Title: 火星の記憶(Kasei no kioku) (The Memory of Mars) Author: Raymond F. Jones Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi) Character set encoding: UTF-8 火星の記憶 レイモンド・F・ジョーンズ ------------------------------------------------------- Notes on the signs in the text 《...》 shows ruby (short runs of text alongside the base text to indicate pronunciation). Eg. 其《そ》 -------------------------------------------------------  新聞記者は病院にたいしても客観的にならなければならない。記者の仕事は他人の心を揺さぶることで、自分の心をかき乱すことではないのだ。しかしそんなことを言ったって、いまはなんの意味もない、とメル・ヘイスティングスは思った。この病院のどこかで、アリスが生死の境をさまよっているというときには。  アリスが手術室に入ってから長すぎるほどの時間がたった。なにかまずいことが起きたのだ。彼はきっとそうだと思った。時計を見る。外はもうすぐ夜明けだろう。メル・ヘイスティングスにとって、それは大切な、取り返しのつかない時間の経過を示すものだった。アリスはもうとっくにあの白い洞窟のような手術室から出ていなくてはならないのに。  メルは重たい椅子にさらに深く沈みこんだ。ゆっくりと忍びよる死が彼にもその触手をのばしてきたかのように、彼はおとなしく観念した。突然はるか遠くのほうで轟音がとどろき、空を横切る一筋の光りが窓から見えた。観光宇宙船マーシャン・プリンセス号だ、と彼は思い出した。  連れていかれるまえにアリスが最後に言ったのはそのことだった。「よくなったら、すぐにまた火星に遊びに行きましょう。そうしたらあなたも思い出すわ。あそこはとてもきれいで楽しかった――」  おもしろくて、すてきな、ぼくのアリス――彼女は奇妙な妄想に取りつかれたままだった。ぼくたちが結婚した最初の年に火星旅行に行っただなんて。その信念はほぼ一年まえから彼女に取りつき、彼がなにを言っても、揺らぐことがなかった。二人とも宇宙に行ったことなんかなかったのに。  いま彼は連れていってやればよかったと思った。それだけの価値はあっただろう、どれだけ苦痛を耐え忍ばなければならないにしても。彼は生まれてからずっと自分を苦しめてきた恐怖症について彼女に話したことはなかった。彼は宇宙空間が恐いのだ。考えただけでも冷や汗が出る。子供のころから何度もうなされた悪夢のことも話したことはなかった。  恐怖症など、なんとか克服する方法があったはずだ。彼女が行きたがっていた火星旅行に行く方法が。  しかしもう遅い。遅すぎることを、彼は知った。  白いドアが開いて、ドクタ・ウインタースがゆっくりと出てきた。彼は長いことメル・ヘイスティングスを見つめていた。まるで新聞記者の名前を思い出そうとしているかのようだった。「お話しがあります。オフィスのほうへ」彼はようやくそう言った。  メルは麻痺したようにその意味を理解し、目を見開いて相手を見つめ返した。「死んだんですね」  ドクタ・ウインタースはゆっくりとうなずいた。メルに事実を見抜かれ、驚き、いぶかるような様子だった。「オフィスでお話ししましょう」と彼はくり返した。  メルは医者のうしろ姿を見ていた。ついていっても仕方がないような気がした。ドクタ・ウインタースは言うべきことをすべて言った。廊下のむこうで医者は振り返り、辛抱強く立ち止まっていた。ついてこない理由はわかっているが、しかしついてくるまで待とうと決心したかのように。記者はもぞもぞと動いて椅子から立ちあがった。足に力が入らなかった。近づくにつれドクタ・ウインタースの姿はますます大きくなった。病院の朝の喧噪が耳をつんざくように響いた。オフィスのドアがしまり、騒音をさえぎった。  「奥さまはお亡くなりになりました」ドクタ・ウインタースは机のうしろに坐り、手を組み合わせたり離したりした。彼はメルのほうを見なかった。「われわれはできるかぎりのことをしました、ミスタ・ヘイスティングス。事故のけがは比較的軽く――」彼は躊躇して、またつづけた。「通常の場合なら、まったく問題なく――けがの処置ができたはずです」  「どういうことです?通常の場合なら、とは?」  ドクタ・ウインタースは耐えがたい苦痛を避けるようにメルの視線から顔をそらした。彼は疲れたように額と眼をもみ、一瞬そこを押さえてから話しだした。彼はふたたびメルと目を合わせた。「あなたが昨夜連れていらっしゃった女性――あなたの奥さまは――体内の構造が普通とはまったく異なるのです。内臓の識別すらできません。ちがう生物の身体みたいなのです。彼女は――要するに人間じゃないのです、ミスタ・ヘイスティングス」  メルは相手をぽかんと見つめ、その言葉の意味をつかもうとした。意味はどうしてもわからなかった。彼は咆哮のような、短い、ヒステリックな笑い声をあげた。「なにを言っているです、先生。気でもふれたんじゃないですか?」  ドクタ・ウインタースはうなずいた。「きのうの晩、わたしもずっとそう思っていました。奥さまの状態をはじめて見たとき、自分は頭がどうかしてるんじゃないかと思いました。ほかの医者を六人呼んで、彼らにわたしの見たものを確認してもらいました。だれもかれも、それを見てあっけにとられたのです。人間の身体にはない内臓。どんな生命体にも見られない化学反応――」  医者の言葉は荒波のように彼を襲った。それは彼を水中に沈め、呼吸をふさぎ、息の根をとめようと――。  「見せてください」メルの声は遠くの、うつろな咳払いのようだった。「あなたは頭が変なんだ。自分のミスを隠そうとしているんじゃないですか。簡単な手術でアリスを殺してしまい、だれも信じないようなバカげた話しで責任逃れしようとしている!」  「見ていただきましょう」ドクタ・ウインタースはゆっくりと立ちあがりながら言った。「そのためにここにお呼びしたのです、ミスタ・ヘイスティングス」  メルはふたたび医者について長い廊下を歩いていった。二人のあいだに言葉はかわされず、メルにはもはやすべてが非現実的に感じられた。  手術室の白いドアを通り、さらにその奥のドアを抜けた。彼らは白く静まりかえった、冷たい部屋に入った。  氷のような白色光に照らされて、シーツにおおわれた一体の人間の姿が手術台に横たわっていた。メルは急に見たくない気がしたが、ドクタ・ウインタースはもうおおいを取りのけていた。顔が、いとしいアリス・ヘイスティングスの顔があらわれた。メルは妻の名を叫んで手術台に近づいた。顔はただ眠っているだけのような印象しか与えなかった。髪は乱れていたが、顔には彼が何百回と見た、あのゆったりとくつろいだ表情があった。  「見ることができますか」とドクタ・ウインタースは心配そうに訊いた。「鎮静剤をさしあげましょうか」  メルは感情を失ったように頭をふった。「いいえ――見せてください」  できたばかりの大きな傷痕が腹部をななめに走り、枝分かれして心臓の下まで伸びていた。医者は小さなはさみをつかんで、一時的に縫い合わせた糸を手早く切った。鉗子と開創器を使って巨大な切開のあとが広げられた。  メルは吐き気をもよおし目を閉じた。  「壊疽だ!どこもかしこも壊疽を起こしている!」  皮膚と脂肪組織の表層下で、傷ついた組織体が濃い赤から死の腐乱を示す暗緑色に変わっていた。  しかしドクタ・ウインタースは首を横に振っていた。「いいえ、壊疽じゃありません。われわれが見たときも、この状態だったのです。どうもこれが、その、正常の状態のようです」  メルは信じることも理解することもできず、ただ目を見張った。  ドクタ・ウインタースは傷口をさらに広げた。「ここには胃があるはずなんです」と彼は言った。「そのかわりにあるこれがなんなのか、わたしにはわかりません。この内臓には名前がないのですよ。ここは腸管があるところです。でもこの緑色を帯びたゼラチン状の物質が均質に広がっているだけ。ほかにも、肝臓、膵臓、脾臓のある位置に内臓組織があります。このゼラチン状の物質とほとんど区別がつかないのですが、」  メルはその声をはるか遠くで、あるいは夢の中で聞いているようだった。  「肺というか、肺のようなものもあります」と医者はつづけた。「たしかに呼吸はできました。それから非常に変形した循環系があります。二つあるようですね。一つはほとんど正常といっていい表層組織に血液を送るもの。もう一つは内臓を緑がかった色にしている液体を送るものです。でもどうやって循環させていたのかはわかりません。心臓《ハート》がありませんから」  メル・ヘイスティングスはいきなりヒステリックな笑い声を出した。「これであなたの頭が変だということがわかりましたよ、先生!あのやさしい、愛情深いアリスに心臓《ハート》がないだなんて!彼女はよく言ったものです。『わたしにはアタマがないのよ。そうでなきゃ、どんくさい新聞記者なんかと結婚するもんですか。でも、だからわたしにはハートがあるの。あなたと恋に落ちたのはわたしのハートなのよ。アタマじゃなくて』彼女はぼくを愛していたんです。わかりませんか」  ドクタ・ウインタースは彼をそっと連れ出そうとした。「もちろん、わかりますよ。どうぞこちらへ、ミスタ・ヘイスティングス。しばらく横になって休みましょう。気付けになにか持ってきます」  メルは導かれるままに近くの小部屋に入った。医者が持ってきた液体は飲んだが、横になろうとはしなかった。  「たしかに見ましたよ」呆然としながらもきっぱり彼はそう言った。「でも説明なんかどうでもいい。ぼくはアリスを知っていたんです。彼女はぼくや先生以上にちゃんとした人間だった。異常なんてちっともなかった――もっとも去年ごろから、ぼくらがあるとき一緒に火星に行ったと思いこんでいたけど」  「それは事実じゃないんですね?」  「ええ。二人とも宇宙に出たことなんてなかった」  「結婚なさるまえは、どのくらい奥さまのことをご存じでしたか」  メルはふと昔を思い出し、ほほえんだ。「幼なじみですよ。小学校も高校も同じ。一緒じゃないときなんてなかったような気がする。家族は長いこと隣り同士だったし」  「奥さまは家族が大勢いたんですか」  「兄と姉と妹が二人」  「ご両親はどんな方でした?」  「まだ生きてますよ。父親は器具の販売店をやっています。農業地帯に住んでいるんです。みんなすばらしい人ですよ。アリスもあの家族の一員らしい人間でした」  ドクタ・ウインタースは押し黙り、またつづけた。「あなたにつらい思いをさせたのは、一つ理由があるんです、ミスタ・ヘイスティングス。それがなければ奥さまの状態を事細かに説明したり、ましてやご遺体を見てほしいなどと頼みはしません。ですが、これは科学的に見てとてつもない事件なので、ぜひ解決のためにご協力をお願いしたいのです。科学のために奥さまのご遺体を保管し、解剖する許可をいただけませんか」  メルは突然はげしい敵意をむきだして医者を見た。「埋葬もさせないというのですか。彼女をビンに詰め、まるで、まるで――」  「どうか必要以上に興奮なさらないで。しかしいまの提案はよくお考えいただきたい。ちょっと考えればおわかりになるでしょうが、そうした処置は決して野蛮なものではありません。死者にたいするほかの習慣と同じです。  いや、そんなことはどうでもいい。あなたが結婚なさったアリスという女性は、外見に関するかぎり正常のようですが、彼女に命を与え機能させている内臓組織は、いままで人間が見たことのないものです。われわれはこのことの意味を解明しなければなりません。その機会を与えてくれるか否かは、あなた次第なのですよ」  メルはもう一度しゃべろうとしたが、言葉が出てこなかった。  「一刻も無駄にはできないのですが、しかし即答を強制したくはないので、三十分お考えになってください。そのあいだに、さらなる保存手段を講じなければなりません。せき立てるようで申し訳ないのですが、ぜひよいお返事がいただけるようお願いします」  ドクタ・ウインタースはドアのほうに行こうとしたが、メルが身振りでそれを押しとどめた。  「もう一度彼女を見せてください」  「その必要はないでしょう。もう十分に苦しんでいらっしゃるのに。いままでずっと見ていらっしゃった姿で、奥さまをご記憶なさったほうがいい。先ほどのような姿ではなくて」  「返事がほしいなら、もう一度見せてください」  ドクタ・ウインタースは黙って冷たい部屋へ彼を連れていった。メルはアリスの顔だけが露出するようにおおいをのけた。間違いはない。どういうものか、彼はすべてがとてつもない誤りであればいいと思っていたのだが、これは誤りでもなんでもなかった。  彼女はぼくに医者の望みをきいてほしいと思っているだろうか、と彼は考えた。どっちだってかまいはしないだろう。ほかの人とは違う内臓を持って生まれてきたなんて、たぶん、突拍子もない冗談だと思っているんじゃないだろうか。学識豊かなお医者様たちが身体の奥を探ったり、ささやきかわして、説明のつかないものに説明をつけようとする様子を見たら、彼女はにやにやするだろう。  メルはそっと顔におおいを戻した。  「好きなようにしてください」と彼はドクタ・ウインタースに言った。「ぼくらには――彼女にもぼくにも関係のないことです」  ドクタ・ウインタースの鎮静剤とみずからの疲労が、午後の数時間、メルを眠りにつかせた。しかし夕方までには目が覚め、今晩は眠れそうにないな、と思った。なまなましいアリスの記憶が詰まった家で、そんな夜を過ごすのは耐えられなかった。  暗くなりはじめたころ、彼は歩いて街に出た。歩くのは楽だった。もう歩く人などほとんどだれもいなかったのだ。猛然と走る私用車や商用車が頭の上にひしめき、地面の下でうなりをあげた。彼は大都市の隅っこを静かに歩く孤独な時代錯誤だった。  彼は都会にうんざりしていた。都会に背をむけ、永遠におさらばしたかった。アリスも同じように感じていたが、しかしほかに行く場所がなかった。彼はニュース記事を書くしか能がないし、ニュースは大きな、みにくい都会でしか起きないのだ。彼やアリスが若いころ慣れ親しんだ農業地帯は、街や都会に住むすれっからしどもの興味を引くようなものを生み出しはしない。生み出すのは食料ばかりだ。しかもいまやその多くがタンパク質や炭水化物を合成する巨大工場でつくられている。脂肪も合成できるようになったら、農夫にもう用はない。  彼はいまなら都会を抜け出せるのではないかと思った。アリスがいなくなって独り身になったし、彼にとって必要なものなどほとんどなかった。なぜかわからないが、彼は急にまたふるさとが見たくてたまらなくなった。それに彼女の家族に連絡しなければならない。  時代遅れの路面バスは翌日の昼にセントラル・バレーにたどり着いた。メルが最後に見たときと変わらない、たまらなく心安らぐ風景だった。どこまでも広がる土地、延々と続く実り豊かな畑。  バスはメルとアリスが一緒に授業を受けた高校のそばを通った。彼はアリスが校庭の芝生を走って彼をむかえに来るのではないかとなかば期待していた。町の真ん中でバスを降りると、アリスの両親が待っていた。  涙はかわいていたが、ショックのために顔色が青ざめ、感覚を失ったようになっていた。ジョージ・ダルビーは彼の手を取り、重々しく握手した。「信じられないよ、メル。アリスが死んだなんて、とても信じられない」  妻はメルをかき抱き、またもやあふれる涙を押しとどめようとした。「お葬式のことはなにも言ってなかったわね。いつにするの?」  メルはつかなければならない嘘と格闘しながら、のどをごくりとさせた。どうしてドクタ・ウインタースの頼みを聞き入れたのだろうと、いまになって後悔しそうになった。「アリスは――いつも世の中のためになることをしようと心がけていました」と彼は言った。「死んでも役に立つことはできると、遺体を提供するという合意書を研究病院と取り交わしていたんです」  一瞬、母親はその意味をつかみかねた。それから泣き叫んだ。「埋葬することもできないというの?」  「追悼式を開きます。友だちがそろっているこのふるさとで」とメルが言った。  ジョージ・ダルビーは悲しみにくれながらもうなずいた。「まったくアリスらしいよ。いつも他人のためにしてやれることはないかと考えて――」  たしかにそうだった、とメルは思った。アリスが、もはや生きる望みはないと知ったら、おそらくみずからそんな提案を持ち出しただろう。両親はたやすく納得させられた。  彼らはメルをなじみ深い家へ連れていき、彼とアリスが結婚後の最初の数日を過ごした部屋に泊まらせた。  夜になって灯りが消えたとき、彼はアリスの事故以来、はじめて普通に眠れそうな気がした。このなじみ深い家にいると、彼女が遠くに行ってしまった気がしなかった。  記憶の中の彼女はかすんでない。彼女のことならどんなにささいなことも思い出せる自信があった。はじめて彼女を意識したのは彼らが三年生になったある日のことだった。下級生は学年のはじめに体重測定、健康診断、脚気や虫歯の検査をすることになっている。その年、メルは検査に遅刻し、間違った部屋にとびこんでしまった。少女たちの悲鳴がふりそそぎ、先生が男の子の部屋がどこにあるかを優しく教えてくれた。  しかし彼は部屋の真ん中にいたアリス・ダルビーの姿をいちばん鮮明に覚えている。脱いだブラウスで前を守るようにおおい、怒ってとびはねながら彼のほうを指さしたのだ。「出ていきなさいよ、メルヴィン・ヘイスティングス!いやらしいわね!」  赤くなりながら彼はいそいで退却した。先生がアリスとほかの女の子に、うっかり間違っただけですよ、と取りなしてくれた。でもアリスの怒りっぷりはすごかった。それから一週間、口もきいてくれなかった。  彼はにっこりしながら枕に頭を沈めた。彼は思い出した。毎年秋になると検査にやってくるドクタ・コリンズに、きみの身体はどこも異常なしだ、牛乳をきちんと飲みつづければフットボール選手になれるぞ、と言われて鼻高々だったことを。小声で話す先生の言葉や、胸に当てられた聴診器の冷たさは、いまでも思い起こすことができる。  突然、彼は暗闇のベッドの上で跳ね起きた。  聴診器!  あの日だけじゃなく、ほかの年の検診日にも、アリスは膝をたたかれ、検査され、聴診器を当てられたはずだ。  彼女から心臓の音が聞こえなかったら、ドクタ・コリンズは卒倒し――町中にその話しを言いふらしただろう!  メルは立ちあがって窓辺に立った。心臓がどきどき鳴った。ドクタ・コリンズは亡くなったが、学校の健康診断記録はまだどこかに残っているかもしれない。それがなにを証明することになるのか、彼にはわからなかったが、ともかくドクタ・ウインタースの話しとはちがうことを語ってくれるだろう。  調べは次の日、ほぼまる一日かかった。小学校の校長は学校のほこりだらけの屋根裏を調べる手伝いをしてくれた。古い記録や書類が乱雑に置かれ、段ボールの箱からあふれていた。  そのあとで教育委員会の秘書、ポール・エイムズが地区事務所へメルを連れていき、記録を調べてくれた。その古い建物は、夏のあいだ使用されていないため、むっとするほど暑く、ほこりっぽかった。しかしひんやりした、蜘蛛の巣だらけの地下室で彼らはそれを見つけた……三学年から九学年までのアリスの記録だ。どれにも「心臓・異常なし」、「肺・正常」と記されている。脈と血圧の数値もそれぞれのグラフに記録されている。  「これを持って行きたいんですがね」とメルは言った。「彼女を診ていた医者が、そのう、彼女の症例をもとに論文を書くので、過去の病歴をできるだけ集めているんです」  ポール・エイムズは渋い顔をして考えた。「地区の所有物を人手に渡すことは禁じられているんだ。もっともこれはずっと前に処分されるはずのものだったんだけど――持って行っていいよ。ただし、わたしが許可したことはだれにも言わないでくれ」  「ありがとう。恩に着ますよ」とメルは言った。  さらに彼女は十四か十五のとき、盲腸を切っていた。ブラウンとかいう医者が手術をしたことをメルは思い出した。彼はコリンズのあとを継いだのだった。  「もちろん、あの先生はまだここにいるよ」とポール・エイムズが言った。「コリンズ先生が使っていた、あのオフィスだよ。いま行けば会えるんじゃないかな」  ドクタ・ブラウンは覚えていた。虫垂切除の詳細は覚えていなかったが、手術がまったく正常に行われたことを示す記録を持っていたのだ。  「その記録をコピーして、サインしていただけませんか」とメルは言った。彼は本当のことは明かさず、ただドクタ・ウインタースが彼女の症例に興味を持っているのだと説明した。  「喜んで」とドクタ・ブラウンは言った。「今度のことは残念だったね。この土地の女の子のなかじゃ、最高に可愛らしい一人だったよ、アリスは」  日曜日の午後、特別追悼式が古いコミュニティー・チャーチで開かれた。メルの人生の一部にカーテンが引かれたようなものだった。このカーテンは二度とあけられることはないだろう、とメルは思った。  式のあとはすぐに町を離れるバスに乗った。  証拠も最後にもうひとつ見つかった。都会へ戻る道すがら、どうしてそのことを最初に思いつかなかったのだろうと考えた。アリスの妊娠は流産に終り、その後、子供ができることはなかった。  しかし問題の原因をつきとめるためX線写真を撮った。もしもその写真によって過去二年間のアリスが正常であることがわかれば――  ドクタ・ウインタースはふたたびメルと面会することになり少々驚いた。彼は新聞記者をオフィスに招じ入れ、椅子をすすめた。「奥さまのことでなにかわかったか、それをお尋ねにいらっしゃったんですね」  「ええ。わかったことがあれば、ですが」とメルは言った。「二つほどお見せしたいものもあるんです」  「お亡くなりになった晩にわかったこと以上のことは、ほとんどなにもないのですよ。解剖は終わりました。いまは、それぞれの内臓の詳細な分析を行い、身体の組織を化学分析にかけているところです。骨格も肉体組織と同じくらい違っています。その構造は、人間・動物を問わず、われわれが知るほかのいかなる種とも連関性がありません」  「でもアリスはずっとそうだったわけじゃないんですよ」とメルが言った。  ドクタ・ウインタースは鋭く彼を見た。「どうしてそんなことがわかるんです?」  メルはセントラル・バレーで入手した診療記録を広げた。ドクタ・ウインタースはそれを取り上げ、長いこと入念に調べていた。そのあいだメルはじっと静かに見つめていた。  「X線写真もあります」とメルは言った。「アリスはほんの二年ほど前に骨盤のX線写真を撮っていたんです。もらってこようと思ったのですが、医者が、あなたからの要請がなければだめだというので。それがあれば、当時のアリスはいまのアリスとは違うという、絶対的な証拠になるでしょう」  「持っている人を教えてください。すぐ取り寄せましょう」  一時間後、ドクタ・ウインタースは信じられないといったように頭を振った。「これが奥さまの写真とは信じられませんね。しかしほかの診断記録と符合しています。まったく正常な構造を示している」  二人の男は机をはさんで押し黙った。どちらも混乱した自分の考えを口にしたくなかった。ドクタ・ウインタースがとうとう口を開いた。「きっとこういうことなんでしょう、ミスタ・ヘイスティングス」と彼は言った。「――きっとこの女性は――このまるっきり異質な人間は――あなたの奥さまのアリスじゃなかったんですよ。どこで、どういう具合に起きたのかわかりませんが、取り違えが、似たもの同士の入れ替わりがあったに違いありません」  「ぼくは彼女から目を離しませんでした」とメルが言った。「あの晩、家に帰ったとき、おかしなことはなにもなかった。僕たちは映画を見に出かけました。そして帰る途中で事故にあったんです。入れ替わるなんてことはありえない――この病院の、この場所で起きたのなら別だけど。でもぼくが見たのは間違いなくアリスです。だからもう一度彼女を見せてくれと頼んだのです――確認するために」  「しかしあなたが持っていらっしゃった証拠はあれが奥さまじゃなかったことを証明している。この診断記録、X線写真は、あなたが結婚した女性アリスがまったく正常であったことを示しています。彼女が変身して、われわれの手術したあの人間になりかわったなどということは、絶対にありえません」  メルはつやつやした机の表面に映る空の反射を見つめていた。「答えはわからないけど」と彼は言った。「あれはアリスじゃなかった。でも、アリスじゃないとしたら、本物はどこにいるんです?」  「警察沙汰ということにもなりかねませんね」とドクタ・ウインタースは言った。「この謎には解明すべきことがたくさんある」  「もうひとつあるんですよ」とメルが言った。「指紋です。はじめてここに来たとき、アリスは自分の指紋をとる必要のある仕事についたんです」  「それは好都合だ!」ドクタ・ウインタースは叫んだ。「それが最後の証拠になるでしょう」  残りの午後は指紋の記録を取り寄せ、比較するのについやされた。ドクタ・ウインタースはメルの家に電話で報告した。間違いありません、指紋は一致しています、死体はアリス・ヘイスティングスのものです、と。  その晩、ふたたび悪夢が襲った。いままで覚えている夢の中で最悪のものだ。例によってそれは宇宙空間、黒い、なにもない空間の夢だった。彼はその底知れぬ深みにぽつんと浮いている。上下も左右もない。めまいのするような渦巻きに巻き込まれ、必死の努力で腕を伸ばし、堅固ななにかにしがみつこうとした。  しかしそこには空間があるだけ。  しばらくすると彼は一人でなくなっていた。目には見えないが、彼らがそこにいることがわかった。捜索隊だ。なぜ自分が逃げなければならないのか、なぜ彼らが自分を捜しているのか、わからなかったが、捕まってはならないことを彼は知っていた。捕まったらすべてが終りだ。  どういうものか、彼はなにもない空間を進む方法を見いだした。捜索隊は遠くの光りの点になりつつある。彼らの存在は方向の感覚を彼にもたらした。彼の生、彼の存在、彼にとって意味をなし理解できる宇宙は、捜索隊からうまく逃げおおせるかどうかにかかっている。彼は荒涼とした黒い空間の深みをますます速度をあげながらさまよい――。  逃げおおせたかどうかは、彼にはわからなかった。いつもくしゃくしゃの毛布に包まれ、汗をびっしょりかき、恐怖におののきながら目を覚ますからだ。長いあいだ、アリスがそばにいて、起きたときに手を握ってくれていたのだが、しかしもう彼女はいない。それに彼は夜の追跡にあきあきしていた。ときどき捜索隊に――連中がだれだろうとかまやしない――追いつかれ、彼らのなすがままになるところで夢が終わればいいのにと思った。そうしたら悪夢は消えるかもしれない。もしかしたらメル・ヘイスティングスはいなくなるかもしれないけれど。しかしそれもそう悪いことじゃない。  彼は寝返りを打ちながら、眠れないまま残りの夜を過ごし、まるでぜんぜん寝床に入らなかったような気分で夜明けに起きあがった。もう一日、休みを取って報道局に戻ろう。その日は、もう先延ばしにできないことをやるつもりだった。アリスの遺品を集めて片付けるのだ。  ひげを剃り、シャワーを浴び、服を着てから、彼は引き出しをひとつひとつ空にしはじめた。おみやげや記念品がたくさんあった。彼女はそうしたものをいつも集めていた。いちばん下の引き出しには、たまにしか見かけたことのない物がいっぱい詰まっていた。  その引き出しに入っているガラクタの下の方に、火星旅行のパンフレットがあった。彼女の一生の夢の一つだったのだろう、と彼は思った。行きたいという気持ちがこうじて、本当に行ったような気になりかけていたのだ。彼はなめらかな、つやのあるパンフレットをめくった。表紙には巨大なマーシャン・プリンセス号の写真と、コネモーラ宇宙航空会社のロゴが掲げられ、中には巨大観光宇宙船の豪華な内部写真と、火星のドーム型都市の絵が出ていた。ここで地球の人間は働く以上のエネルギーを使って遊ぶのである。火星は地球の一大リゾートセンターと化していた。  メルはパンフレットを閉じ、もう一度コネモーラ社の名前を見た。民間宇宙航空路線を運航させられるだけの富を蓄えた人間は一人しかいない。ジム・コネモーラだ。どうやって財を築いたのか、だれも知らないが、いまや彼は南北両半球から宇宙船を飛ばしている。貨物は扱わず、旅客輸送が専門だ。そのもうけは政府運営の路線便など足元にも及ばぬ額だった。  メルは床に座りこみ、引き出しの中のほかのものをがさがさと調べつづけた。  手が止まった。動きを止めているあいだ、胸の中に突如ものぐるおしい疑問がわきあがってきた。コネモーラ宇宙航空会社のロゴがはいった切符の封筒があったのだ。  封筒の中身は空で、表には名前もない。しかし火星に持って行かれ、また戻ってきたかのように、それはよれていた。  突然、彼は逆上したように品物をひとつひとつ調べだし、無造作に床の上に積みあげていった。たわいのない火星人の人形が一組あった。遺跡と化した火星の都市の旅行者用地図があった。レッド・サンズ・ホテルのメニューがあった。  そうしたものすべての下に写真アルバムが見つかった。レッド・サンズ・ホテルのアリス。ポボス・オアシスのアリス。ダーネラ遺跡のアリス。彼は感覚のない指でアルバムのページをめくった。十以上の異なる火星の背景とアリスの写真。あるものは古びていた。二年ほど前のものだ。一緒に行ったのよ、とアリスは言っていた。しかしその旅行にメルが同伴したことを示すものはなにもない。  だが、アリスが旅行に行ったことも同様にありえないことなのだ。なのに、ここにはその証拠がある。自分の五感を疑ってしまうような証拠が。どうしてこんなことが起きたのか。自分はほんとうは旅行したのだが、生まれてから彼にずっとつきまとってきた恐怖症がその記憶を消し去ってしまったのだろうか。  そしてこのことは、アリスに関するドクタ・ウインタースの信じられない発見となにか関係があるのだろうか。  悲しみと疲労にぐったりと座りこみ、意味もなく形見の品を指でもてあそびながら、彼は写真や、切符の封筒や、みやげものを呆然と見つめつづけた。  ドクタ・ウインタースは思わずやや辛辣な声を出してしまった。「あてもなく火星に行ったところで、なんの解決にもならないと思いますね。むやみとお金がかかるばかりだ。有力な手がかりが一つとしてないんですよ」  「それしか考えられないんです」とメルはゆずらなかった。「火星でなにかが起きて、昔の彼女が――手術台であなたが見たものになりかわったんですよ」  「あなたは人間が入れ替わったことを必死になって証明しようとしている。アリスが生きているという万に一つもない可能性を求めてね」  メルは唇をかんだ。そんな期待を抱いていることなど、認めたくはなかったが、しかしそれこそ彼の決断の根底にあるものだった。「やれることはやっておかなきゃ。ぼくはやりますよ。やらなければ、曖昧なまま一生苦しむことになる」  ドクタ・ウインタースは頭を振った。「それでもお止めになったほうがいいと思いますね。失望するだけですよ」  「決心したんです。協力してもらえますか」  「わたしになにができるんです?」  「宇宙に行くには、一時的でもいいから、恐怖症を取り除かなければならないんですよ。こいつのおかげで宇宙に行くと考えただけで気が狂いそうになる。そういうものに効く薬とか、催眠療法とか、なにかありませんか」  「わたしの専門外ですが」とドクタ・ウインタースは言った。「しかし問題の原因を抑圧することはできないのじゃないかな。根底的に取り除かなければならない。治せるとしたら精神復元療法しかないでしょう。いい医者ならいくらでも推薦できます。もっとも、これも相当金がかかりますよ」  「アリスのためにも治療を受けておくべきだったんです――とっくの昔に」とメルは言った。  精神科医のドクタ・マーチンはメルの問題に強い興味を感じた。「どうやら幼少期のトラウマが原因らしいですね。その後、ずっと意識から消されていたんでしょう。起源的出来事にどれだけ抑圧がかけられているかで、回復の難易度が決まります」  「起源的出来事なんてどうでもいいんです」とメルは言った。「宇宙空間に対する、この言いようのない恐怖を取り除いてくれさえしたら。ドクタ・ウインタースは復元療法が必要だろうと言っていましたが」  「その通りです。その手の恐怖症はどれだけ覆いをかぶせて押さえ込もうとしても、あなたに取りついて離れないのです。症状を分析するために、まず試験的な検査をやってみましょう。そのほうが最終的に成功するかどうか、より正確に判断できます」  メル・ヘイスティングスは新聞記者として精神復元療法のことをおぼろげに聞いていたが、詳しいことは知らなかった。なんでもある種の機械を使って、人間の心の深奥に接続し、心の地下室や屋根裏部屋に蓄積された、隠れた残骸をひきずりだすのだそうだ。しかし彼はそうしたものにいつも怖気をふるい、避けて通ってきたのだった。  ドクタ・マーチンに連れられはじめて精神復元治療室に入ったとき、彼の決心はもう少しで消えてなくなるところだった。そこはなによりも、複雑な電子工学の実験室といったおもむきがあった。操作係と看護婦の制服を着た助手が五人ほどひかえていた。  「ここに横になってください」とドクタ・マーチンは言った。  メルはなにか非人間的な生物実験の材料になった気がした。端子のついたかご形のものが頭にかぶせられ、千の小さな電極が頭部に取り付けられた。器具からもれるかすかなうなりが、彼の中に小さな不安の波をかきたてた。  半時間後、準備は完了した。部屋の照明が落とされた。彼は操作係がパネルを操作する気配を感じ、そばに腰かけるドクタ・マーチンの姿をぼんやりと認めた。  「あなたが話してくれた悪夢、あれを最後に見たときの記憶を、できるだけ生き生きと思い出してください。こちらで目標に照準を合わせ、追跡しますから」  それはメルがこの世でいちばんやりたくないことだった。彼は決心がつかず苦しみながら横たわっていた。ほんの少し前に夢を見たことは覚えていたが、夢の内容を実際に思い出すことは拒んでいた。  「抵抗しないで」とドクタ・マーチンはやさしく言った。「記憶にあらがっちゃいけない――」  心の一部が、一瞬、警戒を解いた。まるで渦巻きの表面に触れたかのように、彼は夢の深みへ吸い込まれていった。吸い込まれるとき、彼は恐怖の叫びをあげたような気がした。しかし聞いているものはだれもいない。彼はひとり宇宙空間に浮いていた。  恐怖が黒い、ねっとりした毛皮のように彼を包んだ。怖れることすらまったくの無意味だと彼は感じた。ただこのままの状態でいよう。じきにぼくは存在しなくなるはずだから。  しかし彼らはふたたびやってきた。彼はその姿を見た、というより、気配を感じたのだった。捜索隊。彼らに対する恐怖は、宇宙空間にひとりでいる恐怖よりも大きかった。彼は移動した。どういう具合にか、彼はその場を離れ、果てしない虚無の中をがむしゃらに進んでいった。後ろでは光りの点がその数を増していった。  「たいへん結構」とドクタ・マーチンが言っていた。「非常に満足すべき検査になりました」  その声は時空間の巨大な障壁のかなたから聞こえてくるようだった。メルは身体にびっしり汗をかいていることに気がついた。くたくたになった筋肉がうずいた。  「これはとてもしっかりした分析起点になります」とドクタ・マーチンは言った。「ここから経験を遡行して全体を掘り起こしましょう。準備はいいですか、ミスタ・ヘイスティングス?」  メルは力が抜けてうなずくこともできなかった。「やってください」と彼は弱々しくつぶやいた。  その日は暖かく日が照っていた。彼とアリスは早めに宇宙空港について、出発前の旅行の興奮を楽しんでいた。二人とも、子供のときから夢にまで見ていたこと、火星のすばらしいドーム型都市や、遺跡をめぐる旅に出るのだ。  アリスは、ミシガン湖に向かって開けた水上停泊地に巨体を横たえる宇宙船をはじめて間近に見て圧倒された。「なんて大きいんでしょう。こんな大きな宇宙船がどうして地球の外に飛んでいけるの?」  メルは笑った。「そんなこと、心配するなよ。飛ぶことはわかっているんだ。それだけで充分じゃないか」しかし彼も、そのとてつもない大きさと、豪華船の優雅な外形に感嘆せずにはいられなかった。彼はアリスと違って、宇宙船を間近に見るのはこれがはじめてではなかった。新聞記者の仕事で、火星というすばらしい保養地へ行ったり、そこから帰ってきた有名人・著名人をインタビューした折、何度も宇宙船を見たことがあった。  「よく見ててごらん」とメルは言った。「発着のたびにニュースに出る有名人がたくさん見つかるから」  アリスはメルの腕にしがみつき、同じ船の乗客となる有名人を数名見つけると、顔を紅潮させた。「最高に楽しい旅になりそうね、あなた」  「のけぞるくらい楽しいぞ」メルは口調こそなにげなかったものの、実はアリスのはじけるような興奮を楽しんでいた。  船は完全に平衡状態に保たれていて、離陸の際、乗客は座席に着く必要さえなかった。彼らは舷窓に群がり、船がミシガン湖の水上を半分ほどかすめて離陸するとき、後ろに飛びすさぶ陸地や水を見ていた。ぐんぐん角度を上げて大気圏上層部に突入すると、人工重力システムが作動して水平飛行をしているような錯覚を人々に与えた。そのあいだ地球はゆっくりと後ろに退いていった。  メルとアリスはおとぎの国を実現したようなサロンや広々したデッキを歩き回った。時間の感覚などすっかりなくしてしまった。彼らは巨大宇宙船とともに永遠、無限の宇宙に浮かんでいたのだ。  はじめて胸騒ぎを感じたのがいつだったのか、彼ははっきり覚えていない。乗務員の態度が変化したのが原因だったような気がする。それまでどんな場所でも、絶えず乗客を喜ばせ、楽しませようとしていたのに、三日目の朝、彼らはその気くばりをふいと止めてしまったのである。  ほとんどの乗客はそのことに気づいていないようだった。アリスに話してみると彼女は笑った。「あなた、なにを期待しているの?まるまる二日間、わたしたちに船内を案内したり、ゲームの仕方を教えていたのよ。旅が終わるまでずっとお守りをしてくれると思った?」  そう言われればそうだ。「君の言う通りなんだろうな」メルは納得したわけではないがそう言った。「けれども、連中、いったいなにをやっているんだ?今朝は全員が大急ぎでどこかへ向かっているみたいだ」  「きっとなにかやらなくちゃならないことがあるのよ、船の操縦の関係で」  メルは疑わしそうに頭を振った。  アリスは彼と一緒にデッキをうろついたり、ほかの乗客のゲームを肩越しにのぞいたり、いくつもある望遠スクリーンで星や星雲を見たりしていた。その一つを見ているとき、彼らははじめて宇宙空間に浮かぶその影を認めたのだった。最初は小さくしか見えなかったが、黒い影はひとつの星の前を横切り、その星をまたたかせた。それがメルの注意を引いた。真っ暗な宇宙でまたたく星。  間違いないと思って、彼はアリスの注意をそれに向けさせようとした。「あそこでなにか動いているぞ」そのときまでに影は小さな黒い弾丸のような形になっていた。  「どこ?なにも見えないけど」  「いま星のかたまっているところを動いている。見ろよ、星を隠しながら動いているじゃないか」  「別の宇宙船だわ!」とアリスは叫んだ。「どきどきしちゃうわね!この広大な宇宙で別の宇宙船とすれ違うなんて!あれ、どっから来たのかしら」  「そしてどこに行くんだろうね」  星々を横切る、そのゆっくりした、正確な動きを二人は見つめた。数分後に乗務員がそばを通った。メルは彼を呼び止め、スクリーンを指さした。「あの船はなんなんだい?」  乗務員は一目でその正体がわかったようだった。しかしすぐに答えようとはしなかった。「火星定期航路船です」と彼はようやく言った。「もう少ししたら船のドッキングと乗り換えのアナウンスがあります」  「乗り換え?」メルは不思議そうに訊いた。「乗り換えなんて聞いてないぞ」  「いいえ、乗り換えるんです」と乗務員は言った。「いま乗っているのはただのシャトル便です。われわれはあの定期航路船に移って、残りの旅をするんです。切符をお求めになったとき、説明があったはずですよ」彼は急いでその場を離れた。  切符を購入したとき、そんな説明はなかったと、メルは確信を持って言うことができた。振り返ってスクリーンに戻ると、黒い宇宙船がマーシャン・プリンセス号との接続針路にそってどんどん近づき、大きくなっていくのが見えた。  船内放送が突然鳴り響いた。「船長からご案内します。乗客の皆様は全員、シャトルから火星定期航路船へお乗り換えの準備をなさってください。手荷物をおまとめくださいますようお願いします。船倉のお荷物は皆様にお渡しすることなく、移し替えいたします。ご乗船いただき、まことにありがとうございました。本船は十五分後に定期航路船と接続する予定です」  まわりのざわめき声からメルはほかのみんなも驚いていることを知った。しかし彼らは興奮するだけで、疑問に思うことはなかった。  アリスですらいまは興奮をつのらせていた。ほかの人々が、二人が見ているものに気づいて、まわりに集まってきた。「すごく大きいわ」とアリスが小声で言った。「この船よりはるかに」  メルは移動してスクリーンの前のその場所をほかの人々に譲った。巨大な黒い宇宙船が近づいてくると思うと、胸騒ぎはますます烈しくなった。彼は確信した、あの宇宙船は真っ黒い色をしているぞ、と。スクリーンが白黒だからそう見えるのではないのだ。  なんだって宇宙のど真ん中で乗客を乗り換えさせるのだろう。マーシャン・プリンセス号は充分に火星まで旅することができる。実際、もう三分の一以上の航路を飛んできたのだ。なぜそう感じるのか、はっきりとはわからないが、なにかがおかしい。むろんコネモーラ宇宙航空のような大会社が五千人以上の搭乗客に不便をかけるようなやり方はしないだろう。胸騒ぎを感じるなんてバカげている、と彼は思った。  しかし胸騒ぎは消えなかった。  彼はスクリーンに群がる人々のところへ戻り、アリスの腕を取って、その場から連れ出した。  彼女はいぶかるように彼を見た。「こんなにわくわくすることってないわ。わたし、見ていたいんだけど」  「時間がないんだ」とメルは言った。「スーツケースに入れるものがたくさんあるだろう。下の部屋に戻ろう」  「みんなだって荷物をまとめなきゃならないのよ。急ぐことないわ」  「船長は十五分って言っていたじゃないか。どん尻になるのはごめんだぜ」  アリスは不承不承あとをついていった。彼らの部屋はサロンからかなり離れている。部屋までたどり着いたとき、ほとんど十五分が過ぎていた。  メルは部屋のドアを閉めるとアリスの肩に手を置いた。彼は用心深くあたりを見回した。「アリス――ぼくはあの船に乗りたくない。なにかが変だ。なにが変なのか、わからないけど、あの船に乗るのは止めよう」  アリスはまじまじと彼を見た。「気でも狂ったの?あんなに胸をふくらませて計画を立てたのに、いまさら火星に行きたくないなんて」  メルは二人のあいだに急に壁ができたような気がした。彼は必死の思いでアリスの肩をつかんだ。「アリス――あの船が火星に行くとは思えない。たわごとだと思うかもしれないが、聞いてくれ――マーシャン・プリンセス号がただのシャトル便だとか、こんなところで別の船に乗り換えるだとか、そんな話しは一言もなかった。だれもそんな話しは聞いちゃいない。マーシャン・プリンセス号は火星までなんの問題もなく飛行できる宇宙船だよ。こんなにでかい船がただのシャトル便だなんて、ありえない」  「むこうの宇宙船はもっと大きいわよ」  「どうして大きいのが必要なんだ?もっと広くなきゃ旅はつづけられないか?」  アリスは彼の手を振り払った。「そんなの知るわけないし、知りたくもないわ!」と彼女は怒って言った。  「わたしが休暇をあきらめて、宇宙のこんなところで引き返すと思っているなら、あなたはどうかしているわ。帰りたいならひとりで帰って!」  アリスはくるりと振り返るとドアのほうへ駆け寄った。メルはあとを追いかけたが、ドアのところに来たとき、彼女はもうそこを通り抜け、うごめく群衆の中に溶け込みつつあった。力ずくで彼女を部屋に連れ戻すことはできなかった。たぶん数分もしたら荷物をまとめに帰ってくるだろう。彼は部屋に戻ってドアを閉めた。  とはいえ、メルは自分の予想がまちがっていることを知っていた。意地の張り合いならアリスも負けてはいない。彼のほうが荷物をまとめてついてくると考え、別の船に乗り移ってしまうだろう。彼はベッドに座り、一瞬、頭を抱えた。かすかな振動が船体を走り抜け、金属がぶつかる、うつろな響きが聞こえた。正体不明の船がマーシャン・プリンセス号とドッキングしたのだ。いまエアロックを連結している。  舷窓から信じられないほど巨大な宇宙船が見えた。窓に近づき、カーテンを押し開けた。彼の印象は正しかった。船は真っ黒だったのだ。黒くて、名前がなく、窓もない。見たかぎり、船体にはマークや舷窓がいっさいついていなかった。  これからどうすればいいのか、わからなかったが、しかしあの船に乗らないことだけは確かだった。部屋の中を歩きながら、自分の心を満たしているのは愚かしい神経症的な不安にすぎない、コネモーラ宇宙航空のような大会社が五千人の人にたいして――いやひとりの人間にたいしてさえ――ふらちなことをたくらむわけがない、と自分に言い聞かせた。彼らがそんな危険なまねをするはずがないではないか。  彼はその不安を振り払うことができなかった。どんなことになろうとも、あの黒い船には乗らないぞ、と彼は決意した。  部屋を見まわす。ここにいるわけにはいかない。きっと見つかってしまう。どこかに隠れなければ。彼はじっと立ちつくし、舷窓の外を凝視した。船の中には安心して隠れていられる場所はない。  でも船外ならどうだろう。  アリスのことを考えると決心が鈍った。しかしあの黒い船がなんであろうが、彼まで乗り込んでしまっては、だれをも助けることができないではないか。彼は地球に帰り、なにが起きたのかを突き止め、その筋に警告しなければならないのだ。アリスを助けるにはそれしか方法がないのだ。  彼は用心深く部屋のドアを開け、外に出た。廊下は先を急ぐ乗客でいっぱいだった。手荷物を持ち、興奮におたがい笑いさざめいている。彼もそれに加わり、乗務員を警戒しながらゆっくりと歩いた。廊下に乗務員はひとりもいないようだった。  絶えず壁際にそって群衆とともに移動していくと、脱出室と記された丸いくぼみにたどり着いた。急ぐ群衆に押されでもしたかのように、彼はその中に後ろ向きに入った。自動ドアが彼を受け入れるために開き、そして閉じた。  この小部屋は法によって船内に何十ケ所と設けられたもののひとつだった。脱出室には非常時に個人が船外へ脱出できるよう、宇宙服が置かれてある。本来、使われるはずのない部屋だった。緊急事態が発生して船を捨てなければならないときに、宇宙服を着て宇宙に出ることは、船に残るのと同じくらい自殺的な行為であるといえる。しかしがんこな立法者たちはそれらの必要を法令で定め、乗客はこの部屋と宇宙服の使い方についておざなりな説明を受けるのである。もっともそんな説明は右の耳から左の耳へ通り抜けるだけなのだけれど。  メルはその説明を必死に思い出そうとした。キャビネットに吊されている宇宙服を調べているとき、羽目板に同じ説明をくり返した使用方法のパネルが貼られているのを見つけ、ほっと安心した。説明通りに、ゆっくりと、ひとつひとつ手順を踏んで宇宙服を着た。装着に悪戦苦闘したのと、発見される恐れから、汗がしたたか噴き出しはじめた。  見つかることなく、ようやくこの扱いにくい装備を整えることができた。この部屋のエアロックには、開けられたときに乗務員に注意をうながす警報がついているのだろうか、と彼は思った。一か八かの賭だ。彼はドアのロックが宇宙服の中からしか操作できないようになっていることに気がついた。どうやら無防備なまま船を離れることができない仕組みになっているらしい。こんな安全策がとられているなら、警報はおそらくついていないだろう。  彼はロックをひねり、部屋の中に入った。外側のドアを開けると目の前には宇宙空間の闇が広がっていた。  よもやこれほどまでに彼をすくみあがらせるものがあろうとは思ってもいなかっただろう。瞬間、彼は膝が萎え、ハッチの側面にしがみついた。毛穴という毛穴から新たに汗が噴き出した。やみくもに噴射装置を押し、むりやり宇宙空間に飛び出した。  船の湾曲にそって弧を描くようにしばらく進んでから船体に接触した。吐き気とめまいにくらくらしながら、足と手の磁気パッドでしがみついたのだ。  船体の外側にしがみついていれば見つからず、地球への帰還飛行にも耐えられると思っていた。身も心もぐったりしたいま、そんな計画は愚かさの極みのように思えた。吐きそうになって目を閉じ、船体にへばりついたまま、永遠のはじまりを迎えた。  彼は時間の感覚を失った。宇宙服のクロノメーターは動いていない。もう何時間も経過したような気がしたとき、身体の下の船体にかすかな衝撃が走り抜けるのを感じた。彼はつかの間、心が高揚した。船体が分離したのだ。彼の捜索は――かりにあったとしても――断念されたのだ。  彼はのろのろと少しずつ船体にそって進み、黒い宇宙船を望み見た。相変わらず数百ヤード離れたところに停止している。その光景は気分をめいらせた。もう二隻の船がいっしょにいるべき理由はない。マーシャン・プリンセス号は地球に向けて方向転換しなければならない。  そのとき彼は目の片隅でそれをとらえた。なにかが動いている。閃光が走った。小さい月のようにそれは遠く離れた船体の湾曲部分をじりじりと登ってくる。ふとその数が増えた。ちらちらと輝く衛星の集団。  メルはなにも考えず噴射装置を押し、宇宙空間に飛び出した。  最初に飛び出したときの恐怖は、捜索者たちの存在によって何倍にもふくれあがっていた。マーシャン・プリンセス号の乗務員だな、と彼は思った。たぶん宇宙服がなくなっていたので、ばれてしまったのだ。  がむしゃらに逃げ出した彼は、果てしのなさと、暗黒と、孤独に直面した。太陽は丸く、熱く燃えていたが、なにものをも照らし出すことがなかった。心がそれ自身とまわりの宇宙を見分けるすべは、ことごとく失われた。彼は起源も目的も向かうところもなく、ただ宇宙に浮いている原始的な単細胞のようなものだった。  かすかな記憶だけが濃密な恐怖を貫いて一筋の理性の光りをもたらした。アリス。アリスのために生き延びなければならない。アリスのところに戻る方法、地球に戻る方法を見つけなければならない。  彼はマーシャン・プリンセス号のほうを、船体にへばりついている捜索者たちのほうを見て、音のない暗闇の中で悲鳴をあげた。捜索者たちは船体を離れ、彼にむかって宇宙空間を進んできていた。そのスピードは彼のスピードをはるかにしのいでいる。逃げようとしてもむだだ――マーシャン・プリンセス号から逃げだそうとしてもむだだ。生き延びるチャンス、あるいは成功するチャンスは船に乗って地球に行くことにしかない。大きな曲線を描いて彼は船のほうに戻っていった。すぐに捜索者が包囲するように近づき、衝突針路上で彼と出会った。  そのとき捜索者たちの正体を知った。予想と違って宇宙服を着た乗務員たちではなかった。それどころか、その物体二機は小型の宇宙船のように見えた。いくつもの光りの筋が前方の空間をつらぬいている。彼はレーダーと赤外線による探知も行っているのではないかと思った。  マーシャン・プリンセス号から来たのではないな、と彼は心の底で思った。乗務員が入っているわけでもない。ある種の飛行ロボットで、あの巨大な黒い船から来たのだ。  彼は探照灯の光りが身体にあたるのを感じ、死をもたらす熱線か殺人光線がかっと噴き出すのを待った。しかし次に起こったことは予想もしないことだった。  それらはすばやく近づいてきた。いちばん近くのロボットがメルの速度に合わせながら十数フィートそばまでやってきた。突然、機械の小さな開口部からしなやかな金属製の触手が飛び出し、ヘビのように身体に巻きついた。二台目のロボットが近づき彼をさらに拘束した。メルは腕も足も押さえられた。必死になって宇宙服の手袋内にある、噴射装置のコントロールを操作したが、触手がいっそうきつく、痛いくらいに身体を締めつけ、宇宙服の外皮を破りそうになっただけだった。彼は噴射装置を止め、必死の努力が失敗だったことを認めた。  彼らはすぐにまた宇宙船の近くに戻った。マーシャン・プリンセス号の乗務員はどんな非難を浴びせてくるだろう、また彼らの振る舞いにたいしてどんな途方もない言い訳を聞かせてくれるだろう、とメルは思った。  しかし彼が連れていかれた先はマーシャン・プリンセス号ではなかった。ロボットの触手につかまれた身体を無理にねじって、自分が黒い宇宙船に連れていかれつつあることを確認した。ハッチが静かに、すべるように開き、ロボットはたちどころに彼の身体を暗い船内に運び入れた。固い金属製の床に落とされるのを感じ、触手がほどけた。彼は自力で立ちあがり、宇宙服のフラッシュライトをたいてまわりの壁を照らした。壁、床、天井は見分けのつかない濃い灰色をしており、部屋の中には彼以外どんな物体もなかった。  つるりとした金属の表面になにか特徴はないかと眼を凝らしていると、歯切れのよい外国人のような声がしゃべりかけてきた。「宇宙服を脱いで、壁の開口部のほうへ行きたまえ。逃げようとしたり、襲いかかろうとはしないことだ。襲ってこないかぎり、君は安全だよ」  あらがっても意味がないと、彼は命令に従った。目の前の壁に光り輝くドアがあらわれ、彼はそこを抜けた。  中は臨床検査室を思わせた。手用器械や電子器具の並ぶ棚やキャビネットがまわりを取り囲んでいる。部屋の中には三人の男が座っていて、彼が通ってきたドアのほうを見ていた。彼も見知らぬ男たちを見つめ返した。  外科医用の白衣を着た男たちはごく普通の人間のように見えた。全員、中年らしく、黒い髪の毛のすそのほうが白くなりかけている。一人はほかの二人よりもはるかに筋肉質で、一人は肥満気味、三人目はひどくやせていた。にもかかわらずメルは自分がまるで月のない夜に毛を逆立てている犬のように感じられた。  どれほど普通に見えようとも、この三人は地球の人間ではないのだ。紛れもないこの事実が冷たい重しのようにずしりと腹にこたえた。  「あんたたちは――」彼は言いよどんだ。言葉が見つからなかった。  「この長いすに横になってください」いちばん近くの筋肉質の男が言った。「危害を与えるつもりはないから、こわがらないで。宇宙に飛び出してけがをしていないか確かめたいだけです」  三人とも緊張していた。なにかを心配しているんだ、とメルは確信した。ぼくが逃げ出したせいだな。知らないあいだに、ぼくはなにかの秘密を暴露しそうになったのだろうか。  「さ、どうぞ――」と筋肉質の男が言った。  選択肢はなかった。暴れてもせいぜい器具をこわしまくる程度で、彼らを圧倒できる見込みはない。彼は指示されたように長いすに横になった。ほとんどそれと同時に肥満した男が彼の後ろに立った。一方の腕をつかまれ、針がちくりと刺さるのを感じた。やせた男が足元に立ち、冷静に彼を見下ろした。「彼が眠ったら、処置の仕方がわかるだろう」とやせた男が言った。  眠りは十億年もつづいたように思われた。ようやく目が覚めたとき、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がした。視界はぼやけていたが、目の前に立つ姿は見間違いようがなかった。  アリスだ。ぼくのアリスだ――無事だったんだ。  彼女はベッドの端に腰かけ、彼にほほえみかけていた。彼はなんとか上半身を起こそうとした。「アリス!」彼は涙をこぼした。  そのあとで彼は言った。「ここはどこだい?なにがあったんだ?わけのわからないことがずいぶん起きたように記憶しているんだが――火星への旅行とか」  「あなた、思い出さなくていいのよ」と彼女は言った。「病気になったのよ。むこうにいるとき、ヒステリーか記憶喪失みたいなものにみまわれたの。いまは地球に戻ったのよ。もうすぐ退院できるし、心配することなんてなにもないわ」  「ぼくのせいで旅行は台無しになったんだね」と彼はつぶやいた。「せっかく君が楽しみにしていたのに」  「そんなこと、ないわ。あなたが治ることはわかっていたもの。ひとりでもいっぱい楽しんだのよ。でも、また行きましょうね。あなたが全快したら、お金を貯めて、もう一度行きましょう」  彼は眠そうにうなずいた。「もちろんだ。もう一度火星に行って、そのときこそ本当の休暇を楽しむんだ」  アリスは消えていった。すべてが消えていった。  はるか遠くのほうからドクタ・マーチンの研究室の壁が彼のまわりに迫ってきた。明かりがじわじわとその強さを増した。ドクタ・マーチンは脇に座っていて、頭をゆっくり横に振っていた。「まことに申し訳ない、ミスタ・ヘイスティングス。今度こそ本当の出来事の全容が明らかになると思っていたんですがね。でもよくあることなんですが、あなたの場合も、空想の上に空想が折り重なっていて、真実に到達するには、そのいくつもの層を掘り下げる必要があるんです。でもあなたの場合は、隠された真実を見いだすのにそれほど深く進まなくてもいいようだ」  メルは長いすに横たわったまま天井を見つめつづけた。「それじゃ、宇宙に巨大な黒い宇宙船などなかったと?」  「当然ですよ!それがこの手の分析の危険のひとつなんです、ミスタ・ヘイスティングス。新しく見つかった空想を、求めている真実と勘違いしちゃいけません。またお出でいただいて、検査をつづけなければなりませんね」  「ええ、そりゃもう」彼はゆっくりと起き上がり、医者と看護人に助けられて控え室へ移った。看護人は白くて甘い飲み物の入ったグラスを手渡した。  「活力増進剤ですよ」とドクタ・マーチンは笑った。「深層の検査をやったときにままある疲労感を取りのぞいてくれます。あさってもお待ちしていますよ」  メルはうなずいて廊下に出た。  巨大な宇宙船は存在しない。  ムチのように飛び出す触手で人間をつかまえる奇妙な小型ロボット船は存在しない。  外科医の格好をしたおかしな三人組は存在しない。  そしてアリスも――。  突然、ある考えが槍のように頭の中をつらぬいた。たぶん、いままでのすべてが幻想だったのではないか。いま家に帰ったら彼女が彼を待っているのではないか。たぶん――。  いいや。あれは現実に起きたのだ。事故。ドクタ・ウインタース。病院の手術室の隣にある、氷のような部屋の光景。ドクタ・マーチンはそのことを知らない。メルがそのことを話そうとしていたら、それも空想だと言っただろう。  ちがう。あれはどれも現実だ。  アリスの信じられない、異様な内臓。  巨大な黒い船。  情け容赦ないロボットの捜索隊。  ぼくの悪夢は宇宙で起きたこうしたことに起因しているんだ。しかしそれはどういうわけか、意識的な記憶からぬぐいさられてしまった。悪夢は、思っていたのとはちがって、少年時代に起因するものではない。いまこそ、はっきりしたぞ。  しかしアリスにはいったいなにが起きたのだろう。ドクタ・マーチンによって掘り起こされた記憶の中にはなんの手がかりもなかった。彼女の状態は異常な遺伝の結果なのか、あるいは遺伝子が突然変異した結果なのか。  頭の中に押し寄せる混乱はいままで以上に大きかった。これを鎮めるにはたったひとつの方法しかない――もともと計画していたように火星に行くのだ。  もう一度行ってみよう。黒い船が存在するのかどうか、確かめるのだ。  切符販売担当の女性は親切だったが断固として言った。「こちらの記録では、お客さまはつい最近、火星へ休暇にいらっしゃっています。ご利用客が多い上に、宇宙船の収容能力がたいへん小さいため、休暇旅行は十年に一回だけと制限させていただいております」  彼は背をむけて廊下を渡り、大理石と真鍮でできたコネモーラ宇宙航空会社のビルを出た。  街の中を六ブロックほど歩いたとき、ふとジェイク・ノートンのことが頭に浮かんだ。メルが駆け出しだったころ、ジェイクはローカルニュース編集室のベテラン記者だった。ジェイクはほんの数ケ月前に引退して、ほかの大勢の老人たちと街のとある場所に住んでいた。メルは手近のタクシーに合図して、ジェイクの家へむかった。  「よう、メル。会いに来てくれたとはうれしいな」とジェイクは言った。「ロートルなんざ、消えちまえば、忘れられるものと思っていたが」  「頼みがあるときはすぐ思い出すさ」  「そうだな」とジェイクはにやりとした。「だが、もう、おれにしてやれることなんか、たいしてないぜ。次の給料日まで十ドル貸してやることすらムリだ」  「ジェイク、あんたならできることだよ。これから先、火星に旅行しようとは思っちゃいないだろう?」  「火星だと!おまえさん、おつむは大丈夫かい、メル」  「ぼくは一度行った。もう一度行かなきゃならないんだ。アリスのことでね。ところが行かせてくれないんだ。十年に一回しか行けないなんて知らなかったよ」  ジェイクは思い出した。アリスはこの前戻ってきたとき、彼やほかの記者連中に電話をかけたのだ。メルは病気だ、と彼女は言った。旅行のことは覚えていない、そのことについては彼になにもしゃべらないでほしい、と口止めされたのだ。いまメルは記憶を回復し、ふたたび行こうとしている。ジェイクはどうしていいか、わからなかった。  「おれになにができるっていうんだい?」  「金を渡すから、あんたの名前で切符を買ってくれ。ぼくはジェイク・ノートンとして旅行する。それでうまくいくと思うんだ。細かいことはいちいちチェックしないだろうから」  「そりゃかまわんさ――それがおまえのためになるんなら」とジェイクはためらいがちに言った。彼は、あの日、メルに火星の話しはしないでくれと電話で頼んできたアリスの不安そうな声を思い出していた。ジェイクの知るかぎり、だれも話した人間はいない。  彼は金を受け取り、メルは老人の家で待った。一時間後、ジェイクから電話があった。「通常料金じゃ、いちばん早くても八ケ月後の予約になるんだが、五十パーセントの料金上乗せで切符を取ってくれるダフ屋を知ってるんだ」  メルはうめいた。「いくらかかってもいいから買ってくれ。すぐ行かなきゃならないんだ!」これから十年間、彼は素寒貧になるわけだ。  前のときと様子は少しもちがっていなかった。休暇に行く人や、それを見送りに来た人がごったがえし、やはりバカンスにたいする興奮を発散させていた。船まで同じだった。  ちがっていたのはアリスがいないことだ。彼は部屋に閉じこもっていたので離陸を見ることはなかった。船が水面上を長々と滑走するとき、かすかな揺れを感じた。人工重力に切り替わるときは、その変化もわかった。マーシャン・プリンセス号が冷たい夜のような宇宙を目指しているとき、彼はベッドに横たわり目を閉じていた。  二日間、食事のとき以外は部屋を出ることはなかった。旅行それ自体にはなんの興味もなかったのだ。ただ黒い宇宙船が来たという案内をひたすら待っていた。  しかし二日目の終りになっても案内はなかった。メルは果てしのない星のかなたをながめながら、眠られない夜を過ごした。ドクタ・マーチンの言ったことが正しかったのだ、と彼は思った。黒い船なんかありはしない。一つの空想を別の空想に置き換えていたにすぎないのだ。現実はどこにある?それはこの世のどこかに存在するのだろうか。  しかし黒い船はないとしても、彼の向かう先が依然として火星であることにかわりはなかった。  黒い船があらわれることなく三日目がすぎた。しかしその日の夜、スピーカーから案内が流れた。「乗客の皆様は全員、シャトルから火星定期航路船へお乗り換えの準備をなさってください。手荷物を――」  メルは放送を聞きながら、麻痺したように座っていた。やっぱり事実だったんだ!彼は二隻の船が結合するとき、マーシャン・プリンセス号に軽い振動が伝わるのを感じた。部屋の舷窓から例の正体不明の船が見えた。黒くて、みにくく、どこか死を思わせる。ドクタ・マーチンにこの「空想」を見せてやれたら、と彼は思った。  急いで荷物をまとめて部屋を出、驚き興奮する群衆に加わった。今度はためらうのではなく、巨大な黒い宇宙船の秘密を探り出そうと気をはやらせていた。  一方の船から他方の船に移動したことは、ほとんどわからないくらいだった。どちらの通路も同じ構造だったのだ。しかしメルは連結地点を通るとき、そのことに気がついていた。彼は自分が知る普通の世界とはまるきりちがう不思議な世界に入りこんだことを感じ取った。  廊下のずっと先のほうで群衆の進むスピードが落ちていた。乗務員の前にいくつもの列ができている。切符を調べられているのだ。乗客は振り分けられるようにして、枝分かれした廊下を自室にむかって進んでいった。これまでのところは、なにもかもまったく正常で、メルはすっかりがっかりしてしまった。放送で言われた通りだ。シャトルから火星定期航路船に乗り移っているだけだ。  乗務員が彼の切符に目を走らせ、一瞬ためらうようにそれを持ちながら、メルの顔を確認した。「ミスタ・ノートン――どうぞこちらへ」  乗務員がむかったその方向には乗客はだれもいなかった。別の乗務員が彼のところにやってきた。「あちらですよ」と二人目の男がメルに言った。「乗務員についていってください」  先をいく乗務員のあとを追い、列を離れてゆっくりと廊下を歩き出したとき、メルの鼓動は早くなった。二人は枝分かれし、どこまでも続く静かな廊下を進んだ。人気がまったくなかった。  彼らはそれまでやりすごしてきた幾十ものドアと少しも変わらないドアの前でとうとう立ち止まった。乗務員はドアを開けて脇に立った。「この中です」と彼は言った。メルが中に入るとだれもいない。乗務員はドアの外にとどまっている。  その部屋はオフィスのように飾り付けがなされていた。ぜいたくな絨毯と鏡板が使われている。左手の、別室につながるドアが開いて、ごましお頭の、背の高い男があらわれた。男は権力と力のオーラをまといながら歩いてくるようだった。メルはそのオーラに見覚えがあった。  「ジェイムズ・コネモーラ!」とメルは叫んだ。  男はそれを認めて軽く一礼した。「その通りだ、ミスタ・ヘイスティングス」と彼は言った。  メルはうろたえた。「どうしてぼくのことを?」  ジェイムズ・コネモーラはメルの脇の舷窓からかなたの星を見つめた。「長いこと君を捜していたんだ、知っていて当然だよ」  男の声のなにかがメルをぞっとさせた。「ぼくなら簡単に見つけられただろうに。たかが新聞記者なんだから。どうしてぼくを捜していたんだ?」  コネモーラは部屋の反対側にある深々とした椅子に座った。「見当がつかないかね?」と彼は言った。  「前に起こったことと、なにか関係があるのか」メルは警戒するようにあとじさりし、壁を背にしてコネモーラと向かい合った。「黒い船に乗るかわりに、マーシャン・プリンセス号を抜け出したときのことと?」  コネモーラはうなずいた。「そうだ」  「まだわからないな。どうしてだ?」  「よくある話しだよ」コネモーラは軽く肩をすくめた。「知るべきじゃないことを知りすぎたのだ」  「ぼくには妻の身に起こったことを知る権利がある。妻のことを知っているんだろう?」  コネモーラはうなずいた。  「なにが起きたんだ?火星旅行から帰ったあと、なぜ変わってしまったんだ?」  ジェイムズ・コネモーラが長いこと黙っていたので、メルは声が聞こえなかったのかと思った。「帰ってきた人間はみんな変わってしまうのか?」とメルは訊いた。「火星旅行に行った人間にはなにかが起こるのか?アリスに起こったことと同じことが?」  「君は知りすぎている」コネモーラは独り言のように言った。「だから捜し出してここに連れてこなければならなかった」  「それはどういう意味だ?ぼくは自分の力でここに来た。あんたの事務所はぼくを来させまいとしたんだぜ」  「にもかかわらず、わたしは君がだれかということも、ここに来ているという事実も知っていたんだよ。わたしがなんらかの関わりを持っていたにちがいないとは考えないかね?」  「なんだと?」  「わたしは君が正体をいつわってここに来るようしむけたんだんよ。君がここにいることをだれにもわからないようにするために。もちろん、君が名前を借りたあの老人をのぞいてだが。しかし彼がなにをほざこうと、君がマーシャン・プリンセス号に乗ったなんて、だれが信じる?われわれの記録によれば、ジェイク・ノートンなる人物は地球にいることになっているのだ。メル・ヘイスティングスが乗船したことなど、だれにも証明できない」  メルはゆっくりと息を吐き出した。ふと用心よりも恐ろしさが先に立った。彼はそっと一歩前に足を踏み出したが、その瞬間、凍りついたように動きを止めた。ジェイムズ・コネモーラが膝の上で小型のピストルを傾けたのだ。メルはどうしてそんなものがそこにあるのか、わからなかった。一瞬前にはなかったのに。  「どうする気だ?」とメルは訊いた。「われわれ全員をどうする気だ?」  「君は知りすぎている」わざとらしく途方に暮れたふりをして、コネモーラは肩をすくめた。「わたしになにができるというんだね?」  「ぼくがなにを知っているというんだ。説明してくれ」  「君に説明する?」コネモーラにとって、それは考えただけでもおかしくてたまらないことらしかった。まるでそこにはとてつもなく滑稽ななにかがあるかのようだった。「いいだろう。説明しよう」と彼は言った。「興味を持って話を聞いてもらうのはひさしぶりのことだ。  宇宙にいるのは人間だけじゃなかった。われわれは、われわれよりはるかに進んだ銀河系の種族によって、ネアンデルタール人の時代から定期的に観察され、調査され、研究されてきたのだ。この監視者は、われわれのすることにあるときは小躍りして興奮し、あるときは戦慄を覚えた。  さて、銀河系には少なくとも百万年の歴史を持つある組織が存在する。この組織は銀河系の各世界、各種族の相互発展のためつくられた。また同時に平和を保つためのものでもある。というのは、この組織ができるまえ、恒星間戦争が何度も起き、無意味な争いの中で、偉大な世界が消し去られたことも一度ならずあったのだ。  地球の人間が宇宙に乗り出す準備ができたとき、銀河系評議会は、ほかの多くの機会にもそうしたように、新しい世界が自分たちの一員として認められるべきか、決定しなければならなかった。この決定に新しい世界は加わることはできない。彼らは決定を下される立場だ。宇宙に宇宙船を送り出しはじめた世界は、評議会の一員となるか、宇宙船飛行ができなくなるか、いずれかの道を歩むことになる。世界それ自体がなくなるということもありうる」  「その独裁的な評議会とやらは、世界が存続するにふさわしいかどうかを決定し、好ましくないと判断した場合はほんとうに消滅をはかるのか?」メルはぞっとしながら言った。「そいつらは宇宙の審判者を気取っているのか?」  「早い話がそんなところだ」とコネモーラは言った。「いくら彼らに不愉快な名前をつけたところで、彼らが存在する事実も、人類の歴史と同じくらい長い期間、その活動が成果を収めてきた事実も変えることはできない。  われわれが宇宙船を飛ばすようにならなければ、彼らはその存在をわれわれに知らせることはなかっただろう。しかし飛ばしたとたん、われわれは、われわれが洞穴からはい出したときからそこにいた種族の縄張りに入りこんだわけだ。彼らの権利に文句は言えんよ」  「しかしあらゆる世界に審判を下すなど――」  「われわれはその審判を受け入れるしかないのだ」  「それで、地球にたいする彼らの審判は――?」  「評議会のメンバーになれるほど成熟していない、地球人はいまだに大きなへまをやりすぎる、われわれが火打ち石の使い方を学んでいたころ、すでに光速で銀河系を飛び回っていた種族に加わる資格はない、とね」  「しかし絶滅はさせなかったんだな!」  ジェイムズ・コネモーラは窓の外の星を見た。「どうだろうかね」と彼は言った。「どうだろうかね」  「そりゃどういう意味だい?」メルはうわずった声で言った。  「われわれには彼らが見たことのないような欠点がある。つまり道具を生み出す技術は発達させたが、それを使う能力を持っていないのだ。たとえば巨大なコミュニケーション・システムをつくったが、そのシステムは現実にはコミュニケーションを阻害している」  「そんなバカな」とメルは言った。「そいつらは狼煙《のろし》のほうが、家庭にある立体スクリーンよりすぐれているとでも思っているのか?」  「実を言うと、そうなのだ。そしてわたしも同意見だ。狼煙に頼らなければならなかった頃、人は空中にメッセージを発するとき、自分には言うべきなにかがあることをちゃんと確信していた。しかしわれわれの驚くべきスクリーンは、おたがいのあいだに疑似コミュニケーションという越えることのできない壁をつくり、コミュニケーションを妨げるのだ。われわれは音と光りの集中砲火を浴びるが、コミュニケーションの内容はゼロに等しい。  同じことが輸送機関の発明についても言える。われわれは世界のあらゆる場所、そしていまや宇宙へも旅することのできる、すぐれた手段を持っている。しかしわれわれは旅をしちゃいないのだ。機械を使って旅することを阻んでいるのだ」  「最初の議論はわかるが、そいつはうなずけないな!」とメルは言った。  「なるほど肉体は機械に乗って新しい場所に移動するが、心は家にとどまったままなのだ。どこへ行くにも、われわれは型にはまった考え、片寄った思考、文化概念をひきずっていく。機械が出会わせてくれるものと、少しでも心で触れ合おうとはしない。われわれは旅をしないのだ。宇宙を動き回るが、旅をするわけじゃない。  これが彼らの非難する点だ。そしてそれは正しい。われわれは昔から変わってはいないのだ。宇宙旅行を、つまらないこと、くだらないこと、愚かしいことのために使っている。せっかくの天才もおもちゃになるだけ。原子時計を床にぶつけて遊んでいる子供みたいなものさ。それがわれわれの偉大な発明、発見のすべてに起きたことなのだ。ガソリンエンジン、電話、無線。われわれは自然の驚異の上に途方もなく愚劣な文化を打ち立てた。銀河系のある種族の言葉には、われわれのようなやからにたいして使う、こんな言い回しがある。『もしも天に神がいるなら、神は一万年泣きつづけただろう』。  「しかし本当の問題はこんなことじゃない。ただ単に愚劣な種族はめったに宇宙に飛び出したりしないからな。だが、われわれには彼らが怖れる別の特徴がある。それは破壊性だよ。彼らはわれわれの歴史の趨勢を計算し、未来を推測した。もしもわれわれを宇宙に飛び出させたりしたら、戦争と対立が引き起こされるだろう」  「そんなこと、わかるものか!」  「彼らはわかると言っている。われわれは抗議できる立場にない」  「それでわれわれを滅亡させようとしているんだな――」  「いいや。以前、ほんの数回行われた実験を試してみようとしているのだ。彼らは、彼らが『臨界質量』と呼ぶわれわれの状態を縮減しようとしている」  「臨界質量?原子力に関して使われる言葉だな」  「そうだ。爆発寸前という意味だ。それがわれわれの状態なのだよ。半世紀のあいだに小規模とはいえない核戦争が二回起きた。彼らはわれわれが宇宙に破壊性を持ち込み、宇宙で争い合い、敵意をほかの種族にも広げるだろうと考えている。しかしわれわれを小さな集団に分割し、戦争の道具を取り上げ、別の発達の道をたどらせれば――まあ、われわれを救う可能性もあるというわけだ」  「むちゃくちゃだ!連中はなにを企んでいるんだ?地球人をグループにわけて、ほかの世界に強制輸送し――永久にばらばらにしようというのか――?」  メルは胸に冷たいものを感じた。彼はジェイムズ・コネモーラを見つめ、ゆっくりと宇宙船の部屋の壁を見まわし、外の星へと視線を移した。黒い船。  「この船は――!あんたは乗客をこの宇宙船に移して、ほかの世界に強制輸送しているんだな!いや、しかし、乗客は戻ってきているが――」  「彼らは地球に似た世界のコロニーに送られる――似ていると言っても重要なちがいはあるんだがね。このコロニーはどれも小さい。いちばん大きなものでもたった数千人だ。そこには地球にはないような問題がある――しかもやっかいな問題だ。天然資源も同じじゃない。そこから生まれる文化は地球のものとは大いに異なるだろう。銀河系評議会は結果に大きな関心を抱いている――はっきりした結果が出るまで千年かそこらはかかるだろうが」  「しかし乗客は戻ってきている」とメルはくり返した。「あんたが連れ戻しているじゃないか」  「送り出された地球人ひとりひとりにたいして、身代わりが送り返されるのだ。評議会が提供するアンドロイドだよ」  「アンドロイド!」メルはしだいに理性的でいられなくなった。自分が怒鳴り声を出していることがわかった。「それじゃ、アリスは――死んだアリスはアンドロイドで、妻じゃなかったんだな!ぼくのアリスはまだ生きているんだな!彼女のいるところへ連れていってくれ――」  コネモーラはうなずいた。「アリスはまだ生きている。元気だよ。なんの危害も加えられていない」  「彼女のところへ連れていってくれ!」自分が懇願していることはわかっていたが、胸の張り裂けそうな想いに、自尊心などかまっていられなかった。  コネモーラは彼の懇願を無視しているようだった。「地球の人口は上流階級の人々を取り除くことでゆっくりと減りつつある。アンドロイドはなりかわった人々とそっくりに行動するが、地球人に内在する破壊性には反応しないようあらかじめ調整されている」  猛烈な怒りがメルの中に湧いてきたようだった。「ぼくとアリスを分かれ分かれにする権利はあんたにはないぞ。彼女のところへ案内しろ!」  怒りが燃え上がり、彼は前に飛び出した。  コネモーラの手中にあった小型拳銃が二度火を噴いた。メルは驚愕のその瞬間、身体に二回、衝撃を感じた。こんなふうに終わるはずじゃなかった、と彼は思った。アリスに再会できないまま死んでいくなんて。せめて一度だけでも――  彼は床にくずおれた。痛みは大きくなかったが、死につつあることはわかった。彼はみぞおちの大きな傷を押さえている手を見た。なにかがおかしい。  べとべとしているが、赤い血があふれてはいなかった。かわりにねっとりした緑色の液体がごぼごぼと湧きだし、服や手に広がっていた。人間のものとは思えない異常な緑色。  それはこの前、一度見たことがあった。  アリス。  彼は驚いたように目を見開いてコネモーラを見た。  「なにもかも失敗してしまったのだよ、アンドロイド」とコネモーラはやさしく言った。「君の元になった人間をこの船に連れてきたあと、いつも通り記憶内容をアンドロイドに刻印しなければならなかった。ただしマーシャン・プリンセス号から逃げだそうとした記憶は消したうえで。それがうまくいかなかったのだ。君が体験した悪夢に記憶が残っていた。そして精神復元がすべてを引っ張り出してしまった。  われわれは前もってつくってあった火星旅行の記憶をいつも通りに植え付けるのではなく、記憶喪失状態をつくりだして君の記憶を覆ってしまおうとした。これでうまくいくはずだったのだ、アリスのアンドロイドまで欠陥品でなければ。正常なアンドロイドには事故やその後の発見を防ぐ防御メカニズムがある。しかしアリスのアンドロイドはそれが働かず、君はわれわれの存在を暴露しようと乗り出した。わたしは君を破壊する手立てを――殺す手立てを見つけなければならなかった。  本当に申し訳ないと思うよ。わたしにはアンドロイドの考え方や感じ方はわからない。ときどき君たちが怖くなるんだ。人間にそっくりだからな。しかしわたしは君たちが生産される工場を見たことがある。わたしが知らないことはたくさんあるが、ただはっきりしているのは、わたしが銀河系評議会に従わなければ、地球はとうの昔に破壊されていただろうと言うことだ。  そうだ、ほかにも知っていることがある。アリスとメル・ヘイスティングスは幸せに、満ち足りた生活をしているよ。彼らはセントラル・バレーによく似た、すてきな世界にいる」  彼は目を閉じた。命だかなんだかわからないものが身体から漏れ出していくのを感じながら。結局はめでたしめでたしで終わるのか、と彼は思った。  木でできた笑顔の兵隊のおもちゃが棚から落ちたように、彼は身をよじったまま床の上に横たわっていた。 終わり 翻訳底本: --- 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