは》の鳥屋《とりや》へ通《かよ》つてるよ」 と、云《い》つて、大聲《おほごゑ》で笑《わら》つて電車《でんしや》を下《お》りた。 私《わたし》はお樂《らく》の行衞《ゆくゑ》不明《ふめい》を愉快《ゆくわい》にも感《かん》じたが、又《また》何處《どこ》へ行《い》つて何《なに》をしてゐるか知《し》りたくも思《おも》つた。壓《をさ》へがたき一|種《しゆ》の好奇心《かうきしん》に驅《か》られて、わざ〴〵徒士町《おかちまち》の舊宅《きうたく》を訪《たづ》ねたが、妻君《さいくん》は猜疑《さいぎ》の目《め》で私《わたし》を見《み》て、「存《ぞん》じません」と卒氣《そつけ》ない返事《へんじ》をして、取《とり》つく島《しま》もない。その中《うち》私《わたし》は僅《わづ》かの家財《かざい》を賣拂《うりはら》つて、こつそり[#「こつそり」に傍点]市《いち》ケ谷《や》の下宿《げしゆく》屋《や》へ移《うつ》つた。豐島《とよしま》は別《べつ》に不平《ふへい》も云《い》はず空《から》つぽの古行李《ふるかうり》と古机《ふるづくゑ》とを持《も》つて出《で》て行《い》つた。豐島《とよしま》には離《はな》れ、止《や》むを得《え》ぬ些少《させう》の借金《しやくきん》は片付《かたづ》き、お靜《しづ》には住所《じうしよ》も知《し》らせねば、向《むか》うから訪《たづ》ねることも途絕《とだ》え、私《わたし》は以前《いぜん》の如《ごと》く靜《しづ》かな日《ひ》を送《おく》り、只《たゞ》小山《こやま》とのみ往來《わうらい》して、加瀨《かせ》の噂《うはさ》世《よ》の靑年《せいねん》の消息《せうそく》を語《かた》り合《あ》つては冷《ひや》かしたり嘲《あざけ》つたりして喜《よろこ》んでゐた。箱崎町《はこざきちやう》通《がよ》ひも元《もと》の通《とほ》り。 平坦《へいたん》な日《ひ》が暮《く》れて平坦《へいたん》な夜《よ》が明《あ》ける。煙草《たばこ》を吸《す》ひ湯《ゆ》を呑《の》んで幾《いく》時間《じかん》を過《すご》すことも多《おほ》い。痴鈍《ちどん》な長沼《ながぬま》の目《め》にも私《わたし》が不思議《ふしぎ》に見《み》えたのか或日《あるひ》敎員室《けうゐんしつ》で、 「君《きみ》は田舎《ゐなか》に家《いへ》があるんだから、敎師《けうし》なんかしないで、田舎《ゐなか》に歸《かへ》つたらいゝぢやないか」と眞面目《まじめ》でいつた。 「僕《ぼく》は田舎《ゐなか》を思《おも》ひ出《だ》してもぞつ[#「ぞつ」に傍点]とする、これで東京《とうきやう》に居《を》ればこそ、誰《だ》れが死《し》なうと病《わづ》らはうと、犬《いぬ》や猫《ねこ》と同樣《どうやう》に見《み》てゐられるんだが、田舎《ゐなか》はそういかんからね」 語調《ごてう》が銳《するど》かつたのか、長沼《ながぬま》は私《わたし》を見上《みあ》げて呆氣《あつけ》に取《と》られてゐたが、 「僕《ぼく》等《ら》はまだ老人《らうじん》でもないが、生活《くらし》が立《た》ちや田舎《ゐなか》へ引込《ひつこ》んで氣樂《きらく》に送《おく》りたいと思《おも》ふ、君《きみ》逹《たち》が都會《とくわい》にゐたがるのは、まだ一|家《か》の苦勞《くらう》を經驗《けいけん》せんからだ」 「十八番《おはこ》が始《はじ》まつたね」 と、私《わたし》は例《れい》の敎員《けうゐん》を尻目《しりめ》にかけた。長沼《ながぬま》は腕力《わんりよく》も俸給《ほうきう》も智識《ちしき》も私《わたし》に及《およ》ばぬが、只《たゞ》年齡《ねんれい》に於《おい》て一|日《じつ》の長《ちやう》があるので、どうかすると、「君《きみ》は若《わか》いからねえ」とか「まだ經驗《けいけん》が足《た》らんから」とか云《い》つて、僅《わづ》かに哀《あは》れなる自己《じこ》を主張《しゆちやう》してゐる。 私《わたし》は或時《あるとき》長沼《ながぬま》のために爭《あらそ》つた。校長《かうちやう》が彼《か》れを無能《むのう》として排斥《はいせき》しかけたのを遮《さへぎ》り、彼《か》れの爲《ため》に拳《こぶし》を握《にぎ》り目《め》を怒《いか》らせて辯護《べんご》した。私《わたし》の意見《いけん》は用《もち》ひられて無事《ぶじ》に收《おさ》まつたが、返事《へんじ》次第《しだい》で校長《かうちやう》を毆打《おうだ》せんとまで息込《いきご》んだのだ。長沼《ながぬま》は私《わたし》の俠骨《けふこつ》を喜《よろこ》び、下宿《げしゆく》へ來《き》て淚《なみだ》ながらに感謝《かんしや》した。しかし私《わたし》は深《ふか》い同情《どうじやう》から彼《か》れを擁護《えうご》したのではなくて、只《たゞ》氣《き》まぐれに過《す》ぎぬのであつた。退屈《たいくつ》さましの戯《たはむ》れに過《す》ぎぬのであつた。  (十三) 或日《あるひ》小山《こやま》はようやく「お樂《らく》の住所《じうしよ》が分《わか》つた」と、さも傲《ほこ》り顏《がほ》に私《わたし》に吿《つ》げた。 「何處《どこ》にゐる」 「芝《しば》四|國《こく》町《まち》二十三|番地《ばんち》、捜《さが》すのに困《こま》つたよ、學校《がくかう》へ行《い》つてたそうだがね、今《いま》はそれどころぢやない。大變《たいへん》困《こま》つてる、何《なん》でも姉《あね》が惡《わる》い男《をとこ》に引《ひつ》かゝつたので、妹《いもうと》の貯金《ちよきん》まで絞《しぼ》り取《と》られたらしいよ、それで姉《あね》は妹《いもうと》に離《はな》れて何處《どこ》かへ行《い》つて、お樂《らく》一人《ひとり》泣《な》きの淚《なみだ》で暮《く》らしてらあ、いゝ氣味《きび》さ、僕《ぼく》等《ら》を欺《だま》しやがつた天罰《てんばつ》だ」 「加瀨《かせ》が保護《ほご》して吳《く》れるだらう」 「なあに、加瀨《かせ》はもう結婚《けつこん》の準備《じゆんび》に忙《せわ》しいから、お樂《らく》のことは忘《わす》れてる」 「さうか、相手《あひて》は誰《だ》れだ」 「お楠《くす》、僕《ぼく》の從姉《いとこ》だ」 「ぢや加瀨《かせ》と君《きみ》とは親類《しんるゐ》になるんだね」と、私《わたし》はお楠《くす》のブク〳〵肥《ふと》つた身體《からだ》とおチヨボ口《ぐち》を思《おも》ひ浮《うか》べながら、 「加瀨《かせ》も方々《ほう〴〵》嗅《か》いで步《ある》いたが、つまりは手近《てぢか》い所《ところ》で間《ま》に合《あは》すんだね、」 「叔母《をば》は不賛成《ふさんせい》だつたが、まあ輕便《けいべん》でいゝさ」 と、小山《こやま》は利害《りがい》相關《あひくわん》せずと云《い》つた風《ふう》だ。 その夜《よ》私《わたし》は久振《ひさしぶ》りで加瀨《かせ》に手紙《てがみ》を送《おく》つた。 「もう結婚《けつこん》するさうだね、お目出度《めでたう》、御披露《ごひろう》の節《せつ》に僕《ぼく》も招《まね》いて吳《く》れ玉《たま》へ、吉例《きちれい》に謠曲《うたひ》くらゐ謠《うた》はうよ、兎《と》に角《かく》君《きみ》は羨《うらや》ましい、徴兵《ちやうへい》檢査《けんさ》が濟《す》むと、苦情《くじやう》も云《い》はずに結婚《けつこん》する、やがて子《こ》が生《う》まれるだらう、やがて君《きみ》の顏《かほ》に皺《しわ》が出來《でき》るだらう、」 加瀨《かせ》からの返書《へんしよ》は略《ほゞ》一尋《ひとひろ》もあつた。謹《つゝし》んだ手跡《しゆせき》で、さも考《かんが》へたらしい文句《もんく》に滿《み》ちてゐた。その中《うち》に 「結婚《けつこん》以前《いぜん》には、若《わかい》い女《をんな》の眼《め》は悉《こと〴〵》く僕《ぼく》に對《たい》して媚《こび》を呈《てい》してゐるやうに思《おも》はれたが、女房《にようぼ》が定《きま》つてからは、全然《まるで》態度《たいど》が一|變《ぺん》したやうに感《かん》ぜられる。瞳《ひとみ》の底《そこ》の方《はう》で冷《ひやゝ》かに笑《わら》ひながら、お前《まへ》さんはもう駄目《だめ》ですよ」と云《い》つてゐる。何《な》におれが女房《にようぼ》を貰《もら》つたかどうだか、見《み》ず知《し》らずの世間《せけん》の女《をんな》に解《わか》る譯《わけ》がない、氣《き》の所爲《せい》だと安心《あんしん》して見《み》るが、矢張《やはり》り『駄目《だめ》だ〳〵、白羽《しらは》の矢《や》は東片町《ひがしかたまち》の屋根《やね》の上《うへ》』と云《い》つてゐて相手《あひて》にしない」と云《い》ふ文句《もんく》があつて、終《をは》りに「君《きみ》よ、戀《こひ》すべし、結婚《けつこん》すべからず」と、世路《せろ》に老《を》いた人《ひと》の云《い》ひさうな文句《もんく》を添《そ》えてゐる。 私《わたし》は却《かへつ》て彼《か》れに飜弄《ほんろう》されたやうに感《かん》じてヂレた。彼《か》れは何時《いつ》までも太平《たいへい》である。道樂《だうらく》に仕事《しごと》をして道樂《だうらく》に世《よ》を逹觀《たつくわん》したやうな皮肉《ひにく》を云《い》つて、そして道樂《だうらく》に戀《こひ》をし結婚《けつこん》もしてゐる。 で、この時《とき》彼《か》れを冷笑《れせう》する勇氣《ゆうき》もなかつた。そしてこの一|夜《や》二三|年來《ねんらい》の反抗心《はんこうしん》の消《き》えて、何《なん》となく人懷《ひとなつ》かしくなつた。 今朝《けさ》からの梅雨《つゆ》が夕立《ゆふだち》模樣《もやう》になつて、向《むか》ひの屋根《やね》には水煙《みづけぶり》を立《た》て、激《はげ》しい音《おと》で降濺《ふりそゝ》いでゐるのに恐《おそ》れず、宿《やど》を飛出《とびだ》した。小山《こやま》の氣樂《きらく》な話《はなし》を聞《き》きたいのでもなく、お靜《しづ》の靑《あを》い顏《かほ》を見《み》たいのでもなく、只《たゞ》一圖《いちづ》に豐島《とよしま》に會《あ》ひたくなつた。彼《か》れの濡《うる》んだ目《め》を見《み》たい、彼《か》れの情熱《じやうねつ》の言葉《ことば》を聞《き》きたい。   正宗           定價六拾錢      著  紅塵(三版)   白鳥           郵稅八錢 明治四十一年十月十八日印刷   何處へ奧付 明治四十一年十月廿五日發行     定價八拾五錢         著作者  正宗白鳥          東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地   不 許   發行者  西本波太          東京市小石川區久堅町百〇八番地   複 製   印刷者  山田英二          東京市小石川區久堅町百〇八番地         印刷所  博文館印刷所      ――――――――――――――――――         東京市麹町區飯田町六丁目二十四  發行所        易 風 社              振替口座一二〇三四番 原文 一二三(目次) 訂正 一三五 原文 珈珈店《こーひーてん》(p. 3) 訂正 珈琲店《こーひーてん》 原文 良體《からだ》(p. 4) 訂正 身體《からだ》 原文 「如何《いか》にして(p. 5) 訂正 如何《いか》にして 原文 あらあね」、(p. 13) 訂正 あらあね」 原文 微錄《びろく》(p. 17) 訂正 微祿《びろく》 原文 武具《ぶく》(p. 18) 訂正 武具《ぶぐ》 原文 始《ほと》んど(p. 23) 訂正 殆《ほと》んど 原文 言葉《ことば》た(p. 25) 訂正 言葉《ことば》を 原文 被入《いらつら》やる(p. 29) 訂正 被入《いらつし》やる 原文 私《わわし》(p. 30) 訂正 私《わたし》 原文 壁《かべ》はは(p. 31) 訂正 壁《かべ》には 原文 暫《しばら》らく(p. 34) 訂正 暫《しば》らく 原文 外戶《そと》(p. 38) 訂正 戶外《そと》 原文 初《はじ》めて間(p. 39) 訂正 初《はじ》めの間 原文 堪《たゝ》へ(p. 40) 訂正 湛《たゝ》へ 原文 强《ひ》いて(p. 44) 訂正 强《し》いて 原文 程《ほど》でもないだけど(p. 45) 訂正 程《ほど》でもないんだけど 原文 頂《あづ》けんのです(p. 45) 訂正 頂《いただ》けんのです 原文 面白《おもしは》い(p. 45) 訂正 面白《おもしろ》い 原文 聞《きい》てゝても(p. 48) 訂正 聞《きい》てゝも 原文 見《み》たくなつたの」。(p. 49) 訂正 見《み》たくなつたの」 原文 お成《な》りなさいな」。(p. 49) 訂正 お成《な》りなさいな」 原文 云《い》ふですか(p. 51) 訂正 云《い》ふのですか 原文 出入《しゆつにい》(p. 52) 訂正 出入《しゆつにふ》 原文 健次《けんじ》などか(p. 52) 訂正 健次《けんじ》などが 原文 招《まぬ》かれる(p. 53) 訂正 招《まね》かれる 原文 一寸《ちよと》(p. 53) 訂正 一寸《ちよつと》 原文 定《さだ》る(p. 64) 訂正 定《さだ》まる 原文 聲《こゑ》をかける、(p. 65) 訂正 聲《こゑ》をかける。 原文 月初《つきはじ》で(p. 67) 訂正 月初《つきはじ》めで 原文 並《なら》べるか(p. 67) 訂正 並《なら》べるが 原文 記行《きこう》(p. 68) 訂正 紀行《きこう》 原文 洩《もら》らした(p. 70) 訂正 洩《も》らした 原文 酷《ひど》いは(p. 74) 訂正 酷《ひど》いわ 原文 如何《どう》にして(p. 74) 訂正 如何《いか》にして 原文 持《も》つてゝ(p. 81) 訂正 持《も》つてつて 原文 その宅《たく》を出《い》て(p. 83) 訂正 その宅《たく》を出《で》て 原文 上《あが》かるか(p. 84) 訂正 上《あ》がるか 原文 何《なに》だか(p. 86) 訂正 何《なん》だか 原文 兄《あに》さん(p. 86) 訂正 兄《にい》さん 原文 主婦《しうふ》(p. 89) 訂正 主婦《しゆふ》 原文 御馳走《ごちさう》なんか(p. 89) 訂正 御馳走《ごちそう》なんか 原文 叙情的《じよじやうきて》(p. 90) 訂正 叙情的《じよじやうてき》 原文 氣心《きこゞろ》(p. 91) 訂正 氣心《きごゝろ》 原文 やがで(p. 94) 訂正 やがて 原文 それには(p. 95) 訂正 それにね 原文 續《つゞ》けてやつけば(p. 96) 訂正 續《つゞ》けてやつてけば 原文 訴《うた》へる(p. 96) 訂正 訴《うつた》へる 原文 起上《おきあ》つた(p. 99) 訂正 起上《おきあが》つた 原文 咳《つぶや》いた(p. 101) 訂正 呟《つぶや》いた 原文 滅入《めつい》つた(p. 101) 訂正 滅入《めい》つた 原文 話《はな》を(p. 103) 訂正 話《はなし》を 原文 躊躇《ちうよよ》(p. 106) 訂正 躊躇《ちうちよ》 原文 以前《いせん》(p. 107) 訂正 以前《いぜん》 原文 移《う》つてる(p. 108) 訂正 移《うつ》つてる 原文 焦慮《ぢれ》で(p. 108) 訂正 焦慮《ぢれ》て 原文 終始《しゞう》(p. 111) 訂正 終始《しゆうし》 原文 欺《あざ》いて(p. 111) 訂正 欺《あざむ》いて 原文 働《はた》く(p. 112) 訂正 働《はたら》く 原文 女供《をんなども》(p. 115) 訂正 女共《をんなども》 原文 土古耳《とるこ》(p. 117) 訂正 土耳古《とるこ》 原文 何《なん》んだつて(p. 117) 訂正 何《な》んだつて 原文 「目《め》を細《ほそ》く(p. 119) 訂正 目《め》を細《ほそ》く 原文 駄目《だめ》だ」。(p. 120) 訂正 駄目《だめ》だ」 原文 考《かん》へて(p. 123) 訂正 考《かんが》へて 原文 兄《あに》さん(p. 125) 訂正 兄《にい》さん 原文 身分《じぶん》(p. 129) 訂正 自分《じぶん》 原文 麥酒て《びーる》(p. 132) 訂正 麥酒で《びーる》 原文 閾《しきみ》(p. 133) 訂正 閾《しきゐ》 原文 靑《あほ》くて(p. 135) 訂正 靑《あを》くて 原文 縦橫無盡《じゆうわうむじゆん》(p. 135) 訂正 縦橫無盡《じゆうわうむじん》 原文 癩《しやく》(p. 139) 訂正 癪《しやく》 原文 兩手《れうて》(p. 140) 訂正 兩手《りやうて》 原文 詮方《せんたか》(p. 141) 訂正 詮方《せんかた》 原文 打《うた》たれる(p. 143) 訂正 打《う》たれる 原文 入被《いらつし》やい(p. 146) 訂正 被入《いらつし》やい 原文 甲裴《かひ》(p. 150) 訂正 甲斐《かひ》 原文 恐《こは》うであしてね(p. 155) 訂正 恐《こは》うごあしてね 原文 忰《がれれ》(p. 155) 訂正 忰《せがれ》 原文 ずり込《こ》んて(p. 159) 訂正 ずり込《こ》んで 原文 出《で》で(p. 162) 訂正 出《で》て 原文 異《ちが》つたものんだね(p. 164) 訂正 異《ちが》つたものだね 原文 言葉《ことば》少《すく》ない(p. 168) 訂正 言葉《ことば》少《すく》なに 原文 突込《つきこ》み。(p. 168) 訂正 突込《つきこ》み、 原文 堆積《せきたい》(p. 171) 訂正 堆積《たいせき》 原文 二十歲《はなち》(p. 178) 訂正 二十歲《はたち》 原文 賑《にぎ》やがた(p. 181) 訂正 賑《にぎ》やかだ 原文 切《き》られるぞ」。(p. 187) 訂正 切《き》られるぞ。」 原文 隱《か》くし(p. 187) 訂正 隱《かく》し 原文 見廻《みまは》ず(p. 189) 訂正 見廻《みまは》す 原文 怠《だ》くて(p. 190) 訂正 怠《だる》くて 原文 止《や》んだか(p. 193) 訂正 止《や》んだが 原文 明《あかる》るく(p. 193) 訂正 明《あか》るく 原文 大床胡《おほあぐら》(p. 201) 訂正 大胡床《おほあぐら》 原文 眺《なが》めめて(p. 202) 訂正 眺《なが》めて 原文 捨《ひろ》つた(p. 203) 訂正 拾《ひろ》つた 原文 吉公《きちまつ》(p. 204) 訂正 吉松《きちまつ》 原文 口眞似《にちまね》(p. 209) 訂正 口眞似《くちまね》 原文 先《さき》き(p. 209) 訂正 先《さき》 原文 逹公《たつこう》な(p. 210) 訂正 逹公《たつこう》は 原文 顏《かほ》か(p. 211) 訂正 顏《かほ》が 原文 暇《ひま》があれが(p. 211) 訂正 暇《ひま》があれば 原文 聞《き》かせます(p. 216) 訂正 聞《き》かせます。 原文 娘《むすめ》さんか(p. 224) 訂正 娘《むすめ》さんが 原文 どうでず(p. 227) 訂正 どうです 原文 缺《か》げた(p. 230) 訂正 缺《か》けた 原文 貴下方《あなたがた》も(p. 231) 訂正 「貴下方《あなたがた》も 原文 世態話《しよたいばはし》(p. 235) 訂正 世態話《しよたいばなし》 原文 因《こま》つて(p. 235) 訂正 困《こま》つて 原文 立《た》つだけても(p. 240) 訂正 立《た》つだけでも 原文 勤《すゝ》めた(p. 243) 訂正 勸《すゝ》めた 原文 仰《あふ》せつかたつて(p. 246) 訂正 仰《あふ》せつかつて 原文 尊敬《そんけい》してるんでず(p. 247) 訂正 尊敬《そんけい》してるんです 原文 僕《ぼく》も(p. 255) 訂正 「僕《ぼく》も 原文 書《か》きかけゐる(p. 256) 訂正 書《か》きかけてゐる 原文 後園《こうえん》(p. 256) 訂正 公園《こうえん》 原文 それ白面《おもしろ》もからう(p. 259) 訂正 それも面白《おもしろ》からう 原文 渦中《くわちうゆ》(p. 259) 訂正 渦中《くわちゆう》 原文 經《た》える(p. 264) 訂正 絕《た》える 原文 山吹町《やまぶしちやう》(p. 266) 訂正 山吹町《やまぶきちやう》 原文 て、自分《じぶん》は(p. 264) 訂正 で、自分《じぶん》は 原文 始《はじ》ある(p. 274) 訂正 始《はじ》める 原文 取立《とりて》て(p. 279) 訂正 取立《とりた》て 原文 自身《じゝん》には(p. 279) 訂正 自身《じゝん》も 原文 のこ男《をとこ》(p. 281) 訂正 この男《をとこ》 原文 育《そだ》て上《あ》けて(p. 281) 訂正 育《そだ》て上《あ》げて 原文 險幕《けんまく》(p. 282) 訂正 劍幕《けんまく》 原文 籠《こも》つてるのでもないか、(p. 282) 訂正 籠《こも》つてるのでもないが 原文 睨《にら》みつけてゐたか(p. 284) 訂正 睨《にら》みつけてゐたが 原文 散步《さんぽ》して入《いら》しつたんですが(p. 284) 訂正 散步《さんぽ》して入《いら》しつたんですか 原文 嘲《あざ》げつてる(p. 286) 訂正 嘲《あざ》けつてる 原文 梅雨《つゆ》て(p. 291) 訂正 梅雨《つゆ》で 原文 脫《ぬ》いて(p. 297) 訂正 脫《ぬ》いで 原文 持上《もちあ》けて(p. 300) 訂正 持上《もちあ》げて 原文 金《かね》たか(p. 302) 訂正 金《かね》だが 原文 襲《おそ》ばれて(p. 302) 訂正 襲《おそ》はれて 原文 門札《もんさつ》か(p. 312) 訂正 門札《もんさつ》が 原文 加瀨《せせ》(p. 314) 訂正 加瀨《かせ》 原文 さんだ(p. 315) 訂正 さんざ 原文 御存知《ごぞんじ》じなんですね(p. 319) 訂正 御存知《ごぞんじ》なんですね 原文 「新奇《しんき》だといふ」(p. 336) 訂正 「新奇《しんき》だ」といふ。 原文 汗《あせ》ばんた(p. 338) 訂正 汗《あせ》ばんだ 原文 死際《しにぎは》まて(p. 339) 訂正 死際《しにぎは》まで 原文 來《き》たのぢないか(p. 340) 訂正 來《き》たのぢやないか 原文 濃《こい》い(p. 324) 訂正 濃《こ》い 原文 誰《だ》か(p. 354) 訂正 誰《だれ》か 原文 衣食《いしよく》の慾《よく》と少《すくな》く(p. 348) 訂正 衣食《いしよく》の慾《よく》は少《すくな》く 原文 ですけと(p. 354) 訂正 ですけど 原文 フロツツコート(p. 360) 訂正 フロツクコート 原文 飄輕《ひやうひん》な眞似《まね》(p. 362) 訂正 飄輕《ひやうきん》な眞似《まね》 原文 子供《こども》ぢまありませんか(p. 363) 訂正 子供《こども》ぢやありませんか 原文 嗅《か》く(p. 366) 訂正 嗅《か》ぐ 原文 朝《あさ》かぬ(p. 369) 訂正 朝《あさ》から 原文 居《ゐ》らつしやるんてすつてね(p. 374) 訂正 居《ゐ》らつしやるんですつてね 原文 なるものてすか(p. 374) 訂正 なるものですか 原文 尋《たづ》ぬて(p. 377) 訂正 尋《たづ》ねて 下宿 貧乏 「こと」 句読点は原則として原著のそれを維持したが、カギ括弧を閉じた後に読点「、」が振られている場合は、誤植とみなして読点を省いた。 「空想家」では「山吹町」と「山伏町」が混在しているが、そのままにした。 原文で印刷の不明瞭な部分、誤植と思われる部分は一九八三年刊行正宗白鳥全集第一巻(福武書店)を参照し確認したうえで訂正した。 片仮名の「ネ」をあらわす漢字の「子」に似た字は「ネ」の字で代用した。 --- Provided by 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